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へそ曲がりセブ島暮らし2018年 その(15) セブで開かれた今年の盆踊り

 セブで『盆踊り』と称したイヴェントが行われるのは今年で5回目だという。そういう催しがあるのは知っていたが、あまり興味はなく1度も行ったことはない。しかし今年は拙宅から歩いて行ける場所で開催されるので家人と共に行ってみた。

【写真−1 前に座るのは地元の小学生で盆踊りステージで踊った】

 この催し何か事情があるのか毎年会場が変わって、今年はマンダウエ市にある新興ショッピング・モールの裏側で開催したが、この敷地には40階を超えるようなコンドミニアムが近々建てられる予定で、来年もどこかへ会場が移りそうだ。

 さて、陽が落ちて涼しくなって出掛けたといいたいが、今年は例年にない暑さの年で、年中暑いフィリピンでも今年は猛暑注意報が出たくらいだから、昼間の暑熱が落ちずこんなにフィリピンは暑かったのかと、30年近く住んでいて改めて感じる次第であった。

 この催し、セブ日本人会が主催していて、後援に日本大使館や国際交流基金、フィリピンの観光省など公的機関が名を連らねその他企業や団体などかなりあり、単純に夏の夜の盆踊り大会という枠を超えている。

 小生自身は盆踊りより、その時出る屋台や夜店に期待して行ったが、入り口で50ペソを徴収された。フィリピンはこの手のイヴェントは無料だと人が押し掛けて終止が付かなくなる恐れから有料にしたと好意的に考える。

 さて、期待した屋台と夜店だが、テントを張ってそれなりに数は多かったが、たこ焼き、お好み焼き、ラーメン、焼き鳥、アイスクリーム程度で、その他の出店も会場に来るフィリピン人目当ての人材派遣業とか、得体の知れぬ日本のNPOやあと他に何があったかなと思うような、催しの規模の割には中味は貧弱。

 それでもたこ焼きを手始めに食べるが中味はイカで、フィリピンはたこ焼きブームになって専門チェーン店もあるらしいがこんな内容で大丈夫かという代物。次にお祭り定番の焼きそばを期待して別の店で頼むが、日本の焼きそば風にはなっているが塩辛過ぎ。これは日本人の舌に合わないという話ではなく、フィリピン人も呆れる焼きそばであった。

 

 同じ所で見た目は日本のおにぎりソックリの海苔を付けた『しゃけのおにぎり』のあったのでそちらも買うが、米は日本米風で食感は悪くないものの塩味は全くなく、おにぎりは塩を手に付けて握る基本も分からないのかと正に噴飯もので、中味のしゃけも味のない気の抜けた代物であった。

 

 家人は他の店で『ラーメン』と称するものを頼むが、どう見てもインスタントのカップ・ラーメンのほうがマシな感じで、こんな味のラーメンを出していたら、日本のラーメンの評判が悪くなり、しかも小さなカップで100ペソとはボッタクリではないかと思った。

 

 こういうどうしようもない味の店ばかりで、このイヴェントには申込みし出店料を払えばだれでも店を出せるようだが、主催者はどういうものをどのような味と値段で出すか出店者をチェックする必要があるのではないか。でないと、やがて不評が溜まって飽きられると思うが、お気楽な催しだからそこまで考える必要ないか。

 

 写真−1は会場に設けられたステージで、この上で各種のショーが行われていた。特にコスプレ・ショーは盛況なようで、出場者がそれぞれのコスプレで会場を闊歩。コスプレというのはアニメと同じに日本発の文化というが、文化というにはおこがましく『お遊び』にしか過ぎない。

 

 盆踊りと銘打っているが、全体に地元フィリピン人のためのお祭りといって良く『ヨサコイ・ソーラン』もフィリピン人グループが大漁旗まで自作して披露し、いくつものフィリピン人ダンスが続くが、ヨサコイ・ソーランは踊りの抜群に巧いフィリピン人にしては覇気のない踊り方で、日本的な踊りはリズム的に不得手なのかなと思った。

 

【写真−2 次の日の日曜日はもっと人が多かったという】

 

