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プーケット・ピーピー島・クラビ紀行 2018 その−(17) プーケットで最大のパトン・ビーチ点描−3

【写真−1 値段が高過ぎて観光客も敬遠】

 

 タイでも最大級の観光地だから写真−1のスターバックスが当然ある。タイのスターバックスで出すコーヒーは2倍に薄めているといつも感じるが、それでも飲もうと店に入ったら値段は通常の2倍で呆れて出た。いくら観光地でもそれはないだろう。

 


【写真−2 暑い国だから普段はこれで良いが雨季には大変】
 

 日本の軽トラックを改造してタクシーとしてビーチを走っているのが写真−2の車。側面は全部開放で対面式の座席は案外とゆったりしていて、気楽な服装で乗るには合っている。しかし、乗車料金がいくらなのかは全部交渉で決めるから、少々怖い乗り物。


【写真−3 世界に使い捨てを助長している元凶】
 

 写真−3は海岸通り沿いにあったマクドナルドの店。入る気は毛頭ないが、試しに値段を見たらセットで1500円近くもあり、こちらも観光地のボッタクリ値段で呆れる。そういう値段の高さから、スターバックス同様客はあまり入っていなかった。


【写真−4 レストラン商売も色々考えるものだ】
 

 観光客向けの店が並ぶ通りで目を引いた看板が写真−4。この左のビルの広場で人工波のサーフィンが出来、回りを取り囲む観光客が酒を飲みながら眺めている。波の穏やかなタイはサーファーにとっては人気はないようだが、こういう所で遊ぶのも一興か。


【写真−5 同じ風景の中でのサーフィンはサーファーはどう感じるのだろうか】
 

 そのサーフィンの様子が写真−5。前方から強い水流が流れその上をボードを操作して遊んでいる。この写真の観光客は上手にボード上に立っているが、結構立つこと自体難しく、他の観光客はあっけなく投げ出されていた。それを見て回りで笑うのが楽しみ。


【写真−6 東南アジアで何台あるのだろうか】
 

 写真−6はホテルのある通りでオヤッと気が付いた車。この車はチェコの自動車会社シュコダの『スペルブ』で、現在この会社はフォルクスワーゲンの傘下にある。どうしてチェコ製の車がタイにあるのか分からないが、停まっていたのは洋服仕立ての店の前。


 

author:cebushima, category:プーケット・ピーピー島・クラビ紀行 2018年, 19:02
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へそ曲がりセブ島暮らし2018年 その(11) 読み直したインパール作戦『憤死』

 日本からセブへ送って荷解きをしないまま積み上げていた段ボール箱内の本が、シロアリの被害を受けたことをその(8)で顛末を書き綴った。

【334ページのこの本が550円昔は単行本も安かった】

 その中に、高木俊朗著の『憤死』があり、改めて読み直した。高木俊朗は戦史物を多く書いていて、インパール作戦に関しては本を4
冊出し、本作は最後の本となった。

 副題に『痛恨の祭師団参謀長』とあるように、インパール作戦では陸軍は3個師団が戦闘に参加し、それぞれの師団には通称名が付けられ、『祭』というのは15師団、他に31師団『烈』、33師団『弓』が作戦に加わり、その数は5万人に近い。

 インパールに関する戦史、戦記物は数多く読み、高木の4部作も全部読んでいると思うが、細部についてはあまり記憶が残っていない。

 インパールというのは当時インドを支配していたイギリスの重要な基地があった町で、ビルマ(現ミャンマー)側に近く、ここから中国に向けて抗日軍にイギリスは援助物資を移送したためにそれを遮断し、インド方面に進出というのが日本陸軍の名目であったが、この作戦は日本陸軍の数ある作戦の中でも『最も酷い作戦』と後世に名を残している。

 日本陸軍の組織では上述3個師団の上部には第15軍があり、その上には南方軍があるが、それぞれの長、幹部の無能、無策から日本側は3万人近くの戦死者、3万人以上の戦傷者を出し、敗走を重ねた道筋は『白骨街道』といわれたように死屍累々の有様であった。

 本書に書かれた第15師団は愛知、静岡の出身者を中心に編成され、元々は中国、朝鮮戦線に投入された師団であったが、写真で分かるように見開きに師団の移動の様子が黒く矢印で描かれている。

 その移動距離は6900キロとあり、中国・南京から海路ヴェトナムへ上陸し、陸路でタイからビルマへ向かい、しかし、タイ−ビルマ間にはいくつもの重畳たる山脈と密林が広がり、それを超えての行軍は想像を絶するが、それを日本の軍隊は敢行した。

 インパール作戦は1944年(昭和19年)3月8日から7月3日までと戦史にはあるが、その年の6月にはサイパン島陥落、同月マリアナ沖海戦で大敗北と日本の陸軍も海軍も負ける一方で、10月にはフィリピンに連合軍が上陸、『神風』攻撃が始まり、どう足掻いても敗戦への道まっしぐらという時期であった。

 そういった中で、陸軍上層部は見通しを持たずに博打を打ったのが『インパール作戦』で、本当に勝つ気があったとは思えない杜撰な作戦であった。

 中でも15軍の司令官『牟田口』中将は人物最低の評価が高く、こんな人物の命令で死なされた兵隊、下級将校は死んでも死に切れない思いではなかったかと本書には書かれている。

