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へそ曲がりセブ島暮らし2018年 その(44) 8月31日の交通事故

 1997年8月31日、中国の広東省・東莞市にある食堂で昼を食べていて、その店のテレビから『イギリスのプリンセスが死んだ』というニュースが流れた。

 勿論、写っている番組は中国のテレビ局なので中国語でニュースは読み上げられ、字幕も中国語であったが、映像は外国通信社の物を流していた。

 イギリスのダイアナと分かったのは、その外信映像に英字の字幕が流れたことからだが、中国語ではダイアナを『戴安娜』と表現し、この発音はダイアナに近く理解した。

 満員の店に居た中国人はあまりイギリスの王室のことなど情報がないためか、それほど驚いた様子はなく、凄惨な事故現場の映像にオッと思って箸を止めた人が少し見えた程度であった。

 その事故の少し前の7月1日に、中国がイギリスから香港を返還、吸収した大きな出来事があり、元イギリス領であった香港では、写真が飾られて追悼され、ダイアナ死亡は大きな話題になったが、中国本土ではあまり話題にはならなかったような記憶を持つ。

 ダイアナ死亡の自動車事故はいろいろ憶測を呼び、今もって謎の多い事件として取り上げられているが、ダイアナを含めてイギリス王室というのは何かと話題を発している。

 特にダイアナはなくなる1年前に現皇太子のチャールズと離婚していて、この交通事故は愛人と結婚したかったチャールズ陣営が仕組んだとまでいわれる始末。

 チャールズの愛人というのはダイアナと知り合う前から関係のあった離婚歴のあるカミラで、誰しも知っている事実なのに、それでも結婚したダイアナも相当な人物である。

 ここで面白いのは2005年にチャールズとカミラは正式に結婚し、何れは元愛人が次期国王の王妃になってしまうことで、イギリス王室の自由というか奔放さには感心させられる。

 イギリス王室のチャールズの行状には前例があって、とくに有名なのは『王冠をかけた恋』として知られるエドワード8世、後のウィンザー公の事例がある。

 エドワード8世は独身のまま1936年に国王になったが、当時アメリカ人の愛人があって、この愛人と結婚するために在位325日で退位し、この愛人と結婚に至っている。

 この愛人はウォリス・シンプソンといい、2度の離婚歴はあるが、最終的に王室はやはり元国王の妻ということで受け入れた。

 ただし、ウォリス本人はウィンザー公と結婚中にもナチスの大物と愛人関係があったとか、死んでからいろいろ話が暴露されていて、巷間言われるほどウィンザー公とウォリスの間の恋は清く正しいものではなかったようだ。

 このように割合開かれたイギリス王室に比べて、日本の皇室を考えると、皇室の閉鎖性は大き過ぎる。

 日本の皇室は明治天皇と大正天皇が正妻である皇后の産んだ子どもではなく、女官、即ち昔風にいえば側室が産んでいるのは知られる話で、大正天皇以降側室を持つことはなくなった。

 皇室やイギリス王室にしろ、こういった権力組織は血統を重んじるから、側室制度が存在し、ダイアナは息子2人を残して王室を追い出されて、その2人の息子は結婚し、長男には子どもが生まれて王室の血統は維持されている。

 

 この間、下の息子が離婚歴があり、しかも黒人系の俳優と結婚したことで話題になったが、これなどイギリス王室だから出来ることで、日本の皇室ではとても無理な話し。

 

 今の天皇、そして皇太子は恋愛から始まっているし、皇太子の弟も恋愛で結婚していて、その分では皇室も世間並みとなったと見て良いが、皇室に繋がる皇族女性1人の結婚問題がこじれている。

 

 結局、大学の同級生であった相手は本意か不本意か分からないが、アメリカの大学に留学するという形で日本から追いやられている。しばらく双方を引き離しておけば何とかなるという判断があったためかと推測するが、こういうことを『姑息』という。

 

 結婚相手がアメリカに追いやられた真相は憶測しかなく、母親の借金問題とか、いろいろいわれているが、イギリス王室なら受け入れてあり得ない話と思うがどうであろうか。

 

