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へそ曲がりセブ島暮らし2019年 その(4) 大坂なおみとテニス

 日本のテニス選手が世界四大大会の内、全米、全豪の二大会を制するなど誰も想像できなかった時代にテニスを始め、セブに来てからもフィリピン人コーチに教えてもらった小生だが、今は全くテニスから離れラケットだけがトイレの壁にぶら下がっている。

 フィリピン人コーチと書いてもその辺の通りを歩くようなT
シャツに短パン姿、しかもゴム草履履きで大丈夫かなと思うようないで立ちだが、テニスの技は滅法巧く、小生の注文通りの球を打ってくれて、勝負をしてもとても勝てない腕前であった。

 当時のセブのテニス事情は、やはり金持ち連中の趣味になっていたが、ゴルフよりは遥かに少ない競技人口で、公共のテニス・コートなど簡単に使うことができたが、オジサン連中が多く強い日差しのフィリピンでは女性には人気がなかった。

 テニスの記憶をたどると、小学生の頃に遡り、日曜日の午前中に仲間と小学校の校庭に野球をやりに行くと、校庭中央でテニスをやっている大人たちが居て、それが終わるまで待たされた。

 この大人たち当時の小学校のPTA
会長の趣味がテニスであり、そのPTA会長の趣味に合わせてコートを造ったようで、今だったら私物化と批判を浴びるが当時はそんなものにクレームを入れるような時代ではなかった。

 PTA会長たちがやっていたのは軟式で、時々こぼれた球を拾って投げ返すが、ずいぶん軽いゴムまりだなと思ったが、当時の日本は軟式テニスが全盛で後に硬式ボールを手にした時はずいぶん違和感を覚えた。

 野球をする場所を取られたという印象があったから、テニスには好印象を持たず中高とテニス・クラブがあっても関心は持てず大人になるまでテニスとは縁がなくて、30代になって区の広報で硬式テニス教室があるので友人と申し込んで始めたのがテニスとの直接の出会いであった。

 多分、当時の日本は何かのテニス・ブームがあって、それに触発されてのテニス教室開催だと思い受講者は盛況であったが、ラケットを手にして実際打ってみると見ているほど簡単でないのが分かった。

 結局、そのテニス教室は仕事の関係もあって最後まで出席できず、中途半端に終わってしまったがテニスの面白さは残り、その後先述したようにコーチを付けてのセブで再開となった。

 冒頭で四大大会云々と書いたが、当時の日本の選手は何回戦まで勝てるかという程度で、優勝など夢の夢で、いつの間にか檜舞台で戦える選手が生まれたことには驚きを禁じ得ない。

 大坂なおみという名前を初めて記憶にしたのは2年くらい前で、その時はニュースで負けたという記事で、そういう選手が居たのかといった程度で、演歌歌手のような名前だなとの印象であった。

 やがて大坂は注目されメディアの露出が増えたが、初めて写真を見た時はその容姿に驚いた。アフリカで生活した経験があるから、黒い肌に対しての忌避感は全くないが、名前と容姿が結びつかなかった。

 大坂の父親はハイチ人で母親は日本人で、父親の血を濃く受け継いだ訳になるが、偏見の強い日本での生活は難しく、アメリカに移住してその結果大坂はアメリカと日本の二重国籍者となった。

 

 ハイチというのはカリブ海にある島国という知識しかないが、大きな島の西側がハイチ共和国で東側はドミニカ共和国に分かれていて、このドミニカ共和国には2007年に家人と共に訪れたことがある。

 

 この時はホンジュラスからコスタリカ、ドミニカ共和国の経路を取ったが、ドミニカに行こうと思ったのはヴィザが必要なかったことで、その隣のハイチはヴィザが必要であったし、飛行便の便利さからドミニカとなった。

 

