- へそ曲がりセブ島暮らし2019年 その(42) 『ニミッツと山本五十六』
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2019.09.28 Saturday
最近は戦史物の本を読むことは少なくなったが、積んであった本の間から写真の文庫本、生出寿(おいでひさし)著『ニミッツと山本五十六』を見つけ読んだ。
この本は2000年9月に文庫本書下ろしで出版されていて、筆者は海軍兵学校(海兵)74期卒業の元少尉で、戦後は東大仏文科を出て徳間書店に入り、重役を歴任した出版人で2006年80歳で死去。
海兵74期生というのは入学が1942(昭和17)年12月で、真珠湾攻撃の翌年ということで戦意は盛り上がって志願者が激増したために大量採用し、卒業生は初めて1000人を超した。
74期生の卒業年は1945(昭和20)年3月になり、その年の8月には敗戦を迎えたために最後の海兵卒業者となり、付け加えると海兵は77期生まで有り、75期生の卒業式を敗戦後の10月に行って卒業とし、それ以降は修了書を出した。
生出は海兵出身のためにその著作物は旧日本海軍の提督物や海軍生活を記述した作品が多く、本書の山本五十六に関しては『凡将 山本五十六』という本も出し、本書を読んでも分かるが山本への評価は辛い。
山本五十六は旧日本帝国海軍を代表する海軍軍人だが、三船敏郎が映画『連合艦隊司令長官 山本五十六』で演じた堂々たる山本五十六像が小生には強く印象に残っている。この映画は1968(昭和43)年に製作されたが、その前年に8月の戦争シリーズ
として『日本の一番長い日』が作られ、その流れを組むものだが、当時の日本の映画界はまだ活気があって、このような大作が生まれた。
話は横に逸れるが、三船敏郎という俳優を凄いと感じたのは1961(昭和36)年、中学生の時に黒澤明監督の『用心棒』を観た時で、最後のシーンで三船が切った仲代達矢の身体から吹き出た血飛沫には度肝を抜かれた。
次の年に『椿三十郎』を観てそれ以来、三船と黒澤の映画の魅力に取りつかれたが、名作を生んだこのコンビも1965(昭和40)年の『赤ひげ』を最後に解消し、小生は既に高校生になっていて、黒澤の旧作を都内の名画座で漁るようになっていた。
さて、山本五十六は1884年、新潟県長岡に生まれるが山本姓は養子先の家名であり、旧姓は高野といい長岡藩の藩士の家系で、戊辰戦争の時に反政府軍側に立った長岡藩家老であった山本家は取り潰されていたが、海軍軍人として嘱望された五十六が後を継いだ。
山本は海軍士官学校に1901(明治34)年、32期生として200人中2番で合格というから頭は良かったし、逆立ちが得意なように運動神経も良く、同期では吉田善吾、嶋田繁太郎といった海軍史に名を残す海軍大将を輩出している。
海兵卒業後すぐに1905(明治38)年、巡洋艦『日進』に乗艦し、日露戦争の勝敗を決したという『日本海海戦』に参戦、左手の指2本を飛ばすなど重傷を負うが、山本が日本海軍大勝利の日本海海戦で戦っていたことが、明治の頭で昭和の戦争を戦った源流になるのかも知れない。
山本は在アメリカ日本大使館駐在武官として2度の経験を持ち、アメリカの事情を良く知る人物であったが、その博打好きの性格から勝てないアメリカとの戦争を始めたのではないかと見られていて、本書でも山本の性格の欠点が多く書かれている。
一方のミニッツだが家名はチェスターで、祖父がドイツからの移民でテキサス州に1885年に生まれ、最初は陸軍士官学校を目指したが推薦枠の問題から海軍兵学校に志望を変え、1901年に入学、1905年に卒業をした。少尉候補生の時、東アジアへの航海中に日本へ立ち寄り、その時に日本海海戦の勝利で英雄となっていた東郷平八郎と会って生涯、東郷を尊敬し、戦後の話になるが東郷が指揮した戦艦『三笠』が荒れ果てていたのを元にするように尽力し、同じく原宿の東郷神社再建にも力を貸した。
そういった日本贔屓とも見えるニミッツだが、こと日米間の直接対決となった戦争に関しては容赦なく、太平洋艦隊司令長官に就任してから合理的な発想による作戦によって日本海軍を壊滅に追いやった。