 さて、改めてダイアナが自動車事故で亡くなった日は8月の最後の日で、その時の食堂の様子は覚えているが、その日の天気はどうであったか思い出せない。

 

 中国大陸の広東省も大陸性の気候で、夏は暑かったと思うが、その日は特に暑かったというような記憶はない。

 


 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2018, 19:24
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へそ曲がりセブ島暮らし2018年 その(43) 8月30日の自民党を引きずり下ろした衆議院総選挙

 自民党の総裁を決める選挙が話題になっていて、早くも安倍晋三が対立候補の石破茂に圧勝し三選間違いないとの状況も伝わってくるのは、マスコミを籠絡している安倍陣営の作戦が功を奏している。

 安倍も石破も考え方の似通った世襲議員で、能力がないのに権力の座に座り、それだから自民党なのだろうが、こういう人物がまた日本を動かすかと思うと、憂鬱な感じもするがセブに住んでいる限りは感じても仕方がない。

 安倍は歴代総理の中で長期政権を誇示し、歴代最長政権であった大叔父の佐藤栄作を超える野心を持っているが、元々、自民党は1974
年に連続三選は出来ない規定を作ったが、それを安倍のお手盛りで連続三選を可能にしてしまった。
 

 こういう好きなようにルールを変える自民党の連中のだらしなさも問題だが、安倍はあわよくば死ぬまで首相を続ける気があるのではと思わせ、これは、中国の習近平が、それまで期限のあった最高指導者の椅子を、やはりお手盛りで無期限に出来るように変えたことと同じで、中国の独裁者と同じと批判されても仕方がなく、権力に執着する点では安倍も習も同類になる。

 今のように自民党一強になるのは、どう見てもおかしいが、自民党=権力志向と維持する、経済界、官僚、地方と結びついた勢力と考えれば、日本で野党が育たない理由の一つが見えてくる。

 

 そういう日本の強固な風土の中、政権交代があったのが2009年で、これは第45回衆議院総選挙で自民党が野党第一党の民主党にボロ負けしたことから、政権交代が起き、その投票日が8月30日であった。

 

 どのくらい負けたか当時の数字を見ると、自民党は選挙前に300議席を持っていたのに119議席に激減し、民主党は115議席から303議席と自民党の減った議席を吸収し第一党に躍り出た。

 

 これによって民主党政権が誕生するが、戦後の非自民党政権は1947年〜1948年の社会党を中心にした片山政権と、1994年〜1996年のやはり社会党を中心にした村山政権と二度あるが、何れも連立政権になる。

 

 2009年の選挙で生まれた民主党政権も形の上では、解党した社会党の後継、社民党など反自民の小政党との連立を取っているが、民主党政権といって差し支えないであろう。

 

 この時の自民党総裁は麻生太郎で、麻生は今も財務大臣など要職に座っているが、2009年選挙で大負けした結果を引き起こした中味、責任など全く感じていないようで、勝てば官軍の大口を叩いているが、これを持ち上げるマスコミもだらしがない。

 

 民主党が勝利したのは自民党の世論が長期政権に倦んだことになるが、麻生の前の福田康夫、それに続く安倍が政権を放り出したのが大きい。特に安倍は突然に放り出してしまったことも大きい。

 

 安倍が最初の政権を握った時、小生は長野から東京へ向かう高速バスの中にあったテレビでそのニュースを知ったが、その後中米に住むこととなり安倍の政権中の様子はほとんど知らないが、自民党が下降して行くのはこの辺りからではないか。

 

 さて、2009年の民主党勝利で首相に就いたのが鳩山由紀夫で、これも党派は違うが祖父は首相経験者で、こう書いていくと安倍、福田、麻生と歴代の首相も世襲になっているのが分かり、これが政治を駄目にしているのが分かる。

 

 もっとも、政治の稼業化、世襲は珍しいことではなく、このフィリピンにしても大統領の世襲はマカパガル、アキノと2度あったし、上下院や地方議会、首長などほとんど世襲、身内がのさばっていて、世襲でない政治家を探すのが困難になっている酷さ。

 