 この作戦で有名なのは3個師団全ての師団長(いずれも中将)が牟田口によって戦闘中に更迭されたことと、特に31師団の佐藤中将は牟田口に逆らって撤退をし、これは日本陸軍史上初めての師団長の抗命事件として名を残す。

 この原因は、軍事作戦で最も重要な兵站(補給)を軍上層部が軽んじ、精神論で督戦するだけの日本陸軍の悪弊が如実に出た出来事で、15軍は糧秣、弾薬など補給なしで前線の師団に山脈を越え、インパールを攻撃しろというからたまったものではない。

 この佐藤師団長については高木が『抗命』という表題で書いているが、佐藤は軍法会議にかけられるはずであったが、陸軍は作戦の杜撰さが広く知られるのを恐れ、結局裁判にはかけられなかった。

 

 そのため、陸軍は佐藤を精神異常として処理して、戦後も佐藤の発狂説を流布し、高木の著作の副題も最初は『インパール作戦 烈師団長発狂す』とあり、その後高木は副題を削除した。

 

 31師団はタイで編成され、その旗下には日本各地の連隊が集まっていたが、四国出身が多く、戦後佐藤の撤退判断によって無駄死を逃れた生還兵は、佐藤に感謝するために香川県に顕彰碑を建てた経緯があり、それを考えると佐藤の判断は至極真っ当、おかしいのは牟田口を中心とした軍上層部といえる。

 

 本に戻るが、書名の『憤死』は第15師団長の山内中将は、結核などの病魔に侵されての前線指揮であり、牟田口に更迭された後に、後方へ下げられビルマで病死した。


 病死した山内は克明な従軍記を残していて、高木はそれを基に本書を執筆しているが、副題に『痛恨の祭師団参謀長』とあるように師団参謀長であった岡田少将の述懐を織り交ぜているが、岡田によると師団長の手記は事実をかなり歪曲して記述しているとある。

 

 ここで大事なのは、手記というのは書いている人間の思い入れ、正当化は当たり前にあって、正確に記述していると見るのは危険で、戦争に関しては特に注意が必要で、同じ戦闘でも指揮側と戦う側の記述が違うということは多い。

 

 さて、問題の第15軍司令官牟田口中将だが、インパール作戦の失敗を問われて予備役に編入されたが、その後敗戦の年に陸軍予科士官学校長となるが、軍の人材払底も極まるが、敗戦を迎えた。

 

 戦後を生き延びた牟田口は、自己正当化をしたままで1966年77歳で没するが、戦争を指導した高級軍人に共通しているのは、幼年学校、士官学校、陸軍大学校と軍の中で純粋培養されたことで、結局、こういった世間知らずの連中によって日本は滅亡一歩手前まで行った。

 


 

 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2018, 20:31
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バタネス紀行 2017 その−(63) ルソン島山岳部を南下して飛行機はマニラ国際空港に着陸

【写真−1 湖の周りは自然保護区らしいが開発は進んでいる】

 

 

 ルソン島の山岳部を抜けると飛行機は高度を落とすが、写真−1では眼下に複雑な形のする湖が見える。これは『ラ・メサ湖』といって、マニラ首都圏の飲料用の水源地になる、しかし、周辺は開発が進んでいて住宅がピッシリ埋まる。

 

 

【写真−2 世界でも有数の住宅密集都市だが都市計画などは全くない】

 

 

 空港滑走路に角度を合わせながら飛行機は着陸態勢に入る。写真−2は高層マンションの建ち並ぶ住宅地域だが、飛行機の騒音などあまり関係なく、緑地のように見える部分も開発業者の所有する空き地で、いずれ家で埋まってしまう

 

 

【写真−3 最近でもミンダナオ島の内戦により続々と戦死者が埋葬されている】

 

 

 写真−3には『マニラ英雄墓地』の墓標が円弧状に写っている。ここは1947年に造られた戦争で死んだ者を埋葬し、その数4万人以上。独裁者マルコスの遺体埋葬が先年行われたのもこの墓地で、30年以上前に一度行ったことがある。

 

 

【写真−4 道路の渋滞を尻目に飛行機は通り過ぎるが空港を出れば同じ目に】

 

 

 滑走路の端を機体が過ぎ、着陸は目前の様子が写真−4。左端に道が見えるが片側は車が詰まっていて渋滞が激しい。時間的に朝の通勤、通学時間帯なのでこの渋滞光景はフィリピンの都市部では日常的だが、皆諦めている。

 

 

【写真−5 V字型の滑走路を持ち空中衝突の恐れはないか心配】

 

 

 機体が着地したのが写真−5で、マニラ国際空港は3本の滑走路と4つのターミナルを持つが、どれも場当り的に作られいずれパンクする運命にある。そのため、巨額な改修計画やマニラ湾への新空港建設など大企業が策動している。

 

 

【写真−6 この航空会社はこの機種で観光地を結ぶ】

 

 

 小型機ながら高翼式で4発のエンジンを積んだ珍しい機体を撮影。マニラは朝方雨が降ったのか駐機場は写真−6のように水溜りがあった。セブに帰る乗り継ぎ便まで時間があるので、一度空港の外に荷物を持って出る。

 

 


 

author:cebushima, category:バタネス紀行 2017, 18:27
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