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セブ今昔物語 【24】 セブのショッピング・モール変遷史−その2

 前回のセブ今昔物語【24】セブのショッピング・モール変遷史−その2ではセブの草分けモールや大資本のモールに付いて書いたが、今回はその他のセブにあるモールを3ヶ所選んで書いてみる。

【写真−1 正面の道はセブ島南部方面へ行く幹線道路】

 写真−1はセブのダウンタウン方面にある『エリザベス・モール』で、このモールは中国系経営者の妻の名前がエリザベスだから命名したと言っている。モールの前はセブ島南部に向かう幹線道路が通っていて、交通量は激しく、モールの右手側には南部方面へ向かうバス・ターミナルがある。

 このモールには映画館もあってモールの条件に当てはまるが、このモールには1回しか中に入っていなくて、そのきっかけは戦前にセブに走っていた鉄道の跡を調べるためで、戦前の鉄道駅と構内はモール敷地から今のバス・ターミナル辺りにあった。

 この駅を中心に南部方面にはアルガオまで67キロ、北部方面はダナオまで29キロ、計96キロ線路は伸びていて、セブ島の長さが南北200キロ余なのでかなり長かったのが分かり、線路はこのモールの地下駐車場の出口辺りを左右に通っていたと思われるが、そういうことに興味を持つ人は少ない。

 この鉄道は1945年4月、アメリカ軍がセブ島に上陸反攻時に、日本軍が輸送を妨害するために破壊し、戦後は復旧されることなく鉄道の遺構はまだかすかに残るが、忘れ去られている。

 日本軍の破壊工作だが、既に米軍は自動車輸送が主体になっていて、鉄路を破壊しても輸送、兵站にはほとんど影響なく、日本軍の後先を考えない作戦思想はこういう所にも表れている。

 最近、ドゥテルテ政権になって同じルートでセブに鉄道を敷く構想は出ているが、大手ゼネコンを儲けさせるだけで、鉄道というのは敷設より保守が肝心で、保守管理の悪いフィリピンには向いていず、開通しても赤字は必至。

【写真−2 このモール建物内では犬を歩かせることが出来る】

 写真−2は『パーク・モール』の庭の部分でどういう訳か日本庭園風。このモール、古い埋立地にあり、マクタン島とセブ島に架かる2本の橋に繋がる道路沿いにあり、近くには2013年の台風で破損したままの国際会議場やコンドミニアムやホテルが建ち始め、大きな病院も近くにいくつかある。

 そのため、人の流れはかなり活発なモールだが、このモールの前身は屋根と壁だけが出来た大きな倉庫のような建物が長い間、放置されていた建物を改装したもので、大火で焼け出された人々がここに避難して生活していた時期もあったが、大々的に改装してモールとしてオープンした。

 資本の関係は良く分からないが、独立系の資本らしく、他のSMとかアヤラといった、傘下企業の金太郎飴の様なテナントは少ないが、SM資本のかなり大きなスーパーが入っている。

 このスーパー、全国展開をしているが、店によって扱う品物の鮮度がかなり違っていて、これは商品の売れ行きの速さと関係があり、ここは割合鮮度の良い品物を扱っている。

 かつて、この辺りは雑草の生える通過するだけの殺風景な空き地の広がる地域であったが、このモールが出来てから、道を挟んだ裏の敷地に商業施設も造られ、ずいぶんと開発が進んだ。ただし、このモールには映画館は無いからモールと名乗るには無理な気もする。

【写真−3 立地条件はあまり良いとは思えない東横イン】

 パーク・モールからいくらも離れていない場所に写真−3の『Jセンター・モール』がある。高層のビルは日本の『東横イン』で、この建物はモールがオープンし、かなり経ってから造られた。

 このモールの敷地は元マッチ製造工場跡で、それで分かるようにこの地域は工場が多く、ビールのサンミゲル工場もすぐ傍にある。そういうガサツな地域であり、モールの立地としてどうかなと思ったが、案の定、客足もテナントも冴えない感じが続く。

 このモールの前は渋滞で知られる道路が通っていて、また日本食レストランの多い道路として知られていたが、最近は韓国勢のレストランが目立つようになっているが、ハングルだけの看板を平気で掲げていて、無意識にしてもフィリピンを植民地として見ているようだ。

