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ミンダナオ島紀行 ダヴァオ篇 2019 その(7) 大雨の夜半に北ダヴァオ州の州都マティ市に到着

 山から降りてきた途中、写真−1の蜂蜜を売る人が歩いていた。

【写真−1 この地域には山に住む少数民族が多い

 プラスティックのバケツの中に並々の蜂蜜が入り、その上に蜂の巣が蓋の様に乗っていて、蜂がその上に集っている。

 蜂の姿は日本で見る蜜蜂とは違い細長く、ミンダナオ島で見られる種類のようだ。

 フィリピンに養蜂産業があるとはあまり聞かないので、半分自然な状態の蜂の巣を採集して蜜を採っているのように思うが、はっきり分からなかった。

 天然の蜂蜜は純度が良いと、成分のブドウ糖がやがて固まる性質を持っているが、バケツの蜂蜜は新鮮なのかトロリとしていて、先を急いでいたので味見をしなかったのが残念であった。

【写真−2 橋を守るための護岸工事が先で全体を終えるのはかなり先】

 夕暮れ前にマティ市に急ぐが、写真−2は途中で見かけた河川の様子で、こういった河川が所々にあり、ミンダナオ島のこの地域は水に困らず、特にバナナ栽培に向いているようだ。

 しかし、どの河川も護岸工事を最近になって始めていて、これは数年前の台風時に河川が氾濫して甚大な被害を被ったためで、治水の大切さを知ったようだ。

 日が暮れるとどうやら保っていた天気も崩れ、道中は土砂降りが続き、その中を突っ走るヴァンの運転に不安を覚えるが、道は広く交通量も少ないので心配はないようだ。

 

 フィリピンはオートバイが激増しているが、その運転は無謀で小生などオートバイ運転者は『自殺志願者』と思っているが、雨が降るとさすがにオートバイ運転は難しく、雨宿りで道路から姿を消し、車を運転する方としては走り易くなるので、雨降りは悪くない。

【写真−3 日本の3分の2くらいの値段だが経済格差を考えると相当高い】

 

 途中で燃料を補給したスタンドの様子が写真−3で、このスタンドはいわゆるメジャー系経営ではなく、ミンダナオ島を中心にスタンド網を広げている。

 

 この写真では分からないが、ダヴァオに着いて目にするスタンドの表示値段がセブが50ペソ台半ばなのに、ダヴァオはどこも40ペソ台で販売していて、それはメジャー系のスタンドも同じである。

 ダヴァオはフィリピンでも辺境といって良い地域で、セブより価格が安いのには解せないが、ダヴァオに比べてセブやマニラが高いのは業者間でカルテルを結んでいるためではないか。

 

 特にダヴァオは大統領のスポンサーである中国系実業家が、フィリピン最大の独立系スタンド網を展開していてその影響もあるようだ。

 この実業家はドゥテルテが大統領に就任してから急伸長し、現在国内に2社しかない携帯電話会社の中で、第3の携帯電話会社として政府から認可を受けた。

 

 これなど日本の安倍が大学の獣医学部で設立で便宜を計ったことと全く同じ構図で、日本では証拠がいくら出ても安倍はシラを切通してその繋がりを否定したが、フィリピンではこういった利権絡みは当たり前過ぎて問題にすることもない。

 

 そうして、いくつかの山道を超えてマティ市に入ったが、既に市内は真っ暗でヴァンがどこを走っているかどうか分からなかった。

 


 

author:cebushima, category:ミンダナオ島紀行 ダヴァオ篇 2019, 22:52
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へそ曲がりセブ島暮らし2019年 その(39) 世にも不思議な消えたフィリピン版『強制慰安婦』像

 中曽根康弘という名前は既に過去の人となっているが、1980年代に6年近く日本の総理大臣の椅子に座った人物で、1918年5月に生まれ現在も存命で101歳になる。



 この元首相は先の戦争中に海軍主計中尉を任官し軍務に就いたが、主計というのは軍内部の経理を担当する役割を持ち、最後は少佐で敗戦を迎えた。

 経理という職掌柄最前線には出ないように思うが、中曽根は輸送船団に乗り込みフィリピン・ダヴァオにも来ているが、その後インドネシア沖で交戦国の艦船から攻撃を受け九死に一生の目に遭っている。

