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へそ曲がりセブ島暮らし2019年 その(12) 2月28日のマダガスカル

 前掲した(11)では幻となった台湾旅行のことで鉄道について触れたが、その中でアフリカ大陸の西方にある島国マダガスカルで鉄道に乗ったことを書いた。

 このマダガスカルには16
世紀に成立した『メリナ』と呼ばれた王国があって、19世紀に入った1897年2月28日、フランス軍がマダガスカルを制圧して 王国最後の国王を退位させて近くのレ・ウニオン島に島流しにした歴史を持つ。

 マダガスカルもレ・ウニオンにも1980年代終わりに訪れていて、今となっては再訪は敵わない中、過去にも書いていて内容は重複するところもあるが、その思い出話を改めて綴りたい。

 マダガスカルを島国と書いたが、島としては世界で4番目に広い面積を持ち、58万7千平方キロ余あるから北海道以下4つの島と群小の島で成り立つ日本と比べると1.6倍も広い。

 また、マダガスカルの成り立ちはアフリカ大陸から1億3500年前に分離し、8800万年前にインド亜大陸と南極大陸に分かれて形成され、他との行き来が絶たれた島なので、動植物に固有種が多いとされる。

 マダガスカルへの旅は当初予定にはなかったが、モーリシャス滞在期間中に旅行会社経由でヴィザを申請すれば数日で取れるので、急遽予定を変更した。

 ただし、この時の持っていた飛行機のチケットはケニアのナイロビからモーリシャス−レ・ウニオン−セイシェル−シンガポール−バンコク−成田となっていて、マダガスカル行きの便は新たに追加購入する必要があった。

 このチケットはレ・ウニオンからマダガスカルへ行く便があったのでレ・ウニオンで購入するが、現地の航空会社窓口へ行ってもクリスマス・シーズンに引っかかって満席であった。   

 その航空会社のロビーで途方に暮れていると呼ばれて『ファースト・クラスをエコノミー値段で売るからどうか』と聞かれ、一に二もなくすぐ購入したが、これが後にも先にも飛行機のファースト・クラスに乗った体験となる。

 乗った飛行機はマダガスカル航空のジャンボ機で、通常ファースト・クラスは最初に搭乗案内され、小生はそれが分からず普通に並んで搭乗したが、チケットを見た係員がびっくりした顔をしたのを覚えていて、どう見てもファースト・クラスに搭乗する客に見えなかったのは確かである。

 1時間少々の飛行時間であり、贅沢な気分を味わうには短かったが、機首の窓際に席に着くなりオードブルとワインはどうですかと係員が来たのがエコノミーと違っていた。

 雨季の頃なので機外眼下は雲がびっしりと覆っていて景色は見られず、夜の雷鳴轟く大雨の中をイヴァト国際空港に到着するが、空港以外は停電の真っ最中で真っ暗。

 そんな中、首都アンタナリボまでタクシーで行くが、マダガスカルはフランス語圏であり、英語はともかくフランス語の分からない小生がタクシーを交渉して良くぞ行けたと思う。

 しかも宿泊先は決まっていなくて、ナイロビでヒルトンがあると記憶していてこの状況ではケチってもしょうがなく『ヒルトン、ヒルトン』と連呼したのが良かったのか土砂降りの中、真っ暗なアンタナリボのヒルトンに到着。

 もちろん、次の日には安いホテルを見つけて移ったが、このヒルトン、現在も営業していてその写真を見ると泊まった時の建物であったかどうか室内インテリア共に全く記憶に残っていないが、最近の写真では高層のビルになっているから、新しく出来たようだ。

 首都アンタナリボは標高1200m以上の高地にある首都で、先述したようにフランスの植民地であったために、街の中にはヨーロッパで見るような古い建物が残っていて、特に中心部の坂に白いパラソルが連なる市場風景は今でも目に焼き付いている。

 フランスの植民地になる前はイギリスの影響もあり、モーリシャスがイギリス領であったようにマダガスカル以下インド洋の散らばる島々はフランス、イギリスの覇権争いが激しかった地域でもある。

 マダガスカルというと赤茶けた大地に生える『バオバブの樹』が知られるが、バオバブはアフリカに住んでいた時にたくさん見ていたので珍しさは感じなかったが、『旅人の樹』が数多くありその独特な樹形は印象深かった。