 

 このモールの資本はやはり中国系でマンゴーをドライ菓子にする会社で財を成した。素人目にはマンゴーの加工など儲かるのかと思うが、この一族、ホテル業にも進出し、マクタン島で最多の部屋を持つホテルを経営し、隣のボホール島ではフィリピン最多の部屋数、アジアでも有数のリゾートを建設中であるから馬鹿にしてはいけない。

 また、モールの裏側には40階以上のコンドミニアムを造る計画で、販売活動をしているが、過熱する一方のフィリピンの不動産バブルが弾けなければ良いと思うが、中国系は打たれても事業を進めて行くから、良きにせよ悪しきにせよ強い人々である。

 このモール、テナントは冴えないと書いたが、どういう繋がりがあるのか分からないが政府機関出張所がモール内にいくつも入っている。入国管理局、国家警察捜査局、陸運局、社会保険を扱う機関や電力会社もあり、利用する人には便利であるが、家賃などしっかり相場どおり払っているのかどうか。

 人が出入りすればテナントにお金が流れると思ってだろうが、多くは用を済ませてすぐに帰る人が多いようでモール側が思うほど効果があるか疑問。ここにも先述のスーパーが入っているが、野菜など生鮮食品など鮮度が悪く、時には古い玉子も平気で売っていて、それが故に客が離れ、客が離れるから品物が古くなるという悪循環に陥っている。

 モール自体が冴えないのと関係もあるだろうが、東横インの営業も上手く行っているのかどうか。日本のネーム・バリューで客を集めていると思うが料金設定が周辺のホテルより安く、やはり安くしないと客が集まらないのかなと思うがどうだろうか。

 さて、このモールには映画館が2館あって、こじんまりした観やすい座席配置で時々観に行くが、最近の上映作品はつまらないCG物の映画ばかり上映しているので足が遠のいている。


 

author:cebushima, category:セブ今昔物語, 18:18
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へそ曲がりセブ島暮らし2018年 その(28) 夏休みのプールの想い出

 今の小学校や中学校にはプール設備はあって当たり前だが、小生が小学生の頃はプールを持った小学校など区内に何校もなく、ある方が珍しかった。

【今思うと公園の少ない当時の千住には珍しかった公園である】

 そういう環境の中、小学校のクラス担任が隣りの荒川区に転任して、その小学校にはプールがあって夏休みに同級生と一緒に泳ぎに行って泳がしてもらった記憶がある。

 その時代の夏は今ほど猛暑ではなく、涼を取るのは扇風機で充分であったが、夏休みになると区営のプールが営業を始め、そこへ行くのが日課のようになっていた。

 写真はその区営プールのあった『大川町公園』で、写真を撮った時期は2010
年の師走で、あったと書くのは今はプールは撤去され更地になっていて、この区営プールがいつ頃撤去されたか分からないが、小中学校にプール設備が完備されて、その役割は終えたためであろう。

 大川町公園までは歩いて実家から10数分で、その途中の横丁にある工場の仕事を見るのも楽しみであった。

 この辺りは長屋風の家で物を作っている工場(こうば)が多く、今覚えているのではガチャン、ガチャンと音を出すブリキのおもちゃを作っていたプレス屋があって、まだその時代は騒音がどうのこうのという時代ではなかった。

 音といえばブリキ板の加工屋があって板張りの床の上で雨樋などをパンパン叩いて加工し、その器用さに驚いたが、こういう商売はプラスティック商品全盛になって消滅したようだ。

 そういえばやはり長屋の中で鋳物加工をしている小さな工場もあったが、その昔は工場もあまりうるさいことはいわれず、その他手作業で覚えているのは棒を丸く削っている店があったが、あれは鍬とかつるはしの柄を削っていた。

 まだそういう手作業の残っていた時代で、荒川放水路の堤防沿いには小さな工場がたくさんあった。そういった横丁を抜けて着くのが大川町公園で、プールの周りには子どもが列を作って並んでいる。

 当時は戦後のベビー・ブームのため小学生の多かった時代で、泳ぎに来た小中学生が多く、当然入れ替え制になっていたが、それも1回で入場できなく2回以上入れ替えを待って入場できた。

