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まにら新聞掲載 Archives (7) ホーリーウィークの過ごし方 その−5(2005年)

 4) フィリピンと沖縄を繋ぐ舟と思わぬ感電体験

 

 バンタヤンの市場で有名な渡りガニの一種、ブルー・クラブや貝、果物、飲料水を仕入れ、来たコースを逆にたどりキナタルカン島に戻った。乗ってきた舟には3馬力くらいの農業用にでも使われるガソリン・エンジンが付けられていたが、直径10センチメートルしかない小さなスクリューは船型に合うのか効率良く推進し、速力は10ノット以上出ている。

【写真−1 沖縄で見たサバニ 前後の形態が特徴的】


 

 沖縄に『サバニ』という舟があり、対波性と巡航性に優れ船首が直立しているのが特徴だが、この海域で見かける舟もそのサバニのように船首が切り立っている。サバニは単胴艇で、こちらの舟は両舷にアウト・リガーを出した違いはあるが、舟の作りに共通点を感じた。
 

 この島の舟は他所から来た人間が建造しているが、全長9メートルで中古のガソリン・エンジンを付けて5万ペソくらいで手に入るらしい。いつの時代か分らないが、沖縄の船匠がこちらに来て建造法を伝えたのかなと、思いは巡る。
 

 沖縄の人は海洋民族と言われていて、ここフィリピンにも色々な影響を残している。先年、映画化されたが『ムロアミ』という漁法がフィリピンにある。これは人間が潜って、海中に張った網に魚群を追い込む漁法で、これなどは沖縄の糸満という地域で行なわれていた伝統的な漁法が、日本名そのまま伝わっている。
 

 舟の話と言えば、泊まった家の前の砂浜に大小の舟が置かれているが、この舟のエンジンを闇に紛れて盗みに来る輩がいて、村では浜に小屋を立て交代で見張っていた。

 島の住民同士が何らかの形で縁戚あるいは知り合いでも、盗む行為は結構あって、家の中にあった米が半分盗られただとか、自分の土地に生っているヤシの実が盗まれるなど、ささやかな犯罪の話を聞いたが、当事者同士にとっては真剣な問題となっている。

 

【写真−2 フィリピンにコカコーラがやって来て100年以上経つ】


 島では、フィリピン中どこにでもある世界的なブランド炭酸飲料がなく、名前の聞いたことのない安価なメーカー品だったり、ビールもなじみの薄い製品しか手に入らなかった。値段にして1本で1ペソか2ペソ安いだけだが、収入の少ない島の人々にとっては生活を左右する金額となるのだろう。

 そういった慎ましい内所に関わらず、島内一周に利用したハバルハバルなどは1人がひと乗り20ペソも払い、島の人には気楽に利用できる値段とは思えなかった。またバンタヤン島でも、セブ市では5ペソで乗れるトライシクルが倍の10ペソもして、ジープニーなどもかなり高い料金を払っている。便利さの恩恵に対する代償は、不便な島ほど割高なようである。

 

 ☆


【写真−3 セブ本島へ帰る船の乗船方法 港のない島では普通】
 

 とんでもないハプニングが島を去る最後の晩にあった。月夜の穏やかな浜でバーベキュー・パーティーを開く用意のため、夕方から数時間だけ使える電気の延長コードを動かしている時に、結線部の裸線に触れ感電してしまった。
 

 以前、仕事中にドライバーが600ボルトの電線に触れて、ドライバーの先が大きな音と火花で瞬時に3分の1ほど溶けてしまった経験を持つが、素手で電線に触れたのは初めてである。こういった事故は前後のつながりが錯綜している所も多いが、その顛末は次の通りである。
 

 いきなりブルブルと上半身に電気が回り、右手で掴んでいた電線をすぐに離さなければと意識は強くあったが、電線を離す事が出来なかった。感電した私のすぐ近くで妻がバーベキュー用の竹串を削っていて『助けて』と叫んだ記憶はあるが、単に意識の中で呟いたのかも知れない。

 混濁した中でも、妙に心臓が落ち着いて鼓動を続けているのが分り、『俺は大丈夫だ』と思った。ブルブルと電気が回っていたのは、ほんの数秒と思えるが、何かゆったりした時間に乗っているようで、次にガンと棍棒で叩かれたような衝撃を後頭部に受けた。

 『電気が後頭部にショックを与えたのだな』と考え、身体はまだ直立していると思った。実は妻の証言によると、これは私が仰向けに倒れて頭をコンクリートの階段にぶち当った時のショックだった。感電し倒れた私に妻が気付き抱き起こすが、私の記憶では頭を打ったことなど覚えてなく、感電している私に触れると妻も一緒に感電してしまうなと考える余裕はあった。

