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フィリピン・よもやま帖 2019 その−(12) 1972年9月21日 マルコスの戒厳令布告

 47年前というから既に半世紀近く前になるが、フィリピンでは今日9月21日、戒厳令法案にマルコスは署名をし全土に『戒厳令』を布告、独裁政治を強固にした。

【写真はマルコス王国一派の牙城となる北イロコス州庁舎】

 この戒厳令は1981年1月17日に停止されたが、マルコスは政変によって1986年2月25日、一族、取り巻きと共にハワイへ追い出されるまで独裁政治を続けた。

 

 マルコスは1917年9月11日生まれで、ハワイ逃亡4年を待たずして1989年9月28日、現地で死亡するが、逃亡以前から透析を受ける半病人状態で享年72であった。

 そのマルコスの遺体はしばらくハワイに置かれていたが、後に出身地のルソン島北イロコス州の町に冷凍保存されていたが、現在のドゥテルテ政権になって、遺体は英雄墓地に埋葬された。

 

 この遺体の英雄墓地埋葬については、歴代政権は認めなかったが、マルコス独裁時代に検事として任官したドゥテルテはマルコスに恩義があったためか、埋葬を認めた。

 

 マルコスの生涯だが、頭は良かったのか国立フィリピン大学法学部に学び、在学中の1938年に父親の政敵を射殺した容疑で逮捕されるが、事件を起こしたのは18歳の時であった。

 1939年に有罪判決を受けるが、その間司法試験を受けてトップで合格し、翌年には最高裁で無罪判決をを受けるが、フィリピンの司法試験でトップの成績で合格というのは将来が約束されていて、大統領や最高裁長官、政府の要職など数多の例がある。

 

戦時中は日本軍に対するゲリラの指揮者として名を挙げるが、同盟を組んだアメリカ側の資料にもなくて、実際はマルコス側の選挙に勝つためのでっち上げた経歴といわれている。

 戦後の1946年から1947年にかけて5代大統領ロハスの法律補佐官を務め、1949年、地元北イロコス州の下院選に出馬し32歳で当選するが、これは当時の最年少当選者でもあった。

 

 1954年、37歳の時にマルコスはイメルダと結婚するが、イメルダはレイテ島タクロバン市の名家一族に繋がる家の出だが、生家は貧しかった。

 しかし『タクロバンの薔薇』と呼ばれたように若い時はかなりの美貌で、ミス・コンテストに出て有力者を物色し、それにかかったのがマルコスといわれているが、マルコスはマルコスでミス・コンテスト優勝者をつまみ食いする人物として知られている。

 

 実際、マルコスが大統領になって大統領官邸のあるマラカニアン宮殿にコンテスト優勝者を招いてつまみ食いするので、イメルダは宮殿内では止めてくれという話が残っている。

 

 1959年には上院議員選に出て当選し、1965年になってマルコスは大統領選に名乗りを上げるが、属する自由党の公認を得られず反対党の国民党に移って出馬し、現職の9代大統領マカパガルを破って当選。

 日本でいえば自民党総裁が立憲民主党代表に移って当選する青天の霹靂のような出来事だが、フィリピンではあまりそういうことを考える者は少ないし、政治信条よりも実利優先の国柄が有利に働いたのであろう。

 

 当時の大統領任期は4年で、1969年に再選されたマルコスは独裁体制を固めるが、その前後から反マルコスの運動が起こり、共産党の軍事部門である新人民軍(NPA)やミンダナオ島を中心にしたイスラム系の武装闘争が激しくなる。

 

 当時の憲法では大統領は2期8年しかできなかったが、マルコスは任期切れ前に戒厳令を布いて超憲法体制を布いたのが実相で、反政府勢力への対抗手段として戒厳令を布いたというのは方便でしかなかった。

 

 マルコス独裁が強固になり、反対の多かった日本との『日比友好通商条約』を1973年に批准し、この一点を見て日本側ではマルコスが居たから今の日本とフィリピンの長い友好関係が築けたと評価する向きもあるが、マルコスが狙ったのは日本の巨額な戦後賠償で資金であった。