 旅人の樹は椰子の木の様な幹を持ち、上部にバナナの葉と似たような葉を扇状に広げる独特な姿を持ち、極楽鳥科に属しフィリピンでも目にすることがあり珍しいものではないが、そういえばマダガスカル航空の尾翼に、旅人の樹をデザイン化した絵が描かれている。

 アンタナリボから西海岸の港町トアマシナへ向けて鉄道が走っていて、古い造りの中央駅に行ったもののその日はチケットが手に入らず、翌日分の列車のチケットを買うが、やはり駅員はフランス語対応であったが、行き先は終点であったので問題なく買えた。

 次の日の朝、車両は年代物ながら遅れもなく発車したと記憶するが、運賃は高くなかったので一等車に乗るが、列車は徐々に標高を下げながら山間を走り、それに連れて車外は湿気が多く霧のような中、旅人の樹が群生する様子は幻想的でもあった。

 途中湖で有名な駅に停まって、ヨーロッパから来た旅行者はだいぶ下車したが、その後平地を走りトアマシナへ着いたのは午後もかなり遅く、しかもかなり強い雨が降っていた。

 トアマシナはインド洋に面するマダガスカル最大の港を持つ港町だが、港以外は古い街並みが連なっていて、駅を降りて近寄って来たのは『人力車』で、言われるままに乗って雨の中を港近くまで行くが、大雨の中裸足で人力車を引っ張る様子には何となく気が引けた。

 港は拡大中で、割合大きな貨物船が沖泊まりしていたが、トアマシナの港には近年になってフィリピンの大手コンテナ操業会社が進出しているというから、小生が見た当時とはかなり様変わりしたのではないか。

 トアマシナには二泊したと思うが、特に強い印象を持たずにアンタナリボに向けてトアマシナから同じ列車に乗って戻るが、帰りの鉄道の旅は早く着けば良いと思った程度で特に記憶に残っていない。

 アンタナリボに戻って安いホテルに泊まり、その次の日に国際空港からモーリシャスへ向かうが、この時はエコノミー・クラスであり、モーリシャスに泊まった後に次の目的地セイシェルへ向かった。

 

 こうして恐らく最初で最後となるマダガスカルの旅は終わったが、マラガッシーと呼ばれるマダガスカル人はアフリカ大陸の人種とはかなり違い肌は浅黒く、これはアジアのマレイ系の人種の影響があるとされ、太古の時代には双方で海を通じて行き来があったとされている。
 

 その後東南アジアの国を旅行して、マレイ系の人々の容姿を目にするとマラガッシーと良く似ているなと思った。
 


 

 

 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2019, 20:00
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へそ曲がりセブ島暮らし2019年 その(11) 今頃は台湾を旅行している予定であった

 台湾へ今年2月下旬に一週間ほど家人と旅行へ行く計画を半年以上前に立て、飛行機のチケットを早々と購入していた。

 今までセブから台湾へ行くにはマニラで乗り継がなければならなかったところ、最近セブと台湾・桃園国際空港の間で直行便が就航し便利になった。

 そこでまだ行ったことのない台湾へ行こうとなったが、半年先の予定など分からないもので、日程の都合が悪くなって旅行を取り止める羽目になった。

 この台湾旅行が予定通り実施していたら、今日は台湾の名峰、阿里山(標高2663
m)の登山鉄道に乗って阿里山見物をしていたなと、負け惜しみのようにこの拙文を綴っている。

 台湾へ行くのは初めてと書きたいが、1990年代に仕事で羽田から香港へ行く時に乗った便が台湾の台北空港で乗り継ぎとなっていて、台北までは問題なく飛んだが、台北からの香港行きの乗継便が欠航してしまい、次の日まで代替便はなかった。

 この場合、航空会社の責任で次の日の搭乗便に備えてホテルを用意をするが、空港外のホテルへ行くには当然台湾の入国手続きをするために、入管に連れて行かれると思っていた。

 ところが航空会社の係員の案内するままに空港内を進み、とあるドアーを通るともうそういった手続きのする場所は通り過ぎていて、空港ビル前に停まっていたバスに乗るように促された。

 手続きしないで大丈夫かと思いながらも、バスは夜の台北市内を走りホテルへ到着したが、そこが台北市内のどの当たりか分からず、ホテルへチェック・インを終えると航空会社の係員から『入国手続きをしていないので、今夜はホテルから出ないでください』と注意を与えられた。

 今となっては名前は覚えていないが、中級のホテルで繁華街には近いような感じがあって、見張りがある訳でなく出入りは簡単と思ったが、さすがに疲れていたのでその夜はホテル内で食事をして眠りについた。

