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この一枚2018年 セブ篇 その(13) セブでポルシェが売れる時代

 先日セブの埋め立て地に造られたショッピング・モールへ初めて行ったが、その中に写真の自動車を扱っている販売会社があった。

【これがポルシェかという特徴のない青い車】

 写真の左に写る看板にロゴと『PORSCHE
』の文字があり、セブにもポルシェを扱う店があるのかと驚いた。ポルシェは長年の憧れの車であったが、小生の憧れていたのは、このショー・ルームに置かれていたような今風の無個性な車種ではなく、『356
』と、その後継モデルの『911』であった。

 写真に写るオープン・タイプのポルシェなどあまり興味はない。ポルシェという名前は開発者のポルシェ博士から取っていて、同じドイツ製のフォルクスワーゲンのビートルとポルシェが似通ったデザインになっているのは、同博士がビートル開発に関わったためである。

 356は戦後の1948年から売り出したが、ポルシェの名を一躍有名にしたのは1955年5月に、映画俳優の『ジェームス・ディーン』の運転していたポルシェが事故を起こし、ディーンは死亡。この時乗っていた車は『ポルシェ550』というレース仕様車で、ディーンはレース場に運ぶために自ら運転し事故に遭ったとされている。

 356は1965年まで生産が続けられ、その後継車が911で、現在まで仕様は変わってはいるがポルシェの味は継続され生産が続いているが、最近はゴテゴテとしたデザインが加わり、ポルシェの良さは失われている。

 小生が高校生の頃に『平凡パンチ』が創刊され、アイヴィー・ルックが流行り、『VAN』の製品を買うために新宿の『三峰』に行くのが楽しみな時代であったが、日本で初めて自動車レースが鈴鹿で開催されたのもこの時代であった。

 第1回日本グランプリが開かれたのは1963年で、この年に『ポルシェ904』を駆って優勝したのは式場壮吉と思っていたが、式場は第1回にはトヨタのレース仕様の『コロナ』に乗って優勝していて、ポルシェで優勝したのは第2回日本グランプリの時で、記憶違いと分かった。

 平凡パンチが創刊されたのがこの年、1964年の4月で、日本グランプリ開催に合わせて記事が組まれていて、山手線の中で若い男の人が読んでいた平凡パンチをを横目で覗いていたのを思い出した。

 式場は山下清を見出した著名な精神科医を叔父に持つ、千葉県市川の病院の御曹司で、好きな車に打ち込めるいわゆる金持ちのドラ息子であったが、日本の自動車レースのパイオニアであったことは間違いない。

 レース界から退いた式場はいろいろな事業をしたが最後には病院経営に専念、再び世に名前が出たのは1978年に歌手の欧陽菲菲と再婚したことだが、2016年に77歳で亡くなっている。

 レース界を退いてから式場が乗っていた車はロールスロイスやベントレー、フェラーリといったシリーズの中の名車ばかりで、車三昧の人生を送ったことが分かり、鈴鹿で走ったポルシェ904は持ち主は点々としたらしいが、今も現存するというから一度見てみたいものである。

 ポルシェは憧れの車と書いたが、一度ポルシェ911を買う気になったことがある。知人が使っていた並行輸入車で金額も少々無理すれば買えそうであったが、その話が進んでいる内に海外へ出ることになって断念した。

 さて、写真に戻るが写真の青いオープン・カーは『ボクスター718』という車種で、ボクスターはポルシェの中でオープン・カー専門の車種で、ポルシェの中では異彩な位置を占めるが、昔からのポルシェ・ファンにどうもという感じがある。

 しかし、1千万円を軽く超すポルシェの中では案外と安く、日本では700万から800万円で売られているらしい。このフィリピンではいくらで売られているのか分からないが、倍ぐらいはするのではないか。

 どこの国でも金を持つと高い車を持って誇示する連中があるのは共通していて、そういった高い値段を付けてもフィリピンには買う層があり、商売としてはやって行けるようだ。

 このポルシェの同じフロアーにやはりドイツ車の『アウディ―』が売られていて、富裕層向けの戦略でこの販売店があると分かるが、1日1ドルで暮らすような貧困層が溢れるフィリピンではいくら何でも目立つ。

 そういえばアキノ前大統領がポルシェを愛車としていたのは有名だが、在任中は運転を禁止されていたと聞き、退任した今はそのポルシェのハンドルを握っているのだろうか。

 スピードの出る高性能車も結構だが、セブで写真の様な車を走らせてもスピードの出せる道はないし、慢性の地獄的な渋滞に巻き込まれたらどうにもならないし、売り物のオープンも照り付けるフィリピンの太陽の下では干上がってしまうから役に立たず、こういう車を持つ人はそういうことを意にかけない金持ちでないと駄目なようだ。

