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へそ曲がりセブ島暮らし2018年 その(110) 11月29日の南極探検

 東京の実家の同じ並び50〜60メートル先に『ミウラ』さんという家があった。庭が木や草花に囲まれて何となく子どもには怪しい感じのする家で、その家には妖怪のような老人が住んでいると子どもの間では有名であった。

 実際、その老人の姿を垣根越しに見かけると目を合わさずにソソクサと立ち去ったが、このミウラ老人、日本で最初の南極探検に参加した人物で知る人ぞ知る人であった。

 

 そういった歴史に名を残す人であったが、そのことを知ったのはだいぶ後で、既にミウラ老人は他界していて存命なら話を聞けたと残念なことをしたと思った。

 1910年(明治43年)11月29日、白瀬矗中尉ら南極探検隊28人が開南丸で東京・芝浦を出港し、翌年の2月にニュージーランド・ウェリントン港に入り、その後南極大陸を目指すが、氷に阻まれて同年5月にオーストラリア・シドニーへ戻る。

 

 この航海に使用された開南丸は3本マストの帆船で、1910年に漁船として造船された船を南極航海のために転用した200トン、全長33メートルほどの木造船だが、18馬力のエンジンを搭載するが、南極の氷海を進むには無理があった。

 

 こういう小さな木造船で南極を目指すのは無謀な計画と思えるが、南極探検のための資金は公費ではなく寄付を募り、それなりに当時は歓迎された冒険であったが、民間資金で費用を賄ったために白瀬矗は生涯借金返済に悩まされる。

 

 白瀬矗は1861年(文久元年)に、山形県の海沿いにある寺の長男として生まれ、1946年(昭和21年)に85歳で亡くなるが、江戸時代に生まれて敗戦直後の昭和の時代に亡くなったことに改めて驚かれる。

 

 白瀬は職業軍人を志し、その最終階級は陸軍輜重兵中尉で、輜重兵というのはいわゆる『兵站』、つまり水食料、武器弾薬、各種機材など作戦に要する物資を第一線部隊に輸送する業務部隊で、陸軍内部では軽んじられていた。

 

 しかし、近代の総力戦ではこの兵站業務が一番大切であり、これを軽んじた日本軍は精神論で戦争を強行し、補給のない部隊は累々と屍を重ねたのが先の太平洋戦争であった。

 

 最近でも1991年にあった湾岸戦争では、まず兵站業務を確立してからアメリカを主体とした多国籍軍はイラクに攻め込んだが、これが近代戦の基本であり、太平洋戦争で日本はアメリカの物量に負けたといっているが、実際は戦闘部隊をどのように支援するかという基本が日本軍にはなかったための当然の帰結であった。

 

 さて、ミウラ老人に戻すが、東京と港区内にある公園に『南極探検隊記念碑』というのが1936年(昭和11年)に建立されていて、その碑に南極に向かった名前が刻まれていて、『第一次南極探検隊参加者』4名の最後に『賄係 三浦幸太郎 25才』がある。

 

 この三浦幸太郎が近所に住んでいたミウラ老人と分かるが、碑に刻まれていた意味だが、南極を目指した開南丸は1911年に氷に阻まれシドニーへ戻ったことは先述したが、この時、探検隊内部に争いがあって日本へ帰った隊員があった。

 

 その時、帰国した中に第一次南極探検隊員として、炊事係であった三浦幸太郎で、三浦は伝わる話では病気で帰国となっていて、その真相はよく分からない。

 

 第一次南極探検隊員というのは南極大陸に上陸する隊員のことで、上陸していたら歴史に残ったが、実際に上陸したのは白瀬以下の第二次南極探検隊員であり、三浦は失意の上での帰国であったかも知れない。

 

 白瀬が南極に上陸した時は30歳で、三浦は25歳、他の隊員の年齢を見ても20代、30代が多く、当時の平均寿命が短い中でも若い人々が中心の探検隊であったことが分かる。

 

 白瀬探検隊は南極に上陸し、奥地へ目指すが途中で断念し、その地点を『大和雪原』と名付け、領有宣言も成されたが、実際は陸地ではなく氷上であったことが分かり、宣言も後に無効となった。

 

 領有権宣言をすることにその時代を感じさせるが、現在はいかなる国も南極の領有は出来ないとなっているが、白瀬が南極に上陸した海岸は後年『白瀬海岸』と名付けられたから、それなりに南極探検史の中では尊敬されているようだ。

 

 白瀬矗個人よりも白瀬の子孫に『白瀬京子』という人物がいて、白瀬京子は日本女性として初めて小型ヨットによる世界一周をした人物としてヨットの世界では知られている。

 

