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へそ曲がりセブ島暮らし2018年 その(69) 9月26日の運転免許証

 10代の頃の原付免許に始まり、小生の自動車の運転免許歴は半世紀を越えた。

 ただし、日本の免許証は既に失効していて、今運転しているのはフィリピンの免許証で、こちらの方は既に25年を越えた。

 そのため、昨年、日本の四国をレンタカーを借りて周った時には、フィリピンで国際免許証を作ってそれで運転をしたが、レンタカー会社の受付の係員は見たことのない免許証だと驚いていた。

 このフィリピン発行の国際免許証、発行元が民間団体の様な自動車協会でどうかなといつも申請時に思うが、フィリピンの正式な発行元で何の問題はない。

 ただし、フィリピンは偽造天国で、フィリピン発行の国際免許証を使って日本で運転する中国や韓国の観光客が多く、そういう連中に限って事故も多いとの報道もあった。

 マニラに行くとそういった偽造の証明書を作る露店が道に並んでいて、小生もその場所を歩いたことがあり、運転免許証など他の見本と一緒に置いてあった。

 パスポートの偽造も可能らしいが、そういった大物は他の場所に連れられて交渉するとの話で、値段もかなり高いが、この偽造パスポートも国によって値段が違い、偽造の難しい日本は当然高い。

 ちなみにフィリピンで外国人が国際免許証が取得出来る条件は緩くて、自国発行の免許証かフィリピン発行免許証を持参して申請すれば、簡単に取れる時代があった。

 それを悪用して日本で免許取り消しになった連中がフィリピンに来て申請して国際免許証を取得、それを日本の免許証申請に使うという手口が横行し、そういった連中専用のツアーまであった。

 さすがにそれは不味いとなって、フィリピンに連続して6ヶ月以上の滞在が要件に付け加えられた。これだと、それまでのノー・ヴィザの滞在期間15日間では申請できないし、仮に延長、延長で滞在しても6ヶ月を過ぎると入国管理局の証明書が必要になり、実質的に仮の滞在で国際免許証を取ることは困難になった。

 そこで出て来たのはフィリピン発行の国際免許証の偽造で、特に中国は偽造など商売の一つとしか思っていなくて、例えば日本在留の外国人登録証などかなり際どいのも安く作れるという。

 中国の偽造で思い出したが、就職希望者が面接に来て大学の卒業証明書を出したが、中国人社員から偽造が多いから注意しろといわれた。

 そこから偽造の話になって、冗談で小生の中国の大学卒業証書を作るのは可能かと聞いたら簡単だといわれた。そこでどうせなら北京大学の大学院はどうかと再度聞いたら何でもないと答えが返った。

 話がそれ以上進まなかったのは、中国の最高学府である北京大学を卒業したと自称するには、中国語がほとんど駄目ではおかしいのではと気が付いたためであった。

 さて、自動車免許証の話に戻るが、日本で免許を持っている人数は一種も二種も全部含めた2年前の統計で約8220万に上っていて、男女別では男4525万人強、女3694万人強となっている。

 日本の総人口が1億3千万人超えを考えると、この数字は18歳以上で車や原付の免許のない人は高齢者を除いてほとんで免許証を持っている勘定になる。

 それほど皆免許証状態の日本だが、日本の免許証の歴史をたどると日本で最初に免許証を取った人物は『渡辺守貞』と伝えられている。

 渡辺は1893年に三井財閥の当主が乗る馬車の馭者として働き、1921年に自動車運転の試験に受かった人物として第1号となったが、運転していた車はアメリカ製の蒸気自動車であったというから驚く。

 ちなみに日本に自動車が入って来たのは1898年(明治31年)とされるが、1903年には愛知県で乗り合い自動車(バス)を運転するものに対して免許証が発行されていて、この頃は届け出制で、免許証は木の札であったから免許証というより鑑札に近い。

 

