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へそ曲がりセブ島暮らし2016年 その(39) 9月の晦日にて

【今年のツリーは今までよりは結構斬新】

 

 今は『晦日』という言葉はあまり使われなくなり、『月末』を使うことが大多数になっていて晦日はやがて死語になる言葉になりそうだ。しかし、商売関係ではまだまだ健在で、私の明治生まれの祖母は商売とは関係なかったが、晦日という言葉を使っていて、あれは江戸の下町言葉と関係があるのだろう。


 晦日というのは月の末日になるが、月の満ち欠けに因む太陰暦から来ていて、晦日とは小の月が29日、大の月が30日となっている。となると今使われている太陽暦の月末はイコール晦日にはならないが、難しい事はその程度にしておき、晦日は『つごもり』とも言って、これで思い浮かべるのは樋口一葉の傑作『大つごもり』。

 大つごもりとは『大晦日』の事で、大晦日は現在も年の末を現わす言葉としてとしてしっかり残っていて、年末と言うより大晦日と言った方がいかにもその年が終わるという切迫感を得られる。

 一葉のこの作品は1894年発表で既に120年以上経っていても色褪せない内容を持ち、日本の昨今の薄っぺらい文学賞受賞作品など足元にも及ばず、今年の受賞者が来月発表されるノーベル賞が過去に溯れるなら、一葉は文学賞を得ても良いのでは。

 一葉の作品3点をオムニバス式に描いた映画が今井正監督の『にごりえ』で、この作品は京橋のかつての近代美術館内にあった上映場所で観ていて、あれは確かキネマ旬報で発表するベスト10作品の1位作品を特集して上映した時だと思う。

 作品は1953年のモノクロで、『十三夜』、『大つごもり』、『にごりえ』の順に編集されていた。当時の文学座が映画製作に加わっていたために、それぞれの出演俳優は後年大物になる人物ばかりで、大つごもりの場合主演は久我美子で、面白いのは名優の北村和夫、仲谷昇、岸田今日子などは脇役で出演名にも載っていない。

 日本語の乱れを指摘される現在、一葉の作品題名からは日本語の美しさを感じ取れるが、言語というのは時代と共に移り行くものだから仕方がないと言えば仕方がない。例えば毛筆で手紙を書いていた時代の『候文』など、今はすっかり死滅しているし、文語と口語の区別でさえあやふやな時代となった。

 日常的に使われている言葉で代表的なのは『ら』抜き言葉で、これは会話にも文にも表れていて今や珍しくなくなっている。私などはら抜き会話や文を見ると、この人物は頭が悪いとしか思わないが、間違っていても多数が使えば正しくなるから一概に批判はできない。

 こういう私でも、昔の人の文章など難しく、使われる単語も難解で昔の人は偉かったなあと感心するばかり。

 写真は拙宅の近くにあるショッピング・モールで写したが、既に9月半ばにはこの巨大なツリーが飾られている。フィリピンはクリスマス第一で楽しみにしているがいくら何でも早すぎる飾り付けと思うが、もうフィリピンにあるモール内では普通に目にする。

 9月の出来事として、民進党党首になった蓮舫の国籍問題でどうのこうのと産経などは突っついていたが、馬鹿じゃないかという感じ。蓮舫が17歳で日本国籍を取得した時は3年の時限立法があって、未成年でも日本国籍が取れ、その時点で台湾国籍は消滅。

 もっと溯れば台湾は国ではなく、日本が中国と国交を結んだ時点で、台湾籍は自動的に中国籍になると日本の外務省は説明するが、不味いと思ったのか曖昧にした。恐らく台湾・中国問題というのはあちらを立てればこちらが立たないものだから、蓮舫の国籍問題というのは日本がいい加減に台湾・中国問題を扱っていたツケが出てしまった。

 フィリピンのように2重国籍を認めているような国だと国籍の問題など、選挙で立候補資格を巡って揉めることはあってもあまり問題にならず、両方のパスポートを所持して都合良く使い分けているのが現実となっている。

 もっとも日本は2重国籍は認めないとなっていて、2重国籍になった場合一方を放棄するようにという指示はあるが2重のままでも罰則はない。そのためか日本へ行く時、フィリピン人がフィリピンではフィリピンのパスポート、日本では日本のパスポートを使っているのを良く見るが、単純にそれが便利というだけで愛国心がどうのこうのという問題ではない。