 入れ替えは1時間か1時間半くらいの間隔で、その時はサイレンが鳴り、それまでは一緒に行った仲間を列に置いて番を取らせて公園で遊んだが、子どもだから待つのは平気な時代でもあった。

 入場料はいくらであったか覚えていないが、区営なのでかなり安く、ようやく入場出来たプールも芋洗い状態で泳ぐというには人に当って真っ直ぐに行けなかったが、水に浸かれるだけでも嬉しい時間であった。

 小生は日赤の救助員の講習を受けたことがあるほど、泳ぎには達者な方で高校生の時はクラスで数少ない黒帽を被っていた。これは当時は学校でプール教育などはされず泳げない子どもは多かった。

 泳ぎをどのように覚えたのか分からないが、荒川放水路に『天然プール』と呼んでいた遊水池があって、そこで泳いだり、千住新橋の橋桁傍で泳いだこともあって透明な水には遠いが遊泳が出来た時代でもあった。

 

今の子どものようにスイミング・クラブで習ったりしたことはなく、見様見真似で犬掻きから始まって、ある時水を恐れなくなって自然に泳げるようになった。

 子どもの時に泳げるようになるのは親が水を恐れずに水の中に入れることが大切で、夏休みに鎌倉とか湘南方面に泊まりがけで連れて行ってもらったことと関係がある。

 

 この大川町公園のプールで一番の想い出は小学生の水泳大会に参加したことがあって、その時飛び込んで浮き上がり泳ぎ始めたら隣のコースに入っていて、向こうに着くまで分からなかったから、無我夢中であったのであろう。

 

 その大川町公園に写真を撮りに行って、プールや親しんだ遊具などすっかりなくなっていたが、太いプラタナスの樹などは子どもの頃に植えられていた細かった樹だなと想い出した。

 


 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2018, 19:33
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マニラ逍遥 2018年 その(10) エスコルタ通り点描−3 ファースト・ユナイテッド・ビル内のスペースには

 1928年に竣工した6階建ての『ファースト・ユナイテッド・ビル』は、マルコス時代の政商で、エドサ政変でアメリカに逃げたのにいつの間にか復権した人物が所有する銀行の物と前回書いたが、その1階に写真−1のようなスペースがある。

【写真−1 もったいない使い方】

 このスペースでは『サタデー・マーケット』と名付けて、毎週土曜日にフリー・マーケットを開催しているが、写真のように小さく小間割りして常設の店が並び、普通の日でもいくつか店は開いている。

 ここには首都圏の意識の高いアーティストなどが出店していて、主に小物を扱っているが独りよがりの感じがしないでもなく、日曜日に関わらず閑散としていた。

 

【写真−2 既成のプラスティックのざるなどで作っている】


 このスペースはかつてここで営業していたデパート跡で、剥き出しの天井が見え、写真−2は奥の方に飾ってあったオブジェで、コンクリート剥き出しの中で、躍動感を感じる。

 この写真で分かるようにこのビルは上部階へ抜ける吹き抜けが造られ、当時としてはかなり進んだデザインであり、梁や柱の造りもかなりしっかりした構造で、竣工後100年近く経ってもビクともしない様子が分かる。

 今出来のビルは長く持たせる考えなど無い使い捨てで、半世紀も持てば良い方で次々と建て替えられしまい、かつて丹下健三設計の高層の赤坂プリンス・ホテルが簡単に壊され、建て替えられたなど悪しき例がある。

 

【写真−3 この時間帯に客は我々と1人のみ】


 こういうスペースはもう少し活用した方が良いと思うが、その中に喫茶店があり、写真−3はその店内の様子で、店内には面白い椅子が置かれて雰囲気としては悪くはないが、頼んだコーヒーはあまり美味くない。

 フィリピンでは機械でドリップをするのが主流だが、豆の鮮度や状態などお構いなしで、このやり方がコーヒーを不味くしている。

 また、コーヒーを淹れる店員が機械的にコーヒーを淹れているだけで、当人が自分の淹れたコーヒーを飲んだことがないのではと思わせ、自分で味見をしていなければ美味い物は出せない。

 


 

author:cebushima, category:マニラ逍遥 2018年, 18:42
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