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へそ曲がりセブ島暮らし2017年 その(8) 2017年の4月が終わる

【憂き世を忘れさせるセブ島北部の青空と雲】
 

 今日4月30日で1年の3分の1が終わり、『月日は過客のごとく』を味わされる。
昨日の29日は昭和の時代には『天皇誕生日』の祝日であり、天皇死後に『緑の日』になり、その後『昭和の日』などと訳の分からない名称に言い換えられたが、祝日は維持されている。

 このように当たり前のように祝日となっている天皇誕生日であるが、昭和23年(1948年)までは天皇誕生日を『天長節』と呼んでいた。敗戦後もこの呼び方が数年間残り、その経緯は良く分からないが天皇贔屓でかつ天皇を利用した自惚れ屋のマッカーサーの意向があったのであろうか。

 ただし、戦前の絶対権力者であった天皇の誕生日を国の祝日としたのは、明治天皇の代からの措置であって、連綿と続く皇統と言いつつも歴史の中での神格化はつい最近と言っても良く、急進的な天皇制絶対国家主義が明治から始まった裏付けの一つにもなる。

 現天皇の誕生日12月23日も祝日となっていて、退位を表明している天皇の次の天皇、即ち今の皇太子の誕生日は2月23日で、現天皇が亡くなるとその誕生日が祝日になり、新天皇になった誕生日がまた祝日になるのかも知れない。

 そうなると今後延々と歴代天皇の誕生日が祝日になる可能性もあって、しかしこういった祝日に関しては国会で論議し、制定されるのでどうなるか分からないが、天皇制と関係なく祝日が増えることは良い。

 現天皇といえば、退位を表明してだいぶ日は経っているが、表明後政府は法律的検討を加えて、生前退位を認めるようだが、かなり老齢の現天皇がもしや政府の決めようとしているスケジュール以前に身罷ったりしたらどうなるのか。

 政治的影響が出るのは勿論で興味深いし、戦前回帰主義者の安倍などは政府が決めようとしている退位の日まで持ち堪えてくれと祈っているのではないか。そのくらい現天皇は高齢の影響が出て痛々しい。

 現天皇に関しては以前も度々書いているが、直接赤坂御所で話したことがあり、その時は颯爽としていて、天皇制云々は抜きにして正にロマンス・グレーという言葉が似合う人物で、こういう純粋培養のような人物というのは今の日本では皇室ぐらいにしかないとも思った。

 また、当時はまだ独身であった皇太子とも山登りの話などをしたが、当時はまだ皇族相手に一般人が自由な会話は出来たようで、今は警備や締め付けが厳しく、天皇一家の方々と闊達に話を出来ないというから、天皇制の神格化というのはジワジワと進んでいるのは確かである。

 天皇に関してはこれくらいにして、その前日の4月28日の『沖縄ディー』に触れたい。1970年代に学生時代を送った人にはピンと来る日でもある。

 特に1969年4月28日では神田から新橋間の線路上に学生を中心とするデモ隊が入り込み、電車や新幹線が止まるなどの騒乱が起き、戦後最大になる1000人近くが逮捕された。

 警察権力、公安が好む『極左集団』による事件と見られているが、沖縄の置かれた立場に憤慨した若者も多く、十羽一からげに排除するのは危険で、少なくてもこれら青年達には『私心』はなかった。

 最近、極右教育で賑わしている大阪の小学校設立者のように、権力を巻き込んで私心を得ようとしている、いわゆる保守と称する連中とは180度違うのは確かである。

 4月28日が『沖縄ディー』と呼ばれたのは1952年4月28日に『サンフランシスコ講和条約』が結ばれ、日本は進駐軍のくびきから離れて主権を回復するが、この時、沖縄、奄美群島、小笠原諸島は日本から切り離されてアメリカが支配することになった。

 1953年には奄美、1968年に小笠原は返還されるものの、沖縄は1972年までアメリカ軍政下となり、ドルしか通用せず車は右側通行と屈辱的なアメリカの植民地となっていた。

