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東京慕情 その(15) 上野篇−3 池之端仲町通りの蕎麦屋など

 上野駅のガード下から上野広小路−秋葉原−日本橋−銀座方面へ抜ける道が『中央通り』になり、広小路に向かい、右手側最初の三叉路が『不忍通り』で、その昔、その角の辺りから東京で唯一の『トロリー・バス』の発着駅があった。

 トロリー・バスというのは架線から電気を取って走るバスで、軌道のない都電といって良く、一時期は都営で4
路線があった。その内の1
路線が上野公園−今井間を走っていて、この路線は都内最後のトロリー・バス路線で1968年まで営業していた。

【写真−1 ずいぶん前から店の正面の様子は変わっていない】

 今井は江戸川区の荒川と江戸川に挟まれた用水路の多い場所で、近くの行徳、浦安を含めた一帯は東京のハゼ釣り場所として有名で、小生も子どもの頃ハゼ釣りの季節にはずいぶん通った。

 アメ横の反対側に安売り衣料で有名なかつての『赤札堂』があり、今は『ABAB=アブアブ』などと洒落た名前に変わった。その前の中央通りを横切り、不忍通りから次の通りの角から始まるのが『池之端仲町通り』になる。

 この道は湯島に抜けていて、昔から商売をしている店がいくつもあって写真−1は蕎麦屋の老舗『連玉庵』。この通りも飲み屋の客引きが増えて落ち着いた雰囲気はなくなったが、連玉庵のしもた屋風の正面は高校生の時に初めて行った頃と変わっていない。

 その時は蕎麦の味は一流で美味いことは美味いが、いかんせん量が少なく老人向き。もっと食べたかったが値段も高く、社会人になってようやく追加を頼めるようになった。

 この連玉庵、森鴎外の小説『雁』の文中に実名で書かれていて、鴎外がこの小説を書いたのが1991年(明治44年)からなので、小説に登場した店は写真の現在の店ではない。

 連玉庵の創業は資料によって異なるが江戸後期の1859年(安政6年)、不忍の池に面する現在の不忍通り、鰻料理で知られる『伊豆栄』の並びに最初の店が開店。その後、同通りの湯島寄りに移転している。

 小説には東大構内の横手から不忍池に通じる『無縁坂』が描かれ、それを下って蕎麦を食べると記憶するが、その時のモデルになった蓮玉庵は、前述したかつての不忍池を臨む店と思われる。

 現在の連玉庵の斜め前に『イトウ』というジャズ喫茶があった。今は変哲もないビルになってしまってここにジャズ喫茶があったなど分からなくなったが、このイトウにもずいぶん足を運んだ。

 当時のジャズ喫茶はアナログ録音のレコードを聞かせ、イトウは東京でも有名な店で、以前新宿篇で書いたDUGと同じジャズ喫茶の系譜を引いている。店内は細長く、入り口左にレジがあって、右の壁にはLPレコードジャケットを飾っていた。

 ここで一番覚えているのは聞いたジャズの曲目や演奏者ではなく『トースト』で、カリカリに焼いた一枚の薄いパンを三角形に切ってバターを塗っただけだが、塩見の効いたあの味は忘れられない。このイトウは1991年に閉店したが、その閉店ニュースを聞いた時は閉店前に行きたいと思ったが、既にセブに住んでいて無理であった。

【写真−2 今は第2次ラーメン・ブームらしいが気取った店が多過ぎる】

 かつてのイトウの並び、湯島方面へ少し行った所に写真−2のラーメン屋がある。今はつけラーメンで知られる『大勝軒』の暖簾を下げているが、かつてここは知り合いがラーメン店を開いていた。

 ちょうどバブルの絶頂期で、知り合いは上野から始めて池袋、新宿と店を何軒も広げたが、ラーメン屋といっても当時は馬鹿にならず、上野の様な繁華街に小さな店を出すだけでも億近い資金がかかった。

 それもバブルが弾けると、本業の不動産業がパンクして全てを失った。何しろ土地の値段が下がるなど誰も考えたことのない時代で、知人いわく1億円で買った土地が3分の1の値段でも売れなく、株も相当やっていたらしく同じく損をしている。

 株価も当時は3万円近くまで行っているから、今の2万円の株価で市場は喜んでいるが20年経ってようやくこの程度の回復であって、安倍の経済政策で景気が良いとはお世辞にもいえない。

 写真の大勝軒、池袋のサンシャイン近くに発祥の店があって、近くに住んでいたので家人と一緒に行ったことがあった。場所も店構えもパッとしないが、順番を待つ人が長蛇の列を作っている。

