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へそ曲がりセブ島暮らし2016年 その(35) 日本の夏休みは今日までか

【写真はパラワン島にて】

 

 7月20日から8月31日までが東京の公立小中学校の夏休みで、明日から新学期が始まる。わざわざ東京のと書いたのは、東北などの積雪県は夏休み終了が少し早いと聞いているためである。

 私の小中学生時代、40日もの長期休暇なのに、出された宿題は直前にまとめてやるのが年中行事で、つくづく計画性のない生き方をしているものだと思うが、その夏休みの想い出を書き綴りたい。

 小学生の頃は今でいうエアコンなど家庭には全くない時代で、扇風機で涼んでいた。しかし、当時の東京は道が子どもの遊び場になっていたように車の数は少なく、家々もせいぜい2階建てが目立つ程度の街で、空も広く我が実家など西日がかなり入るので、西側には簾をぶら下げていた。

 庭や道路に打ち水をして涼しさを感じた自然に即した生活でもあり、喫茶店などが『冷房完備』と『テレビ』で客を集めた時代でもあり、煮詰めた様なコーヒーを出す店もあったが、昨今の『カフェ』などと気取ったチェーン店とは違って個性があった。

 学校も今はエアコンを入れるのは普通だが、当時は扇風機もなく、その中で梅雨時や残暑の教室で勉強をしていたが、教室内が暑くて困ったという記憶はない。家の方も同じだから、慣れていたあるいは当時の子どもは辛抱強かったなど考えられるが、やはり『地球温暖化』現象による体感温度が相当高くなっているためではないか。

 先年、セブから8月の日本へ行ったことがあって、その時の東京はかつて住んだアフリカより、高温多湿の耐えがたい天気で、日中は道路を歩くのさえ憚れた。これは『都市のヒート現象』から来るもので、話しには聞いていたがこれほど酷いとは思わなかった。

 そういう環境だから各家庭、各個人はエアコンで武装するが、このエアコンの排出する空気が高温で一層ヒート現象を募らせるから、こういう環境にしてしまった日本人は世も末だと思い、涼しいセブを思ったものである。

 さて、子ども時代の夏休み。一番記憶に残るのは埼玉県浦和にある叔母の家で夏休み期間中を過ごしたことで、当時の浦和は武蔵野の林が残り、東京下町にあった実家からは格好の避暑地であった。今思えば叔母の家も年中行事のように小さな甥や姪を預かって世話をするなど大変だったと思うが、まだ核家族化の進んでいない、気持ちにも余裕のあった時代で、叔母の子ども達に混ざって生活をした。

 今は新しい駅が出来て歩いていくらもかからないが、手土産に駅近くの魚屋で魚を買って延々と歩いた叔母の家だが、あの頃の林や畑など消滅して全く面影を残さずに高級住宅地に様変わり。その叔母の家で甲虫や蝉、蝶、玉虫など色々な虫も豊富で夏休みの宿題として昆虫標本を何度も提出した記憶がある。

 一緒に遊んだ従兄弟達だが、今は法事の時にしか会う機会もなく、会えばその昔の子ども時代の想い出に花が咲くのは、お互いに齢を取った証拠なのだろう。そういった話題の中で想い出すのは、叔母の家の脇にあった古い井戸へ私が落ちて従兄弟に助けてもらった事で、今なら笑い話で済むが良く怪我をしなかったなと思う。

 浦和以外にも夏休みの想い出はたくさんあって、父の会社の保養所だったのか、鎌倉でも何度か夏休みを過ごしていて、鎌倉の水族館や七里ヶ浜沿いに楽焼の店があり、それを絵付けして毎年焼くのが楽しみであったが、今もそんな店はあるのだろうか。

 山の記憶では初めて行った大菩薩峠での濃霧が印象的で、父親の知り合いだった山小屋でランプ生活をしたのも印象に残っている。以前にも書いたが、富士川沿いのお寺で夏を過ごしたこともあり、その時以来になる2015年の身延線乗車で、当時の記憶を探ったが全く呼び起こせなく、わずかに山門の梟、裏山の滝壺などの記憶が残っている。