 あくる日、迎えに来たバスに乗って台北空港に行くが、空港ビルに入っても入管の脇にある通路から入り、そのまま香港行きのゲートに向かった。

 そのため、通常押される入出国のスタンプ記録はなく、台湾に一泊した痕跡はパスポートには一切残っていなくて、これで良いのだろうかと思いながら便に搭乗したが、厳格であるべき出入国管理も状況によっては緩い方法を取っているのだなと意外な一面を体験した。

 

 さて、幻の台湾旅行となってしまったが、主目的は台湾を反時計回りに一周することで、しかも鉄道を利用して回る計画であった。

 台湾は日本の九州ほどの面積だが海岸沿いに鉄道路線が走り、しかも台北から高雄まで新幹線が走っていて一週間ほどの日程ではあまりゆっくり出来ないが、鉄道好きには人気のある国となっている。

 小生は鉄道マニアというには少々弱いが、子どもの時から鉄道は好きで、かつて東京と大阪を結んでいた各駅停車の夜行列車に乗車しているし、東京から鹿児島まで各駅停車を乗り継いで行った経験を持つ。

 また、海外に出た時も現地の鉄道を利用し、これまでアフリカのザンビア、マダガスカル、ヨーロッパではドイツ、イギリスの鉄道を利用し、アジア地域ではフィリピン、タイ、マレイシア、ラオス、ヴェトナム、シンガポール、韓国、中国で乗車している。

 

 どこの国でも印象深い体験を持ち、ザンビアでは1980年代に乗っているが、時間通りに走らないのは当然としても丸1日駅で待たされたことがあって、当時のザンビアの国情から考えれば鉄道が走っていることだけでも奇跡のような状況であった。

 もう一つ、アフリカではマダガスカルの鉄道だが、首都アンタナリボから東海岸の港町トマシナへ抜ける路線があって、こちらも1980年代末に乗車するが、アンタナリボは標高1300m近く、そこから海岸へ降りる路線は植物相の変化が大きく目を楽しませた。

 

 フィリピンでは1980年代前半に唯一走っていたレガスピ−マニラ線に乗っているが、当時レガスピで有名な活火山マヨン山の噴火の影響で、列車はレガスピ手前から発車していたが、それが分からず実際に乗車するまで大変であった。

 乗車した列車は夜行なので寝台車の切符を取ったが、線路の保守が悪く車両は前後左右に揺れて寝台に横になると放り出される始末で、這う這うの体で座席車に移ったが、あの揺れでは誰も寝台車に乗客がいないことがようやく分かった。

 夜行列車の窓には投石除けの金網が張られ、車両の片隅に裸電灯がぶら下がっているだけで、トロトロと暗い中を走る様子は侘しさを感じさせたが、既にフィリピンはバス移動が主流になっていて鉄道利用者など少なかった。

 

 それでも早朝にマニラに近づき人家密集地帯を走り、終点に近づくに連れて人家の軒先が列車すれすれに迫り、その中をノロノロ走る列車の様は正にフィリピンを象徴していると痛く感じたが、今も鉄道沿線は同じような状況という。

 このように時代に取り残されたようなフィリピンの鉄道だが、大量輸送システムとして鉄道が見直される時代になって、首都圏では次々と軽量鉄道が敷設され、最近では首都圏と北部クラークを繋ぐ鉄道が日本のODAで本決まりになった。


 また、ドゥテルテ大統領の大風呂敷巨大インフラ整備の中で、ミンダナオ島に鉄道を敷設する計画が打ち立てられ、中国の資金で動き出しているが、造っても経済効果や保守、管理が重要な鉄道を維持出来るか疑問符が付けられている。

 これなど、かつて日本の鉄道事業で政治屋が動いた『我田引鉄』と同じで、3年後にミンダナオを地盤とするドゥテルテの任期が切れ退いたら雲消霧散するプロジェクトになりそうだ。

 さて楽しみにしていた台湾の鉄道は日本が植民地支配していた時代に敷かれているために、鉄道の運行、管理、保守は日本に準じていると言われ、しかも植民地時代の駅や鉄道がかなり残されていてその面でも楽しみは多かった。

 先述したが、阿里山の登山鉄道なども珍しく、是非とも乗車したいと思ったが、この路線、台風で被害を受けて一部不通になっているし、今や観光路線となっていて休日以外は運行も不便になっている。