 ドミニカでは首都のサント・ドミンゴとそこからバスに乗ってプンタ・カーナというカリブ海域で有名なリゾート地へ行ったが、欧米人向けのかなり大きなリゾート施設が海岸沿いに並んでいて、3食食べ放題のリゾートを数日滞在したが何となく飽きるリゾートという感じが強かった。

 

 ドミニカ共和国で忘れてはならないのは、1954年から始まった日本人移民政策の失敗で、これは当時の独裁者トルヒーヨ時代から始まったが、日本政府側の拙速、杜撰さからこの移民は苦労を重ねた。

 

 結局トルヒーヨが1961年に失脚して、日本人移民事業は中止され日本人移民は帰国や他の国へ移民するなどとなったが、その日本政府のドミニカ移民事業対応について元移民者から国の責任を問う裁判が提訴されたのが2000年。

 

 裁判は2006年に国側の瑕疵を認め原告側勝利となったが、既に事業開始から20年以上経っていたために賠償権は時効で認められないものの、その後政治決着で一時金が支払われてこの問題は一応解決とされたが、国の無責任ぶりは酷かった。

 

 さて、大坂の二重国籍問題であるが、日本の法律では二重国籍を認めず、どちらか一方を23歳までに決めなければいけないが、小生の見立てとしては大坂は最終的にはアメリカ国籍を選択するのではと思える。

 理由は日本とアメリカの国籍を比較してどちらが今後の選手生活に利が多いかと考えれば、本人の日本への思いは情緒的なものであり、アメリカ国籍の方が絶対有利であることは間違いない。

 

 国籍の問題といえば、2020年の東京オリンピックには大阪がテニス代表で出場する話が流れていて、日本の国籍条項からオリンピック前に国籍を選択しなければならず、どうかと思ったが、オリンピック出場の国籍条項では既に大坂は日本人としてか出場できないらしい。

 

 オリンピックも興行だから都合の良いように運営されていて、プロやアマチュアの制限などほとんどないも同然で、大坂は歴然たるプロ選手であっても堂々と出場できるから本当にオリンピックはご都合だけのスポーツ興行と言って憚らない。

 

 もっとも今やスポーツの世界というのはマイナーな種目を除いて資金力がないと出来ず、アマチュアとプロの区別をする方が時代遅れと言われる時代で、それならば競技をする人間は全員プロ宣言をするべきではないか。

 

 そういった意味では大坂なおみはラケット一本で収入を得るプロ選手であり、その立ち位置ははっきりしていて心地良い存在となる。

 

 大坂の次は全仏オープンになるが、全仏のコートはクレイ・コートであり全米、全豪のコートとは全く違うし、その次のウィンブルドンは芝コートであり同じような調子で連覇するのは難しいとの観測が流れている。

 

 コートに対する好みあるいは得手、不得手は当然あるだろうが、まだ21歳だから前途は洋々たるもので楽しみであることは確かであるが、今回の快挙で落ち目の安倍政権は当然国民栄誉賞授与を考えているのではないか。

 

 今や手垢に汚れた国民栄誉賞などそれほど国民は問題にしていないと思うが、政治屋という連中は国を問わず自己に利益になれば何でも利用、臆面もなくやるからそういう流れは出来ているのではないか。

 


 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2019, 18:08
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へそ曲がりセブ島暮らし2019年 その(3) 1月20日のアメリカ大統領

 昨1月20日、日曜日はセブ最大のお祭り『シヌログ=Sinulog』が行われ、150万人が加わったというが、それはいくら何でも誇大でテレビ中継で祭りの様子を観ていた人も数に入れているのではと思う。

 

 同じ日の同時刻に、ボクシングのパッキャオがラスヴェガスで世界タイトル戦を行っていて、セブの人は年に1度の祭りよりテレビのボクシング中継に関心は高かったのではないか。

 シヌログの発祥だが、セブは航海史に名を残すマゼランと共にカトリックが最初に伝播した場所として知られ、マゼランが持ってきたと伝えられる『幼きキリスト像』を祀る『サント・ニーニョ教会』に縁があり、教会行事としては何週間にも渡って行われている。