 日本から来た太鼓グループが演奏し、メンバーの一人が達者な英語で説明しかなり盛り上がったが、10人近いメンバーを日本から招くとはお金もずいぶんかかるなとつまらないことを思ったが、50ペソの入場料で聞けたから良しとする。

 

 さて肝心の盆踊りだが、写真−2の中央にあるステージの周りで輪になって踊り出したのは、そういった各種出し物が終わってからで、写真−1で法被を着て頭は豆絞りの日本と同じような格好の子ども達がステージに乗り、その上には浴衣を着た大人が踊る。

 

 最初に流れた曲は『東京音頭』で、この東京音頭は1933年に『丸の内音頭』として作られ、時代は昭和8年、ドイツでヒットラー政権発足、日本が国際連盟脱退という軍国主義にまっしぐらの年だが、今の天皇が生まれた年でもある。

 

 翌年に『東京音頭』として改題し、歌詞も変えたところ大ヒット。以降戦後も盆踊りの定番曲となり、その軽快なリズムから東京の人間には耳に馴染んでいて、東京を本拠にする野球やサッカーの応援歌になっている。

 

 東京音頭の曲が流れ、踊る姿を見て海外に30年以上住んでいて初めて聞いたと思うが、それなりに感動的で、ステージで踊る人もかなり練習したなと思え、そこだけは盆踊り気分だが、ステージの周りに輪になって踊る人は来場者の割には目立たなかった。

 

 しかも、東京音頭が続けて3曲流れ、次は『ドラえもん音頭』が2回流れて、それで終わってしまい、盆踊り定番曲の炭坑節など流れるかと思ったが、それはなく盆踊りと銘打つにはかなり貧弱。

 

 次にステージでファイヤー・ダンスが踊られて、パフォーマンスは終わり、文字通り打ち上げの花火が上げられ今夕は終わったが、その花火も住宅や工場の密集地で打ち上げられて大丈夫かなと思わなくもないが、見る方は気楽なものでその豪快さ、美しさに見とれる。

 

 こうして、土曜の夜の盆踊りは終わったが、後で聞いてみると昼間の3時から開催されたという。続けて日曜日も行われるが土曜日のこの調子で開催されるだろうし、小生としてはこの夜の分で充分。

 

 といろいろ書いたが、こういった催しを企画、準備した裏方は大変と思うし、日本人会役員の知っている顔も見て、内容の善し悪しはともかくご苦労様のことで、小生の様な外野があれこれいう筋合いではないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2018, 17:47
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プーケット・ピーピー島・クラビ紀行 2018 その−(26) バスに乗ってパトン・ビーチを後にし旧市街へ戻る

【写真−1 遠くに見える高い建物の手前に泊まったホテルがある】

 

 パトン・ビーチにあるホテルには2泊して、再びプーケット旧市街に戻り、そこで1泊し、明くる日に船でピーピー島に渡る。写真−1はパトンと旧市街を繋ぐバスで、いくつものトラックを改造したバスが、海岸沿いのこのロータリーから発車する。

 

【写真−2 バス利用者は海外からのバックパッカーが多い】
 

 海岸沿いをバスはソロソロと進み、写真−2のように乗客を拾っていき、出発した時は空いていたが海岸を流して離れる頃には満員状態。バスは時間はかかるが、タクシーだと5〜6倍の値段はするから外国人の利用者も多い。


【写真−3 海と海岸がなかったらどうしようもない観光地】
 

 一方通行の海岸沿いの道の最後の辺りが写真−3。午前中なので爽やかな感じの光景だが、パトン・ビーチは、散財して酔っ払って騒ぐのが好きな連中には快適な場所だろうが、1度来れば2度とは行きたいとは思わない場所。

 


【写真−4 かつては国内の長距離路線で使っていたようなバス】
 

 写真−4は車内の様子で、乗ったのはトラック改造ではなく元々のバス。これは発車間際なので席も余裕はあったが、やがて続々と人が乗ったため、エンジン・カバーの上に置かれた荷物を退けてそこに座るような混み具合になった。


【写真−5 バス代は50バーツ】
 

 前に乗ったトラック改造のバスは料金徴収の人間が乗っていたが、このバスには乗っていなくてどうやって料金を徴収するかと思っていたら、写真−5の市街地に入ってすぐの場所で運転手が車を停めて料金を集めた。写真の向こうに変な日本食店が見える。

