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4月27日(水) 曇り、軽風 閑話休題 《 チェルノブイリとフィリピンのバタアン原発 》
バタアン原発 フィリピンに原発があることはあまり知られていないが、マニラ湾のバタアン半島に原発基地がある(写真は海から見たバタアン原発)。

 首都圏との距離は直線で70キロほどだから、福島原発でいうと福島市の先辺り、茨城県境と同じ距離になる。

 バタアン半島は先の戦争初期『バタアン死の行進』で知られる地帯だが、原発がここに作られたのは偶然で戦争とは関係ない。

 ただしバタアン原発の15キロ〜20キロ離れた場所にはかつてのアジア最大のアメリカ軍海軍基地があったし、同じくアジア最大のアメリカ軍空軍基地クラークも近い(どちらも基地跡は経済特区になり日系企業も多数進出)。

 この原発マルコス時代末期にほぼ完成し、稼働間近だったが1985年のチュルノブイリ事故と、1986年に誕生したアキノ政権によって凍結、現在に至っている。

 マルコスがフィリピンの慢性的電力不足対処に原発推進をしたのは当時としては普通の判断だったろうが、費やした金がトータルで23億ドル、今の換算で5,000億円以上、その当時のフィリピンの国家予算がいくらだった知らないが相当な負担だったのは分かる。

 請け負ったのはアメリカのウェスティン・ハウジング社、この会社は先年原子力事業部門を東芝に売却している。もっともマルコスは憂国よりも、大統領職をリベート回収汚職装置にし一族で掠め取ったのは周知の通り、この原発でも恐らく何百億円も懐にしたであろう。

 福島原発事件が起きる少し前に、マルコスに連なる議員(アキノとも親戚)が、バタアン原発の稼働を訴えていたが稼働するにも1,000億円位の追加資金が必要で立ち消えとなったが、今度は韓国で余っている原子炉3基を買ったらどうだと来た。

 韓国ロビーの働きで金になると踏んでの動きだったが、福島以降は誰も原発の話など厄災同様で、この議員沈黙、ビジネスチャンスを潰したと福島を恨んでいる事だろう。ともかく、そんなオンボロ原発、永久に稼働しないで負の遺産記念物として公開したらどうかと思う。

 さて、昨26日はチェルノブイリ事故のあった日である。今日の日本の新聞電子版を見たら、あまりこの件を書いていない。福島の真っ最中だから、生々しいその後の25年など書けなかったのか、あるいはマスコミの広告大スポンサーである電力会社の意向が働いたのであろうか。

 チェルノブイリの例を見なくても今後数十年は半径30キロ圏は人が住めないと、政府、東電ははっきり言うべきではないか。誰しも分かっている事なのに猫の首に鈴を付けられないだけである。

 菅が初期に『20年位は住めない』といったとかいわないかでずいぶん叩かれたが、あれは本当のことでどうしてマスコミは事実を開陳しないか不思議である。政府、マスコミ、専門家、識者、これらが嘘に嘘を重ねることで原発被害の住民に無用の不安を与えている。
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author:cebushima, category:閑話休題2011年4月, 11:37
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4月26日(火) 晴れ、軽風 閑話休題 《 情報誌『ぴあ』の終焉 》
ぴあ創刊号 情報誌『ぴあ』のニュースが流れ、まだ健在だったのに驚いたが、7月をもって休刊となる。

 この情報誌、1970年代に学生時代を送った者には懐かしい存在だった。

 ピアの創刊は19727月となっているが、その当時、映画やコンサート、各種イベントへ行くには普通の新聞を見て情報を入れる程度で、情報がどうのこうのという時代ではなかった。

 勿論、パソコンなどはまだ先の先の話で、ワープロさえも普及はまだの時代だった。

 私なども映画研究会の末席に連なっていた関係で、勉学などより映画を観ることが毎日の生活で、都内に散らばる名画座の上映作品スケジュールが欲しくて仕方がなかった。

 そこで、学生間には『こういった映画情報を分かるように本にしたら儲かるのじゃないか』などと馬鹿話をしていた記憶がある。

 そんな中、中央大学の学生だった人物が『ぴあ』を発刊、創業した。今思えば私も同じようなアイディアを持っていたが、要は目端が利いたかどうかの差でぴあは現在年商1,000億を超す東証第一部上場の大会社となっている。