 議員になるには『地盤』『看板』『カバン』の3バンが必要といわれ、つまり世襲、経歴、金が重要ということになるが、これは国を問わず共通している

3バンで、こうして政治の世界は淀む。

 

 世襲政治屋しかいないフィリピンには世襲を禁止する規定が『憲法』に明記されているが、これを法制化して世襲禁止の法案を作って施行するとなると、議員連中が自分の首を絞めるようなことはあり得なく、何にも進んでいない。

 

 フィリピンには議員や首長は3期連続、上院議員は2期連続以上は出来ないが、1期3年だけ他の公職に当選し、開いた1期間はそこに自分の妻や子ども、息のかかった子分を据え付けて、次の選挙でまた出てきてまた3期続けると手法が常態化していて、世襲禁止の法案など、議員自身がその法案の無意味さを知っているから論議にならないのであろう。

 

 この多選禁止というのは悪くなく、日本には解散という事情はあるものの、日本に導入したらどうかと思うが、仮に3期以上連続で議員を続けられないとしても、フィリピン方式を取るだろうから空論になってしまう。

 

 さて、2009年の劇的な政権交代も、2012年12月16日に行われた第46回総選挙で、民主党は党が分裂し230の現有議席から57議席に激減。一方自民党は119から294議席を得て前回選挙と逆になって、安倍が再登場し現在に至る。

 

 民主党の転落はいろいろ理由はあるだろうが、日本を動かしていると自負する霞が関の官僚を巧く使えなかったことが、失点の始まりではないだろうか。その点、自民党は官僚とは昔から付き合いは深く、自陣営に取り込んでいるから扱い方は巧く、官僚もしょせんは自民党が培った権力の旨味を知っているから自民党に靡く。

 

 反自民の村山政権の時には『阪神大震災』、民主党菅政権の時に『東日本大震災』『福島原発爆発』と歴史に残る未曾有の大災害があったのは偶然であろうが、これの対応の不手際も民主党への失望感を増幅したが、仮に自民党が政権に座っていても同じような対応であったのではないか。

 

 さて、自民党が政権から滑り落ちた2009年8月30日の総選挙で、自民党で初当選したのがわずか4人で、その中に父親の地盤を継いだ小泉進次郎がいる。この小泉は自民党のホープとして近い将来の首相候補と騒がれているが、10年も経たない議員歴で首相の椅子を取り沙汰されているのは自民党の人材不足を物語っている。

 

 一方、民主党は303人の当選者中、144人が新人で、その中には不倫がどうのこうのと散々叩かれた山尾志桜里、今度の沖縄知事選に立候補を表明した玉城デニーが当選しているが、その他の新人当選者の多くは次の選挙で落選の憂き目を得ている。

 

 2009年の総選挙は小選挙区制が生んだといわれるが、その後総選挙は行われても民主党の復活はならないが、今の出鱈目な安倍の在り方を見ると、再度政権交代は必要だが、アメリカのトランプと同じで30%程度の鉄壁の支持者さえあれば政権は維持出来るから、政治は万民の者というのは今や死語となった。

 


 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2018, 18:51
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へそ曲がりセブ島暮らし2018年 その(42) 8月29日の地下鉄・日比谷線

 東京の地下鉄はセブに住んでいる間に、路線がずいぶん増え、そのためセブから東京へ行って地下鉄利用となると、新路線は馴染がないためもあって昔からある路線を使うことになる。

 東京で最初の地下鉄路線は戦前に敷かれた浅草―渋谷間の銀座線で、次に戦後最初の丸ノ内線、そして日比谷線と続くが、この日比谷線について書いてみたい。

 日比谷線は1961
年(昭和36年)3月28日に南千住−仲御徒町間の部分開業を皮切りに、少しずつ延伸開業し、最後の区間東銀座−霞が関が開通して全線が繋がり、今の日比谷線になる北千住−恵比寿間が完成。

 その全線開通日が1964年(昭和39年)8月29日であった。この頃小生は中学生で、地元千住の中学校へ行かず、文京区にある中学校へ都電で通っていた。通学コースは千住2丁目の都電停留所から21番の水天宮行きに乗って、仲御徒町で16番の大塚行きに乗り換えていた。

