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ルソン島紀行 山岳州篇 2017 その(15) バナウエからバタッド入り口まで山道をトライシクルで

 サガダを早朝のジプニーで発ってボントック、バナウエと乗り継ぎ、その足でトライシクルをチャーターしてバタッドへ向かう。バナウエからサガダ行きのジプニーも出ているが1日に何本も出ていないので個人旅行はトライシクル(側車付きオートバイ)利用が便利。

【写真−1 ビニールの風除けが付いているのがこの地方の特色

 写真−1はバナウエの街中をソロソロと走るトライシクルから撮った写真で、この辺りには観光客向けのレストラン兼用宿泊所が多い。

【写真−2 大雨でも降ったら崩れそうな斜面にバナウエの町はある】

 写真−2がバナウエの街中を抜けていよいよ山道へ向かう地点で眺めた風景で、写真−1の右側にある建物の裏手の様子。

 これらの建物は眺めも良いのでレストランや宿泊所になっているが、急勾配の斜面にへばりついて増築に増築を重ねた建物が建てられていて、実際に見ると少々怖い。

【写真−3 バナウエから少しずつ高度が上がって行く】

 写真−3はバタッドへ向かう道沿いで見える棚田で、バナウエ地域にはこのような景色は普通に見られる。

【写真−4 世界遺産はバナウエ全体の棚田が指定されている】

 写真−4は少々規模の大きい棚田で、この時期は水を張った状態の田圃が多い。こういった景色は日本でも見たような景色で、稲作文化が伝播、共通している証拠にもなる。

 トライシクルといっても結構力があって、急な山道でもグングン登って行き、山腹を巻く道路を確実に走る。

 バタッドは本道から更に急勾配の山道を入るが、そういった僻地ともいえる地域でも舗装道路になっていて走り易いが、所々崖が崩れてそのままの状態で放置してある箇所も多い。

【写真−5 崩れるのが収まるまで崩れっ放しという場所も多い】

 バタッドには直接車では入れないが、かつてはかなり手前までしか行けず、そこから山道を歩いていたようだが、近年かなり近くまで道が延ばされた。

 写真−5はその新しく作られた道路上で、トライシクルの運転手が我々に安全のために下車して、その先の道で待っているといって、先へ走って行った光景で、いざ降りて歩くと身体が前のめりに倒れそうな急勾配であった。

【写真−6 ここまで車で入れるのでかつての秘境バタッドはかなり近くなった】

 下の方でまたトライシクルに乗り込んで着いた場所が写真−6で、写真は来た方向を見上げていて、一帯には簡単な店が並び、バナウエ方面から来た車が道沿いに駐車している。

 この道路はここまでで、この先バタッドまでは歩くしかなく、ようやく山らしい雰囲気になったと嬉しいが、朝からロクな物を食べていないので写真に写る店で、インスタントの焼きそばを食べるが、出来上がるまで相当時間がかかり、恐らく薪で火を焚いて作ったのであろうか。

 乗って来たトライシクルの運転手には、次の日の時間を決めてここで待ち合わせるようにして、帰りに全額を払うようにした。本当に来てくれるかどうか心配な感じもするが、それは向こうも同じで次の日に来て見たら居なくて、料金を踏み倒されたなんていうこともあるのではないか。


 

author:cebushima, category:ルソン島紀行 山岳州篇 2017, 19:00
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東京慕情 その(2) 上野篇−1 上野駅から上野広小路、アメ横まで

 その(1)で、千住から都電で文京区にある中学校まで通学したことを書いたが、当時は都電の全盛期で都内全域を都電が結んでいて、千住には21系統の千住4丁目から水天宮までの路線が走っていた。

 千住2丁目停留所は千住4丁目の終点から次の駅で、当時の停留所は2丁目交差点のかつての三井銀行千住支店、今の貸衣装屋の建物の反対側に独立してあった。この都電は隅田川に架かる千住大橋を渡り三ノ輪を経由して、それまでの昭和通りを右に入る。

 

【写真−1 右が千住方面】


 この道は下谷、鶯谷に通じていて、沿道は明治大正期に造られた商家が並び、古い東京の面影を残していた。その道がまた昭和通りに合流し、やがて写真−1の上野駅前に着くが、この駅前は都電の交差路で、品川や駒込方面、また浅草方面へ乗り換えた。

 当時の都電の運賃に触れておくと片道13円、往復を買うと25円で1円安くなり、その1円にまだ価値があった時代で、通学定期だと1ヶ月300円であったような記憶を持つ。