 当時、ラーメン・ブームで美味いラーメン屋の前は列ができていて、活気はあったがたかがラーメン。並ぶのは嫌いだが、ようやく食べたラーメンがこのつけラーメン。こういう食べ方に慣れていないこともあったが、何だか妙に甘い感じがして美味いとは思わず、それ一度だけで終わった。

 今回、ものは試しと写真の店に家人と共に入ったが、やはりまた来たいという味ではなかった。元々、小生はラーメンよりは蕎麦の方で、家人はラーメンが好きで好みは対立するが、小生は冷やし中華、家人はラーメンで妥協している。

 ちなみに、フィリピンはラーメン・ブームでセブにも次々とラーメン屋が開店している。美味いのか不味いのか行ったことがないので分からないが、値段は政府が定めたセブの1日の最低賃金の半分以上を超すから、こちらでは高級な食事になる。

 それにしても、材料はフィリピン産を使っているのに日本と同じ料金を取るとはボリ過ぎではないかと思っている。もっと気軽に食べられる値段でないと、いずれ最初だけは物好きに押しかける性格のフィリピン人に飽きられる。

 そういう高いラーメンが受け入れられているのは、フィリピンには元々、牛骨や豚骨に少々の野菜を入れて煮込んだ『ポチェロ』というスープ状の料理があって、その味に舌が慣れているので、日本のラーメンが進出できる下地はあった。

 日本のラーメン業界も海外進出が盛んで、マニラやセブには日本の有名店も出店をしているが、かつてフィリピンでラーメン屋を開く日本人は得体の知れない人物が多かった。

 小金を持ってフィリピンで商売をしようとすると飲食店がてっとり早く『取り敢えずラーメン屋でも』となる。セブの過去の例では、この取り敢えずラーメン屋はすぐに潰れるのでセブに長く住む日本人の間では失笑ものであった。

 いくらフィリピンでも商売の道は厳しく、食い物商売や調理の経験のない人物が、フィリピンを舐めて始めても先が見えていて、性質の悪いフィリピン人に騙されるのがオチであった。今はそういうことは少なくなったであろうが、今度は怒涛のごとく押し寄せる韓国人がその二の舞になっているから、因果は国を超えて回るということになる。

 さて脱線したが、池之端仲町通りには老舗の店があって、写真−2の並びには『宝丹』という漢方胃腸薬で有名な店がある。宝丹は鴎外の『雁』や漱石の『吾輩は猫である』にも登場する薬で、今は新しいビルに建て替えられたが、1680年創業。以前はこの店の前を通るといかにも薬種を扱う店の中が見え、独特の匂いがした。

 

 その隣りには角が丸くなった茶褐色の古いビルがあり、以前は自動販売機をズラズラ並べた酒屋であった記憶を持つが、まだ、建物は残っていて、コンビニのような商売をしている。道を挟んだ角には組紐の『道明』があって(今は移転したのか?)、ショーウィンドウに飾られている組紐をじっくり見ると成るほどと唸る出来栄えを感じる。


【写真−3 ここなどビルを建てたら駄目になった店といえる】
 

 さらに湯島方面へ通りを歩くと左側に写真−3の『池之端藪蕎麦』がある。写真は2010年の撮影で、以前の店はいかにも気のおけない蕎麦屋風で上野へ出る都度に食べたが、ビルに建て替えてからは足を運ばなくなった。

 

 藪は東京の蕎麦屋の代名詞にもなっているが、秋葉原万世橋近くにある『神田藪蕎麦』や浅草の『並木藪蕎麦』、そしてこの『池之端藪蕎麦』が藪蕎麦御三家といわれ、何れもこれらの店は縁戚関係があり、どこの店が一番美味いというのは難しい。

 

 神田藪蕎麦は2013年に文化財でもあった店が火事で焼けてしまったが、焼ける前の店は手入れの良い庭があって、店内の威勢の良い雰囲気は良かった。この店のすぐそばには江戸、明治の面影を残す古い店が固まり、特にあんこう鍋で有名な『伊勢源』など、味と共に印象深い。

 

 こういった食べ物屋もそうだが万世橋にはかつて『交通博物館』があって、小学生の頃はずいぶん通った。交通とあるように陸海空の乗り物を展示していて、館内の古びた空気と共に夢中で見て回った想い出を持つ。

 

 この交通博物館は2006年に閉館されてしまったが、その歴史を継ぐ形で2007年に埼玉県大宮に『鉄道博物館』が開業した。数年前にこの鉄道博物館を訪れていて、かなり立派な施設と展示で鉄道ファンには申し分ないが、鉄道ばかりで少々物足りなさを感じた。


