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へそ曲がりセブ島暮らし2020年 その(18) 1945(昭和20)年7月31日の戦死

 小生の叔父は日本が降伏した1945(昭和20)年8月15日の16日前、7月31日にフィリピン・ルソン島の山中で戦死した。ということを毎年、この時期に書き綴っているが、75年目を迎えた今、新資料を入手したので改めて書いてみたい。

【こういう文書を見ると字は綺麗に書ける方が良いと思う】

 昨年11月に日本へ行って、長年、胸に引っかかっていた叔父の戦死状況を初めて文書で確認することが出来、写真−1がその文書になる。

 この文書は福島県庁に直接足を運んで取得したものだが、日本の場合、軍籍に就いた者には『兵籍簿』というものが作成され本籍地に保管されるが、叔父の場合は兵籍簿は存在していなくて写真−1の『戦時死亡者調書=戦死調書』一枚しかなかった。

 しかも手書きの癖字の原本からのコピーなので読み難く、暗号を解読するように読み解くが、改めて解説すると、叔父の所属部隊は前々から推測していたが『陸軍歩兵73連隊』と分かった。

 当時の日本の徴兵制では20歳になったら本籍地のある自治体で徴兵検査を受け、本籍地を管轄する連隊に入隊する仕組みになっている。

 東京で生まれ育った作家三島由紀夫が、本籍のあった兵庫県で徴兵検査を受け、風邪であったのにも拘らず『結核』と誤診され、徴兵免除されたのは知られた話だが、農林省の高級官僚であった三島の父親が手を回して徴兵逃れをしたのではないかとの話も残る。

 その徴兵免除が、三島の劣等感となって作品や生き方に生涯影響を与え、その最後がかつて陸軍士官学校のあった現防衛省敷地内での割腹自殺するとは、何とも皮肉で象徴的な出来事であった。

 さて、叔父の本籍は原発銀座、2011年に原発爆発のあった福島県の町にあり、それから福島県の会津若松にある連隊に入営するが、会津若松には歩兵29連隊と歩兵65連隊があった。

 29連隊は仙台編成であったが、1925(大正14)年に会津若松に移り、この連隊は中国大陸を転戦の後、『餓島』といわれたガダルカナルでも戦った歴戦の部隊だが、仏印に移って敗戦はヴェトナムのサイゴンで迎える。

 一方、65連隊の編成地は会津若松、しかし29連隊が会津若松に移った年に廃止され、その後1939(昭和12)年に復活するが、廃止前の駐屯地は朝鮮半島の龍山であった。

 これから叔父は昭和11(1936)年に徴集されているので、時間的には65連隊に入営したと見て良いが、徴兵されて訓練も受けずにすぐに外地の部隊へ向かうとは考えられないが、軍歴を記載した兵籍簿がないと知りようがない。

 『戦死調書』に記されている歩兵73連隊は1936(大正5)年、朝鮮半島の羅南で編成され、1931(昭和6)年の満州事変、1938(昭和13)年の張鼓峰事件に出動している。

 

 最近、日本が中国を侵略した戦争行為を『日中戦争』と記載する例を散見するが、日本は中国に宣戦布告していないので国際法上『戦争』とは呼べず、満州事変の延長『日中事変』あるいは『日華事変』と見るのが正しく、といって呼び方がどうであろうと日本が中国を侵略した歴史は変わらないが。


 時期は分からないが叔父が羅南から母親宛に送った荷物の墨書きの木の札が残っていて、これには羅南と記されていて、既に73連隊に所属していたのが分かる。

 また、金鵄勲章を受けていて、叔父は張鼓峰事件で武功を上げ受勲したのではないかと考えるが、金鵄勲章は戦後の1947(昭和22)年まで制度が残り、戦死したために死後受勲と考えられるが定かではない。

 73連隊は1944(昭和19)年12月にフィリピン・ルソン島のリンガエン湾に上陸するが、叔父の『戦死調書』の『内地港湾出発 戦地到着』という欄には昭和19年12月15日釜山出発、12月29日に北サンフェルナンド上陸と記され、73連隊のフィリピン上陸と平仄は合う。

