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まにら新聞掲載 Archives (15) セブ補習校の20年と今 その−1 (2004年掲載)

 (1) 創成期からこんにちまで 

 

 毎週土曜日午前9時、ビル5階にあるセブ補習校の一日は、大きな声の号令から始まる。『起立ーっ!、姿勢を正して…礼!、おはようございます』。日本の学校から転入した子どもは号令に違和感を持たないが、セブで生れ育ち学齢を迎えた子どもは、日本語の号令に最初は戸惑う。やがて慣れ『日本の学校はこうやって始まるのか』と理解する。
 

【1983年頃のセブ補習校に残るもっとも古い写真】 


 セブ補習校は1983年4月、旧文部省の認定を受けて発足し、今年21年目を迎えた。創設時の規模は全員が日比二世の幼児・児童14名、講師4名で、セブ補習校の特異性は開学時から既に見られる。

 21年後の現在、児童・生徒数は61名、講師13名と増え、日比二世は4分の3の割合で推移している。補習校発足当時、マクタン島の輸出加工区はあったが、マルコス政権末期の政情不穏の中、日本を含めた外資の進出企業は少なく、空き地が目立った。日系企業は加工区外に点々とあるだけで、補習校設立母体となったセブ日本人会も、1982年に30余名を集めてできたばかりだった。現在のセブは加工区を中心に百社以上の日系企業が進出し、在留届のある邦人数は1000名弱、うち日本人会会員は200名強を数える。

 

 フィリピン国内の邦人子女教育施設はセブ補習校の他に、戦前からの流れを引く、マニラ日本人学校(MJS)があり(戦後は1968年に補習校で発足)同校の校史には、セブ補習校が出来た1983年の在校生493名(今と同規模)。中曽根総理来比、アキノ元上院議員マニラ国際空港で暗殺される。ペソ大幅ダウンなどの記述が見られる。

    ◇

 朝の8時半頃から子どもたちは補習校に登校する。家から小1時間かけて通う子もいるが、保護者は『現地校には渋々通う毎日なんですが、毎週土曜日の補習校には親が言わなくても行きたがりますね』と、補習校講師や運営する関係者を喜ばせる話が伝わる。
 

 教室は一昨年、日本人会、日本人商工会議所の支援を受けてセブ市中心部から移転した。1991年に外務省の助成を受け、最初の専用教室を確保するまでは、個人の住宅やレストラン、修道院の一室を借りるなど変転を重ね、他の国の補習校と同様、教育環境維持の苦労を味わされている。
 

 もっとも専用教室とは名ばかりで、大部屋をホワイト・ボードで4〜5クラスに仕切っているため、他のクラスの様子が丸見えで、隣で授業の興が乗り歓声でも上げようものなら、子どもの眼がそちらに向き、教える講師の声が一段と高く張り上げる場面となる。

   ◇

 補習校は1958年、アメリカ・ワシントン補習校を皮切りに、外務省領事移住部政策課が作成する(我が国の海外における子どもの教育・2003年度版)によると、全世界に188校が設立されている。
 

【教室を転々とした1990年代初頭の補習校七夕行事】


 創成時の補習校に対する日本政府の考えは『長期滞在者の子女が日本に帰るまで学ぶ教育施設』であり、この流れは今も続くが、近年の90万人以上に及ぶ日本人の海外居住動向の変化から、実情に合わなくなっている。
 

 同資料中、在外の義務教育該当邦人子女数は5万2千人以上で、学ぶ形態は補習校、日本人学校、現地校がおよそ3分の1ずつの割合となっている。同じ日本の教育を受けているのに、子どもを長期滞在者と永住者に区別するのもおかしな話であるが、セブ補習校は在籍者中、外務省統計でいう永住者子女は3分の2を占めている。

 このような永住子女の増加は、世界各地の補習校で顕著化しているため、日本政府も『日本の在外教育施設は長期滞在者子女のためにある』と今は表立っていわなくなった。



【続く】

 

author:cebushima, category:まにら新聞寄稿 Archives, 10:48
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まにら新聞掲載 Archives (14) サンダカン航路を往く その−7 (最終回) (2004年掲載)