 倒れた事で電線から手が離れ、身体が濡れていなかったこと、素足でなく絶縁性のあるスリッパを履いていたことなどで、感電死を避けられた。その代わり後頭部にはタンコブが出来、しばらく痛みが残った。

 

 電気の不便な島で感電をしてしまうなど洒落にもならない話だが、感電中は喜劇映画のシーンではないが、身体が蛍光灯のように光っていたかも知れないと、家に無事に帰った今では笑っている。

 

 (了)


 

author:cebushima, category:まにら新聞寄稿 Archives, 20:03
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まにら新聞掲載 Archives (6) ホーリーウィークの過ごし方 その−4(2005年)

 (3)  隣りにあるバンタヤン島へ小舟で行く

 

 水は人が生きていくには最重要である。私の知人がアフリカのケニアで、伝統的井戸掘り技術の一つ『上総掘り』の技術移転をしているが、彼の地では水を確保するために女性や子どもが長い時間をかけて水を運んでいて、その労力は大変なもので、井戸が近くにあるとないとでは一生が左右されると言っても良く、世界の多くはまだこのような状態の地域が多い。

【写真−1 当時の写真: 島にある井戸 個人の持ち物で有料】

 この島には台地上に井戸が掘られていた。ポンプのない共同の井戸で終日人が絶えないが、覗いてみたら水面は20メートルも下にあり、石で囲まれた井戸の縁は上下するロープの摩擦で、無数の筋が深く削り取られていた。

 子どもが汲み上げていたが、用意のポリバケツを満たすには相当な時間がかかり、以前はもっと水面が高くこんなに苦労しなかったと言う。人口増による水源の枯渇ではないかと思うが、汲み上げられた水はいくらか濁りはあるが、塩分はまったく感じなかった。

 

 メトロ・セブと称し、近隣を含め人口が100万人を超えるセブ市の目と鼻の先にある島でも、水の事情は同じで井戸もなく『天水』に頼る所が多い。今回、私達が泊まった浜の家々も天水に頼っていて、大きな壷に貯めていた。

 浜には共同の雨水タンクがありそれを利用したが、バスケット・ボールの頭を切りロープで結んだ容器を、タンクの水面に落としては汲む繰り返しは、腰の痛くなる作業だった。

 

 ☆


【写真−2 当時の写真; 島の突端 切り立った岩場が続く】
 

 この島からバンタヤン島まで日帰りで往復した。定期的な便船はなく、漁に使っている舟をチャーターしたが、こういった時、必ず親は子どもを連れて乗り込んでいて、小さい時から海と航海を学ばせる姿勢を感じる。
 

 バンタヤン島にはセブ島からの便船があるサンタフェを含め3つの町がある。その1つ、マドリデホスに2時間近くかけて上陸したが、町中でバタバタ走るトライシクルやセブと変わらない新車が行き交う光景は、キナタルカン島のひなびたたたずまいに和んだ眼には、隣同士の島ながらずいぶん格差を感じさせた。

 この町からバンタヤン島の中心、バンタヤン町まで30分、ジープニーに乗って足を伸ばすが、道は立派に舗装され、道沿いは島の中とは思えない平地が広がっていた。

 この平地を利用して鶏舎がたくさん設けられていて、島は鶏卵の産地として有名で、信じがたい数字だが毎日100万個の卵を産するという。これといって特徴のないこのような島で、どのような理由と背景で鶏卵産業が発展したかは興味深い話である。

【写真−3 マゼランゆかりのサント・ニーニョ教会 地震で鐘楼が崩れる前の写真】
 

 世界史に名高いマゼランがセブに上陸したのは1521年で、同時にスペインによるフィリピンの植民地化とキリスト教の布教が始まったが、それから60年足らず後に石造りの教会がバンタヤンの町に建てられ現存している。

 

 日本の歴史でいえば安土桃山時代、織田信長が全国制覇にかかっていた頃である。この町は昔も今もルソン方面とビサヤ方面をつなぐ、海上交通の中継地になっているのか立派な港がある。
 

 それがもたらした財力と信仰心が島には過ぎた大きな教会を建立出来たのではと思うが、このような例は他の島にもたくさんあり、セブ島隣のボホール島にはフィリピン最古の教会が残り、ミンダナオ島に近いシキホール島にも古い教会と大きな付属施設が建てられている。
 

 バンタヤン町ではホーリーウィーク中に、フィリピンでも有名な宗教的儀式と催しが行なわれ、また最近始めたのかミニ・トライアスロン・レースも期間中に開催し、内外から人を集める工夫がなされている。

 タンクトップとショートパンツ姿が定番の観光客グループも多く、近くの市場などは人出でごった返し、普段にない活気が町をおおっていた。この市場には名物なのかチキンのバーベキュー屋台が多い。

 美味そうな色と煙に誘われて食したところあまりにも肉が硬く、卵を産まなくなった廃鶏を食べさせられたと『名物に美味い物なし』を地でいってしまった。

 