 こんなことを書くのも『逃がした魚は大きい』話の類だろうが、あのアイディアは嘘偽りなく当時持っていた。

 さてこのぴあ、本当に役に立ち、確か名画座の窓口に本を見せれば入場料が安くなった。

 当時の学生の必携品で、この他に後年廃刊となった『朝日ジャーナル』も学生の愛読書で、他に『ビッグ・コミック』『少年マガジン』なども人気があった。少年マガジンは『明日のジョー』が掲載されていたためと記憶する。

 最盛期のぴあは1988年頃で、53万部を記録、199011月から発刊以来の隔週刊から週刊にした頃が絶頂期になるだろうか。

 休刊はネット時代に呑みこまれてしまったのが原因で、最近は6万分程度の発刊、しかも隔週刊という状態になっていた。中部版、関西版と順次休刊し、今度は首都圏版の休刊となった。ただし、ぴあの現在の業務はチケット販売などに移行していて、休刊による影響は少ないという。

 写真に載せた創刊号の表紙、記憶にはないが独特の表紙を作っていた。表紙といえば思い出すのはやはり廃刊した『平凡パンチ』がある。この表紙に描かれたスタイルは長く頭の中に残っている。

 インターネットの時代でも紙の媒体は廃れることなく、相変わらず雑誌の創刊は続いている。これらの雑誌が惜しまれる存在になるまでは時間がかかるし、時代を標榜するような雑誌を作り出すのには困難の多い時代なのかも知れない。
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author:cebushima, category:閑話休題2011年4月, 13:57
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4月25日(月) 晴れ、軽風 閑話休題 《 聖日曜日・イースター当日の葬式 》
イースター当日の葬式 聖週間に入って、24日(日曜日)は最終日の『Easter=復活祭』になる。

 キリストが生き返った話など唯物論者には論外だろうし、私のような普通の人でもあり得ないと思うが、信じている人も居ることを考えると『まあ、好きなようにしてくれ』としか言いようがない。

 写真はその復活祭当日の葬儀の様子で、その葬儀に出席するために泊りがけで出かけた。

 亡くなった方は89歳の女性、葬儀の10日前に亡くなっているが、折しも聖週間に入ってしまい、この期間中は最終日の復活祭までは葬儀ができないらしく、長く自宅に安置された。

 こちらの葬儀は日本のように3日から4日で終わってしまうことはなく、日曜日に葬儀を行うためその日まで安置することが多い。また、家族、親戚が国内に散らばって住んでいることや、海外で働く(OFW)、あるいは移住した身内が多いため、葬儀に間に合うように時間を長く取っている。

 今回の場合、OFWの身内は居なかったが、先に書いた事情で日曜日まで安置された。その間、葬儀を出す家は大変で、日本と違って一晩だけの通夜ではなく毎夜行われ、近隣の人達への朝昼晩の飲食接待がそれに伴う。今回の喪主は元小学校校長だったから出費もそう困らないだろうが、それにしても大変な接待行事の一つになる。

 葬儀のあったこの町、セブから北に向かって車で2時間ほどで、海辺に面しているが山がちでこれといった産業はない。それでも環境が良いので、セブに住む金持ちの外国人が別荘を建てていて、確かに海を臨む景勝の地にはいかにも別荘ですといった作りの建物が点在する。

 といっても地元にとっては別荘の手伝いやら番人位の雇用需要はあるだろうが、他には何にもメリットはない。むしろ、海辺に土地はあるが貧しい地元民が土地を売り払ってその後上手く行ったのかどうかに関心を持つ。

 さて、亡くなった89歳の女性、66年前の戦争時には23歳だったから、当時の様子を良く記憶していたことであろう。この町に日本軍が駐屯していた話は聞かなかったが、レイテ島を望む海辺の町として小隊規模の日本軍は駐屯していたのではないか。

 別の町だったが当時の話を古老から聞くと、ともかく日本軍は食料を持たずに駐屯するものだから、食料調達と称して住民の食糧を略奪したのが目に余ったようだ。

 日本軍の負けはこういった『兵站』部門を軽視したことがその第一と指摘されているが、こういった末端で餓鬼のように彷徨った日本軍は確かに最初から負けていた。

 さて、葬儀は海辺の大きな教会で行われ、町外れにある墓地へ埋葬された。復活祭当日に埋葬されたことは人々の心に強く記憶されることであろう。
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author:cebushima, category:閑話休題2011年4月, 12:28
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