 А”當未鳳来できる旅を

 

 ☆ 最後の処女地

 

 セブもマニラも今回の旅の足がかりにしたサンボアンガ市にしても、他の国の多くの街も先に述べたような発展形態を取っている。
 

【戦前は日本の商店が連なったセブのダウン・タウン街】


 大正年間、フィリピン各地にある日本人会会員の8割方は「からゆきさんとそれに寄生する抱え主たち」との話もあり、昨年「日本人移民100周年」記念式典がバギオはじめ各地で行われたが、下層労働者として移民した人々を表の歴史とすると、醜業婦として卑しめられたからゆきさんたちは裏の歴史となるだろう。

 だが日本の貧しい時代の苦難は表も裏もなく同一視するべきで、その礎石上に「経済大国・日本」が建てられていることを忘れてはならない。同時に日比両国の人間は嘲りの意味を含む「じゃぱゆき」などといえないのではと思う。

 

 ラモスが大統領だった時に、ミンダナオ島、インドネシアのスラウェシ島、マレーシアのボルネオ島で形成する三角地域内をフリーゾーンとし、開発する計画があった。その後話を聞かないからアドバルーンに終わってしまったようだ。

 この三角地域は、各種資源と未開発ゆえの潜在力があるので着想は面白く、観光の点から見ても、スルー海一帯はフィリピンに残る最後の処女地でもあり、紛争地域で有名になってしまったのが惜しまれる。

 

【セブ島とボホール島の間に浮かぶサンゴ礁の島】

 

 2001年にマレーシアの高級リゾートで外国人誘拐事件があり、スルーの島に連れ込まれて、解決まで長期に及んだ事件は記憶に新しく、フィリピンの事情を良く知るセブの知人たちは、今回の旅行を危惧し何度も気をつけるように忠告をくれた。

 「船で往復するような貧乏な旅行者には連中も手を出さない」と気休めの冗談を言って旅に出たが、心配は杞憂(きゆう)に終わっている。といって何も危険を感じなかったらといってこの地域が「安全」とはいい切れないのも哀しいかな現実である。

 

 ☆ 晴天下の復航

 

 高速艇に乗る前の晩、テレビで日本の外務省がボルネオ・サバ地域に渡航する日本人に対して、是非を検討するようにとの危険情報を出していたが、どのような具体的な現地情報を根拠にしているか不明だ。

 もともと旅は個人の責任で行うもので、不安を煽るような情報は考えものではないか。危険情報を知ってか知らずか、年末・年始の休みと重なりサンダカンには老若男女、個人、グループを問わず、日本人や欧米人の観光客の姿を多く目にした。

 

 復航は今回の旅でようやく晴れた青空の下、往航と逆に文字通り穏やかなスルー海に澪(みお)を曳きながら、快適に走り抜け「平和はありがたいな」としみじみ感じさせた。
 

【マレイシア国際空港KLIA-2  写真の右側で金正男暗殺事件が起きた


 将来、この地域から無意味なキナ臭さが消えれば、バックパッカーの本拠地タイのバンコク方面から、半島マレーシアを経由しボルネオへ渡り、次に今回の船に乗ってフィリピン・サンボアンガに出、セブ、マニラを目指すコースなど山・海、田舎・都会、歴史に人文地理、鉄道、船、飛行機利用と層の厚さとさまざまな選択肢に富み、旅好きにはゾクゾクするルートではないか。

 一日も早く世界中の人々が安心して、この地域を当たり前に行き来できることを願う。

 

(終わり) (2004年3月8日掲載)

 


 

author:cebushima, category:まにら新聞寄稿 Archives, 18:18
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まにら新聞掲載 Archives (13) サンダカン航路を往く その−6 (2004年掲載)

 Α,らゆきとじゃぱゆき

 

 ☆ からゆきさん考

 