 アメリカが沖縄を重要視したのは軍事的見地からで、中国、朝鮮半島を睨むには地勢的に好位置で、フィリピンにあった極東最大のアメリカ海軍のスービック基地とアメリカ空軍のクラーク基地と抱き合わせでアメリカは軍事的立場を強化していた。

 沖縄とフィリピンのアメリカ軍基地は折からの『ヴェトナム戦争』時には『北爆』の重要拠点で、戦略爆撃機B−52が沖縄の嘉手納飛行場、フィリピンのクラーク基地から発進していて、実質的に日本はヴェトナム戦争に加担していたのは歴史の事実で、今の安倍内閣になってアメリカ軍と自衛隊が共同で軍事作戦を取れるようになったと騒いでいるが、遥か昔から日本はアメリカ軍を支援していた。

 しかし、フィリピンの両基地は1986年にアキノ(母)が誕生してからは盛り上がる反基地感情と、両基地近くのピナツボ火山が1991年、20世紀最大といわれる噴火を起こし、両基地は降灰で機能不全になりついにアメリカは両基地から撤退、両基地をフィリピン側に返還した。

 と書くといかにもアメリカは火山噴火という予期せぬ自然災害で基地を放棄したようだが、実はアメリカの軍事技術と装備が進んでフィリピンから沖縄に基地を統合した方が良いという軍事的及び経済的判断があった。

 それが今も続く沖縄のなくならない米軍基地のルーツで、沖縄返還時に時の宰相佐藤栄作は米軍基地はそのままにしながら『核抜き返還』を成し遂げたとして後年ノーベル平和賞を受賞した。

 ところが、後に開示された外交文書と関係者の証言でこの核抜き返還が真っ赤な嘘であったのは有名な話で、本来なら受賞を辞退、あるいは剥奪されても良いのだが、関係者は一切シラを切って有耶無耶になり、佐藤のノーベル平和賞受賞というのは佐藤本人と政治家の薄汚さを露わにした。

 そういえば当時沖縄の本土復帰運動で革新側の屋良朝苗が知事に当選したが、この時自民党が選挙戦で盛んに言っていたのは『革新側の知事になれば沖縄は芋と裸足に逆戻り』であった。

 こういう性根が保守と称す連中の中味で、米軍基地依存の正当性を言っているが、沖縄の現在の実態は、基地経済というのはかなり低くなっていて、替りに観光経済が大きな比重を占めている。

 フィリピンもスービック、クラークの基地がなくなったら地域は暗黒になると騒がれたが、今は両元基地とも経済開発区として新たな経済発展地域となっていて、沖縄も基地が大幅になくなってもフィリピンの返還された基地と同じように経済発展すると指摘されている。

 こういった声が大きくならないのはアメリカの『同盟』とヌケヌケと言い切っている自民党、安倍政権があるためで、特に北朝鮮の軍事的脅威を言い立てて軍事強化に邁進している。

 他国の軍事的脅威というのは歴史上常にある常套手段で、為政者は不必要に緊張を高め、あたかも軍事産業にを儲けさせるようにし、これが地球上から戦争、紛争がなくならない理由の一つにもなっている。

 それにしても日本は好戦的になっていると感じるのは私だけではなく、どうも戦前の戦争への道を歩んでいるのと同じ世論操作が行われていると感じる。歴史は繰り返されるというが、それでいて『歴史を最も学ばないのは人間である』と言う警句をしみじみ感じるこの頃である。

 写真は先日行ったセブ島北部の砂糖キビ畑の頭上に広がる青空の中に浮かんだ雲の姿で、観ていて飽きず長閑な時間を感じた。酷暑の中、砂糖キビの刈り入れが真っ最中で、その刈り取り作業を見て、また1年が巡って来たと思う。

 この時期、セブは一年で一番暑い時期で、連日晴れた日が続いている。日本のゴールデン・ウィークでセブへ観光に来る日本人も多いと思うが、不思議と日本の休み時期はセブの天気は悪いという体験的ジンクスがあって、今年の連休の天気はどうなるかと気になるところである。