 釜山から海路24日もかかっているが、既に制海権と制空権を日本軍は失っているこの時期に釜山からフィリピンへ輸送船で行って上陸出来たこと事態幸運で、多くの日本軍輸送船は台湾とフィリピンの間にあるバシー海峡で潜水艦攻撃によって沈められている。

 

 『勤務概要』という欄にフィリピンに上陸した叔父は、翌日から2月5日まで『バウアンノ』という場所で警備という記載があり、この『バウアンノ』がどこにあるか調べてみた。

 

 上陸した場所は現在の『ラ・ウニオン州』で、この州内に似たような自治体があるかと調べると、州中部海岸沿いに『BAUANG』という、現在人口8万人ほどの町があり、フィリピンでは『ANG』の『G』は発音しないが、日本語読みにすれば『バウアン』で、『バウアンノ』の記載は耳から入った発音を書き留めたためで、この地に間違いない。

 

 次に2月10日から3月15日まで『イブラレノ』で戦闘及び警備という記載が続くが、上述のラ・ウニオン州、その隣山側の『ベンゲット州』にも似たような町の名前はなく、これは町の下のある地区の名前のようだ。

 

 『イブラレノ』に続いて、2月15日から6月15日まで、バギオ北方90キロで警備と記載されているが、これはこの地の日本軍が敗走を続け山の中に逃げ込んだ動きの一つで、既に双方が戦うという体を成していない。

 

 山に逃げ込んだ叔父の隊は更に敗走を続け、6月15日から7月18日まで、『マンカヤン』地区警備とあるが警備とは名ばかりで、いかにして食うかと、日本兵は山中を食料を得るためにさ迷い、餓死、病死者が折り重なった時期である。

 

 この『マンカヤン』、ベンゲット州の最北端に『MANKAYAN』という町があり、表記の場所で間違いはない。この地は昔から鉱山の町で敗戦まで日本の三井鉱山が銅を採掘していた歴史を持つ。

 

 叔父の隊と日本の鉱山会社と直接関係はないであろうが、この地は標高1000〜2000m以上の山の連なる山岳地帯で、付近の地図を見ると行き付く所まで敗走したという感が強い。

 

 『7月30日より同島74Kの戦闘……』と同欄最後に記載されていて、……以下は判読不明。ここで死亡の欄には場所『岩木島(ルソン島のこと)バギオ北方74粁』、傷病名『胸部盲貫銃創』とある。

 

 ここで重要なのは同欄の『死亡年月日及時分』に『昭和20年7月31日9時』と記載されていたことで、叔父は胸を撃ち抜かれて翌日に死亡していることで、即死ではなく1日苦しんだ後に死んだことが分かった。

 

 この報告書を書いた人は上官の准尉だが、戦時中の記録がかなりいい加減に残されていることを加味しても、叔父の戦死の時間的経緯はほぼ正確であり、叔父の戦死の状況は分かったといって良いだろう。

 

 こうして、叔父はフィリピン戦で50万人といわれる日本人戦死者の1人として名を連ね、ルソン島の山中に草生す屍として土に還っているが、それにしても降伏する16日前に撃たれて戦死するとは何ともいいようがない。

 


 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2020, 20:05
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台湾一周 鉄道旅 2020 その(75) 特急『太魯閣417号』は東海岸を北上する

【写真−1 何かの試作車だろうか新しい車両には違いない】

 

 7割ほどの席の埋まり具合で台東駅を11時4分に出た特急『太魯閣(たろこ)417号』は徐々にスピードを上げるが、写真−1は引き込み線で見た車両で、客車は普通の窓が並ぶが、先頭車両には小さな窓が上の方に付いているだけで不思議な形式。

 

【写真−2 交通部だが台湾は省にあたるのを部としていて韓国と同じ】

 

 座席のカバーが写真−2で、この図柄は走る路線と特急の種類によって違い『太魯閣417号』の場合は、東海岸の景勝地を紹介している。右の丸い囲みは『亀山島』といって、北東にある宜蘭県沖合い10キロに浮かぶ火山島で、車窓から見えるらしい。

 