それまで、自動車は輸入されていたが届け出れば運転は出来、1907年(明治40年)になって、警視庁が自動車取締規則を公布し、運転を免許制にして、運転実技試験を取り入れた。


 この日本第1号の免許証保持者の渡辺は1921年(大正10年)に上野駅構内の踏切でエンストを起こし、走って来た貨物列車に衝突される事件を起こし、免許が取り消しになり、これがまた第1号の免許取り消し者と落ちが付いている。

 この上野駅構内で車が列車と事故を起こしたということは、当時の上野駅は今のように高い位置ではなく平らな場所にあり、全線高架か土手上を走り、踏切のない今の山手線も最初は地面に線路が敷かれ、その上を走っていたことが分かる。

 

 さて男性の運転免許第1号は分かったが、女性の場合は1917年(大正6年)9月27日、栃木県の『渡辺ハマ』という人が日本の女性運転免許証第1号となった。この1917年という年は『ロシア革命』が3月に起きた年でもある。

 

 奇しくも男女の免許取得第1号が同じ渡辺姓で、両者は縁戚関係がありそうだがその辺りは分からず、渡辺ハマが免許を取ったのは23歳で、栃木県のどこの出身かも分からない。

 

 渡辺ハマは1月に上京し、自動車学校に入学し、4月に卒業し自動車商会で見習いを務めた後、警視庁の試験に合格したが、その後どうなったかは分からないが、自動車史を詳しく調べれば分かるかも知れない。

 

 渡辺が入学し運転を学んだ自動車学校は『東京自動車学校』といい、1916年(大正5年)に出来たらしいが、これが本邦初の自動車学校となり、今や利権化している自動車学校は100年以上の歴史を持っていることが分かる。

 

 さて、小生の免許証に戻るが、これまでアフリカ・ザンビアの普通免許証を皮切りに、フィリピン、中米のホンジュラスの自動車免許証を取得している。

 

 ザンビア在中は日本の免許証の書き換えが出来なくて失効したが、その期間は2年以上だったと記憶するが、当時は海外在住者の免許証失効の復活は今ほど厳しくなく、長期間の失効であっても帰国後に復活可能で、確か鮫洲の運転免許センターへ行って所定の書類を出して、講習を受けただけで再発行されたような記憶がある。

 

 こうして、日本を含めて4ヶ国の運転免許証を持ったが、日本以外は免許証などほとんど意味がなく、道路上で煩雑に行われる『免許証拝見』など、他の国では一度もあったことがなく、そういった意味では日本は超警察管理国家といえる。

 


 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2018, 01:55
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へそ曲がりセブ島暮らし2018年 その(68) 9月25日の国際連合

 国際連合(UN)の発足は1945年10月24日で、戦艦『ミズーリ』艦上で日本が降伏文書に署名し、いわゆる『太平洋戦争』は収束したが、その日は同年9月2日なので、戦後すぐに国連は生まれたことになる。

 この時の加盟国は51ヶ国でこの加盟国は『原加盟国』といわれ、フィリピンが東南アジア諸国で唯一、原加盟国であることはフィリピン人でも知られていない。

 そのくらい当時のフィリピンは政治的にも経済的にも東南アジア内では群を抜いていた先進国でであったが、やがて『アジアの病人』と呼ばれるようになる。

 国連加盟時のフィリピンの大統領はセブを地盤とする『オスメニャ』で、オスメニャは第2代大統領『マニュエル・ケソン』の副大統領を務め、ケソンが戦時中にアメリカへ亡命中に死亡したために大統領に昇格。

 オスメニャはマッカーサーがレイテ島に逆上陸した時、マッカーサーの幕僚達と一緒に海岸から上陸し、その像が上陸した海岸にあり、小生も見たことはあるが『マッカーサー・ボーイ』という評価もある。

 しかし、戦後初めて行われた大統領選でロハスに破れて、選挙の洗礼を受けていない大統領として名を残し、そのため大統領として認められないという声も高いが、フィリピン共和国第4代大統領として名を残している。