特に1942(昭和17年)の6月5日〜7日にかけて、中部太平洋のミッドウェーで日米の機動部隊が繰り広げた大規模な戦いはその後の戦いの趨勢を決した戦いといっても過言ではなく、真珠湾攻撃から半年足らずで日本軍は負け戦に転げ落ちる。
この戦いは『ミッドウェー海戦』と呼ばれているが、史上初めての空母艦載機同士の決戦であり、日本海軍は虎の子の主力空母4隻を失い、戦死者3000人以上を数えたが、アメリカ側は空母1隻、戦死者300人余と軽かった。
この時、連合艦隊旗艦の『大和』に座上していた山本は空母部隊の遥か遠くの海域を航行中で、作戦指揮を結果的に行わず、すごすごと泊地である瀬戸内海の柱島に帰ったが、既に戦争は山本が自覚していたように航空機の時代に入っていて、巨大な戦艦の大和を役に立てる時代ではなくなっていた。
ミッドウェーにしてもその頃のアメリカ側は日本の暗号をほとんど解読していて、日本軍は情報を軽んじていてその動きを知らず、後に山本が乗った飛行機がアメリカ軍戦闘機に待ち伏せされて撃墜されても暗号が解読されているなど思っていなかったというから、根本的に戦争をする総合力のなかった帝国軍隊といっても良い。
この暗号に関しては日本軍の奇襲とされる真珠湾攻撃も、アメリカ側は知っていて国内の参戦気分に火を点けるためにあえて日本軍に真珠湾を攻撃させたというのが近年の通説で、攻撃成功と浮かれているのは日本だけであった。
さて、山本は1943(昭和18)年4月18日、前線視察という名目でラバウルを高級幕僚を引き連れて2機の飛行機で飛び立ったが、ソロモン諸島ブーゲンビル島、ブイン基地近く上空で待ち伏せしていたアメリカ戦闘機に撃墜された。山本の前線視察はアメリカ側に筒抜けであった訳だが、長文の前線視察日程を打電したことや、司令長官が護衛機の少ない状態で前線に出るのは危険だと諫めた幹部もいたらしいが、後の祭りで山本は座席に座った状態で即死であった。
この山本の死については諸説あって、戦局を悲観した墜落後の覚悟の自殺ではないかともあり、あるいは機銃が頭を貫通したともあるが、一番信憑性があるのは検視をした軍医による全身打撲によるショック死のようだ。
諸説あるのは山本を軍神として死後元帥にし、国葬までした軍部があくまでも英雄の死として劣勢の状況を盛り上げようとしたためであり、既にインチキだらけの大本営発表が幅を利かしていた。
山本は59歳で戦死し、一方のニミッツは日本が降伏調印した『ミズーリ』艦上で海軍を代表して署名し、元帥で退役後は悠々自適の生涯を送り、1966年2月妻に看取られて80年の生涯を閉じた。山本には妻がいても、愛人関係も派手な生涯であり、ジャングルの露と消えてしまい、一方、ニミッツの様に連れ添った妻に看取られてベッドの上で死ぬのとどちらが良いかといえば、後者の方が断然良いのは確かである。
- へそ曲がりセブ島暮らし2019年 その(41) 日韓の駄目な指導者など
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2019.09.26 Thursday
日本のニセ右翼の安倍首相、ニセ左翼の韓国の文大統領とどうしようもない指導者が、今の日韓の間にある軋みを増幅させているのは間違いなく、戦後最大の日韓関係は『危機』とまでいわれている。
【写真はセブ島南部のジンベイザメ】
しかし、小生の記憶の中では『李承晩ライン』で揉めていた頃と比べれば危機は最大とはいえず、無節操、無用な両国のマスコミが煽っているだけだと思っている。
李承晩ラインとは1952年から初代韓国大統領であった李承晩が、戦後の隙を突いて韓国沖合いに漁業区域を一方的に定めた境界線で、この線を超えた日本漁船の操業を取り締まった。
この境界線は1965年に日韓基本条約が結ばれるまで続き、拿捕された漁船は328隻、抑留船員3929人、44人が死傷した大事件であり、日本人の中に反韓が醸成され小学生であった小生の頭の中にもその騒ぎは記憶されている。