 

【写真−6 機関銃のように見えるのは放水銃】
 

 旧市街の終点は出発地であった市場前かと思っていたら、バスによって違うようで降ろされたのは写真−6の市場に近いロータリー前。ここから予約していたホテルまで歩くが、そのホテルの場所が分からず右往左往。

 


 

author:cebushima, category:プーケット・ピーピー島・クラビ紀行 2018年, 10:35
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私の捨てられないTシャツ その−(2) アフリカ・ジンバブエのTシャツ

 1980年代の終わり頃から1990年代の初めにかけて、足かけ3年小生はアフリカで仕事をしていた。日本を出発した時は『昭和』であったが、日本へ帰った時は『平成』になっていて、天皇が死んだ時もアフリカの現地で知った。

【写真−1 30年以上経っても文字のデザインはまだモダン】

 住んでいたのはアフリカ内陸部にある『ザンビア』という国で、当時は成田を出て、ロンドンで乗り換えて1泊。ロンドンからケニアのナイロビに向かい、そこでまた乗り換えてザンビア首都の『ルサカ』に入ったが、丸々4日かかった長旅でもあった。

 当時のアフリカは飢餓や内戦で今にも国が崩壊するような様子で、世界中から援助の手が差し伸べられ、特に欧米の著名な歌手などが歌い継いだ『We are the World』が世界中に流れ、日本でも一時的にアフリカ支援ブームが起きた。

 ザンビアの当時の大統領は1963年の独立を主導したカウンダといい、他のアフリカ諸国同様に長期独裁政権を維持し、大統領夫婦が貯めこんだ財産は世界でも有数の額と噂され、汚職何でもありの状態であった。

 権力者の懐だけは肥える一方だが、ザンビアの主要輸出産品である『銅』の国際相場が暴落して、国内経済はガタガタ。赴任前に国内経済は滅茶苦茶と聞いていたが、いざルサカの大きなスーパーマーケットへ行ったら、店内の棚には豆の缶詰めがズラーとあるだけで、他の品物はほとんどなし。

 この情景を見て、小生は下手をするとまともな食料を得られず、良くて栄養失調、悪くすれば死んでしまうかも知れないと本当に思った。

 その象徴的なのは『コカコーラ』で、看板は見るが、コカコーラは全く街から姿を消していて、社会主義を標榜する政府はまことしやかに『アメリカ帝国主義の飲み物は禁止した』というが、実態は外貨が枯渇してコカコーラの原液が輸入できないためで3年間の間にコカコーラを国内で見ることはなかった。

 コカコーラは高校生の頃はずいぶん飲んでいたが、やがて健康に良くないと分かってその頃はあまり飲まなくなったが、ないとなれば欲しくなるもので、聞くとジンバブエ国境へ行けば飲めるという。

 ザンビアとジンバブエの国境にはアフリカで3本の指に入る絶景地の『ヴィクトリアの滝』があり、これを見ない手はないと計画するが、陸路で行くとすれば『鉄道』しかなく、この滝見物には雨季、乾季にかけて都合3回行っているが何れも鉄道利用であった。

 ザンビアの鉄道というと『タンザン鉄道』が有名で、これはザンビアの銅鉱山地帯に近いカピリムポシから隣国のタンザニアの首都ダルエスサラームまで行く国際鉄道線で、全長1859キロというから相当な路線である。

 ザンビアに居る間に、ぜひ一度この国際鉄道に乗りたいと思ったが、結局実行することは出来ず、ザンビア側の起点のカピリムポシ駅を見るだけで終わってしまった。

 このタンザン鉄道は中国の援助で敷設されたもので、ザンビア、タンザニアと中国と調印が成されたのが1970年で、驚異的な敷設スピードで1978年に開通した。このタンザン鉄道敷設には数万人の中国人労働者が従事したらしいが、現地で聞いた話ではニンニク畑を作りながら労働者は働いたという。

 この頃の中国は『文化大革命』の真っ最中で、国内は狂乱状態であったにも関わらず、アフリカ諸国には着々と援助をしていて、今のアフリカ諸国が中国贔屓であるのはこういった下地があるからで、日本が近年急にアフリカ援助を打ち出しても既に遅い。