 このヨットは『白鴎』という名前で、全長は24フィートの小型艇、しかも3人が乗り組み、他の2人は男性という組み合わせで1970年(昭和45年)に成し遂げた。

 

 確か南米のマゼラン海峡を通った船としても有名で、航海記なども発表されていると思えるが、まだ目にしていない。

 

 白瀬京子は後年、白瀬の出身地である山形県にかほ市に1990年に造られた『白瀬南極探検隊記念館』の館長に就任する予定であったが、開館直前に54歳で急逝している。

 

 この記念館、黒川紀章による設計で、それだけでも価値はあるが、施設内に実物大に復元した開南丸が置かれているというから、明治の頃の南極へ向かった船がどのような全容であったか見てみたいものである。

 

 また三浦幸太郎に戻るが、三浦は宮城県出身で、南極探検に炊事係として参加しながらもその生い立ち、及びいわば挫折して日本に帰ってからのその後の生涯は一切分からない。

 

 ただし、1967年(昭和42年)に80歳で亡くなっていて、そういえば記憶の底にミウラ老人が亡くなって葬儀が行われたことを母親から聞いたようなことがあり、一帯ではそれなりに有名な人であったようだ。

 

 その後のミウラ老人宅には老妻が住んでいたような気もするが、やがて家、敷地はいずこかへ処分されてあの木々の繁った場所は消滅し、今は他の家が建ち、かつての南極探検の創世記に名を残した人物の名も、時と共に忘れられつつある。

 


 

 

 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2018, 20:00
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へそ曲がりセブ島暮らし2018年 その(109) 11月27日のコンゴ民主共和国

 コンゴ民主共和国(Democratic Republic of the Congo)はアフリカ内陸部にあり、アフリカ大陸ではアルジェリア民主人民共和国に次ぐ面積を持つが、コンゴと名前の付く国は隣にコンゴ共和国(Republic of the Congo)があり紛らわしい。

 

 コンゴ民主共和国になる前の国名は『ザイール共和国』と称していて、こちらの方が分かり易く、小生がアフリカ・ザンビアで暮らしこの国へ行った時もザイールという国名であった。

 

  ザイールへ行ったと書いたが、正確にはザンビア国内を旅行した時、ザンビアからザイール国内を通過して、またザンビアに入っていて、こういう変則な方法を取ったのはザンビアとザイールの国境の接し方から来ている。

 

 ザイールの南西部は舌の様にザンビア側に入り込んでいて、その舌を回り込んでザンビアの北部方面へ行くにはかなり時間がかかるため、特例措置としてその舌の部分をヴィザなしで通行出来た。

 

 その辺りは世界的な銅の鉱床があり、その資源を巡って紛争が常に発生している地域で、ザンビアの鉱山のある町からザイールの舌の部分を横断するが、その時の旅はオートバイを駆って横断した。

 

 アフリカの役人の腐敗は大っぴらで、金で話を付けるのは日常茶飯事で、そういった国の中で評判の悪いザイールの役人相手に、外国人がオートバイで簡単に通過出来るかどうかも興味はあった。

 

 しかし、そういう心配は国境にあるザンビアとザイールの管理事務所でも問題なく、無事に許可されたが、ザイールの役人がフランス語をしゃべっていて、英語圏のザンビアから来た目には奇妙な感じがした。

 

 道路は舗装されていなくて、しかも砂地でその堆積した砂にハンドルを取られながら先を進めるが、時々大型トラックが通過する時は砂埃が舞い上がって視界がゼロとなりしばらく砂埃が収まるまで待機を繰り返した。

 

 途中、ザイール人の集落で休憩を取ったがオートバイに乗った日本人など珍しく、村人にすぐに囲まれたがフランス語と現地語なので会話は成立しないが、一緒に写真を撮ったりしてかなり友好的で、女性は鮮やかな色使いでザンビアよりお洒落と感じた。

 

 そうして、半日くらいかけてザイール地域を横断して、ザンビア側に入るが、この時のパスポートの記載はよく覚えていないが、いわゆるヴィザのスタンプは簡易なものであったような気がする。

 

 その思い出のあるザイールがコンゴに国名を変更したのは1997年だが、そのコンゴで2006年11月27日、ジョゼフ・カビラが大統領に選出された。

 

 ただし、このカビラは父の後を継いだカビラで、父であるカビラは下述するが、独裁者モブツをクーデターによって追い出した人物で、その後やはり長きに渡って独裁体制を布いている。

 

 アフリカ各国は民主とか共和と国名に付く国は多いが、その実態は人民のことなど全く考えていない独裁政権、長期政権がほとんどで、コンゴ民主共和国も例外ではない。

 