 と書いている30日の午前中は、にわかに空が陰り出して、今にも雨粒が落ちてきそうな空模様となっている。せっかく遊びに来た内外の観光客には気の毒だが一雨欲しい所である。


 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2017, 11:24
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四国八十八ヶ所遍路旅 2017年春 その(8) 三番札所『金泉寺』で感じた遍路の作法など

 二番札所『極楽寺』から3キロ先の撫養街道沿いに三番札所『金泉寺(こんせんじ)』があり、最初はエアコンを着けて走っていたが、天気も回復して春麗で運転中に眠気を催す。

 これは危ないと思って窓を全開して走るが、それ以降雨の日以外は窓を開けて走ることにし、これは燃費向上にもなるし、セブのような排気ガス公害の酷い地域から来ると四国の町の中は窓を開けて走っても空気の汚れが気にならない。

【写真−1 ポカポカと遍路旅には最適な青空の見える春の日

 写真−1は金泉寺山門で、4月に入って春の遍路シーズンが始まり、団体の遍路姿が目立つ。そういった団体は小型バスに乗って巡礼を続けるが、一気に八十八ヶ所を回るのはやはり大変らしく各県ごとに分けて回るなど催行旅行会社は色々メニューをそろえている。

 ある大手旅行社のプランを見たら八十八ヶ所全部を8泊9日、約30万円で募集していて、こうなるとヨーロッパ方面に旅行に行くのと同じになる。

 それにしても8泊で八十八ヶ所を回ってしまうとは余程効率良く回っているのだと思うが、相当慌ただしいはずで、我々の八十八ヶ所の半分を回るのに7泊というプランは相当余裕があるともいえる。

【写真−2 団体は端で読経、蝋燭は奥からとあるがそれだけ守らないのであろう】

 写真−2は金泉寺境内でのそういった団体の参拝風景で、手前の朱色の箱はローソク立てで、その前が線香立て。写真の前の列で傘を被り、いでたちが本格的な遍路姿の人は『先達』と呼ばれる、こういった遍路旅を案内する役目を持つ。

 簡単に言ってしまえば、遍路旅のガイドとなるが、ツアーによっては添乗員と呼んでいる。この先達がにわか遍路者に作法を教えて遍路旅の規律を保つのだが、あちこちの境内で見かけた先達にも厳格な人、融通無碍な人も居て、その点は面白い。

 こういった団体で共通しているのはご朱印を各自が頂くのではなく、境内で読経している間に係員が納経所に納経帳をドサッと持ち込んでご朱印をもらっている。本来、ご朱印というのは個人個人が有り難く札所から頂く性質のものと思うが、団体はこのような行為が許されているというか、役得になっている。

 そのため、納経所でご朱印を頂きに行き、団体の持ち込む納経帳が山積みになっているのにぶつかると長く待たされ、最初の頃はげんなりしたが、その内、春の新緑の外の景色を愛でながら待つ余裕が持てるようになるから、遍路のそれも修行の内と思える効果は確かにある。

【写真−3 納め札の多い寺少ない寺があったが、これは管理の問題か】

 写真−3は『納め札』というもので、札所を回るとこの納め札を寺の本堂と大師堂に設けられている納め箱に入れるが、右側に巡拝した年月日、左側には住所と姓名を書く。真ん中、下に『同行二人(どうぎょうににん)』とあるが、これは被る菅傘にも書かれていて、八十八ヶ所を開いた弘法大師と共に遍路を行うという意味になる。

 納め札はあらかじめ書いておいても良いが、私の場合、本堂や大師堂の前でその時思い付いたことを裏面に書くようにしたが、やはり最初に書くのは『交通安全』であった。

 この納め札だが、写真の白色は1〜4回遍路を行った者用で、回数によって色が変わって来るのが面白いというか不思議。ちなみに青色が5〜7回、赤色が8〜24回、25〜49回が銀色、50〜99回が金色となり、100回以上は錦となっている。

