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へそ曲がりセブ島暮らし2016年 その(29) 1967年の東京都知事選挙

【バブルの塔と言われた東京都都庁が奥に写る。手前は京王プラザホテル】


 都知事選挙が7月31日に行われるが、戦後1947年に初めての都知事選が行われてから今度で20回目、新しい知事は延べで20代目になる。

 初の選挙があってから69年間経ち、知事任期は4年だからそれで割ると割り切れないのは、18代の猪瀬、19代の舛添が不祥事で途中辞任したためで、それも最近続けてだから、選ばれた人物の資質に問題はあるにせよ、そういう人物を推した政権与党の自民党と公明党に重大な責任はあるし、投票した選挙民も同じである。

 その辺りの反省が全くないまま選挙戦に突入。今回の都知事選挙は野党側の統一候補にジャーナリストの鳥越を擁立したのが大きい特徴で、政権与党の担いだ増田、また、自民党から飛び出た形で実は安倍としっかり結び付いていると言われる小池が出馬して、形の上では保守側は分裂した。

 その情勢だが序盤では鳥越と小池は横並び、中盤、終盤に入って小池が抜き出て、次に増田となり保守は分裂しながらも地力を見せ、鳥越は失速気味。

 鳥越が失速に陥ったのは週刊誌が報じた意地汚いスキャンダル記事からだが、憶測だけの記事を選挙中に出してくるとは保守側も必死ということで、気分で投票しようという選挙民にはこの一撃は効果的なのは確かなようだ。

 この記事は読んでいないし読みたいとも思わぬが、かつてフランスのミッテラン大統領が記者から愛人の事を聞かれて『それが何か?』といなしたことを思うと、国情の違いはあるとはいえ日本の精神レベルは幼すぎる。

 と、今の都知事選をこう書いても投票できるわけでなく面白くもないので、表題の1967年の都知事選の事を書いてみる。この年は第6回目の都知事選になり、今はなくなった東京教育大教授であった美濃部亮吉が220万票を得て当選。

 美濃部は当時の社会党と共産党に推薦による『革新統一』候補として、自民党と民社党が推した立教大総長であった松下(206万票)と公明党が推した阿部(60万票)を破っている。

 公明党というのは1966年の衆議院の自民党中心のスキャンダルによる『黒い霧解散』を契機に衆議院に初進出して25議席を得て、その後ライバルになる共産党はわずか5議席であった。

 黒い霧解散というのは自民党議員の公私混同の多発、製糖会社を巡る贈収賄事件などが明るみになった事から解散したが、この当時は中選挙区制で、時の首相は佐藤栄作。

 不祥事で解散しても自民党は強く得票率で49%を得、微減の277議席を確保。この当時は社会党も強く28%の得票率で140議席。社会党から分党した民社党が30議席であった。この選挙で面白いのは今の安倍の父親安倍晋太郎がこの選挙で返り咲いたことで、あの長州閥の安倍一族でも落選経験があったのかと驚く。

 さて、都知事選に戻すが当時は『革新自治体』が燎原の火のように日本中に広がっていて、時間は前後するが東京、神奈川、埼玉、京都、大阪、滋賀、岡山、島根、香川、福岡、大分、沖縄などで知事が生まれ、市町村でも横浜以下数多くの革新自治体があり、日本の人口の半分を占めた時代があった。

 日本は高度成長の真っ最中で公害などを巡って社会的歪も大きく、保守と革新が対立し、特に佐藤栄作の存在も革新側に勢いを付けさせたが、佐藤は1964年から1972年まで7年8ヶ月という長期政権を維持した。

 1970年を挟んだ佐藤政権は70年安保を経るが、学生運動も活発となり、佐藤の仲間であった日大の経営トップの不正経理などが発覚して全共闘を生んだのもこの時代である。

 佐藤は首相退任後の1974年、ノーベル平和賞を受賞するものの、このノーベル賞は授与した委員会が『最悪のケース』と言っているように、佐藤の『非核三原則』は後年沖縄の密約が暴露されたように、全くのインチキ。こういう恥なら平和賞を返上すればと思うが、そういう神経はこの手の政治屋には持ち合わせていないようだ。

 美濃部は連続3期、12年都知事を務めたが『ストップ・ザ・サトウ』という選挙スローガンがあったくらいだから、それ程佐藤は憎まれていたが、逆に盤石の政権でもあった。

 美濃部の2期目の相手は前警視総監の秦野を担いだ自民党に圧勝。3期目の1975年の選挙は自民党から石原慎太郎が出て次点。後年の1999年選挙で、石原は都知事の座を射止めたが、1975年の選挙で落選したことが石原のプライドを傷つけたのであろうが、石原のレベルは低い。