 写真の上野駅、歩道橋が目障りだが外観は昔通りで、東北の玄関口であった当時が偲ばれる。この上野駅に高層ビルを建ててホテルなどを造る計画を聞いたことがあるが、東京駅を巨額な金で復元して活用しているように、つまらぬビルなど建てて欲しくない。

 もっとも外観は昔のままでも駅の中はずいぶん改造されて明るくなり、これが上野駅だったけという思いをする時も度々あったし、地下深くに新幹線が通っているなど変われば変わるものである。

 上野は公園、不忍池と自然も豊かに残るが、広小路にかけての道路は昔からの繁華街で、上野駅を降りて広小路方面を歩くと京成電車の地下駅があり、その先に江戸から続く『仲町通り』が不忍池と平行してあり、この通りには老舗が多い。

【写真−2 広小路には講談の本牧亭もあった】

 その通りを右に見て少し進むと写真−2の『酒悦』と『鈴本演芸場』が並ぶ。酒悦はカレーに添える福神漬けを作った店として有名で、創業は1675年というからかなり古い。

 小学生時代に父親に連れられて埼玉県浦和に住む叔母の家へ行く時、必ず父親は上野に出て福神漬けを買っていて土産としていたが、当時の酒悦は今のようなビルではなく、いかにも昔から続く漬物屋という風情と匂いを子ども心にも感じた。

 その隣りの鈴本演芸場はやはりビルに建て替えられてしまったが、中学生の頃に入場したことがあって、その頃は平屋であったと思うが、小さな客席と舞台との距離は近くいかにも寄席という雰囲気があり、落語はまだ良さが分からず漫才のトップ・ライトとか林家三平に笑い転げた。

 この寄席で思い出すのは人形町にかつてあった『末広亭』で、高校生の頃に行って下足番が居て昔通りの座敷であったのには驚いたが、やはり落語の方はまだ理解力がなく、先代の林家正蔵が演じている前で大あくびをして、睨まれたことを覚えているが、恐らく生意気な小僧とでも思ったのではないだろうか。

【写真−3 無国籍風になって行くのがアメ横らしい】

 鈴本のある通りから電車の高架上に沿った一角が写真−3の『アメヤ横丁』で、今は中国や韓国の観光客に大人気で、話している言葉も日本語よりも韓国語、中国語の方が多いくらい。

 中学生の頃、千住からの都電を仲御徒町で大塚行きの都電に乗り換えるが、帰りは必ず広小路で降りて、小学校後期から中学校にかけては釣りに熱中していた時期があって、広小路角の松坂屋の中2階にあった釣り具売り場で色々物色し、その後アメ横に寄るのが楽しみで毎日のように寄り道をしていた。

 今のように小奇麗になったアメ横とは違い当時はいかにも怪しい雰囲気と臭いがして、高級ないわゆる舶来品などここで手に入れる人も多かったから密輸品も多かったのではないか。

 ガード下の店の中に何軒か『モデル・ガン』ショップがあって、そこでモデル・ガンを飽かずに眺めたが、後年、モデル・ガンには厳しい法規制がかけられて、今はまるで玩具紛いのモデル・ガンしか売っていないが、当時は本物そっくりなモデルが普通に売られていた。

 ここで買ったリボルバー式の拳銃のグリップの中に鉛を仕込んで重たくし、粋がって学生服の内側に吊るして同級生に自慢していた或る日、図書室でそのモデル・ガンを弄っていたら先生がやって来て慌てて本棚の裏に隠したことがあった。

 しかも、それを後で回収することを忘れたのか出来なかったのか、そのままになってしまったことを想い出す。そのモデル・ガンを本棚の裏から見つけた人はさぞビックリしたであろうと思うと、ちょっとおかしさがこみ上げる。

 そういったガン・ショップはアメ横から姿を消したが、昔からあった軍装品を売る中田商店など辛うじて当時の面影を残している。

 


 

author:cebushima, category:東京慕情 遠ざかる昭和の想い出, 18:27
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想い出のホンジュラス暮らし その(26) 太平洋への旅

 ホンジュラスは大西洋と太平洋に海岸線を持つ。何度か大西洋側には行っても、カリブ海のトロピカル・イメージはそれほどでもなかった。一国で両洋を見るなど貴重な体験であり、帰国の近づいたある日、太平洋に向かった。

 目的地は太平洋岸の観光地と知られる『アマパラ』で、わが街からは首都テグシガルパ経由で南下するが、道路距離にして200キロを超す。通る道路は隣国ニカラグア国境へ通ずる主要街道で、コンテナ車が数多く行き交う。

 