 1965年、コンゴ共和国と称していた時代にモブツ商務・雇用・貿易相がクーデターで実権を掌握し、モブツはザイール共和国と国名を変更し、1997年まで長期独裁政権を続けた。

 

 モブツを独裁政権の座から引き摺り出したのがカビラで、カビラは近隣国に支援された武闘解放組織のトップで解放闘争に勝利するが、大統領就任後はモブツ以上の独裁政権を布いたから、圧政に苦しむ人民を解放する名目はありながら、指導者というのはいつの時代でも同じである。

 

 ところがこのカビラは2001年に護衛兵によって撃たれて死亡するが、こういう身内に暗殺される例は政治史の中ではいくらでもあり、近年でも隣国韓国の独裁者、朴大統領が射殺された事件など記憶に残る。

 

 暗殺されたカビラに変わって大統領についたのが長男のカビラで、この息子はコンゴ軍参謀総長の地位にあり、軍の最高幹部に就いているのは親の七光りであり、年齢はしかも30歳であり、権力者に共通する身内、一族優先のために要職に就いていたのが分かる。

 

 しかしながら、カビラ在任中はクーデターなどかなり土台が揺るがされたが、国内の部族対立を上手に利用してカビラ周辺の基盤は固まって行くから、取り巻きが良かったのか運が良かったのかどちらか、その双方であろう。

 

 このカビラ、就任当時は世界最年少の大統領として有名になったが、選挙も経ずに身内でたらい回しの大統領など何の価値もないのは明らかであるが、国内に選挙機運が高まり2005年に国民投票、憲法改定を経て、選挙が行われるようになる。

 

 度々のクーデター騒ぎにもカビラは生き延びて、2005年の大統領選挙では、第1回投票では1位になるものの過半数を得られず、3位の候補者を抱き込んで決選投票に勝利し選挙を経た大統領となる。

 

 また、2011年の大統領選にも出馬し、再選され国内地盤は盤石となるが、2016年に任期が終わってもカビラは居座り、こういうことがまかり通ることがアフリカの現状であるが、一応大統領選を行う流れになるものの今現在、カビラは大統領を名乗っている。

 

 こういう政治も民生も相変わらずのアフリカ諸国であるが、このアフリカに毛沢東時代から援助をしていたのが中国で、中国の力というのはアフリカではかなり強く、最近では豊富な資金力を使って借款事業を進めている。

 

 中国というのは賄賂など当たり前の国で、アフリカの指導者の腐敗体質とピッタリ合って、賄賂込みの事業は破竹の勢いで進んでいて、透明性を前面に出す日本の援助など中国の勢いにはほとんど効果がない。

 

 ただし、日本は1990年代に『アフリカの年』として官民挙げて援助をしていたが、それも続かず、そういった日本の政策の不味さも中国の圧倒的なアフリカへの台頭を許した一端なのではないかとも思われる 。

 


 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2018, 17:47
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へそ曲がりセブ島暮らし2018年 その(108) 11月25日の三島由紀夫

 1970年11月25日、作家『三島由紀夫』が市ヶ谷にある自衛隊・東部方面総監部に乗り込み、バルコニーで演説後、総監室にて割腹、同行者に介錯されて死亡。いわゆる『三島事件』が起きた。

 確か次の日の朝日新聞だったと思うが、一面紙面に総監室内に三島の首が転がる写真が大きく掲載され、普通ならこういう写真は公には掲載出来ないと思っていたから、そういう写真が全国紙に掲載されたことの方が三島の死より衝撃的であった。

 この三島の自殺を契機に11月25日を『憂国忌』として、右翼有志によって毎年開かれていたが、最近はニュースにもならないから、憂国などという概念は時代には合わなくなっているようだ。

 三島の割腹自殺については、ノーベル文学賞受賞に最も近い日本人作家として取り沙汰されていた時期だから、文学の世界に親しむ人々からは不思議に思われたが、結局本人しかその動機は分からない。

 

 三島は1925年(大正14年)1月14日 に生まれ1970年(昭和45年)11月25日に45歳で死んだが、その最後は『憤死』になり、せっかくの文学的価値を落としたのは否めない。

 

 三島が存命なら現在93歳。さすがに93歳になった三島の姿というのは想像出来ないが、現在90歳以上というのは戦時中に徴兵されて、戦地へ送られた世代だが、三島は病気のために徴兵は猶予されている。

 