 

 条約批准によって日本の商社などが商機を求めてフィリピンに進出するが、既にマルコス一派は汚職にまみれていて、リベート政治が花盛りで、日本の大小の商社はどっぷり漬かりこんだ。

 戦後賠償を含めて日本は巨額なODAをフィリピンにつぎ込むが、マルコスはプロジェクトによってリベート額は何%とはっきり決めるので、当時の日本の商社員は仕事はやり易かったと述懐しているが、馬鹿も休み休みいえとはこのことである。

 マルコス一族とその取り巻きがいくら汚職で稼いだかは今もって不明だが、一説には兆円を超すといわれ、正に国を食い物にした連中とはこのことだが、不思議なことにイメルダを始め、一族取り巻き共に完全に復権しているから驚かされる。

 

 2016年に行われた正副大統領選では上院議員であったマルコスの長男が副大統領選に出馬し1415万票余を得るが、女性候補のロブレドが1441万票余を得て敗れる。

 開票後マルコス陣営は『不正があった』と最高裁まで持って行ったが、いつの間にかその話は消えて、父親が失脚した原因は1986年の繰り上げ大統領選の開票不正が暴露されたためであり、不正云々など笑止といわれた。

 

 妻のイメルダは90歳になっていまだ健在で、今年の選挙には出なかったが地盤というか領地の北イロコス州選出の下院議員を務めた。

 

 領地と書いたが北イロコス州はマルコス一族が牛耳っていて、知事は娘が勤めていて、その娘は今年の上院選に出て当選し、その知事と副知事の後釜もマルコス一族の人間で、あれほど石もて追われた時代があったのに地元では絶対権力者として君臨。

 領地に根差した中世的な政治状況がフィリピンの政治の特徴で、各地には名前を聞いただけで、有力政治一族と分かるのがゴロゴロしていて、政ではなく利権で政治が動いていて、こういった存在を放逐することは難しい。

 

 マルコスが復権したのは当時の状況を知らない、学ばない若い人が増えたためと指摘されているが、逆に言えば携帯もSNSもパソコンもなかった時代の人間の方が物事に正面を向いていたともいえる。


 

author:cebushima, category:フィリピン・よもやま帖 2019, 18:00
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フィリピン・よもやま帖 2019 その−(11) 1945年9月3日 ルソン島バギオにて

 昨日、9月3日(火曜日)は『日本降伏記念日』として、フィリピンでは『特別祝日』になっていた。

【写真は日本軍と民間人が敗走を続けたルソン島山岳部の様子】

 特別祝日というのは時の大統領が決めるもので、大統領の胸先三寸、つまり気分次第でどうにもなりしかも突然決まるから始末が悪い。

 ドゥテルテは2月にこの日を祝日にする署名をしたらしいが、なっていたと書いたように国民の間の周知は良くなく、普通、こういった祝日の場合学校は休みになるが公立学校でも登校し授業をしていたから休日にはならなかったようだ。

 日本の場合、国の祝日(祭日)と休日は一緒で混乱はないが、フィリピンは祝日と祭日と休日と3つに区分されていて、小生など未だ持って分かり難い。

 

 祝日と祭日と休日は急に決まるから大変なのは営業をする企業で、休日出勤の給与計算に混乱があり、そのため政府は急遽決めた休日に対して2倍、単なる祝日なので3割増しで良いとかいちいち通達を出す始末。

 さて標題の1945年9月3日とは、先の戦争中にフィリピンへ侵出していた日本軍がルソン島中部にあるバギオ市で降伏調印をした日で、8月15日に戦争は終わったと喧伝されるが、戦地ではそれがまちまちになっている。

 例えば、セブ島においては8月24日が降伏調印日で、フィリピン国内でも降伏はまちまちで、8月15日の敗戦放送後にも戦闘行為は続き、その間も日本軍兵士とフィリピンとの殺し合いは続いた。