【写真−3 こういう河川から良質の砂利と川砂が採れる】

 

 台湾の東海岸沿いに走る台東線と北廻り線は、西海岸と違ってすぐに険しい山脈が迫っている地域を走っていて、写真−3の様に山脈から流れ出る川も多い。しかも、その幅はかなり広く、今は水量は少なくゆったりした感じだが、水害を度々起こしている。

 

【写真−4 そういえば台湾では温かいボトル飲料は見なかった】

 

 写真−4は車両の壁に取り付けられたボトル・ホルダー。2本並んで収まるようにあるが、普通は前の座席に1つずつ取り付けられているから、何か事情があったのだろうか。手前のボトルは甘い『レモン・ティー』、向こうは甘くない『緑茶』になる。

 

【写真−5 もう少し壁の材質と色は何とかならないか】

 

 写真−5は肘掛けに収まったテーブルで、車両その物が日本製なので、テーブルの材質、構造は全く日本で見るのと同じ。壁面がいくらかカーブを描いているので、この写真を見ると飛行機機内と同じに見えるが、座席の前後間隔はファースト・クラス並み。

 

【写真−6 台湾は台風による水の被害が多い】

 

 写真−6も日本でも見られる様な河原風景を持つ大きな川を渡っているが、ここまで台東駅から通り過ぎた駅はいくつもなかった。彼方に橋が見えるが、多分新旧の橋と思え2本並んでいる。雲のかかった山稜の向こうは阿里山や台湾最高峰の玉山に繋がる。

 


 

author:cebushima, category:台湾一周鉄道旅 2020, 20:40
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台湾一周 鉄道旅 2020 その(74) 台東駅から特急『太魯閣417号』に乗車

【写真−1 コンコースには人を留めないようにしている】

 

 この日は基隆駅まで行くが、台東駅から南廻線、北廻線、宜蘭線を経由11時4分発特急『太魯閣(たろこ)417号』に乗車。しかし基隆は台北に近い南港駅で別の線に乗り換える必要がある。写真−1の台東駅表示板右上に特急『太魯閣』の案内が出ている。

 

【写真−2 人がたむろするのは新しく造られた正面の設備に】

 

 写真−2は台東駅の出札、改札口を持つホールで、駅正面の近代的なデザインと違い写真の様に天井の高い昔からの駅舎を残している。台東駅は東海岸側にある駅の主要駅で、利用者は年々尻上がりで、2019年の乗降客数は400万人に迫っている。

 

【写真−3 太魯閣だとここから台北へ行く高速バスと同じくらいの所用時間】

 

 特急『太魯閣417号』は台東駅始発で、台北の先の樹林駅まで行く。乗客は多く改札が始まって三々五々乗客は写真−3の線路下に造られたトンネルを通ってホームへ急ぐ。この駅のトンネル、日本でも良く見る雰囲気を持ち、懐かしい感じがする。

 

【写真−4 愛嬌はあるがデザイン的に古臭い感じがする】

 

 写真−4が特急『太魯閣417号』の先頭車両で、列車の範疇としては『自強号』に入る。形式は台湾では『TEMU1000型』電車になり、この原型は現在もJR九州で運行している『885系』の特急『かもめ』で、日立製作所製、アルミ合金で造られている。

 

【写真−5 二つの緑の山が国立公園を象徴している】

 

 特急『太魯閣417号』の太魯閣というのは愛称で、写真−5は先頭車両横に描かれている『2016 Taroko』のロゴ。東海岸を北上した花蓮を中心に大理石の渓谷で知られる国立公園が太魯閣であり、太魯閣はこの地域に住む先住民『タロコ族』に因む。

 

【写真−6 席の前後間隔は良いが日本の狭軌と同じだから横幅は少々窮屈】

 

 特急『太魯閣417号』の車内の様子が写真−6。チケットはセブから予約し払い込んで有り、料金は1人782台湾ドル(約3000円)と安くはない。自強号は席が空いていればどこでも座れるが、太魯閣は全て座席指定になっていて、台北へ行く人が多い。

 


 

author:cebushima, category:台湾一周鉄道旅 2020, 20:53
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