 20日は祭りとしては最終日に当たり、『グランド・パレード』といって、市内の目抜き通りを各自治体やグループなどが作ったダンス・グループが工夫を凝らした衣装で練りき、パレードの日は毎年1月第3日曜日と決められている。

 このパレード、年々派手になってそれなりに見ものではあるが、小生がセブへ住んだ1990年代初めは、かなり地味で間延びしたパレードで、それが逆に地方都市の手作り的な祭りという感じがあった。

 シヌログは本来は宗教行事だから教会では昔から行われていたが、今のようなダンス・コンテストやパレードが始まったのはそれほど古くなく、セブに住む人に聞くと子どもの頃はなかったというから、1970年代頃に始まったようだ。

 こういった仮装して目抜き通りでダンス・パフォーマンスを見せる祭りは昔からフィリピン各地にはあったが、とくに有名なのはパナイ島カリボの『アティ・アティハン』で、こちらは現地に住む少数民族の歴史が練り込まれている。

 これを真似したのがセブのシヌログで、観光客誘致で始め今やフィリピンでも最大級の観光客を呼べる祭りとなったから、発案者と育てた人の功績は高い。

 その後、フィリピン各地でシヌログの形態を真似て同じような祭りが起きているが、どこもセブを含めて歴史は浅く、伝統的な祭りという言葉があるが、どんなに古い、由緒ある祭りでも作られた祭りであり最初は新参であり、馬鹿にされるような状態から始まっているから、時間の重味というのは権威付けには最適である。

 地元のニュースではシヌログに150万人と書いているが、シヌログも今や商業主義に染まり、商売の好機となっていて、これはオリンピックやサッカーなどの国際大会も同様で、早く言えば祭りも『興業』の一つでしかない。

 そういった興業に国や自治体が公費をつぎ込むことはおかしいのだが、特に日本人のオリンピック好きは有名で、来年に迫るオリンピックに異でも唱えるものならそういった意見は少数派となり、『国賊』扱い。

 日本人のオリンピック好きはマスコミを通じ仕込まれているから、オリンピックというのはスポーツ興業であるということが分からないし、それに参加しメダル取りに狂奔する選手は芸能人と変わらないということが分からない。

 おりしも2020年東京オリンピック招致に動いた日本の組織のトップが賄賂を贈って工作し、その人物がフランスの司法当局が訴追するのではというニュースが流れている。

 この人物は皇族に繋がるが、一体この人はオリンピックを除いたらどのような仕事をし、どのように生きてきたか世界観のない人物で毛並みと見栄えの良さで権力者の間を渡った人物としか見えない。

 この醜聞で明らかにされたのは、オリンピックも金をいかに効率的にばら撒いて開催地を獲得するかで、これは昔から言われていたことだが、オリンピックが興業と思えば汚い金も綺麗な金もなく、オリンピック招致に動く連中は今更なんだと笑っているのではないか。

 

 そのシヌログの行われた1月20日はあまり話題にならなかったが、2年前のこの日、 アメリカのトランプが第45代大統領に就任し、いつ大統領職を任期途中で放り出すか、危ない危ないと言われながらも、任期4年の半分は持った。

 

 1月20日はアメリカ合衆国憲法修正第20条で、大統領の任期は1月20日の正午に終了すると規定されていて、正午過ぎから次の大統領の任期が始まるが、1937年にこれが初めて適用され、戦時中に4期途中で亡くなったルーズベルトからになる。

 

 アメリカの憲法というのは成文化された憲法としては最古らしいが、かなり修正が時代と共に行われていて、流動性がある憲法と感じるが、そのくらい流動性があるなら市民が銃を持つ権利など憲法を修正して簡単に規制できると思うが、そこが出来ないのがアメリカの病弊といえる。

 

 今一つ憲法に関して書けば、日本の安倍が日本国憲法を変えようと策動しているが、変えることを『改正』とあたかも正しい印象を与えているが、これは『改定』が正しいのではないか。