 この元首相が現地『慰安所』開設に主計将校の時に関わった文書が残されていて、『戦争と性』というのは後の総理大臣といえども避けられない、日本軍の重要課題であったことが分かる。

 さて、戦後最悪になったといわれる日韓関係だが、最悪といってもそれは日韓の為政者同士の貧しい頭の中味と

それによる選挙対策であって、両国国民同士はそれほど悪くなっていないとの見方も強い。

 日韓が対立する原因は『徴用工』と『強制慰安婦』にあるとされ、それが経済問題に転嫁、ついには軍事協力分野まで影響が出て抜き差しならぬ状態に陥っている。

 どちらもしっかりと戦争責任を総括しなかった日本の側に問題があったのは確かだが、ここではフィリピンも大きく関係する『強制慰安婦』問題について書き記す。

 椅子に腰かけた少女像が慰安婦を象徴する像として広く知られ、韓国にある日本の在外公館前に設置されて日本側は嫌がって撤去を求めているが、設置団体は動じず各国に設置する運動を続けている。

 この椅子に腰かけた少女像は写真で見る限りではそれほど変な像と思わないが、日本側は慰安婦像の背後にある歴史の事実を隠そうとしていて、国内の世論工作も活発で、先だっては名古屋で開催のトリエンナーレで都合の悪い展示物の阻止に成功している。

 

このように躍起になっているのは先の戦争責任に対して真剣に向き合わず、『大東亜戦争』などと呼称して正当化したい今の安倍を頂点とする似非右翼連中だが、事実は事実として受け入れないと問題は解決に至れない。

 この慰安婦像がフィリピンにもあって、しかも3体造られていたことはフィリピンに長く住む小生でも最近知ったから、日本国内ではもっと知られていないことであろう。

 フィリピンの3体は韓国で知られた椅子に腰かけた像ではなく、それぞれデザインと製作者が違っているのも初めて知ることだが、この3体の内2体が設置後に撤去されていることに驚かされる。

 最初の慰安婦像は2017年12月8日にマニラ湾沿いの遊歩道上に設置されたが、2018年4月に台座事撤去されたが、この設置に関してはフィリピン国内で碑や像を設置する役割を担う政府機関「国家歴史委員会」も関わり、管轄するマニラ市も許可を出していた。

 ところが設置後にフィリピンを訪れる自民党議員、例えば最初の女性首相候補と名前の出る野田聖子など多くがフィリピン政府に抗議をしたために、ある日突然台座ごと撤去された。

 恐らく日本の政治屋連中は安倍の意を汲み、フィリピンに対する莫大なODAを持ち出して威圧し、任期中に巨大プロジェクトを引き込んで手柄にしたいドゥテルテは日本のODA資金欲しさに撤去に動いたようだ。

 中国を侵略した日本陸軍は大陸で『殺し尽くし・焼き尽くし・奪い尽くす』のいわゆる『三光』を尽くしたが、それがこのフィリピンでも行われていて、性被害も無数に発生している。

 その歴史の事実に黙殺できなくなった日本は『強制慰安婦』に対して民間で『アジア女性基金』が設立され、6億円の寄付を集めフィリピン、韓国、台湾の元慰安婦に『償い金』という名目で補償をした。

 フィリピンでは元慰安婦の女性ら211人に対して1997年から支援、支給を行うが、この事業は日本政府が主体でなく日本は反省をしていないとの批判があり、償い金を受け取らない人々が政府に謝罪を求めているのが慰安婦問題の根といって良いであろう。

 第2の慰安婦像は2018年12月に首都圏に近いラグナ州サンペドロ市にあるキリスト教系の老人介護施設内に設置されたが、僅か2日後に撤去され、この像は韓国で設置されている椅子に座る少女像であった。

 撤去理由は詳しく伝わらないが、韓国側と設置市の市長同士は友好都市関係にあってその後見解に違いが生じて撤去に至ったというが、たった2日では何かあったなと勘繰らざるを得ない。

 3番目の慰安婦像はイロイロ島北西端にあるアクラン州マライ(人口6万人弱)という町に建っていて、他の像と違う2人が立って寄り添うデザインで、現在も健在らしいが詳しいことは分からない。

 このマライという町はフィリピン有数の観光地である『ボラカイ島』へ渡る窓口であり、ボラカイ島は韓国人と中国人観光客が国別では多数派を占め、それがこの地に像を設置する理由があるのかも知れない。