 戦争は『宣戦布告』という国際法上の行為によって始まり、戦争終結も互いの公式文書への調印によって終了するが、9月3日を公式調印日として全ての戦闘行為は双方終了と見るのはあくまでも建前であって、残留日本兵によって戦闘行為は多かった。

 残留日本兵といえば1972年1月にグアム島で発見された横井庄一が知られ、彼の場合は敗戦後から28年間、グアムの山中で逃避行を続けたが、当時は大きなニュースになり、横井の最終階級は陸軍軍曹であった。

 これを凌ぐ事柄といえばグアムで発見された横井の2年後の1974年3月にフィリピン・ルバング島で投降した小野田寛郎元少尉で、小野田の場合はゲリラ戦を命じられた残置士官という立場で島に籠ったとされた。

 ルバング島というのはマニラ湾に入る手前に横たわる島で、小生もマニラ国際空港へ着陸する飛行機内から見たことがあってかなり大きい島で、面積は125平方キロある。

 マニラ湾に入る艦船に対して戦略上に重要な島で、そのために小野田以下を配置したのだが、敗戦後も小野田の任務から部下は引き摺られる形で島内で戦闘行為を続けた。


 小野田が出て来るまでに島内で殺傷された人員は30人以上といい、フィリピン側も警察や軍を送って掃討作戦を行い、そのため小野田の部下2名が射殺されていて、射殺された兵士の遺族は敗戦で投降をすれば失わないで良かったとの批判を行っている。
 

 こういった話で最も知られるのは敗戦の放送があった午後に、艦上爆撃機『彗星』11機を指揮して沖縄沖の米軍艦船に向けて特攻攻撃をした、宇垣纏海軍元中将が知られる。

 彗星は2人乗りの航空機だが宇垣はそれに無理に同乗し、この攻撃ではエンジン不調で3機が途中で引き返した3機5人を除いて宇垣以下17人が戦死するが、この戦死は敗戦後であるために正式には認められていない。

 また、戦死した遺族にしてみれば無駄な攻撃を指揮した宇垣にはかなり辛辣な批判を行っているが、時間が経つとあれは仕方がなかったと諦める遺族も出て来て批判は弱まっている。

 

 ただ、この宇垣の戦闘行為は部下を私兵として使っていた日本軍隊の根本的な病弊を見るようで、こういった無謀な指揮官のために殺された兵士は無数に上がっているであろう。

 さて、『日本降伏記念日』のこの名称の多くは『戦勝記念日』として勝利国は作るが、日本贔屓といわれるドゥテルテがわざわざ敗戦国の日本に当て付けるような名称にしたのは良く分からない。

 

 1945年9月3日、ルソン島中部にあるバギオ市で調印式が行われ、日本側を代表して調印したのは山下奉文陸軍大将で、山下は東条英機に疎まれて満州の方面軍司令官に飛ばされているが、風雲急を告げるフィリピンの指揮を委ねられたのは1944年10月のレイテ島に連合軍が上陸する直前であった。

 山下がマニラの飛行場に降り立った時の第一声が『レイテ島ってどこだ』といった言葉が知られるが開戦時にマレイ半島を南下しシンガポールを陥落させ『マレイの虎』として名を残す人物にしてはお粗末でこれは後世の作り話のようだ。

 フィリピンを統括するのは第14軍であったが、山下が着任する前に編成替えして上級組織の第14方面軍となり麾下に35軍と41軍を持つが、軍というのはその下に師団を持ち、その師団の一つが第1師団で、この師団長がセブで降伏調印をした片岡董中将になる。

 山下は降伏調印後に捕虜となり、その後戦犯指定されマニラ裁判で死刑判決を受け、1946年2月23日、首都圏ロスバニョス市にあるニュービリビッド刑務所で絞首刑に処せられた。

 山下は軍人としては不名誉な絞首刑になったが、処刑はマンゴーの樹に吊るされたと伝わるが、そのマンゴーの樹は現在も健在で石碑などが建てられているらしいが、処刑当時に人間を吊れるほどのマンゴーだとすれば、その寿命から考えて現存しているのはおかしく感じる。