 台湾鉄道一周は台北から新幹線で阿里山の登山鉄道が出る嘉義まで行き、嘉義からは古都と知られる台南市、港町の高雄市と鉄道を乗り継いで南下し、台湾最南端を目指すが、最南端へは最寄りの駅からバスで向かうようにしている。

 この最南端を目指すのは、先年フィリピン最北にあるバタネス諸島を訪れた時に、フィリピンの有人島としては最北になるイトバヤット島を目指したが、この時は天候不順で島へ渡ることは出来なかった。

 

 イトバヤット島の先は台湾との領海境になり、その意味で台湾最南端へ行ってフィリピン方向を見れば双方の境を見たことになり、単純と言えば単純な動機がある。

 その後、今度は東海岸沿いに北上し、台東市沖合にある緑島へ渡り、台湾の島の風情を味わい、また台東に戻って花蓮を経由して、今度はやはり港町として知られる基隆へ行き、台北に戻るようになっている。

 台湾は食べ物が美味いし、また夜市と呼ばれる屋台通りも各地にあり楽しみにしていたが、またの機会を待つしかない。


 

 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2019, 19:42
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へそ曲がりセブ島暮らし2019年 その(10) マルコス一族の2月25日と今

 今年の5月13日(月曜日)にフィリピンは、正副大統領を除く上下院議員、自治体首長、自治体議員の選挙が行われ、全国区の上院議員と政党別比例選出下院議員は投票日3ヶ月前に入ったので選挙戦が開始されている。

 ただし、選挙運動が解禁されていない各種議員や首長候補者も便乗して選挙運動を大っぴらにしていて、街にはそういった違反の候補者写真と名前を書いた幕や看板が大量に溢れている。

 こういう違反には選挙管理委員会が取り締まると警告を出しているが、本気で取り締まる気は全くなく野放し、候補者陣営も金に任して売名をしその恩恵を受ける、選挙関連の業界は特需景気。

 何でもありのフィリピンだが、1986年2月25日にフィリピンを逃げ出したマルコス一族の復権が目立ち、3年前にあった副大統領選ではマルコスの長男が立候補し僅差で落選したが、復権を確実にした。

 マルコスの独裁時代など知らない世代が多くを占める時代のためもあるが、あれほど石もて追われたマルコス一族の人間がそこまで行くのかと驚いたし、フィリピン人というのは日本人同様に忘れっぽいと思った。

 マルコス一族はルソン島の西海岸最北端にある『北イロコス州』出身で、この州はルソン島でも貧しく、今ではフィリピンの国策となっている貧しいが故の『海外出稼ぎ』はこの州から始まったと言われている。

 また、南北イロコス州地域に住む人々は『イロカノ人』と分類され、男は色浅黒く精悍な顔をしているために首都圏で警備員に重用され、確かにこの地方を旅行するとフィリピンの中では雰囲気が違う感じを受ける。

 ルソン島は南北に長いために地域に住む部族によってその気質は違い、『ビールの入ったグラスに蠅が入ったらどうするか』という有名な地域気質を物語る例え話がある。

 この例え話は『イロカノ人は蠅を取り出しその蠅を絞ってビールを飲み、タガログ人はグラスから蠅を取り出して飲み、ビコール人はグラスのビールを捨てる』とある。

 タガログというのは首都圏地域の部族だが、政治や官界に昔から強く、フィリピンはタガログの国だと思っていて尊大だと批判されるが、歴代大統領もタガログ族出身者が多い。

 またフィリピンの公用語として『ピリピノ語』を定めているが、これはタガログ語を改めた言語でありながらテレビでも映画を通じてタガログ語の浸透は激しく、各地方の固有の言語を持つ部族からは不承不承という感じで国内を席巻している。

 ビールの中の蠅を絞って飲むイロカノは貧しいが故の吝嗇、タガログは実利故の気取り屋、ビコール人というのはルソン島南部地域に住む部族で、ビコールは後先考えない見栄っ張りという解釈になる。

 さて、マルコス一族に戻るが、2月25日にアキノが大統領就任宣言をし、マルコスは当時のアメリカのレーガン政権に見放されて、マラカニアン宮殿から脱出をし、無政府状態になった宮殿に人々が押し寄せて略奪があり、イメルダの靴が数千足あったなど豪奢な生活ぶりが暴露され、世界的なニュースとなった。

 