【写真−1 アマパラへ渡る船乗り場 頻繁に出ている】
 

 このアマパラという所は、ホンジュラスの紙幣に図柄がデザインされている島で、三角形のおむすびが海に浮かんでいる地形をしている。太平洋沿岸というと荒々しい海岸を想像するが、アマパラの海は複雑に入り組んだ海岸線を持ち、旅をした人の話では澄んだ海には程遠いという。
 

 首都を過ぎいくつもの峠を登り降りし標高が下がると、今までの空気が急にねっとりし気温が高くなった。およそ海抜1000メートルの高さから海面近くまで下って行くから、暑くなるのも当然かもしれない。

 街道から離れアマパラへ抜ける道に入ると、平坦な地形が続き、人工の池を見かけるようになった。海老の養殖池でバナナ、コーヒー豆と共に日本にも輸出される輸出産品である。

 今夜は海老がたくさん食べられると期待するが、海老の養殖というのはマングローブが生えるような泥地を適地として、澄んだ水は必要ない。この方面がいま一つ、カリブ海側と違って観光でパッとしないのはそのせいなのだろう。

 

 それまで続いていた平坦な道が山を巻きながら上下する内に、山裾に広がる小さな集落に到着した。対岸がアマパラで、本土側から指呼の間の距離にある。なかなか姿の良い山を中央に据えていて、海岸からの眺望は絵に描いたように円錐形で端正、晴れ晴れしている。

 静かな海面をボートで渡るが、案の定、水は濁り砂も黒い。透明度が低いだけで汚いわけではない。それでも太平洋の一端、自宅のあるセブはこの海の遥か反対側かと思うと感慨も大きい。

【写真−2 湾の向こう側にはエルサルバドルが見える】

 島の玄関口になる桟橋に着くと、税関事務所があった。島のあるフォンセカ湾に沿い、小さなボートで渡れる距離にニカラグア、エルサルバドル両国が接しているので、船による行き来を管理するためにあるようだ。

 かつてエルサルバドルもニカラグアも激しい内戦の時代があって、海を渡って難民も来ただろうし、その頃のこの湾は相当に物騒だったのではないかと想像された。

 

 島の周回道路は20キロくらいあり、所々に集落が固まる。観光地として知られるが、設備の良いリゾートはない。桟橋から適当なホテルに電話して宿を決める。アマパラの町は教会を中心に古い建物があり、かつての繁栄をしのばせる。

 宿泊するホテルはボートを乗った対岸にあり、底から眺める山々と海岸の様子が日本の瀬戸内海と似る。海辺のレストランが有名らしく楽しみにしたが、魚の注文も大小に分けているだけで、魚種別や料理法などはホンジュラスどこへ行っても同じの焼くか油で揚げるだけだった。

 

 島を一周してみる。島の交通機関はイタリア製の三輪車で、タイで走るトクトクと似ている。この形の車はホンジュラスの山間部などではよく見かけるが、速さの必要ない環境では適している。

【写真−3 対岸は本土側 海岸にはペリカンが戯れる静かな環境】

 一周道路途中にエルサルバドル、ニカラグアを望む展望台がある。ニカラグアは山の端を見る遠さだが、エルサルバドルは家が点在しているのが分かる近さだった。

 

 島の中心にそびえる端正な山も、裏側に回ると丘のようになっていて、登山する時間があれば面白かったであろう。この山にもご多分に漏れず携帯電話の電波塔が建てられていて景観を崩していた。

 ホテル近辺で終日を過ごすが、海で泳いだわけでもなく、島の持つ時間と空気の中でのんびりした2泊3日の滞在だった。

 

 帰りは首都とは反対方向になるが、ニカラグア国境まで40キロほどのチョルテカという州都まで足を延ばした。国境に近いため検問は少々厳しいが、特に問題はない。

 中米の近隣国は相互に特別な手続きもなくて車で行き来ができるようになっているが、国土の大きさを考えると、日本国内を旅行するようなものだから、驚くほどのものではないだろう。

 (後日談: アメリカの大統領にトランプが就任して、移民及び不法移民に対して取り締まりを強化しているが、隣国メキシコを始めとしてアメリカで働く中南米人は適法、違法を問わず、千万人単位に上る。この人々のアメリカからの送金が出身国を維持している現実もあり、これを締め出すと経済の国際的な連鎖不安は広がる。私のホンジュラス在中にも顔を知っているホンジュラス人がアメリカに密入国を試みたが、結局失敗して戻って来た。それにしてもトランプというのは金は持っているだろうが性根の貧しい人物で、こんな人物に投票したことをアメリカ人は恥じないのだろうか。こういう人物が登場したことで、世界の政治の潮流は臆面もなく嘘をまき散らし、他者を排斥するファシズムの時代に入った)



 

author:cebushima, category:想い出のホンジュラス暮らし, 10:18
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