 降伏調印をしたバギオ市は避暑地として開発された場所で、そこに至る道路は100年以上前に日本人移民が多大な犠牲を払って開通させたもので、フィリピンの日本人移民史はここから始まる。

 バギオには何度も訪れていて最近では3年近く前になるが、自動車の排気ガスが谷間に滞留して山の清浄な空気は失われていて、既に山の避暑地としての価値はなくなっていた。

 山下以下の日本軍と民間人は、バギオ奥地の山間部に連合軍に追われて敗走を続けるが、先行きの見えない敗走で餓死、病死したのは兵士、民間人を問わず累々であった。

 ある調べによると先の戦争で戦闘行為ではなく、餓死した兵士は日本軍戦死者の3分の1以上にも上がるというから酷い戦争であったことは確かで、どこに『聖戦』といえるのか。


 

author:cebushima, category:フィリピン・よもやま帖 2019, 21:22
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フィリピン・よもやま帖 2019 その−(10) 36年前にあったマニラ国際 空港での暗殺事件

 かつての日本は祝日の休日は、その休日が日曜日に重なってもお構いなしで、祝日は固定され、例えば週の半ばの水曜日辺りに祝日が当たってしまうと間の抜けた週になってしまったが、週休2日など夢にも思わない時代で問題はなかった。
 

【セブの守り神といわれるサント・ニーニョ像】


 それを2000年になって法律を制定して祝日が日曜日に当たってしまう場合、月曜日に祝日を移せるようにして、土曜、日曜、月曜と連休になるようにした。

 そのため1月の祝日として成人式は昔から15日と記憶していたが、今年は1月14日の月曜日となっていて、来年2020年は13日の月曜日と日替わり定食のような有様で(この場合は年替わり定食というべきか)、ご都合もいいところ。

 一方、フィリピンの場合、祝日と祭日、休日が入り混じっていてかなり分かり難いところがあり、ナショナル・ホリディーとして固定した休日はあるが、そこへ祭日による休日、突然の大統領の気分次第で休日になる日、また、地方自治体など地域が設ける記念日による休日と入り乱れている。

 このため、企業の労務と経理は大きな影響を受けその対策に頭を悩ますが、工場など連続の操業が必要な企業では休日でも従業員を働かせるようになるが、この場合、フィリピンでは休日出勤として通常賃金の2倍を払うようになっている。

 これは国の休日の場合であって、突然の休日や地域の休日に働いた場合は確か3割増しと聞いている。

 国による休日なのか単なる休日なのかで賃金計算が違うために混乱が生じ、国はいちいち今度の休日は働いたら2倍になるとか、通常の割り増しで良いなどと広報をしている始末で徹底さに欠ける。

 ちなみに日本の場合、休日出勤の賃金規定には法定休日(国の祝日)と法定外休日に区分され、法定休日は通常の1.35倍の割り増し、法定外休日は1.25倍とありフィリピンの2倍というのは際立っている。

 ただし、フィリピンの場合、法定最低賃金さえ満足に払わない所も多く、本当に休日出勤したら2倍支払われているかどうかは不明で、遵守しているのは外資系企業に限られるのではないか。

 この休日に働くことで思い出すのは、その昔フィリピン人工員に出荷の関係でクリスマスに働かせたことで、その時は一人一人了承をもらったが、さすがに1年で最も重要なクリスマスに働かせるには気が引けて、その時は通常の3倍の賃金を出した。

 希望者はいないのではと思ったが、ほぼ全員出勤してくれて無事にその日の飛行機で出荷することができ、フィリピン人でもクリスマスといえども事情次第では働いてくれるのだなと思った。

 さて、標題に戻るが、今から36年前の1983年8月21日、マニラ国際空港でアメリカ亡命から帰国した元上院議員のニノイ・アキノが搭乗していた飛行機から降ろされタラップ上で銃撃を受け死亡した事件が発生した。

