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へそ曲がりセブ島暮らし2019年 その(48) 2007年11月7日 沖縄の首里城

 朝起きて日本のニュースを見たら、沖縄の首里城で火災が発生し正殿など中心になる建物が全焼するニュースが真っ先に目に入った。

【写真−1 訪れた時は琉球王朝の時代行列が行われていた】

 深夜2時40分頃、いわゆる丑三つ時の出火で、『放火』ではないかとすぐに思ったが原因はまだ不明で、これから解明されることであろうが、その後の報道では6棟4200平米の焼失が確認され、表現は悪いが丸焼け状態となった。

 写真−1は2007年、当時住んでいたホンジュラスから日本へ一時帰国し、家人と共に沖縄旅行をした時に写した首里城正殿で、左右にある南殿と北殿その周りが今回焼失してしまった。

 

 デジタル・カメラの利点は、自動的に撮影のデータがコマに読み込まれることで、コマの撮影日や時間も秒まで分かり、写真−1の撮影日は11月7日となっているから、12年前の撮影と分かる。

 

 フィルム・カメラ時代には写すコマごとにシャッター・スピードとか絞りの数値を手元に記録していてその煩わしさはなくなったが、カメラ任せになって全く頭を使わずに写真を撮せるようになり面白味も失った。

 

 沖縄には高校生の頃から関心があって、その頃の沖縄はアメリカの統治下でパスポートと入域許可証が必要で、海外旅行自体自由化されていなくて、確か海外渡航時の所持金は500ドルまでという時代であった。

 

 そのため、沖縄行きのハードルは高く、それでも冬休みを利用して奄美大島、徳之島へと南西諸島への旅で少しづつ南下して沖縄へ近づいたが、結局沖縄へ行く夢は叶わず、沖縄が日本へ復帰してからも行けなかった。

 

 2007年の沖縄行きは実に40年ぶりに実現した訳で感慨も多かったが、既にフィリピンに居を定めていて、日本の観光業者が盛んに売り込んでいる沖縄の売り物のビーチや海は目新しくはなかったし、セブの方の海が良いと思った。

 

 その初めて行った沖縄、那覇空港から乗ったモノレールを始め、既に都市化していて戦争の痕跡など薄くなっているが、南部のひめゆりの塔とか平和祈念公園、対馬丸記念館など一通りの戦跡は訪ねた。

 

 それでも、嘉手納基地のゲートまで行った時は、1986年にフィリピンからアジア最大のアメリカ空軍基地が返還されたために、沖縄に今に続く基地負担が増し、その手前にある普天間基地を見て、基地のある沖縄ではなく、基地の中に沖縄があると実感した。

 

 勿論、バスツアーを利用して北部の水族館へ行ったりする一通りの観光コースも辿っていて、繁華街の国際通りも足を運んでいて、今回焼失した首里城もモノレールに乗って近くの駅で降りて歩いて行った記憶がある。

 

【写真−2 何度も再建されているが用材には苦労した歴史を持つ】

 

 首里城は14世紀に築城されるが、その長い歴史の中では何度も焼失していて、最初は1453年、次に1660年、1709年と繰り返し、沖縄戦の行われた1945年に4度目の焼失を受け、今回が5度目という歴史を背負っているから、再建を繰り返したセブにあるサント・ニーニョ教会と似ている。

 

 そういった再建の連続の首里城であったが、今回焼失した正殿は1992年に復元されたもので、2000年には首里城城址を含めて『琉球王国のグスク及び関連遺産群』として世界遺産に登録された。

 

 今回の焼失によって世界遺産登録から外されるとの懸念も出ているが、世界遺産として価値があるのは復元された建物ではなく石垣などの遺構であって、その心配はないとされても、沖縄県民の心には首里城焼失は痛手を与えたことは変わりない。

 

 写真−2は首里城正殿の右側から入った奥の建物内の一室の様子で、訪れた頃に新しく完成した建物と記憶するが、日本の書院造りと似たような雰囲気はいわゆる琉球風を感じさせないが、床の間の壁が板張りになっている所が琉球風なのかも知れず、この場所も焼失している。