 ちなみにASEAN加盟国の国連加盟で、フィリピンに続いたのは1946年のタイで、戦時中でも王政を維持し独立を守った矜持を感じられ、加盟国は55ヶ国になった。

 その次は1948年のビルマ(現ミャンマー)で加盟国は58ヶ国、ビルマとは意外な感じもするが、当時はまだ軍事独裁政権ではなく、ネ・ウィンによる軍事クーデターはだいぶ後の1962年3月に起きた。

 ASEAN4番目となったのはインドネシアで、加盟は1950年9月26日、加盟国は60ヶ国になった。1955年になってカンボジア、ラオスが加盟し、加盟国は76ヶ国になった。

 

 ちなみに安全保障理事会の常任国になりたくていろいろ工作している日本だが、日本の加盟は1956年で、モロッコ、スーダン、チュニジアのアフリカ諸国と一緒で、加盟国は80ヶ国となった。

 

 1957年にマレイシアがアフリカのガーナと共に加盟し、加盟国は82ヶ国になり、1965年にシンガポールが加盟し、118ヶ国と加盟国は100ヶ国台を突破。

 

 ただし、この1965年のインドネシアはスカルノからスハルトに権力が移った時期で、インドネシアはマレイシアとの領土問題もあって国連から脱退している。

 

 脱退したインドネシアは1966年に再加盟し、東西ドイツが同時加盟したのは1973年で加盟国は135ヶ国となる。

 

 このように分裂していた国が同時加盟したのは1991年の韓国と北朝鮮があり、加盟国は166ヶ国に達し、韓国の加盟は遅いが後に事務総長を出すほど、日本より国連外交は巧く、北朝鮮も同様である。

 

 1977年にヴェトナム、1984年にブルネイが加盟してASEAN加盟国は全部が加盟し、この時点で159ヶ国、その後2011年にアフリカの新しい国の南スーダンが加盟して193ヶ国になる。

 

 さて、インドネシアには都合3回行っていて、一番最初は1980年代の終わり頃で、当時知人がジャカルタに居てアフリカから日本へ帰る帰途にシンガポール経由でジャカルタへ入った。

 

 初めてのインドネシアの印象だが、時期もあったがかなり蒸し暑いのと、早朝に流れる大音量のコーランに驚いた。また、かつてオランダの植民地であったために赤茶けた屋根の瓦が洒落た感じを受けた。

 

 2度目は1990年代初めに仕事で、ジャカルタとスマランへ行ったが、この時はスマランの知人が車で『ボロブドール』まで案内してくれたが、当時のボロブドール遺跡はまだ観光地としては開発されていなかった。

 

 初めての仏教遺跡はかなり迫力を感じたが、後年カンボジアの『アンコール・ワット』へ行ったら、アンコール・ワットの巨大さには驚き、ボロブドールはこじんまりした遺跡と感じた。

 

 3度目は家人とヨクジャカルタを中心に観光をし、最後の方でボロブドール遺跡へ行ったが、すっかり整備されて観光地化していて、人の多さにもびっくりした。

 

 2度目に見るボロブドール遺跡はじっくり見れば面白いものの、やはり遺跡としてはアンコール遺跡とはスケールは違うなと改めて感じ、アンコール遺跡は何度も行きたいが(実際小生は2度、家人は3回アンコール遺跡へ行っている)ボロブドールは1回行けば良い感じ。

 

 インドネシアは人口2億6千万人以上を抱え、中国、インド、アメリカに次ぐ世界第4位で、ASEAN内では勿論1番人口が多く、その次にフィリピンが1億1千万人超えで世界12位。

 

 もっともフィリピンは出生届けを出さない人も多く、実数はもっと多いとされ、人口減少の始まっている日本は人口では世界10位だが、いずれ11位のメキシコ、12位のフィリピンに追い越されるのは時間の問題。

 