 その時、小生は東京の実家のテレビで事件を知ったが、最初に思ったのは独裁者マルコスの仕業であり、この事件の真実の解明は成されず闇の中に葬られると思ったが、 実際、この事件は多数のジャーナリストやカメラ・マンが飛行機に同乗しているのに関わらずその瞬間は明らかにされず、暗殺側の描いたシナリオで終わってしまった。

 しかし、この暗殺を契機とした反マルコス運動のうねりが高揚し、1986年2月の大統領選に対抗馬として立った未亡人のコラソン・アキノの大統領誕生へと繋がった。

 ニノイ・アキノ暗殺の翌年に小生は仕事で初めてフィリピンへ渡り、1986年のアキノ大統領誕生の瞬間、エドサ通りやマルコス一族逃亡劇をケソン市の友人宅で体験し、そのことは都度書いている。

 しかし、あれから36年が経って、石もて追われたマルコス一族とその取り巻きは完全に復権していて、フィリピン人は歴史を学ばない、あるいは忘れ易い国民性なのかと思ったりする。

 先の戦争でフィリピン国内で暴虐の限りを尽くした日本に対して『許しはするが忘れない』と印象的な言葉を残す国民だが、どうもマルコス一族に対しては『許しもするし忘れもする』といった状態になっている。

 こういった現象はマルコス時代を知らない世代が増えたためであり、マルコス側のSNSなどによる印象操作が挙げられていて、実際、フィリピンの平均年齢は日本のほぼ半分の24歳というから、マルコス時代の圧政など遠い昔の出来事になっているのかも知れない。

 今、日本と韓国は険悪な関係になっているが、これは一口にいえば安倍の『ニセ右翼』と文の『ニセ左翼』を抱く日本と韓国の政治指導者のスタンス問題に尽きるのではないか。

 それにしても戦前の日本による韓国の植民地化は誤っているが、その後の流れというのはどちらも反日、嫌韓という言葉で象徴されるように異常な関係が続いている。

 植民地としてはフィリピンはスペインの植民地支配400年、アメリカの植民地支配50年の歴史を持つがスペインに対しては批判するどころか、スペイン系の血を引いていると自慢する風土、アメリカに対しては憧れ、移民の第一人気国となっている。

 そういった観点から日本の韓国への植民地支配というのは恨まれるだけで、中国に対する侵略と同様に、よほど日本人は酷いことを両国にしたのかと考えざるを得ない。

 それにしても韓国の反日騒ぎは異常さを感じ、辛さを好む国民性といってしまえばそれまでだが、日本も韓国も元を正せば親戚のようなもので今の騒ぎは馬鹿らしく、この騒ぎで利するのは北朝鮮だけである。

 さて、ニノイ・アキノが暗殺されたマニラ国際空港はその後『ニノイ・アキノ国際空港』と改称されたが、政治家の名前を公共物に命名する私物化の何物でもなく頭がおかしいとしか思えない。

 そういえば海軍神風特攻隊と縁があり、ヴェトナム戦争当時極東最大のアメリカの空軍基地であったクラーク飛行場がアキノ(母)政権時代に返還され、民間空港となり、国内、国際便が就航するようになった。

 このクラーク飛行場を元大統領アロヨ(第14代)の時に、アロヨの父親(第9代大統領で再選をマルコスに阻まれる)の名前を空港に付けたが、いつの間にか今はクラーク国際空港と名前が戻された。

 その経緯は知らないがそれが良識と思え、この間行ったダヴァオ国際空港も別称があるようだが、今のドゥテルテが引退後には偉大なる功績者としてドゥテルテ国際空港と命名されるのではないか。

 最後にニノイ・アキノが暗殺された日を記念して『ニノイ・アキノ・ディー』と休日になっているが、小生などすっかり忘れていて、この手のことなどどうでも良い生活になっているなと感じている。


 

author:cebushima, category:フィリピン・よもやま帖 2019, 17:27
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