 同世代は次々と死んでいく中、三島は戦争に行けなかった劣等感を生涯抱き、後年『盾の会』というおもちゃのような軍隊組織を作った底流になったといわれるが、それはは表向きで本人は戦争に行かなくて、好きな文学を続けられることにホッとしていたのではないか。

 

 三島の文章を初めて読んだのは覚えていないが、やはり中学生の頃で『金閣寺』とか『潮騒』から読み始めたのではないかと思うが、中学生にしては本を読んでいた小生であっても、三島の文章の巧みな修辞が分かるのはずっと後のことである。

 

 多くの話題作は読んでいるが、三島死後また読み返したいと思わず、遺作となった『豊穣の海』も読んだが、天下一品の言葉の魔術師は変わらずも、こういうつまらないテーマで遺作を書いていたのかとどうも三島は独りよがりであったとしか思えない。

 

 三島は自身の虚弱な体質を改善するためにボディビルに励み、その肉体をマスコミの前に晒してはいたが、いずれ衰える自分の肉体と自己の才能の枯渇を恐れていて、晩年の姿を思うと暗澹とし、自殺へ至ったのではないかとの分析もあるが、やはり本人しか分からない。

 

 三島は太宰治を敵視していたことで有名だが、文学的確執もあるが、太宰は愛人と玉川上水に飛び込んで亡くなった情死であり、三島は同性と一緒に総監室で亡くなっていて、その点をとらえて、三島は太宰に男として嫉妬していたという指摘もある。

 

 実際、三島の同性愛志向は作品にも表れていて『仮面の告白』など一連の作品を書いているが、本人は本当にそうだったのかという疑問は残り、あくまでも作品としての題材であったのではないかともいわれる。

 

 ただし、三島の精神形成には祖母の存在が指摘されていて、この祖母の溺愛が三島を形作ったともいわれているが、そう言った溺愛が同性愛傾向になるのかどうかはよく分からない。

 

 三島の家系はだが、祖父は内務官僚で福島県知事や樺太庁長官を務め、父親は後の農林省の高級官僚、三島自身も大蔵省に席を置いたことがあり、いずれも東大法学部出身であり、頭の良い家系であることは確かである。

 

 そういった戦前の『いいとこの坊ちゃん』であった三島は学習院から東大へ進むが、勉学は抜群で、早くから文学の才能は芽生えていて16歳の時に書いた『花ざかりの森』が処女出版となるから、早熟といえば早熟である。

 

 ただし何度も書くが、身体だけは貧弱で虚弱体質のため頭脳と繋がらず、そのギャップがまた古典的な題材で作品を生む原動力となるが、単なる『懐古趣味』と作品をこき下ろす人もある。

 

 三島が乗り込んだ市ヶ谷の自衛隊総監部は、かつての陸軍士官学校であり、1946年(昭和20年)の極東国際軍事裁判がこの大講堂で開廷された歴史的な建物であるが、防衛庁が2000年にこの地に移転し、後に防衛省となる。

 

 現在は日本の国防を担う要衛の地だが、かつての士官学校のバルコニーで自衛隊の決起を呼びかける演説を行ったことに、軍人になれなかった三島の屈折した心が物語っているような気がする。

 

 防衛庁の市ヶ谷への移転のことを書いたが、旧防衛庁は六本木に隣接する桧町にあって、その前を通った記憶もあるが、六本木のような歓楽地に防衛庁があるのが不思議な感じがした。

 

 こういう場所に防衛庁があったのは、元々は長州毛利藩の下屋敷跡であり、明治年間に陸軍歩兵第1連隊がここに駐屯し、後に第3連隊も駐屯。1936年(昭和11年)の2・26事件ではこの第1連隊と第3連隊が動員されたことは知られる。

 

 そういった歴史的な場所であるが、防衛庁が市ヶ谷移転に伴って跡地は三井不動産に払い下げられ、その跡地に2007年に出来たのが『東京ミッドタウン』で、先行した『六本木ヒルズ』と共に六本木から虎ノ門にかけて再開発が行われ、高層ビルが林立するようになる。

 

 ミッド・タウンの中心となったタワーは地下5階、地上54階、高さ248.1mあって、それまで都内で一番高かった東京都新宿庁舎を抜いたが、ビルの高さ競争は目まぐるしく、現在の1位は大阪の『アベノ・ハルカス』で、300m、60階となっているが、それでもミッドタウン・タワーはまだ6位に付けている。

 

 三島由紀夫に戻るが、今の人は三島の文学に興味があるのかどうか分からないが、本離れの昨今、忘れ去られる作家というのも続出しているから、その立ち位置は分からないが三島が市ヶ谷で割腹自殺をしたことはもっと忘れられている。

 


 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2018, 19:04
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