 

 元々、実態のないものはどちらが正しく、どちらが悪いとかの判断は難しく、それを改正などと印象操作をしているのが安倍自民党で、これをペテンと言っても良く、その観点からアメリカも修正などという言葉を使うことは、同じくあたかも正しい印象を与えるから別の語彙を使うべきではないか。


 さて、1月20日の就任式に関して、以降は戦後最初の選挙で選ばれたアイゼンハワーから始まり、暗殺されたケネディと途中辞任したニクソンのそれぞれの後継大統領を除いて現在に至っている。

 

 この就任式での市民の参加数が選ばれた大統領の人気度を測るらしく、トランプは前任のオバマより遥かに少ない数なのに『数は上回っていた』と嘘をつきまくったのがトランプ政権の始まり。

 

 そのトランプ、何を考えているか分からない状態で世界一の軍事国家を率いている危険性は益々増しているが、最近ではメキシコ国境での『壁』建設予算を巡って民主党と対立し、政府機関は予算が執行できなくて閉鎖騒ぎになっている。

 結局、トランプは内政は全く芳しくなく、内政が思うように行かないと外交に逃げ批判を逸らすのはどこの国の為政者に共通で、トランプは北朝鮮と安倍はロシアに接近して画策しているが、その衣は既に綻びている。

 

 どうして、トランプといい安倍といい、こういう程度の悪い人物が政治を司っていることに日本とアメリカの歴史の奇妙な縁を感じるが、どちらもこの程度の指導者しか生めない国民の同レベルということは言える。

 


 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2019, 18:55
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へそ曲がりセブ島暮らし2019年 その(2) セブで観る平成最後のNHK『紅白歌合戦』

 日本独特の元号はその時代の日本を知るには良いが、西暦という統一されたものを使用した方が簡単、便利で、最近は役所提出の書類でも元号でも西暦でもどちらでも良いのが増えている。

 今年は平成31
年で、5
月からは新しい元号になるため、世の中は平成最後の何とかと謳って殊更に物事を煽って、中には宣伝、商売に繋げていることが目立つ。

 しかし昭和、平成、そして新元号と三つの元号の中で自分が生きてきたことは、明治生まれの人が大正、昭和と三つの元号の中で生き、その感慨を漏らすのと同じなのだなと思えて来る。

 昨年末はパラワン島へ家人と行き、大晦日にセブへ帰り、新年はセブで迎えるはずであったが、帰りの飛行機が機体故障でキャンセルとなり、新年をパラワン島で迎える羽目になってしまったが、その顛末は前回の『へそ曲がりセブ島暮らし2019年 その(1)』に記した。

 インターネットで日本のテレビ番組が無料で観られるが、こういう運営者はどこかで儲けているのであろうと思うが海外に住む身としてはありがたく、新年のある日番組を探していたらNHKの『紅白歌合戦』がアップされていた。

 NHKの紅白歌合戦などもう何十年も観ていないから、平成最後ということもあって視聴するが、一番印象的であったのは出場歌手の多くを知らなかったことで、当然歌う曲名も全く知らずこんな歌が流行っているのかと、その単調なつまらない歌の数々にも驚いた。

 子どもの頃の紅白歌合戦では、NHKのアナウンサーで後に自民党参議院議員になった『宮田輝』を思い出すが、その頃の紅白歌合戦は国民的番組と言っても不思議ではなく、視聴率が今の倍以上80%台を獲得していた。

 宮田輝は足立区出身というのを初めて知ったが、NHKを退職したその年の参議院選に立候補しトップ当選し、連続3期務めるが3期目途中で癌で死亡し、享年68というからかなり若い。

 宮田はNHKの看板番組『のど自慢素人演芸会を利用して日本全国津々浦々に名前と顔を売ったから公共放送の在り方が問われたが、自民党の天下では声は小さく、その後いわゆるタレント候補という連中の先駆けになった。