 さてヴィクトリアの滝に戻るが、経済は滅茶苦茶なので鉄道も走っているかどうかという状態であったが、ともかく駅へ行って確認すると走っているらしい。しかし、時刻表などあってもないようなもので、いつ列車が走るか分からない。そのためいつ走るか分からない列車を待つ人々が駅前で寝転んでいる。

 幸い切符も買えて列車も出たが、この時乗ったのは上下2段対面の寝台車で、延々とザンビアの沿線を走り続けてリヴィングストンに到着。20時間以上かかったような気もするが、車内でどうやって食事やトイレを済ませたかは覚えていない。ちなみに首都ルサカからリヴィングストンまで路程距離は488キロある。

 

【写真−2 かなり丁寧に作られ値切ったのが悪いくらい】


 リヴィングストンの町の様子はもう忘れたが、今の人口は17万人というからかなり大きい町と思うが、当時はあまり大きさは感じず、町から滝の水煙が上がっているのが見えた。

 早速滝見物に行くが、落差100メートルを超し、それが2キロ以上に渡って水が落ちる様は感動的で来た甲斐があった。このヴィクトリアの滝だが雨季と乾季の時は全く水量が違い、乾季の時にはゴムボートで滝壺まで行け、見上げる岸壁は迫力充分。

 また、滝の上流はさぞ急流かと思っていたが、池状になっていて遊覧船で見物が出来、カバが浮いていたりして以外に緩やかであった。

 ザンビア側の滝の傍にコロニアル調のクラシックなホテルがあって、そこの庭の椅子に座って待ち望んでいたコカコーラを頼んだが、透明な氷が入っていたことと、炭酸がピチピチ跳ねていて、同じザンビア国内でも観光地は違うなと思った。

 ヴィクトリアの滝はザンベジ川にあるが、この川を跨いで鉄橋が架かっていて、長さは260メートル、1905年架橋というから100年以上経つ歴史的な橋で、橋からザンベジ川の水面まで128メートルあって、かなりの高さで橋から下を覗くと足がすくむ。

 今はこの高さを利用して『バンジージャンプ』が出来るらしいが、この橋の中間はザンビアとジンバブエの国境になっていて、ヴィザがなかったのでその時はジンバブエ側には行けず、橋上に国境を示す線が引かれていたと思うが、その線を跨いでいる写真を撮ったような記憶を持つ。

 その時土産店で買ったのが写真−1のTシャツで、今も印刷の色が褪せずジンバブエ製のようで、ザンビアのTシャツや滝のTシャツもあったと思うが、買わなかったのはデザインが良くなかったためではないか。


 観光客が屯する広場の樹の下で地面に直接品物を置いて商売をしているグループがあり、いかにも民俗的な木彫りやアクセサリーを売っていた。木彫りに面白い物があり『エボニー』などといっていたが靴墨を擦り込んで色を付けた偽物も多い。

 

 その中で写真−2の木彫りを買った。左側の像で高さ30センチあり、上から写真を撮っているから足が短く見えるが、かなり出来は良く裏側もしっかり彫っていて、これらの像の他に何点か買い、今はセブの拙宅に飾ってあり、アフリカを想い出す記念品となっている。

 

 交渉で手に入れたが、向こうも外人観光客と見て足元を見ていて、10倍の値段を付けたのには驚くより苦笑したが、だいたいそのくらいのふっかけ値段から始まるようだ。

 

 話は違うが、こういうアフリカ人の商売というので想い出すのは、町の市場に行くと『ダイアモンドはどうか』と売りにくる人間が屯していて、外人と見ると近寄って来て、布に包んだダイアモンドを見せてくれる。

 

 あの近辺はダイアモンドの産地にも近く、もしかすると本物が安く買えるのではないかとも思うが、売っている人間が高価な品物を売っている割には貧相な服装でどうにも信じられない。

 

 ある時、道端に落ちているガラス片を拾って『これと交換してくれ』と寄ってくる人物に見せたら、奇声を挙げて逃げって行った。あの様子からガラスの破片でも磨いてダイアモンドと称して騙しているのではないかと思った。


 

author:cebushima, category:私の捨てられないTシャツ, 18:25
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