 さて、フィリピン人美術家が製作し、撤去された第1の像はその美術家のアトリエで保管されていたが、その像をマニラ市にあるバクララン教会敷地内に再設置する話が進んでいた。

 台座が完成し、いよいよ像を作家のアトリエから移すという段になって、この像がアトリエから姿を消していることが8月17日に分かり、製作者は何者かが盗んだとして警察に被害届を出している。

 しかし何百キロもの重量のある像を持ち出すには組織的に盗んだとしか思えないし、或る日忽然と消えてしまったような製作者側の説明も腑に落ちないが、政府関与が浮上している。

 製作者は何者かによる脅かしを受けている模様で口を開かないが、脅迫=銃による殺害に直結するフィリピンなので、結局は有耶無耶になって事件解明は難しいのではと見られている。

 そのため、8月25日に像を設置して除幕式を行う予定であったバクララン教会は台座のみで除幕式を行ったが、その碑文には『第2次世界大戦中の軍による性奴隷と暴力の被害者を記憶する』と英文で書かれていて、日本への誹り、批判など一文字もない。

 このバクララン教会は日本大使館から1キロほどの距離にあり、マニラ国際空港にも近く、マニラ最初の軽量鉄道路線の終点でもあり、最近空港方面へ延伸するプランが日本のODA資金で決まっている。

 像が何者かに盗られたことについて、バクララン教会はドゥテルテによる『違法薬物容疑者抹殺』政策を強く非難していて、また日本の雪崩のような紐付きODAが次々と決まる中、日本側の機嫌を取りたいドゥテルテ側が『忖度』したのではないかとの話が浮上している。

 何れも憶測でしかないが、何でもありのフィリピンではどれが本当でどれが嘘なのか分からない。


 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2019, 18:23
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フィリピン・よもやま帖 2019 その−(10) 36年前にあったマニラ国際 空港での暗殺事件

 かつての日本は祝日の休日は、その休日が日曜日に重なってもお構いなしで、祝日は固定され、例えば週の半ばの水曜日辺りに祝日が当たってしまうと間の抜けた週になってしまったが、週休2日など夢にも思わない時代で問題はなかった。
 

【セブの守り神といわれるサント・ニーニョ像】


 それを2000年になって法律を制定して祝日が日曜日に当たってしまう場合、月曜日に祝日を移せるようにして、土曜、日曜、月曜と連休になるようにした。

 そのため1月の祝日として成人式は昔から15日と記憶していたが、今年は1月14日の月曜日となっていて、来年2020年は13日の月曜日と日替わり定食のような有様で(この場合は年替わり定食というべきか)、ご都合もいいところ。

 一方、フィリピンの場合、祝日と祭日、休日が入り混じっていてかなり分かり難いところがあり、ナショナル・ホリディーとして固定した休日はあるが、そこへ祭日による休日、突然の大統領の気分次第で休日になる日、また、地方自治体など地域が設ける記念日による休日と入り乱れている。

 このため、企業の労務と経理は大きな影響を受けその対策に頭を悩ますが、工場など連続の操業が必要な企業では休日でも従業員を働かせるようになるが、この場合、フィリピンでは休日出勤として通常賃金の2倍を払うようになっている。

 これは国の休日の場合であって、突然の休日や地域の休日に働いた場合は確か3割増しと聞いている。

 国による休日なのか単なる休日なのかで賃金計算が違うために混乱が生じ、国はいちいち今度の休日は働いたら2倍になるとか、通常の割り増しで良いなどと広報をしている始末で徹底さに欠ける。

 ちなみに日本の場合、休日出勤の賃金規定には法定休日(国の祝日)と法定外休日に区分され、法定休日は通常の1.35倍の割り増し、法定外休日は1.25倍とありフィリピンの2倍というのは際立っている。

 ただし、フィリピンの場合、法定最低賃金さえ満足に払わない所も多く、本当に休日出勤したら2倍支払われているかどうかは不明で、遵守しているのは外資系企業に限られるのではないか。

 この休日に働くことで思い出すのは、その昔フィリピン人工員に出荷の関係でクリスマスに働かせたことで、その時は一人一人了承をもらったが、さすがに1年で最も重要なクリスマスに働かせるには気が引けて、その時は通常の3倍の賃金を出した。