 

author:cebushima, category:東京慕情 遠ざかる昭和の想い出, 18:20
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四国八十八ヶ所遍路旅 2017年春 その(44) 西寺と呼ばれる二十六番札所『金剛頂寺』

 室戸岬から土佐湾沿いに20数分走り、山の手に入ると鬱蒼とした木々に囲まれた二十六番札所『金剛頂寺(こんごうちょうじ)』境内に近づく。
 

【写真−1 やはり足腰が達者な内に札所巡りはやった方が良い】


 この札所は室戸岬にある二十四番札所『最御崎寺(ほつみさきじ)』を東寺(ひがしでら)と呼ばれるのに対して西寺(にしでら)と昔から称され、二十五番札所の『津照寺(しんしょうじ)』は『津寺(つでら)』と呼ばれている。

 写真−1は金剛頂寺の山門へ至る石段で、厄除け坂と名付けられているから男の厄年42段と思うが、もっとあるような気もする。

 こうやって一歩一歩石段を踏みしめながら、木々や下草を眺めながら本堂へ向かうから良いので、本堂まで車で直に乗り付けるような寺は興醒めである。

【写真−2 素朴な山門】

 そうして行き着くのが写真−2の山門で、大きな草鞋が左右にあるのが面白く、仁王門も兼用していて草鞋の後ろには仁王様がある。

 こういう草鞋が鎮座していることは、この寺が足腰に関係し本尊は空海が彫ったとされる『薬師如来』。そのためかこの寺には空海ゆかりの金銅製の仏具が数多く残され、それらは国の重要文化財に指定されている。

ここに本文を記入してください。
 

【写真−3 木陰が程良い天気で遍路旅日和】

 写真−3は境内で、昔の堂宇は明治の代になって焼失してしまい、その後に再建され、本堂はコンクリート製とあるからかなり新しい。

 ここには鯨の供養塔があって、土佐湾で鯨漁が行われていたことを物語っているが、どこにあるのか気が付かなかった。

 また、宿坊があって、ここの宿坊は八十八ヶ所中の宿坊の中で良いとの定評があって、昨日泊まった旅館よりこちらの方が良かったかなとも思うが、後の祭り。


 

author:cebushima, category:四国八十八ヶ所遍路旅 2017年春, 21:08
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バタネス紀行 2017 その−(11) 早朝のバスコ港からホテルまで

【写真−1 使用できるのかどうか分からないし中を覗く気もない】

 

 

 風が吹き募るバスコ港の様子が分かり、また坂道を上がってホテルへ戻るが、その坂道の途中で見たのが写真−1。これはトイレで、バタネス地方特有の石積みの家を模して造られている。ただし、トイレとして機能しているかは不明。

 

 

【写真−2 一番上の島はフィリピン最北の有人島『イトバヤット島』】

 

 

 写真−2は港近くのバタネスを管轄する電力会社の建物にあった看板で、写真右に3つの島の配電網が赤い線で印されている。以前は配電時間の制限もあったが、図の真ん中にあるバタン島、下のサブタン島は24時間電気が使える。

 

 

【写真−3 通学時間帯にはこの一帯は学生ばかり】

 

 

 州庁舎近くには学校施設がいくつも連なり、写真−3はその一つで国立バタネス科学高校。この学校を出て、富裕層子弟は本土の大学進学になるのだろうが、卒業しても島には就職先はなく、日本と同じような若者の流出は避けられない。

 

 

【写真−4 バスコの町の灯台に次ぐ観光名所】

 

 

 朝早いのであまり人影は見えず、雲の多い空の下に現れた写真−4の教会。18世紀後半に建てられたサント・ドミンゴ教会で、白く見える建物は教会が運営するカレッジ施設。左手側は20分ほどで灯台に至り、右手側は州庁舎に近い。

 

【写真−5 バタネス諸島の各地には立派な教会がある】

 

 

 教会の中では早朝ミサが行われ、遠慮して中に入らず外観だけを撮ったのが写真−5。右側にも古い教会施設があってスペイン人支配のカトリックの栄華を今に残す。この教会はまた昼間に来て、内部の写真を撮るがかなり立派。

 

 

 

【写真−6 島では犬の姿は見たが猫はあまり見なかった】

 

 

 そうやってブラブラ歩いてホテル近くにある家で犬が2匹寄ってきて扉にかぶりついているのが写真−6。シベリアン・ハスキー種の良い犬だが、このようにバフバフ落ち着かないのは子どもの時の躾が悪く、これは人間と同じか。

 

 


 

author:cebushima, category:バタネス紀行 2017, 18:13
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