 フィリピンの貧困は爆発する人口と指摘されているが、その勢いは止まらず、以前にも書いたが小生が初めてフィリピンに来た時の人口は5千万人台であったが2倍になってしまった。

 

 人口は年間2%以上増えると25年間で倍増するという、統計学上の数式があって、フィリピンは正にその数式に当てはまる増え方で、今も2%以上増え続けているから『人口爆発』は止まっていないし、止める気がない。

 

 確かに街に出てみると若い人の姿、子どもの姿が目立ち、実際25歳以下が人口の半分以上を占めるというから、日本の様な60歳以上が人口の半分を占める老齢国とは大違い。

 

 そのため向こう30年間は、フィリピンは有利に成長を続けるが、その先はやはり人口の偏りが出来て成長は右肩下がりになると予測されているが、そういう危険信号を真摯に取り込むことは先の話しということで全く取り上げられていない。

 

 30年年先などそんな先の話しではなく、日本が将来の人口が減るということは何十年も前から指摘されていたが、誰もその時が来るまで本気に考えていなかったのも事実で、どうせ何十年も先のことは死んでいるから関係ないというのが根底にあるのであろう。

 


 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2018, 19:11
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へそ曲がりセブ島暮らし2018年 その(67) 9月25日の日本と中国

 元首相『田中角栄』が新潟県で生まれたのは1918年で、今年は生誕100年になり、1993年に亡くなったので今年は没後25年と覚えやすい数字が並ぶ。

 

 田中は小学校しか卒業していなくて首相まで登り詰めて『今太閤』などと呼ばれ人気もあったが、在任中に『ロッキード事件』で5億円の賄賂を受け取ったことから逮捕、裁判になり2審まで有罪、上告中に死亡、75歳であった。

 

 田中が対抗馬の『福田赳夫』を破って首相になったのは1972年7月6日で、54歳、大正生まれとしては初めての首相になるから、それまでは明治生まればかりが日本の政権を担っていたことが分かる。

 

 その田中が首相就任3ヶ月弱で中国を電撃訪問し、その日が9月25日になる。電撃とは書いたが、その前にアメリカを訪れニクソンと会談して、アメリカ側の了解の基に動いている。

 

 当時の日本と中国の関係はまだ国交はない状態で、この田中の訪問によって9月29日、『日中共同声明』が発せられ、日中間の関係が正常化に進む。

 

 このニクソンは田中が訪中する同じ年の2月に中国をやはり電撃訪問していて、日本の外交はアメリカの意向で動いているのは田中も例外でないし、ニクソンはその年に再選をかけた大統領選があり、中国電撃訪問で話題を作って票に結びつけたのはありあり。

 

 この電撃訪問で話題を作る手法は自民党に脈々と受け継がれ、小泉が北朝鮮に訪問して選挙に勝ち、小泉の子分であった安倍がその北朝鮮を利用して、この間の選挙など『北朝鮮危機』を煽って勝利。

 

 この安倍、この間の自民党総裁選で対抗馬の石破に追い上げられて、議員や党員に対する飴と鞭で強烈に締め付けたのにも拘らず、票は伸びず『試合には勝ったが勝負には負けた』結果となった。

 

 このため、安倍はまた北朝鮮を利用して、人気を浮揚させよと電撃訪問を画策しているようだが、北朝鮮、韓国側とアメリカのトランプは北朝鮮の話題しかないので、どちらかもいい外された状態になっている。

 

 さて、田中が中国を訪問した時期の中国は『文化大革命』の真っ最中で、前年の1971年9月13日、当時の最高権力者『毛沢東』の後継者とされた『林彪』がソ連へ逃亡し、モンゴル上空で墜落した激動期。

 

 『文化大革命』については、現在の中国政府も何があったか禁忌で隠しているが、10年間に及ぶ権力抗争では数百万人から1000万人は殺されたとする説もあり、今の中国の最高指導者『習近平』もこの文革の洗礼を受けている。

 