 希望者はいないのではと思ったが、ほぼ全員出勤してくれて無事にその日の飛行機で出荷することができ、フィリピン人でもクリスマスといえども事情次第では働いてくれるのだなと思った。

 さて、標題に戻るが、今から36年前の1983年8月21日、マニラ国際空港でアメリカ亡命から帰国した元上院議員のニノイ・アキノが搭乗していた飛行機から降ろされタラップ上で銃撃を受け死亡した事件が発生した。

 その時、小生は東京の実家のテレビで事件を知ったが、最初に思ったのは独裁者マルコスの仕業であり、この事件の真実の解明は成されず闇の中に葬られると思ったが、 実際、この事件は多数のジャーナリストやカメラ・マンが飛行機に同乗しているのに関わらずその瞬間は明らかにされず、暗殺側の描いたシナリオで終わってしまった。

 しかし、この暗殺を契機とした反マルコス運動のうねりが高揚し、1986年2月の大統領選に対抗馬として立った未亡人のコラソン・アキノの大統領誕生へと繋がった。

 ニノイ・アキノ暗殺の翌年に小生は仕事で初めてフィリピンへ渡り、1986年のアキノ大統領誕生の瞬間、エドサ通りやマルコス一族逃亡劇をケソン市の友人宅で体験し、そのことは都度書いている。

 しかし、あれから36年が経って、石もて追われたマルコス一族とその取り巻きは完全に復権していて、フィリピン人は歴史を学ばない、あるいは忘れ易い国民性なのかと思ったりする。

 先の戦争でフィリピン国内で暴虐の限りを尽くした日本に対して『許しはするが忘れない』と印象的な言葉を残す国民だが、どうもマルコス一族に対しては『許しもするし忘れもする』といった状態になっている。

 こういった現象はマルコス時代を知らない世代が増えたためであり、マルコス側のSNSなどによる印象操作が挙げられていて、実際、フィリピンの平均年齢は日本のほぼ半分の24歳というから、マルコス時代の圧政など遠い昔の出来事になっているのかも知れない。

 今、日本と韓国は険悪な関係になっているが、これは一口にいえば安倍の『ニセ右翼』と文の『ニセ左翼』を抱く日本と韓国の政治指導者のスタンス問題に尽きるのではないか。

 それにしても戦前の日本による韓国の植民地化は誤っているが、その後の流れというのはどちらも反日、嫌韓という言葉で象徴されるように異常な関係が続いている。

 植民地としてはフィリピンはスペインの植民地支配400年、アメリカの植民地支配50年の歴史を持つがスペインに対しては批判するどころか、スペイン系の血を引いていると自慢する風土、アメリカに対しては憧れ、移民の第一人気国となっている。

 そういった観点から日本の韓国への植民地支配というのは恨まれるだけで、中国に対する侵略と同様に、よほど日本人は酷いことを両国にしたのかと考えざるを得ない。

 それにしても韓国の反日騒ぎは異常さを感じ、辛さを好む国民性といってしまえばそれまでだが、日本も韓国も元を正せば親戚のようなもので今の騒ぎは馬鹿らしく、この騒ぎで利するのは北朝鮮だけである。

 さて、ニノイ・アキノが暗殺されたマニラ国際空港はその後『ニノイ・アキノ国際空港』と改称されたが、政治家の名前を公共物に命名する私物化の何物でもなく頭がおかしいとしか思えない。

 そういえば海軍神風特攻隊と縁があり、ヴェトナム戦争当時極東最大のアメリカの空軍基地であったクラーク飛行場がアキノ(母)政権時代に返還され、民間空港となり、国内、国際便が就航するようになった。

 このクラーク飛行場を元大統領アロヨ(第14代)の時に、アロヨの父親(第9代大統領で再選をマルコスに阻まれる)の名前を空港に付けたが、いつの間にか今はクラーク国際空港と名前が戻された。

 その経緯は知らないがそれが良識と思え、この間行ったダヴァオ国際空港も別称があるようだが、今のドゥテルテが引退後には偉大なる功績者としてドゥテルテ国際空港と命名されるのではないか。

 最後にニノイ・アキノが暗殺された日を記念して『ニノイ・アキノ・ディー』と休日になっているが、小生などすっかり忘れていて、この手のことなどどうでも良い生活になっているなと感じている。


 

author:cebushima, category:フィリピン・よもやま帖 2019, 17:27
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