 母の方といえば、やはり夏休みに母方の親戚で過ごしたことがある。まだ、東北本線に蒸気機関車が健在の時代で、列車は大混雑でトイレまで人が座って居た。夏休みを過ごした町は既に廃線となった鉄道の終点にあった大きなお菓子屋で、小倉アイス・キャンディーを作って売っていたが、それを食べるのが毎日の楽しみ。

 しかし、五右衛門風呂があって、怖くてどうしてもは入れなかった、今では笑い話のような話も残る。時代というのか、蚤に体中喰われて、後から来た母がその斑点模様を見てビックリしていたが、といって帰ろうという気はなかったから、田舎暮らしが楽しかったのであろう。

 母は江戸以前から今は下町と呼ばれる地域に住んでいる家の出身だから、夏に帰省する場所は無かったが、父は福島原発のある地域で生まれたため、何回か父の生まれた場所で夏を過ごしている。やはり駅から延々と歩いたし、海辺に行くのにスイカをぶら下げて行った記憶もあるが、その海は崖を後ろに控えた荒々しい海で泳いで楽しむ場所ではなかった。

 この時の記憶はかすかに残っているが、後年原発が立地された海岸近くではなかっただろうか。今は完全に死の街になり、居住禁止となったこの状態を知れば死んだ父はどう思うかと考えるだろうか。

 父は引退後には同級生が多く残るこの町に家を建てて、読書三昧の生活をしたいと考えていたが、金に目が眩んで町当局の原発の誘致が決まってからは諦めてしまい、今思えば福島原発の爆発、放射能汚染を予感したためではないかと思えなくもない。


 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2016, 18:40
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ルアンパバン紀行 その(6) ルアンパバンの古い建物と古い車

【写真−1 写真だけ見るとまるでヨーロッパの街並み】

 ラオスはフランスの植民地であったために、その当時に作られた建物には欧風の雰囲気を持ち、ルアンパバンは戦火がなかったためか多く残る。

 写真−1はそういった建物の多く残る通りで、世界遺産になってから手を入れられているが、その多くはレストランなどに転用されている。

【写真−2 中の作りはラオス風】

 そういった家々を眺めて行くと、写真−2の建物の建造年表示を見かける。この家は1935年建造で、今から81年前となる。1935年というのはヨーロッパにヒットラーが台頭し、日本も含めて戦争への時代に入る年で、フランスが『仏領インドシナ』として今のヴェトナム、カンボジア、ラオスを呑み込んだのは1905年であった。

 ルアンパバンは清の『太平天国軍』の流れを汲む武装組織『黒旗軍』が1887年に侵攻する事件があり、当時のルアンパバン王国がフランスに助けを求めた経緯もあってフランス風の浸透は強かったと思える。

【写真−3 この車は戦後の製造。部分的にオリジナルからは改造されている

 そういった古い建物を見ながら歩いていると写真−3の車が駐車していた。フロントグリルの矢羽模様で分かるようにフランスのシトロエン製。後で調べたら1934年から1957年にかけて作られた『トラクシオン・アバン』という車種で、この車種は3タイプあるが、形状から最後の方に作られた車種でのようだ。

 この写真では分かりにくいが、この車種には後部トランクが張り出している。また、この車種の後部ドア後ろはオリジナルでは窓はないが、この車には後で改造されたのか窓が付けられている。

 そのため、横から見ると優美な線は失っているが、ご覧のように手入れは良く、ナンバー・プレートもラオスの物を付けていて現役のようだ。停まっていたのはレストランの前で看板代わりに停めているのであろうか。

【写真−4 一応は国立銀行の支店】

 写真−4は本通りに建つラオス銀行ルアンパバン支店の建物で、この位の建物で経済活動がまかなえる町でもある。

【写真−5 元は何の建物であったのか、今は土産屋】

 写真−5は同じ本通りに建つが、昔は何に使っていたか分からないが、今はラオス産の織物を扱う店になっている。こうした古い建物を改造して土産品を売る店も多い。

【写真−6 周りと較べても異様。こういう樹が手に入ったから作ったのか】

 写真−6は裏通りを歩いていたら見かけた建設中の家。正面にヴェランダを作っているが、その柱は下部で直径1メートルに近い太さで、こんな樹を使ってもったいないなと思いながら、樹種は分からないがまだこういう樹が手に入るのかと感じ入った。