 数年前に、セブ日本人会がセブ郊外にある公園墓地に日本人墓地を設けたが、旧墓地は放棄され割り切れない思いは残った。
 

【当時の写真 墓は斜面の向こうに見える海を眺められるように建てた】


 山崎朋子は「木下クニもからゆきさんも、日本を恨んで死んだために墓石は日本に背を向けて建てた」といっているが、サンダカンは南向きに開けた街で、墓地は海が良く見える南西向き斜面、北東の方角の日本には背を向ける地形となっている。

 日本恋しと墓石を日本に向かせると急斜面のやぶをにらむだけで、彼女らは永遠の海を眺められるように墓石を建てた、と解釈して良いと思う。

 

 今も墓地が手入れされているように、斜面の一番上に角度を違えて四十七回忌供養の墓石や墓名碑もあり、戦後この地で亡くなった方々も葬られている。
 

 「じゃぱゆき」はフィリピンではもう現地語になっているが、軽い羨望と共に軽蔑を含んだ口調で話されているのも事実である。2001年、日本に就労したフィリピン人は7万4千人強で、その多くは芸能ビザで入国したじゃぱゆきといわれる女性たちである。

 大多数は真っ当な職場を得た出稼ぎだろうが、中にはこちら流表現の「モンキー・ビジネス」目的もある。

【当時の写真 サンダカンのかつて娼館のあったと思しき街区】

 フィリピンのじゃぱゆきさんも日本のからゆきさんも、女性の海外出稼ぎというところは共通しているが、からゆきさんは最初から身体を売るのを目的とした出稼ぎで、その歴史は日本が富国強兵を国是とした明治から大正の時代にさかのぼる。

 

 ☆ アフリカにも広がっていた

 

 その範囲は大陸方面はもちろんのこと、港々にからゆきさんありで、世界中に広がっていた。例を挙げると日本の南進化の中心となったシンガポールには1000人以上いて、今でも紅灯街のあった通りは残っているという。

 そこから数千キロ離れたインド洋の彼方アフリカ東海岸にザンジバルという島がある。現在はタンザニアなるが、1964年の革命前は王国で、香料の丁子(クローブ)の世界的な産地と奴隷貿易で有名だった島である。

 ここにからゆきさんが1900年頃からいた(日露戦争が1904年)。詳細は白石顕二著「ザンジバルの娘子軍(じょうしぐん)」に詳しく、100年以上前のアフリカの小島生活、しかも女性であることに驚く。

 私自身アフリカに3年住んだ経験があるため敬服さえ覚える。この本では、大正年間の世界恐慌、日貨排斥を時代背景に、日本が外貨獲得のためにこれらの女性を利用し、なぜからゆきさんではなく娘子軍と呼称されていったかの経緯も良く解る。

【村岡伊平冶が没した地と伝えられるマヨン火山(標高2463m)麓のレガスピ市】
 

 身体を売る女性を斡旋することを生業とする、今では死語になった女衒(ぜげん)という言葉があるが、フィリピンにこの道で有名な人物がいた。「村岡伊平治」といい、彼はマヨン火山で知られるレガスピ市で死んでいるが、女性の生き血を吸うこの手の輩(やから)には珍しく自伝を残した。

 この自伝はからゆきさん研究の人は必ず目を通す資料であり映画化(今村昌平作品)もされている。事実関係の信憑性にこの自伝は問題が多いとはいえ、実際に女性を売り買いしていた側の記録として、当時の空気が伝わる貴重な本となっている。

 

 その中で村岡は「どんな南洋の田舎でも最初は(日本の)女郎屋ができ、すぐに雑貨屋ができ、会社が出張所を出す。一年内外で土地の開発者が増え、日本の船が着くようになる」と記述し、その時代の日本人の海外進出を端的に表現している。

 女郎屋うんぬんを海外進出の工場に置き換えてみると、何やら現代でも村岡がいうように基本の構造は似ているではないか。

 

 【続く】 (2004年3月1日掲載)
 


 

author:cebushima, category:まにら新聞寄稿 Archives, 17:45
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