 

 この公開されている建物で関心を覚えたのは、釘を使わない木組み工法が多用されていることで、その見本も置かれてあり、屋根の瓦が横に渡した垂木に直接引っ掛けられていて、当時住んでいたホンジュラスで見た民家と同じ造りだなと思った。

 

【写真−3 日本中どこでも消防車の色は赤で中古車がフィリピンに来る】

 

 今回、火災が発生してから消防車は多数駆け付けたが、これだけの大火にしては消防車の数が少なくしかも高台のための水利に不便さと、建物自体が総木造、漆塗りであったために火の回りは早くどうにもならなかったようだ。

 

 写真−3は那覇市内を歩いている時にたまたま写した一枚で、那覇消防署の消防車の様子だが、今回の大火で当然消火活動に出動したと思うが、重要な建築物であったのにも拘らず消火体制が整っていなかったの疑念は残る。

 

 日本の文化財級の木造建築物には自動消火装置とか自動放水銃などの設備が整っている場所が多く、合掌造りで知られる白川郷では自動放水銃による一斉訓練が観光客を集めるほど知られ、他の寺社仏閣でも自動放水銃による訓練など話題になっている。

 

 首里城にこの自動放水銃装置が整っていたら、ここまで被害は拡大しなかったと思うが、今更言っても仕方がなく早くも再建の話は出ていてもこの点万全の対策は望まれるが、消失に懲りて鉄筋コンクリートで再建などという愚挙は避けて欲しい。

 


 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2019, 17:36
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へそ曲がりセブ島暮らし2019年 その(47) 1944年10月25日 海軍神風特別攻撃隊の虚実

    毎年10月になると、セブから飛び立った海軍神風特攻隊のこと、阿川弘之の海軍予備学生の苦悩を書いた『雲の墓標』、あるいは戦没飛行予備学生の手記集『雲ながるる果てに』と『雲』をキーワードにした事柄を思い浮かべる。

【セブの元海軍飛行場跡  写真を撮った位置から前方に滑走路はあった】

 特攻隊が初めて米軍艦船に突入したのは1944年10月25日だが、それから75年後の2019年10月25日、小生はレイテ島西岸を眺めるセブ島東海岸を車で北上していて、対岸には薄っすらとレイテ島の島影が見えた。

 今年の10月のセブの天気は不安定で、この日も雲は多く250キロ爆弾を抱えたゼロ戦はこのような雲の合間を縫って攻撃を加え成功したのかと思うと、過去とはいえその残酷さに胸が突かれる。

 海軍の神風特別攻撃隊がフィリピンで編成されたのは1944年10月20日、場所はルソン島中部のマバラカット飛行場で、この地域には1900年代初め頃からいくつもの飛行場があり、戦後は極東最大の米空軍基地が置かれヴェトナム戦争中は爆撃機B−52の出撃基地になった。

 ヴェトナム戦争終結後は反米、基地返還運動が起こりアキノ大統領時代の1991年にフィリピンに返還されるが、これは近くにあるピナツボ山が同年に大噴火を起こし、降灰によって基地機能が壊滅したことが大きかった。

 その後クラーク基地は近くにあるアメリカ海軍のスービック基地と共に経済特区として開発中で、日本の企業も多く進出し、クラークと首都圏を結ぶ鉄道も日本のODA資金で建設中である。

 さて、神風特別攻撃隊と命名されたが『かみかぜ』と通称されるのは後の話で、当時は現地参謀の剣道の流派から取った『しんぷう』であり、関行男大尉を指揮官に四隊がマバラカット基地で編成された。

 その隊名が本居宣長の和歌から取った『敷島』『大和』『朝日』『山桜』で、翌21日午前に出撃するが天候不良のため全24機は引き返すが大和隊はセブに降りた。

 

 ちなみに10月21日というのは前年の1943年、学徒出陣壮行式が明治神宮外苑競技場で7万人を集めて行われ、出陣学徒が雨の中を行進した日で、今も残る実況映像を見るとこの出陣学徒達は何を考えながら銃を担いで行進したのかと思うと涙を禁じ得ない。