 この時美濃部を推したのは社会、共産、公明という今では考えられない組み合わせ。1967年の選挙で落選した松下が何を思ったか民社推薦で出馬し3位で落選。

 

石原が初当選した1999年都知事選を見ると、石原166万票、次点がこの間急死した鳩山邦夫85万票、次ぎに19代目の知事に当選した舛添が83万票で3位。この時の都知事選は2位から6位まで85万〜63万票の得票であり、石原を利する結果となった。

 この時3位に沈んだ舛添が前回選挙で雪辱して都知事に当選したから、都知事の座というのは相当なステータスを持ち、下手な大臣クラスより価値はあるから、石原、舛添と言った権力者志向の人間には見栄を張るにはもってこいの座になる。

 さて、美濃部が初当選した1967年、投票日前日にいつも使う駅前広場に美濃部陣営が最後の演説をしていて、それを目撃したが、当選する勢いと陣営は熱気を持ち、美濃部が群衆の中に入って行くのを見てずいぶん血色の良い人だなと感じたが、この時美濃部は60代前半だからまだバリバリであった。

 それで、投票日当日に旅行に出て(まだ選挙権はなかった)、甲府の駅の待合室で寝ていて、その待合室に在ったテレビが開票速報を伝えていて、東京都知事の所では、美濃部800票、松下0と速報され、それで美濃部が当選すると思った。

 インスピレーションでも何でもなく、当時は出口調査などと言うものはなく、開票速報で最初に票が高かった候補者が当選するようになっていて、そう思っただけである。


 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2016, 20:35
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インドネシア紀行2016 その(10) マリオボロ通り そぞろ歩き三題

【写真−1 この写真はこちらもペチャに乗っている時】

 

 ホテルは市内一のツーリスト・ベルトのマリオボロ通りを横切る鉄道の踏み切りを渡った地域にあり、通りの中心へ行くには歩いても行けるが、ホテル前にバス停があるのでそちらを利用。

 ところが、このバス路線は一方通行なので帰りは歩くか、マリオボロ通りに停まっている三輪人力車の『ペチャ』を利用する。またこの通りには一頭立ての馬車がかなり多くあり、こちらは観光客用に使われている。

 写真−1は右の方にペチャが写り、馬車が行く様子も写っている。車道よりも歩道側の方が広いのは厳密に言えば、ペチャと馬車を通すためにあるようだ。

 このペチャ、フィリピンにも『トライシカッド』といって、三輪自転車があり、フィリピンの方は自転車にサイド・カーを付けた方式だが、ペチャは運転手が後ろ側でペダルを漕ぐ。

 この手はヴェトナムも同じでどうしてフィリピンの方式が違うのか良く分からないが、フィリピンには『トライシクル』といってオートバイにサイド・カーを付け車種があって、その形式を真似た為ではないだろうか。

 逆にフィリピンのようなトライシクル形式というのはアジアで見かけず、アンコール・ワットで知られるシェムリアップでトクトクと呼んでいたのがこれに近いが、そちらはオートバイがリヤカーのように客席を曳くから正確には四輪車である。

【写真−2 イスラムも教派によって姿はずいぶん違う。黒に近い程厳格】


 写真−2は商店の軒先で見た『ヘジャブ』ファッションの宣伝。ヘジャブは『ブルカ』とも言うらしいが、呼び方でどう違うかは私などには分からない。

 インドネシアへ入る前にマレイシアで時間を過ごしたが、マレイシアもイスラム国で、このヘジャブ姿を結構見たが、インドネシアの方は相当目立つ。マレイシアのヘジャブ姿はほとんどファッションのような感じさえ受け、頭のかぶり方もいろいろ工夫があるのだなと思った。

 フィリピンはカトリック信者が80%以上を占めるが、イスラムを信じる人も10%近く居て、時々セブの街中でこのヘジャブ姿を見ることがある。以前はヘジャブ姿は非常に珍しい存在だったが、今はかなり姿を見るようになり、異端の感じは受けなくなったから、イスラムが受け入れられつつあるのだろう。