李承晩というのはアメリカのハーバード大学で学びプリンストン大学で博士号を得たほどのアメリカ通というかアメリカべったりの人物であっ。
その政治姿勢は反共反日を基本とし、1950年に朝鮮戦争が勃発し休戦後に独裁色を強めたが、権力者は腐敗する例え通り、1960年に不正選挙抗議のデモで190人近くの死者を出し、ハワイに亡命した。
この辺りはフィリピンの独裁者マルコスが1986年に石もて追われてハワイに逃亡したのと似ていて、ハワイはそういった環境なのかと思うが、アメリカ政府は本土に亡命はさせないためにハワイに限定し、認めたのであろう。
1965年に李承晩は90歳で亡くなり、その後1961年の軍事クーデターで登場したのが朴正煕で、朴は1979年に側近に暗殺されるまで独裁政治を続け、この間に結ばれたのが日韓基本条約である。
朴は日本の陸士官学校を出たほど日本のことに通じ癒着していて、基本条約締結時に総額5億ドルの巨費を日本から賠償という名目で受け取ったが、かなりの額が懐に流れたという。
当時の5億ドルというのは1ドル=360円の固定相場で1800億円になるが、韓国の当時の年間国家予算額と同等というから、途方もない賠償額であるが。これが利権の巣窟になった。
この賠償には『今後韓国は賠償請求をしない』との一項目があり、これが現在の安倍が慰安婦及び徴用工に対して賠償責任は消滅していると主張する根拠になっている。
特に徴用工に対しては賠償金を得た韓国政府が賠償するとなっていたが、朴は賠償金の多くを道路や橋といったインフラに注ぎ込み、また製鉄会社起業に使い、自国民への賠償はおざなりであった。
戦後賠償というのはこのフィリピンやインドネシアでも行われていて、この巨額な金を巡って大小の商社が動き、その代表的なのは後に伊藤忠商事の会長までなった瀬島龍三で、瀬島は大本営参謀、敗戦後はシベリアに1958年に釈放されるまで抑留の目に遭った。
こういった元高級軍人が戦後賠償の裏で動き賄賂と抱き合わせで進めて行ったのが実態で、この瀬島は韓国の全斗煥などの軍人グループとも親しく金大中事件など日韓関係悪化の時には相当に動いた。
しかし、所詮は戦後自民党体制の擁護者で、後に安倍が唱えた『美しい日本』と関わり95歳で死亡。
敗戦前後の闇の中で動いた元大本営参謀ということで、山崎豊子の作品に取り上げられていて、本人の著作もあるが真相は墓の中まで持って行き、ホッとした権力者は多かったことであろう。
瀬島が批判されるのは戦争指導の中枢に居た軍人連中は頭が良かっただけの世界を知らない人物であり、こういう連中が無謀な戦争を引っ張り赤紙一枚の兵隊と銃後の国民を多く殺し敗戦となった。
しかも戦後は反省なきままに日本の中枢に復帰して、無責任な戦後の日本を作ってしまったことで、その弊害は今更いっても取り返しはつかない。
さて、安倍のことだが祖父が戦争開戦時の商工大臣の岸信介、叔父が長期政権で最後は無様であった佐藤栄作、父親は自民党の実力者であり、いわゆる政治一家に生まれ地盤を世襲した三代目。
今の日本の国会議員は70%くらいが世襲になっているが、こうなると政治が家業になっていて政治以外は何にも役に立たない人物が跋扈している訳になるが、これは日本以上に一族で世襲、独占するフィリピンも同じである。
そういえば次の首相候補として人気のある小泉進次郎も三代目で、父親は元首相で祖父は元防衛庁長官であったが、大臣就任で浮かれて地盤の横須賀の町でパレードをやって辞任した人物として記憶に残る。父親の方は現在、反原発で盛んに動いているが一度は自民党政権の座に就いた人物が反原発に転向するとは前代未聞だが、少なくとも晩節を汚すような行為ではない。
小泉親子はその言説に歯切れが良いのが特徴だが、特に進次郎の方はしゃべりは巧くなるほどと思わせるが、話の内容の中味はほとんどなく、言ってみればかつての石原慎太郎と良い勝負になる。
先日、環境大臣として初入閣し、今開催中の国連総会に出て英語でスピーチしたと話題になっているが、アメリカ留学組にしては英語力は拙いし、やはり中味はなかった。ただマスコミの使い方は巧く、個人的な結婚も政界の一大事の様に演じて、その神経を疑われたが、こういう手で馬鹿なマスコミを取り込むのは計算づくなのであろう。