 

 戦後生まれの小生としてはヴェトナム戦争反対の『10・21国際反戦ディー』を思い出すが、そういった激動の時代、過去の歴史も今のスマホ・ウィルスに侵された若者には何のことか分からない時代になってしまった。

 

    掲載した写真はセブ市にある元海軍201飛行隊の基地があった場所で、ここから久納中尉は出撃しその後も特攻機はここから飛び立ち、戦後も1990年代初頭まで飛行場はあり、小生も軽飛行機が離着陸するのを目撃している。

 

    その後フィリピンを代表する財閥企業が飛行場跡地を手に入れて再開発し、現在はコールセンターやコンドミニアムが林立しすっかり様変わりしていて、ここが飛行場跡地でここから日本海軍の特攻機が飛び立ったなど知らないフィリピン人がほとんど。

 21日午後、大和隊は再度出撃し、隊長の久納好孚中尉は戦果不明の未帰還となり、これを海軍神風特攻隊の戦死の嚆矢と見て良いが、海軍は25日の攻撃で戦死した敷島隊隊長の関を特攻戦死第一号として軍神に祀り上げる。

 このため戦史上で神風特攻戦死第一号は誰かの論争も起きているが、久納は法政大学からの海軍予備学生出身で、予備学生は海軍の職業軍人の間では『スペア』と呼ばれるほど軽視されていた。

 片や関は海軍兵学校出身の海軍エリートで、特攻戦死第一号は海兵出身者であるべきと海軍の上層部、命令系統には筋書きが書かれていて、関自身は新婚で四度目の攻撃での特攻死となるが、その間繰り返しの待機は残酷であったのは確かである。

 なお、特攻死第二号は、23日にセブ基地から出撃し久納と同じように未帰還となった大和隊の佐藤馨上飛曹であり、佐藤は予科練出身であるために久納以上に忘れ去られた特攻戦死者となった。

 さて、海軍神風特攻隊は10月20日に敢行されたマッカーサー率いる連合軍のレイテ島上陸に対して生まれた『捷一号作戦』によるものだが、この作戦は連合艦隊最後の大作戦ともなった。

 しかし、レイテに向かう途上で戦艦『武蔵』が沈められ、栗田艦隊のレイテ島突入寸前に艦隊の謎の反転などがあってこの作戦は失敗し、陸を守る日本陸軍も貧弱な火力のために全滅状態に陥る。

 25日の特攻隊の初攻撃は空母を沈めるなど予想外の戦果を挙げたために、海軍内部は沸き立ち満を持して発表したが、この有頂天ぶりは真珠湾攻撃が大戦果を挙げたと錯覚した空気と似ていて、いかに日本の職業軍人が世界を知らずに生きていたかを物語る。

 攻撃成功の報告は体当たり機を護衛と戦果を確認するゼロ戦からのものであり、どの出撃機がどの艦船に体当たり成功したかは確認し難く、米軍側の資料でも明らかできていず、そのため空母を沈める殊勲甲は指揮官である関にしたというのはありそうな話である。

 なお、25日の攻撃は敷島隊が先陣を切ったようになっているが、判明している攻撃時間からはダヴァオから出撃した二隊が敷島隊より先に攻撃成功していて、この辺りでも海軍はストーリーを作っていることが分かる。

 この飛行機による特攻は海軍のみならず陸軍でも行われ、当初はアメリカの艦船乗組員に恐怖感を与えたとされるが、迫る特攻機よりそういった死に方に従容とする日本人に恐怖を覚えたのではないか。

 それにしても操縦した数千人(4000人弱といわれる)の若者の命を奪った特攻作戦だが、その命中率など戦後になってかなり研究されて、軍部が鼓舞するほど効率は良くなく、敵艦に到達し被害を与えたのは1割にも満たなかった。

 浮かばれないのは戦死した若者達だが、戦争というのはそういう残酷を積み重ねるもので、そこから日本は戦争を永久にしないと学んだはずだが、既に日本は戦前と同じ社会になっているとの指摘も強い。