 蓮舫国籍問題というのは本人の対応の不味さはあるものの、日本人の持つ排外性、閉鎖性を現わした出来事ではないか。それにしても蓮舫が幹事長に自民党より右の野田を選ぶとは世も末という感じがした。


 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2016, 19:13
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インドネシア紀行2016 その(21) ラトゥ・ボコ遺跡からプランバナン遺跡へ

 ラトゥ・ボコ遺跡はあまり人が訪れない場所なので、好きなように域内を歩けた。石の遺跡が残り、他は草地で公園の場所だが、中には人が住んでいて、茶店を開いている。暑い中、歩き回ると当然飲み物など欲しくなり、利用客は多い。

【写真−1 左側にカーテンがかかっているので住んでいるのだろう

 写真−1
はその一角で見た民家と思しき建物。板戸が閉められていて使われているのかどうか分からないが、傾いだ屋根の形に趣きを感じる。

 ここに宮殿があった当時、このような感じで宮殿に仕える人々は住んでいたのかなと思うが、当時は草屋根であって、屋根の瓦はオランダが持ち込んだ形式である。

 インドネシアのような暑い国では建物は開放的な作りと思うが、分厚い板戸といい全体に閉鎖的に見えるが、ガラス素材よりは板戸の方が安く、外部の侵入を防ぐためにも板の方が良いという理由なのだろう。

【写真−2 インドネシア料理というほどのものは食べていないが、美味い物はなかった】

 写真−2は見学を終えて、最初のバス乗り場へ戻り、そこにあるレストランで食事を摂った時のものでインドネシアの焼きそば『ミーゴレン』。

 レストランはプランバナン遺跡を遠くに望み、彼方には****山の雄大な姿を見られ最高の場所だが、良いのは場所だけで味の方は酷かった。一応、シー・フードを頼んだものの現地の醤油のような味付けで、もしかするとインスタント・焼きそばだったのではと思える内容。

 皿の右下に青い唐辛子があるのがこちら風で、初めてインドネシアへ行った時、レストランへ入ると必ず唐辛子の酢漬けが小皿に入って出されて、それが暑い気候に合い今回も食べられるかと楽しみにしていた。

 しかし、どういうわけか今回の旅では唐辛子の酢漬けはどこも出なかった。今思うと、インドネシアも広く、あれは限られた場所での食べ方なのかも知れない。

 

【写真−3 トラックの荷台で人を運ぶ光景。フィリピンでもよく見る】

 ラトゥ・ボコ遺跡とプランバナン遺跡を結ぶシャトル・バスに乗車して山道を下るが、運転席の隣に座ったために、山道は結構急で細いなと感じながら平地に出る。

 そこで前方を走っていたトラックを写したのが写真−3。カメラを構えたら乗っていた女子学生たちが手を振るのでオヤと思いながら撮るが、イスラムのスカーフなど取っ付き難い印象を持つインドネシアでもこういう光景に出合うと、女学生はどこでも同じだなと思った。


 

author:cebushima, category:インドネシア紀行2016, 08:01
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この一枚2016年 セブ篇 その(26) カルボン・マーケットにて

【この地域は危ないという風評はあるがそれは昔の事。安くて新鮮な品物を扱う】

 

 時々、セブのダウン・タウンにある『カルボン・マーケット』へ行く。カルボンという呼称はその昔、火力発電所で焚いていた石炭の燃え殻をこの地域に捨てていたために、カーボン、即ち炭素がカルボンへとなまったと聞く。

 確かにカルボンの海側には古い発電所がまだ健在で、戦前までは石炭は鉄道によって運ばれ引き込み線があった。その火力発電所も現在は燃料を重油に替わっているが、石炭を燃やしていた時代にはセブの南部の山中に炭鉱があってそこから持ってきている。

 セブに炭鉱があるのも不思議だが、北部にも炭鉱があり、これらの炭鉱は今も掘っているらしく時々落盤事故などがニュースになるし、近在の道を走ると砂利代わりに黒い石のような物が撒かれていて、これは石炭のようだ。

 戦前はかなり石炭を産出していたらしく、やはり南部に戦前からのセメント工場が今も日本資本の会社が操業中で、戦前は小野田セメントの工場であった。セブの石炭と石灰石でセメントを生産していたが、この工場、有名な話としては『海軍乙事件』がある。