 そういった時代の紅白歌合戦で一番想い出すのは、母親が正月用のおせち料理を台所で作っていて、時々番組を見ながらテレビと台所を行き来する姿で、今思うとこれが我が家の年越し姿であったなと懐かしく思う。

 何十年ぶりかに紅白歌合戦を観たと冒頭に書いたが、前に見た記憶で鮮明なのは都はるみが『北の宿』を大トリで歌った姿で、この年は何年かと調べたら、第27回の1976年と分かった。

 この年の紅白を覚えているのは友人宅で年越しをしていて、その友人達が炬燵の周りで寝入ってしまい、最後まで起きていて紅白歌合戦を観たのは小生だけで、都はるみの歌う『北の宿』が妙に心に響いた大晦日でもあった。

 

 そういえば、かつてアフリカで暮らした時に、大晦日に紅白歌合戦を聞こうと思って、庭に細い針金を張り、日本から持って行った短波ラジオに繋げて聞こうとしたが、放送は短波ではなく中波であり全く聞けなかったことがあったのも懐かしい。

 

 紅白歌合戦出場は歌を生業とする芸能人にとっては、相当大切になるらしく毎年どの歌手が出場するかしないかと芸能ニュースの話題になるが、関心のない者にとってはどうでも良いことになる。

 

 さて、久し振りに観た紅白歌合戦は今年69回になり、来年は人間でいえば『古希』になるが、かつてはいわゆる歌謡曲を歌っていた出場者が多かったが、今は様変わりし全体的には若者向きの豪華なショーという印象が強かった。

 

 そのため、出場者の名前も曲も全く分からず、こんな曲が日本では流行っていたのかと感じるが、若者向けに演出しても今の若者が紅白歌合戦など観るのかと思うし、だいたいテレビを観ない、持たない人も増えているというから既にテレビの世界も曲がり角の時代なのかも知れない。

 

 さて今年の出場者で記憶に残るのはやはり昔から歌っている人物での中でも『松任谷由美』で、昔から知っている者としては『荒井由実』の方がしっくりするが、最初に歌った曲の『飛行機雲』の歌詞が子どもの命を歌ったことを知った。

 そういった古い歌手の名前しか知らず、かつて大勢出ていた演歌歌手が少なくなり、ポップス系の歌手が多くなり、また、グループが多いことも特徴的で、名前だけは聞いたことはあるが、その実力は『学芸会』レベルで良いの悪いのという評価以前である。

 こういう個人ではなくグループ、学芸会レベルが日本の芸能界の主流であり、こういうのは勘弁して欲しいと思うが、受け入れる社会、層が同じレベルで動いているから悪くなることはあっても良くなることはない。

 

 そういった白けた目で紅白歌合戦を観ていたが、最後に『サザンオールスターズ』が出演し、出場者を巻き込んで会場を盛り上げたのはさすがと思ったし、桑田佳祐、荒井由実、北島三郎が同じ舞台で歌うなど確かに珍しく、平成最後のお祭りであったことは確かである。

 

 サザンオールスターズは1979年の第30回紅白歌合戦が初出場だが、その頃横浜のヨット・ハーバーに繋いでいたヨットに乗っていて、正月クルージングの用意をしていたらクルーの一人が『昨日の紅白はサザンがぶっ壊した』と楽しそうに話していたことがあった。

 

 どのように紅白を掻き回したのか分からずその話はそれで終わったが、その紅白をぶっ壊したことを髣髴させるのが今回久し振りに観た紅白で、NHKの製作陣もあれほど盛り上がる舞台になるとは思っていなかったのではと思う。

 

 そうして、インターネットの紅白歌合戦を視聴したが、元日から数日経っている夕方であり、実際のテレビでは歌合戦が終わってやがて画面が『行く年来る年』に切り替わり、ああ年が明けるのだなという雰囲気には遠かった。


 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2019, 18:00
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