 当時は越境入学といって、区域外の教育レベルの高い公立学校に通う例も多く、入学した中学校では20%近くが越境入学者で、中には千葉県から通う生徒もいた。

 その頃の都立高校は今のように平均化されていなくて、教育レベルの高い学区の都立高校は、私立の開成、麻布と同レベルで私立高校より入学は激烈であった。

 足立区を含む学区内では上野高校がNo.1であったが、その上を行くのが文京区を含む学区にある小石川高校で、親はそこに行かせたかったし、小生自身も当たり前と思っていて、ちなみに当時の都立高校No.1は日比谷高校で、ここは各区からの精鋭が通っていた。

 さて、日比谷線北千住−南千住間が繋がったのは1962年の5月31日で、これで地下鉄を利用して都電を乗り換えていた仲御徒町まで行けるようになったが、運賃は都電と較べて高くてすぐに使うことはなかった。

 この年の5月3日に、常磐線三河島駅で160人死亡の列車事故があり、この時ちょうど中学の修学旅行で京都へ行っていて、大事故のニュースは京都の旅館で知ったから、日比谷線全通はその事故の後と分かる。

 

ちなみにこの年の8月に堀江謙一のマーメイドが太平洋横断に成功し、ヨットに興味を持ったし、ケネディー大統領がキューバを10月から封鎖し核戦争の危機一歩手前になった。次の年の11月にケネディーは暗殺されるが、そんなことは誰も予測できない時代であった。

 北千住−仲御徒町間は地下鉄なら10分で走るが、家から駅まで歩いて駅に入って切符を買い、階段を上り下りして構内を歩き電車に乗るまでの時間は結構時間が取られる。

 都電は当時、増えてきた車が線路内に入り込み出して、時間がかかるようになったが、道路上の停留所からすぐに乗れて便利、20分少々で千住から仲御徒町へ行けたと記憶する。

 そのため、地下鉄利用してもそれほど速くなるとは思えず、卒業するまで都電通学を続けた。しかし、遅刻になりそうなときは都電ではなく、しばしば地下鉄を利用していたから気持ち分速く、仲御徒町へ行けたようだ。

 仲御徒町の地上に出て再び大塚行きの都電に乗っても、そちらは路線に多かった女学校の生徒達で満員で、あまり効果はなく、実際は遅刻する時間帯なので、ガラガラの都電で学校まで行ったようだ。

 

 仲御徒町といえば、その当時交差点近くに『タケヤ』という中古品などを売る小さな店があったが、後年この店がビルになって外国人に大人気の安売りの店になるとは夢にも思わなかった。

 

 北千住始発の日比谷線は東武線と東横線に乗り入れて、便利になったが北千住駅の込み具合は尋常ではなく、ホームから乗客がこぼれそうな具合であったが、ホームを2階にするなど改良工事を続けて少しは緩和するようになった。

 

 また、北綾瀬−代々木上原を繋ぐ千代田線が1964年に開通し、この千代田線が北千住駅の地下に通るようになり、さしもの通勤地獄は同方向に二つの路線が出来たためだいぶ楽になった。

 

 ただし、この千代田線開通により従来の常磐線は運行方法が変わり、上野−北千住間に各駅停車が停まり、その先は快速電車が走るようになり、かつては江戸川を越えた遠足の場所であった松戸など快速であっという間に行けるようになった。

 

 こうして、路線が増えて都内の路線の地獄的な混雑は解消に向かったが、これがインフラ整備の好結果であって、こういうインフラ整備が出来たのもまだ日本経済が右肩上がりの時代で、資金があったためである。

 

 そういえば1991年に都営大江戸線という、都内を大きく繋ぐ地下鉄路線が開通し、日比谷線仲御徒町近くに上野御徒町駅という駅が開業した。

 この駅の名称は紛らわしく、一度日比谷線仲御徒町駅から大江戸線に乗り換えるために上野御徒町駅へ行ったが、これが嫌になるほど地下を歩かされて、2度と乗るまいと思ったことがある。

 


 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2018, 18:50
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