 こうしてポルシェのことを連綿と書いているが、結局ポルシェを持つことは諦めて、フォルクスワーゲン・ビートルを日本とフィリピンで持ったのが気休めになるが、このビートルを『貧乏人のポルシェ』と呼ぶが、確かにデザインと水平対向の空冷エンジンを後部に積んだ様子はポルシェと同じである。


 

author:cebushima, category:この一枚 2018 セブ篇, 19:17
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プーケット・ピーピー島・クラビ紀行 2018 その−(40) 朝食を食べてから裏山を登ってビュー・ポイントへ

【写真−1 これくらい写真と中味の違うインスタント食品も珍しい】

 

 ホテルへ戻って写真−1のインスタント麺を食べる。黒い器に入っている『うどん』で、プーケットのコンビニで『生うどん』と書いてあったので買ったが、その味は醤油味風のラーメンのような中途半端の味で、朝から酷く損をした感じ。

 

【写真−2 乾季の今は良いが雨季になったら大変そう】
 

 海に行くのは明日にして、写真−2のホテル前の道を辿って、ピーピー島のビュー・ポイントへ行くことにする。この辺りもゲスト・ハウスなど宿泊施設が密集するが、谷間のため海は見えず、造りも安普請で宿泊料金も安い。


【写真−3 車はほとんどないがその代わりエンジンボートが溢れている】
 

 細い急な山道を登って行くと、写真−4の宿泊設備が固まる場所で目に入った軽トラック。車の姿を見ないピーピー島内で車はこれで2台目で、オートバイも警官がパトロールに乗っているのを見ただけで、この点では島は良い。

                                                        

【写真−4 島が開発される前はこういう場所であった】
 

 道はかなり急で写真−4のように雨が降ったら沢になるように荒れているが、樹木は割合残り繁っている。同じコースを先行する2人がいたが、歩き慣れていないのか休み休みで息切れしていて、簡単に追い越す。

 

【写真−5 いずれこの辺りも開発されてホテルが造られそう】
 

写真−5で分かるように送電線が道沿いに敷かれていて、山の峯を超えて送電しているようだ。この辺りから向こう側の山と湾が見えるようになった。左には緑の屋根を持つ建物があるが、別荘の様な意味不明の小屋であった。

 

【写真−6 このような景色を楽しめるのがピーピー島】
 

 ビュー・ポイントの一帯は、公園風の島内では少ない観光地。入場料を払って入るが、写真−6のようにポイントからは向こうの山並みとこちら側の山並み、それを繋ぐ平地に建物が密集している様子がはっきり見える。桟橋のある港は左側に見える湾側。

 


 

author:cebushima, category:プーケット・ピーピー島・クラビ紀行 2018年, 19:57
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へそ曲がりセブ島暮らし2018年 その(19) 初めて行ったセブの巨大ショッピング・モール

 フィリピンには『シューマート(SM)』という福建省から移民した人物が一代で築いた企業があり、企業名にある『シュー』は靴の小売店から始まったのを由来とするが、今やフィリピンでは巨大財閥の一つになった。

【写真−1 中央のタワーは高さ150mありまだ建造中

 

 創業者は既に90歳を超えるが、世界の長者番付けの常連で、2017年度は世界で52番目、資産総額は200億ドルとなっていて、フィリピンの年間国家予算が600億ドルを少し出た程度だから、その規模が莫大であることが分かる。

 SMは傘下企業に国内最大銀行や不動産会社などを多岐に渡って支配しているが、基本的には小売業で、特にショッピング・モール事業には力を入れていて、現在フィリピン国内には70店舗を所有する。

 また、創業者の出身地、中国にもいくつかモールを展開しているが、その他の国へ出ることはないようだ。セブにもモールが3店舗あり、先日、3番目に開業したモールへ初めて行った。

 写真−1はセブの1番新しい埋立地に造られたモールで、2015年11月に開業し名称は『SM Seaside City Cebu』となっている。

 シーサイドとあるように立地場所は海に臨むが、ここは日本の税金で埋め立てた場所で、このようにSMは公的資金を使って埋め立てた土地を取得するのが上手くて、マニラ湾にも同様の巨大モールを造っている。

 この埋め立て地面積300ヘクタールあるが、施主はセブ市で、セブ市は不動産業化して、埋め立てた土地を企業に売っているが、日本の低利、長期支払いという破格の条件の税金による海外援助を『ODA』というが、私企業のために日本の税金が使われていると批判されている。