 この裏通りはゲスト・ハウスも多く、この家も個人の家ではなくゲスト・ハウス用に作っているのではないか。


 

author:cebushima, category:ルアンパバン紀行, 20:27
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ルソン島紀行 イロコス篇 その(24) マニラ逍遥−5 チャイナ・タウンで飲茶を

 泊まったホテルはマニラにある『チャイナ・タウン』に近い。歩いて行くには遠くタクシーでは近過ぎるし、タクシーなどに乗ったらマニラの地獄的な渋滞に巻き込まれてしまう。

【写真−1 実用本位の自作トライシクル

 そこで、小回りの利くトライシクル(3
輪バイク)を利用する。写真−1はそのトライシクルで、驚いた事に市販のバイクに側車を付けた見慣れたものではなく、ハンドル以下パイプを組み合わせて溶接した自家製。しかもエンジンは農業用にでも使う小型エンジンを乗せていて、良く造るものだと感心する。

 車検といった面倒臭い物がないフィリピンだからできる芸当で、地方へ行くと改造バイクならぬ、スクラップを組み立てた手製のバイクを結構見かける。このトライシクル渋滞で抜き差しならぬ通りをコマネズミのようにすり抜けて、一方通行を逆走するなどしてチャイナ・タウン地域に到着。

 

【写真−2 ひと蒸篭が250円くらいだからフィリピンでは高級な方】


 乗った時、どこでもいいから飲茶の店に行ってくれと言ったので写真−2の店先に停まった。店はそれらしくないビルの一階だが、写真のように蒸篭が外に積まれていて、大衆的な店の様子。

 昼時であったので店内は一杯だが、メニューを見ると飲茶や他の一品料理も豊富で前の客の散らかしたテーブルを片付けて席を確保。飲茶といえば黙っていてもお茶の入った急須を持ってくるのが飲茶店を名乗る最低限だが、この店はその通りで、お茶の種類も選べたから合格。

 他の客を見ると、多くは飲茶もフィリピン流になっていて、お茶ではなく甘い炭酸飲料を注文する客が目立つ。中国に住んだ当時、飲茶時にそういった炭酸飲料を飲むのはさすがに子どもだけで、大人がそういった物を飲むと怪訝な目で見られて伝統は維持されているなと思った。

 

 しかし甘い炭酸飲料で味覚を麻痺されたその子ども達が既に大きくなった今、中国の飲茶の伝統も相当崩れているのではないかと思うが、今度香港へ行ったら飲茶店で観察することにする。

 この店では飲茶4点と白飯、青菜炒め物で値段もそう高くなくまあまあ満足。後日、セブの中国系の知人に聞いたら、飲茶ならもっといい店があるから紹介すると言われたが、この知人、金持ちだから高級な飲茶店をイメージしていると思い紹介は受けないことにした。

 マニラのチャイナ・タウンはスペイン人が来る前に既にあり、チャイナ・タウンといえば『ビノンド』地区となるが、ビノンドの元々の意味は『高い所』、海から見て少々高い土地を意味し、マニラ自体が湿地帯に生える『マイニラッド』という植物からマニラとなったようにパッシグ川沿いの湿地帯に町は形成されて行った。

【写真−3 高架鉄道のカリエド駅はすぐ右手側。高架の向こうはキアポ教会】

 やがて、経済地域として発展し、特にパッシグ川に面する『エスコルダ』地区は戦前まで、フィリピン一のモダンな繁華街で、日本の商社も多く進出し、その時代の建物が多く残る。写真−3は『親善門』という名前の中華門で、サンタクルス教会前の広場に面していて、写真−2の飲茶店から歩いて10分もかからない。

 この門から左回りに孤を描きながら進むと中心部を通り、やがてビノンド教会へ行き当るが歩くと相当距離があるので今回は断念。細い道だが、両側には『金』を扱う店が並び、中国の通りとあまり変わらず、英語の看板が多いのがフィリピンだなと思う程度。

 それにしても中国系の金好きは尋常ではなく、ラオスのヴィエンチャンでもそういった店の固まる売り場を覗いたことがあって、どう見ても金を持っていそうもない風体のラオ人が群がって買っていた。一瞬で紙切れになってしまう自国の紙幣よりは金を信用する心情は分かるが、貧乏人には縁がない世界だ。


 

author:cebushima, category:ルソン島紀行 イロコス篇, 18:18
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