 田中内閣が生まれた1972年の世の動きを書くと、世界中で学生運動が盛んで1月にはグアム島で元日本兵の『横井庄一』が発見されるが、フィリピンのルバング島に潜んでいた『小野田少尉』が投降したのは、その後の1974年になる。

 

 2月に『札幌冬季オリンピック』が開催されるが、夏季オリンピックが同年の8月からドイツ・ミュンヘンで開催、9月にイスラエル選手が11人殺害される事件が起きた。

 

当時はオリンピックは夏、冬とも同年に開催していたのが分かり、いつから今のようにしたのか興味はないが、興行的に2年置きに交互に開催した方が儲かるからIOCも商売が巧い。

 

 その2月にニクソンが訪中し、点を稼いで11月の大統領選に勝利するが、好事魔多しで『ウォーター事件』が発覚し、1974年8月9日、任期途中で辞任する羽目になった。

 

 4月に『川端康成』が自殺。5月に沖縄がアメリカから日本に返還され、その功績で後に佐藤栄作は『ノーベル平和賞』を受賞するが、授賞理由は嘘と後年分かったが受賞辞退などの動きは全くない。

 

 6月に佐藤は退陣表明するが、誰もいない会場でテレビ・カメラに向かって話す異常さは有名になったが、佐藤はただ首相の座に長くいた存在で、佐藤を大叔父とする安倍が歴代首相在任記録を狙っているのはこの影響である。

 

 7月の名古屋場所で高見山が13勝2敗で、初の外国人力士による幕内優勝を決めて快挙となるが、今の大相撲の幕内優勝はほとんどが外国人力士ばかりだから、隔世の感がある。

 

 11月に『日本航空351便ハイジャック』事件が赤軍派にハイジャックされ、学生運動が先鋭化されるが、また衰退へ向かっていく。その11月に田中は衆議院を解散するが、自民党は12月の投開票で17議席減と伸びず当てが外れる。

 

 この衆院選では後の首相、小泉純一郎、社会党の村山富一が初当選。また、後の自民党の実力者となる、加藤紘一、山崎拓、三塚博も初当選というから政治の世界の予測は難しい。

 

 12月には韓国で『朴正煕』が大統領に選ばれ独裁への道が開かれるが、翌年の8月には『金大中』事件が発生し、田中は朴政権の犯行を擁護し、外交問題は時の権力に迎合する姿勢を明らかで評価を落とした。

 

 こうして、一時は『我が世の春』であった田中だが、1974年になって田中の政治の源泉である黒い金脈問題が文芸春秋11月号に載り、田中は12月9日に退陣を余儀なくされる。

 

 この文春の掲載記事は立花隆『田中角栄研究』、児玉隆也『淋しき越山会の女王』で、ジャーナリストの筆が最高権力者を追い落とす力のあった時代を象徴し、今のジャーナリストの権力迎合の時代からは雲泥の差がある。

 

 田中は退陣後も首相を指名する『キング・メーカー』として党内に君臨するが、1976年にアメリカ上院で『ロッキード事件』が発覚。同年7月に5億円の賄賂を受け取ったとして逮捕される。

 

 それでも田中は選挙には滅法強く、逮捕、保釈後も新潟の選挙区ではトップ当選を続け、1983年の衆院選では作家で参議院議員の『野坂昭如』が頭に来て田中の選挙区『新潟3区』に立候補するが野坂はあえなく落選。

 

 田中の選挙上手は有名だが、何といっても税金を使っての地元への利益誘導はあからさまで、『関越自動車』は田中が首相になる直前の1971年から始まり、『上越新幹線』は退陣後の1982年に大宮―新潟間が開通し、建設行政の影響力は最強の人物であった。

 

 しかし、1985年2月に脳梗塞で倒れ、それから子分の議員連中の離反が始まり派閥は分裂し、さしもの田中も失意の中で1993年12月16日に死去。後年の評価は様々であるが『晩節を汚した』感があるのは否めない。

 


 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2018, 19:33
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