 ホーリーウィーク中は肉食をしないカトリックの戒律があるが、面白いことにここバンタヤンは逆にたくさん食べる風習があるらしい。その理由を訊いたら『いつもは魚ばかり食べているから』と島らしい答えが返って来た。

(つづく)




 

author:cebushima, category:まにら新聞寄稿 Archives, 20:12
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まにら新聞掲載 Archives (5) ホーリーウィークの過ごし方 その−2(2005年)

 (2) 戦時中は沖合いを見張る要衛の島 キナタルカン島 

 

 昨晩泊まったのは、砂浜に臨むヤシの木に囲まれた家で、波の音を枕にする申し分ない環境だったが、その家の持ち主は家の後ろに迫る崖を上った台地上に住んでいた。

【写真−1 当時の写真:島の浜辺に到着】

 台地にある家は近辺の草葺の屋根を持つ民家とは規模も作りも段違いの、コンクリート造りの建物で、持ち主は現在アメリカに住み、もう島に帰る気はなく姪夫婦に家を預けていた。

 

ハバルハバルに乗って島を回った時、コンクリート造りで目立つ家の多くは身内がアメリカに移住している、あるいはOFWとして中東などに出ている家だった。

 零細な漁業とキャッサバかトウモロコシしか出来ない島の経済環境を考えると、島外に活路を見出すのは当然で、この集約が海外居住者数に端的に表れていて、日本がやっと90万人を超えた中、フィリピンは800万人と桁違いに多い。

 

 特にアメリカへ行く熱は高く、最近でも私ども夫婦と長年の付き合いのあった一家がアメリカに移住している。能力があり、目端の利いた人間はフィリピンを見捨てて行くのだなと感じながら、無理もないと理解した。

 10年以上前に今や世界の工場と化した中国・広東省で仕事をした時、当時の工員の最低日給は1ドル少々で、工員は四川省などの内陸部出身者が多く、その彼らは『給料が3倍くらいでは故郷を出たいと思わないが、5倍ともなると出て行く』と言っていた。

 低賃金でいくらでも人が雇えた状況を考えると、故郷では現金収入の道が皆無なのではと想像されたが、この島も似たようなものだなと改めて感じた。

 

 日比間で進む看護師・介護士の問題もこれと似ていて、最近見た英字紙では卒業式シーズンにちなんで『看護師の脱出』と特集を組んでいた。これによると今年、看護学科を卒業したのは2万人で、毎年看護師試験合格者以上の数が海外に流出、年度によっては合格者の3倍以上にもなっている。


【写真−2 当時の写真:アメリカに移住した人が寄贈した島の教会】


 この10年間で海外に出た看護師は9万人で、その多くはアメリカにと思いがちだが、実際は14%足らずで、最大はサウジアラビアの57%である。

 同じ仕事をしてフィリピンの15倍から20倍の給与を得られれば、雪崩を打って流出するのは当然で、私のような外国人がとやかく言える代物ではない。

こういった国情では国民を統一して行くのは困難と見えて、フィリピンはやたらに国旗や国家に忠誠と敬意を払わされることが多く、映画館での国威発揚映画上映などその冠たる物である。

 最近もボクシングで負けた選手に対して大統領が『国民統合の象徴』と持ち上げたが、『大統領がワザワザ言うことか』と失笑を買い、どこの国も施政者の精神は貧困と再認識された。

 

 ☆

 

 戦時中、島には日本軍が駐屯していた。他の島も同様で最激戦地のレイテ島に近く、パナイ島、ネグロス島方面を睨む戦略上の要衛であることは、戦争を知らない戦後生まれの私でも分る。

 戦争末期に日本軍が隠れた洞窟があるというので行ってみる。島の地勢は隆起した石灰岩で成り、海岸近くは長い年月の内に侵食され、意外と変化のある様相を見せている。

【写真−3 当時の写真:島にある天然の海水プール】

 絶壁に囲まれた天然の塩水プールがあり、休日とあって島の子ども達が大勢集まり、着たまま飛び込んではにぎやかな声がこだましていた。プールの水底には日本で『海ブドウ』と称して高く売られている海草の『ラト』が群生し、今晩のおかずにと採取する子どももいる。

 

 日本軍の隠れた洞窟は相当古い時代から人が住んでいた跡で、考古学上の発見もあり、全て折られてはいたが鍾乳石が垂れていた跡も見えた。ここに限らず、戦争末期の日本軍は隠れた話が多く、当時を知るフィリピン人の古老達も『骨のようになった兵隊ばかりで、降参して出て来た時はかわいそうなくらいだった』と異口同音に語っている。

(つづく)

 


 

author:cebushima, category:まにら新聞寄稿 Archives, 10:48
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