 1944年3月31日、連合艦隊司令長官と参謀長が乗ったそれぞれの機がパラオからミンダナオ島ダヴァオへ移動中、悪天候に巻き込まれ長官機は行方不明、参謀長機が小野田セメント工場沖合に辛うじて着水。

 ダヴァオに向かっていてセブ方向に出てしまうというのは目視、感頼りの、日本軍及び飛行機乗りの欠陥といえるが、当時小野田セメントは夜間操業中で煌煌と明かりを点けていたために、その明かりをセブ市と間違えたという話もあるが、着水後に現地のゲリラに捕まり一行は連行された。

 その時、連合艦隊の最新の暗号書がゲリラに渡り、それが連合軍に送られて解読され以降の連合艦隊の動きは筒抜けとなった。参謀長一行は交渉の末解放されたがこれを乙事件とし、甲事件はその前年の1943年、連合艦隊司令長官の山本五十六が乗る機が撃墜された事件を言う。

 と、話しが横道に逸れたのでカルボンに戻そう。ここはセブの生鮮野菜を一手に扱う場所で、他の地域のマーケットで売る野菜などもここを経由している。そのため、鮮度と値段は安く、特にセブの山岳部から採れた野菜を直接ここへ持ち込んで売る人もあり、昼間もにぎやかだが夜を徹して商売をしていて人の絶える時はない。

 写真はその売っている様子だが、ここはまだ店構えはしっかりしていて、多くは道端にシートを敷いて品物を乗せて売っている。いつも同じ場所で同じ品物、同じ人が売っているからそれなりに管理されているようだ。もっとも、市が管理するマーケットの建物もあって、そちらは小さい区画で商いをしているが、やはり路上に流れる人が多い。

 写真では手前に黄色い物が写るが、これはトマトで、フィリピンはトマトを生食するのではなく、酸味を得るためにスープに入れ、あるいは刻んで唐辛子、醤油と一緒の調味料に使う用途が多い。熟した赤いトマトより固いこの位の色のトマトが好みで、私のように熟した赤いトマトを求めると変な人といった目で見られる。

 トマトと一緒にあるのはキュウリで、こちらのキュウリは太い。時々日本種のキュウリも売られることもあるが、味は太いキュウリと変わらない。左手台に乗っている籠にあるのはピーマンで、珍しく青いピーマンを売っていた。

 フィリピンは青いピーマンではなく、赤くなったピーマンが好みでしかも少々細長い。珍しくと書いたのは日本で普通に見られるピーマンの種類であったためで、値段も安くカルボンには何度も来ているが初めてピーマンを買った。

 カルボンでいつも買うのはパセリで、限られた店で買えるが、今回は売り切れていた。レストランが大量に買ったらしいがパセリなどスーパーでパックされて少しの量でかなり高い。ここで買うとキロ単位で買ってもかなり安い。

 また、同じ店でニラを扱っていて購入するが、こういった特殊な蔬菜はやはりレストランや外国人向けで、フィリピンの人はあまり好まないようだ。それでもこの日、帰りがけに路上の店を覗いたらサニーレタスを売っていた。しかも山から持ってきた人で値段は驚くほど安い。

 こういったレタス類などかつては普通の種類しか売ってなかったが、最近はこの手のレタスが普通に見られるようになった。これはどうも韓国人がセブに数万人も住んでいることと関係があるようだ。

 そういえばかつては肉の売り場で薄切りなどあまり扱っていなかったが、今は牛、豚共に扱う店が多い。これは焼肉に回るためで、それを包むレタスという図式で、栽培が盛んになったのであろう。

 それで、今回買った物を書き連ねると、野菜類でピーマン、キュウリ、レタス、ニンジン、生姜、サツマイモ、ジャガイモ、黄玉ねぎ、赤玉ねぎ、トマト、オクラ、サヨテ、アルバテ(つる菜)、サニーレタス、カリフラワー、ニラ、カボチャ、青唐辛子の18種類。他に果樹のランソネス。マンゴーも買いたかったが、今は採取できないのか品薄で、売っていても粒が小さく止めた。


 

author:cebushima, category:この一枚 2016 セブ篇, 20:35
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