 イメルダは当時首都圏開発の閣僚級ポストに就き、同庁主催の何かのパーティーがあり、小生が属していた組織にも招待状が来ていたが、小生など野次馬でイメルダと話をする機会になると思ったものの、既にイメルダの悪名は鳴り響いていて喜んで出席する者はなかった。

 

 このイメルダ、ハワイに一族で逃亡後にいつの間にかフィリピンに帰っていて、北イロコス州で復活し、現在は同州選出の下院議員となるが、上下院議員を通じて最高齢という存在で老醜を晒している。

 

 この北イロコス州の知事はイメルダの娘アイミーが長年座を占め、次のステップとして今年行われる上院選に立候補し、今のところは12人が当選する圏内に入っているというから、マルコスの威光はいまだ健在である。

 

 アイミーの空いた知事の座はマルコス一族の者から出し当選確実になっているが、こういった一族が地域の政治の座を延々と座り続ける構造をフィリピンでは『政治王朝』と呼んでいるが、民主主義を標榜するフィリピンでもその実態は北朝鮮と変わらない政治体質が続いている。

 

  こういった政治王朝が起きるのも政治に関わると『利権』を得られるためで、これは中央も地方の区別なくそこから入って来るリベートなどが王朝の成立と成長を助けている。

 

 マルコスの場合、従来不確定であったリベート率を動く金の額によって決めていたとの話があり、賄賂を贈る方としては交渉に時間を取られなく早く決まると好評で、これは日本政府が絡むODAでも同じで、日本の税金がいくらマルコスの懐に入ったか分からないが巨額であることは間違いない。

 マルコスの賄賂額で有名なのは『バタアン原発』プロジェクトがあり、このプロジェクトはほぼ完成していたが、マルコス逃亡後はアキノによって凍結され、世界で唯一完成したが稼働しない原発として有名となっている。

 

 このバタアン原発は当時の金で6000億円近くかかっているといわれ、マルコスは少なくても10%程度のリベートを懐に入れていると見られ、そうなると600億円になり、マルコスが国の金を盗んだと言われる指摘は的を得ている。

 

 こういった不正に溜め込んだ金はスイスの銀行口座に預けられているために全容解明は難しいが、それでも一部は裁判の末明らかになっていてその額は1000億円を遥かに超えている。

 

 こういった回収された資金はマルコス独裁政権時代に弾圧され、殺された遺族などに分配されるように法制化されているが、具体的に補償されたという話を聞かず、不正蓄財を取り上げられたマルコス側も謝罪はおろか支払う気もない態度を表明している。


 マルコスの弾圧時代に検事に任官したのが現大統領のドゥテルテで、当然、ドテルテはこの時代に人権侵害を受けた容疑者を取り調べ、起訴を行いマルコス独裁体制のお先棒を担いだと思うが、検事時代のドゥテルテのマルコス体制への加担を暴かないのか暴けないのかフィリピンのマスコミも沈黙を続けている。

 ドゥテルテは常々『マルコスには恩義がある』と公言し、その意味するところは不明であるが、ハワイで亡くなり北イロコス州に安置されていたマルコスの遺体を国立の英雄墓地埋葬を許可している。

 

 マルコスの遺体を英雄墓地に埋葬する問題は歴代政権の課題となっていて、ドゥテルテ以前は埋葬許可を出さなかったが、これが簡単に埋葬されたためにドゥテルテの選挙資金はマルコスから出たとの噂も流れた。

 フィリピンの正副大統領選は通常組んで選挙戦を戦うが、ドゥテルテの場合は首都圏タギッグ市に政治王朝を築いている一族の人物と組んだが、先述の次点になったマルコスの息子に次ぐ3位となり惨敗。

 この人物、上院議員で姉も上院議員でこの姉は割合人気が高く、2期上院議員を務めた後に規定で連続3選は出来ないので、地元のタギッグ市選出の下院議員に1期席を置いて今度の上院選に復活を狙って立候補し、当選は固いとされる。

 さて副大統領選に落ちた弟は1年後、ドゥテルテによって外務長官に任命され1年半ほど在籍するが、あからさまな救済人事と批判されるもののドゥテルテも当人も平然としていて、これ位の厚顔でないと政治屋は務まらない。

 そのドゥテルテ、選挙後に僅差で負けたマルコスの息子と本当は組んで選挙を戦いたかったと発言し、やがて副大統領に当選した野党のロブレドを閣内から追い出し、フィリピンの政治は理性より怨念が渦巻いていると印象付けた。


 
author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2019, 01:45
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