一方、安倍だが最初の政権を1年足らずで放り出した反省から、いかに政権を持たせるかを学んだ努力は認めるが、広報宣伝に優れたスタッフに支えられていて、やはり中味はない。
こういった無内容な人物が長期政権を続けられるのは、やはり対抗馬がたまたま生まれなかったことで、安倍はそういう意味では運に恵まれたといえるが、この安倍が日本の首相である限りは日韓関係は好転しないであろう。
- ミンダナオ島紀行 ダヴァオ篇 2019 その(10) 海べりの別荘風建物に宿泊
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2019.09.25 Wednesday
マティ飛行場を見学してからマティ市郊外にある海岸へ向かうが、海沿いの道路の海側には別荘風の建物が連なり、反対側は鬱蒼とした椰子林が広がる。
【写真−1 こういうプールは泳ぐというより水の涼しさを得るためにある】
マティ市のある東ダヴァオ州は『ココナッツ州』と呼ばれるように椰子の樹が多く植えられ、途中通過した北ダバオ州やコンポステラ・バレー州が『バナナ州』と呼ばれるているのと対を成す。
写真−1が地元の知人を通じて用意してくれていた貸別荘で本日の宿泊場所になる。
300坪くらいの敷地の中に、モダンなデザインの建物とその前面に20メートルくらいのプールが造られ、写真手前に白く写るのは海砂を敷き詰めた庭で、写真を撮った側に海が広がる。
全体に広々とした印象はあるが、寝室2つにキッチン、リビングの2LDK仕様で、周りには樹がないために建物内は暑く、部屋に備え付けのエアコンを常時動かしていないと快適さからは遠い。
これだけの敷地と建物、プールを常時綺麗に管理するのは大変だが、建物の裏に管理人の家があってその辺りは怠りない。
2部屋と書いたが、寝具の数から10人以上の宿泊は可能で、そうなると人数当たりの宿泊費はかなり安く、最近日本で取り上げられる大人数向きの『民泊』と似ている。
【写真−2 岩場の向こうはドロップ・オフになっているのか漁船が出ている】
写真−2は建物敷地前面に広がる海岸と海の様子で、敷地は2メートルくらいの高さがあり、そこを岩場の海岸に降りると300メートルほど沖合まで岩場が続いている。
この岩場の状態は干潮の時で、潮が満ちてくると建物のある敷地まで水面は上がって一面海になり、海面の向こうには山並みが連なり、その谷間には雲がたなびきその変化を見るだけでも飽きさせない。
山並みの向こうは遥か南スリガオ州に連なり、そしてミンダナオ島最北端の州になる北スリガオ州へと続き、その先は海峡を挟んでレイテ島に繋がる。
写真で分かるように眺めている分には気持ちの良い景観であるが、海から2メートル少々の高さでは仮に津波が押し寄せた時ひとたまりもなく、先の三陸大津波の被害を知る身としては綺麗だけでは収まらない不安を感じさせる。
ミンダナオ島では過去に大地震による津波が発生し、多大な被害を受けている例もあり津波が全くないとは誰もいい切れないが、そういった発想は、このような土地に別荘を造るような金持ちには無縁で貧乏臭い考えになるのかも知れない。
【写真−3 海風がおかずの一つになる】
写真−3はその晩に用意した食事の数々で、中央に見えるのはフィリピンでタンギギと呼ぶ白身の魚で、これは備え付けのバーベキュー設備を使って炭火で焼いた。
その右側はパンシット・カントンと呼ばれるフィリピン風焼きそばで、脂ぎったフィリピン料理に面食らう日本人が好む料理の一つになる。
その右上に見える丼内はフィリピン風生魚の酢締めになるタンギギのキニラウで、ココナッツ・ミルクが入っているのが特徴。
一番左端にある料理は小イカを煮たイカのアドボで、その他はフィリピンでは定番の鶏と豚肉料理になり、これで米飯を食べる。
野菜の料理がないなといつも感じるが、野菜料理というのは、最近でこそレストランでもサラダを出すようになったが、フィリピンでは野菜を食べるのは貧乏人との印象の強い国である。