 このモールが開業してから2年半も経ってから行くのは、なにもこのような不便な場所に造られたモールまで行かなくても用は足せるし、モール自体の造りや店舗の内容など金太郎飴のようで、フィリピンの巨大モールには魅力がないことに尽きる。

 埋め立てが竣工してからずいぶん経つが、埋め立ての開発は少しずつ進んでいるものの、空き地が目立ち写真−1でもモールの横は草茫々で、場所によっては野生の樹が繁りジャングル化している所もある。

 行った日は週末であったがやはり不便なのか他のモールより客足は少なく、特に駐車場などガラガラで他のモールで駐車場所を巡って駐車場内をグルグル回るようなことはない。何よりも駐車場料金が無料であることが客が来ないことを物語っている。

【写真−2 SMはこれ以外に一帯の開発計画を持つ】

 

 写真−2はモールの屋上から写した光景で、道路は埋立地を貫く幹線でこの道はセブ市から南部方面へ抜けるバイパスにもなっていて、開通当時はかなりのスピードで走れたが、今は渋滞気味でスピードは半分くらいになった。

 彼方には火力発電所があり、セブ港が連なり対岸に国際空港のあるマクタン島がある。現在、セブ島とマクタン島間は2つの橋が繋いでいるが、もう1本の橋を架けることが決まっていて、セブ側はこのモール近くが出入り口になるから、このモールのために架けられる第3の橋ともいわれている。

 このモール、売り場面積は47万平米あり、フィリピンでは3番目、世界で9番目の広さという。ちなみに世界一広いモールは中国の東莞にあるモールで65万9千平米という。東莞には住んだことがあるのでどの辺りかなと思うが、テナントはガラガラだという。

 フィリピンで一番広いモールはマニラ首都圏にある『SM City North EDOSA』でその広さは48万8千平米、ここは世界でも6番目の大きさになる。セブにSMのモールは3つあると書いたが、1993年にセブに最初に出来た『SM City Cebu』も大きく、フィリピンで6番目の広さという。

 日本にもモールという業態は増えているが、1番広いのは埼玉県にある『イオン・レイクタウン・センター』で、広さ24万5千平米というが、立地が田舎過ぎて誰でも行けるというモールではない。

 むしろ、日本は大規模な店舗形態よりホドホドの規模の店が集まった個性的な場所が好まれるようで、大味なモールというのは今一つ発展しないようだ。反対にフィリピンはモール好きで、SMのモール以外に大資本がそれぞれモール事業を展開していて、競争も激しくなっている。

 さて、SMシーサイドだが、テナントは変わり映えしない店ばかりで、これはSMの傘下店舗とSMと仲の良い中国系の仲間が持つチェーン店で占めるために代わり映えしなくなる要因にもなっている。

 このモールのテナント数は450店弱というが、開業してからかなり時間が経つのにスペースの空きが目立つ。先述の傘下店舗や仲間店舗は資本力も大きいし、名前は知られているので潰れることはないが、独立系の店舗は撤退しているようで、やはり立地条件は良くないと分かる。

 モール業というのは大家が損しないような業態になっていて、テナントは家賃の他に売り上げに応じて一定程度の金額を吸い取られるようになっていて、経営は大変らしく、これはコンビニにも共通する問題で、特をするのは大家側という構造になっている。

 

【写真−3 滑る人よりもガラス越しで見る人の方がはるかに多い】

 

 写真−3はモール内にあったスケート場で、オリンピック競技の出来るサイズだという。かつてSMセブにはスケート場が併設されていて、年中暑いフィリピンでもスケートが楽しめるのかと、家人と共に滑りに行ったが、やはり営業的には難しいのかスケート場は消えて、現在はフード・コートになってしまった。

 この写真のスケート場、見た目が樹脂の上を滑っているようで氷でない感じがする。以前のスケート場は氷の上を滑ったが、今は技術の進歩で氷でない上を滑れるようになったと聞くが、直接触れていないから断言できない。

 この間の冬季オリンピックにフィリピンからフィギュアで参加した選手がいて、その影響もあって滑る人が増えたと聞くが、この日はご覧の通り滑る人は少なく、ここもいつまで持つか心配な感じがあった。

 それで、昼食をこのモール内で摂ったが、行った店はセブでも知られSM内に出店している中華レストランで、このように客が入っているのは従来の知られた店ばかりで、意気込んで新規出店した店は厳しい環境であり、儲けているのは賃料と売り上げを吸い上げているSMと分かる。


 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2018, 18:22
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