 1回でも大変なのに何度もやる人が居ることにも驚くが、色で差別化を図るとは考えた人も知恵者であることは確か。なお、赤い納め札までは普通に購入できるが、それ以上は市販されず、『霊場会』なる組織の許可が必要とのことで、四民平等であるはずの宗教行為もこうやって権威付けるのは古今東西変わらない。

 今回巡って納め札の箱を覗いて青(どちらかというと緑)と赤い納め札を見ているが、これを納めた人は先達か余程信心深いか、良くも悪くも四国遍路の数寄者であることには間違いない。



 

author:cebushima, category:四国八十八ヶ所遍路旅 2017年春, 08:00
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ルソン島紀行 山岳州篇 2017 その(21) バナウエで時間を過ごしてその日の夜のバスでマニラへ

 今度また来れるかどうか分からないが、その時は車道が完成して排気ガスまみれになるであろうバタッドの道路工事を横目に、行きに乗り帰りも使う約束でバナウエからやって来たトライシクルでバナウエに戻る。

【写真−1 山肌のむき出しになっている場所が道路で下の斜面は残土投げ入れ】

 写真−1の中ほどの斜面に車道が造られていて、残土などその下の谷間にそのまま投げ落とす粗っぽい工法で、自然破壊がどうのこうのという範囲を超えている。

【写真−2 帰りというのは何でも早く感じるが気のせいか】

 帰りのトライシクルは下り勾配の中、思ったより速くバナウエを目指すが、写真−2のように山深いことには変わりない。


【写真−3 左上に幹線道路が走るが地形的にはバタッドと良く似ている】

 バナウエに戻る途中、棚田の名所が道路沿いにあるというのでそこへ行くが、まるで絵に描いたような景色が広がるのが写真−3。

 バタッドもそうであったが、棚田の最下部に集落が固まっていて、敵からの襲撃を防ぐためにはこういう形が良いようだ。その集落を注意して見ると、建物の周りには壁のような物が築かれていて、やはり外敵から集落を守るようになっている。

 教会らしき建物もあり、トライシクルの運転手に『この村には泊まることは出来るのか』と聞いた所、観光客用の宿泊設備が完備していて受け入れには問題ないという。

【写真−4 パラシュートのような鮮やかな色の覆いが慶事を表している】

 こういった環境の中で時間を過ごすのも一味違う体験が得られるのではないかと思った。バナウエに近い場所で、写真−4のように道路上に人が溢れていて、運転手は『結婚式がある』という。

 近隣からお祝いに駆けつけ、恐らく、家の中では民族衣装を着けて伝統的な結婚式、披露が行われているのだと思うが、外の人々の中にはこの地方独特の民俗衣装を着ている者はいなかった。

【写真−5 この辺りに見える山の斜面もかつては棚田であった】

 写真−5はバナウエの中心地を見下ろした様子で、真ん中辺りがそのまた中心で、ジプニーなどはここから発着している。今夜のバスでマニラへ戻るが時間があったので博物館や町歩きで時間を潰す。

 博物館は写真−5を撮った場所の更に上にあるが、訪れる人も少なく、鍵を開けてもらって入った。展示品はこの地方の少数民族を中心にした民具などが主であったが、その昔に撮られた古い写真が面白い。

【写真−6 狭苦しい車内より屋根の方が気持ちは良いだろうが】

 写真−6はジプニーの屋根に乗っている様子で、この山間部では屋根に乗るのも普通の光景で、いかにも手慣れた雰囲気。

 これでジプニーには満員なら50人近く乗り、重心は悪くなるから、下り道やカーブで制動を誤って谷に転落する事故などしょっちゅう起きている。

 外国人観光客も面白がって屋根に乗るが、あまり勧めたくない乗り方で、体験のため短距離に留めるべきである。



 

author:cebushima, category:ルソン島紀行 山岳州篇 2017, 17:35
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