 


 

author:cebushima, category:-, 18:30
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ミンダナオ島紀行 ダヴァオ篇 2019 その(14) ダヴァオ市への道筋で検問

 フィリピンはマゼラン船団が1521年、フィリピンに上陸してカトリックを広め始めるまではイスラム教が多数派で、マニラ近辺まで伝播していた歴史を持つ。

 

【写真−1  フィリピンのカトリックは教徒は80%以上イスラムは10%程度】

 

 特にイスラム教の支配者(スルタン)の王国が古くからあった今のインドネシア、マレイシアに近いミンダナオ島はイスラム教が早くから伝わり、島内各地にスルタンを持つ王国はいくつも出現し、その末裔が現在も政治屋として地域で勢力を維持している。

 

 それが、近代になってカトリックの伸長は著しくなりイスラムは追いやられ、また少数民族の問題も絡んで、カトリック側の中央政府とミンダナオ島のイスラム教徒間との武力紛争が長年続いていた。

 

 それでも1990年代に両者間に平和協定が結ばれ、ミンダナオ島西部のいくつかの州と島嶼部にある州によって『イスラム自治区』が創設され、これでミンダナオ島紛争は収まるかと見られていたが、自治区指導部の力量不足と汚職の蔓延で『モロ・イスラム解放戦線=MILF』が分派に走る。

 

 再び泥沼の武装闘争が繰り返されたが、アキノ前政権になってMILFと和平交渉が進み、ドゥテルテ政権下で国防と外交は中央政府、その他は自治政府、徴税権の配分割合も決まり今年になって帰属する地域で住民投票が行われ新イスラム自治区移行への体制が固まった。

 

 そういった歴史を持つミンダナオ島だが、ダヴァオ周辺はそれ程イスラムの影響は強くはないが、写真−1のようにダヴァオへ向かう道筋にはモスクの姿を通過する集落ごとに見かけ、ぁなり根付いていることが分かった。

 

【写真−2  道幅が広いのがミンダナオ島】

 

 写真−2はカルメンという町を通過した様子で、三角形の下の青い看板に北ダヴァオ州と書いてあり、この町はダヴァオ市まで40キロほどの地点にあり、人口は8万人ほど。

 

 フィリピンは町といえども日本の消え入りそうな市とは違って人口は多く、総人口は既に1億1千万人を超え、その勢いはやがて日本の人口を追い越すと予測されている。

 

 写真−2の右側に流れるように写っているオートバイには運転者と後ろ座席に座る人物の間に子どもを挟んで乗っているのが見える。

 こういったオートバイの3人乗りはフィリピンでは普通で、中には子どもを2人も3人も乗せて走っていることがあって危険極まりないが、あまり頓着していないようだ。

 

【写真−3  ダヴァオ市に入る手前は警戒が厳重】


 そうしてダヴァオの平らで道幅の広い道を進み、いくつかの町を通り過ぎ車の走行が多くなった地点で写真−3の検問にぶつかった。

 

 ここでの検問はダヴァオ市内手前ということで厳しく、前方に停まる車は乗り合いヴァンで車から全員降ろされてチェックを受けていたし、フロント・ガラス越しには検問をする迷彩服を着た兵士の姿が見える。

 

 この検問では私用車であることと、乗っているのが日本人であったために車から降ろされることなく、運転者の免許証と登録証をチェックしただけで終わり問題はなかった。

 

 ミンダナオ島全土に布かれている戒厳令は今年の12月末に期限を迎えるが、今まで延長延長で際限なく延ばされているため、また延長されるのではないかとの観測が広がっている。

 それに対して、経済活動に影響があるのでダヴァオ市内だけは戒厳令を外してくれとの要望が出ていて、これもダヴァオ市を王朝のように支配している大統領一家の虫の良い要望だが、政治の私物化が当たり前のフィリピンでは驚くことではない。

 


 

author:cebushima, category:ミンダナオ島紀行 ダヴァオ篇 2019, 19:26
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