 さて、写真のヘジャブ姿、やはり地味な色使いでこれがインドネシアの国風という所か。

【写真−3 衛生状態が今一なので、観光客にはどうかな】


 写真−3はマリオボロ通りの歩道上にある店で食べた夕食で、この時は雨が降って来たので雨宿り兼用で腰を下ろした。

 この食堂は歩道の端に何軒も長く連なっていて、しかも地面にシートを敷いて低いテーブルを並べた簡素な作りで、シートの上に座り込んで食べる形式。当然、値段も地元向けで安く、仕事帰りのグループなどがビールを飲みながら食事を摂っている。

 右上は『テラピアのから揚げ』というか油の素揚げで、インドネシアへ来てまで養殖物のテラピアなど食べたいと思わないが、他に食べる魚は置いてなかった。

 その左は野菜類で唯一あった『カンコン=空芯菜炒め』。この野菜は東南アジア地域ではだいたい食べられる定番もので、どこで食べても外れがなく、国によって唐辛子が勝った味や甘辛かったりで変化を楽しめる。

 一番手前はいわゆる焼き飯の『ナシゴレン』。シーフードと頼んだので海老と烏賊が入っていたが、可も不可もない味付けであった。



 

author:cebushima, category:インドネシア紀行2016, 18:31
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ミンダナオ島紀行 南部篇 その(20) ゼネラル・サントス飛行場から一路セブへ (最終回) 

【写真−1 この籠は下部に台を持つが、無い方が良い】

 

 写真−1はセブ湖のホテル近くの道筋で買った籠で、直径40センチ、高さは70センチある。セブ湖では竹を多用した住居も多く、面白い籠はあるかと思ったが案外と期待外れ。

 写真の籠がマアマア形も良く、丁寧に編み込んでいて買ったが、値段は1000円もしない。この他にもいくつか小さな籠を買って、この大きな籠に詰め込んで空港でチェック・イン。

 こういった大きな品物はそのままの状態で出した方が良く、なまじ包装や箱に入れて見えないようにすると、扱いがぞんざいになり潰されたりするから要注意。この手でもっと大きな籠を過去に何度もチェック・インしていて何れも問題はなかった。

 ゼネラル・サントス飛行場はこれといって特徴はないが、市内からトライシクルで空港へ行った所、空港入り口のゲート前で『トライシクルはここまで』と降ろされた。

 ところがそこにはおんぼろの車が待機していて、この車に乗り換えてターミナル・ビルへ行くようになっている。といってターミナル・ビルはほんの少し先で荷物が無ければ歩いて行ける距離だが、砂漠のような乾いた暑さは変わらず。その車に乗り換え。

 いつものように遅れて飛行機は飛び、飛行場上空で円を描くように上昇。これは飛行場先に小高い台地が広がっていて、真っ直ぐ飛ぶと高度が稼げないためと思うが、おかげでゼネラル・サントス市の区画された新市街と湾の状態が良く見えた。

【写真−2 こうやって見ると山が迫っていたのが分かる】

 

 真っ直ぐ飛行機はセブへ向かってミンダナオ島内陸を飛ぶが、やがて見えた写真−2の海岸線。この時はどこだろうかと目を凝らしたが良く分からなかった。後で調べると湾に広がる街は『カガヤン・デ・オロ市』であった。

 ここには30年以上前に1年近く仕事で住んでいたことがあり、思い出の多い街になる。今の人口は60万人を超えるミンダナオ島北部有数の街になっているが、私がいた頃も大きな街であったが、人口は今の半分くらいで、フィリピンの地方都市の特徴が良く出ていた街であった。

 今は武力衝突などはないが、私のいた頃は、政府軍と反政府軍が争っていて、銃撃事件なども多発していて、レストランから出た後にそこが襲われた事もあったが、私自身は至極呑気に過ごし、これがその後のフィリピンとの繋がりの初めとはその時は思わなかった。

 この湾を過ぎてやがて右手側に高い山を抱えた島が見えた。これは『カミギン島』で何度か行っているが、最後に行った時は家人と中央の火山『ヒボヒボ』へ登山したが、標高1332mとそれ程高くないのに、頂上は高山植物のような群落があり、眺めは抜群。

 この時、土地の子どもにガイドを頼んだが、彼らはゴムぞうりで簡単に頂上を目指し、こちらは結構大変だったのを思い出す。そのヒボヒボの全体像を見下ろしながら飛行機はセブへ。

【写真−3 いわゆるセブのリゾートは上方、左側に連なる】

 写真−3はセブ・マクタン空港へ着陸態勢に入った状態の一枚で、右下に突き出ている施設はフィリピン料理を出す有名な店。着陸する飛行機はこの店の真上を飛び、その眺めもまた一興。

 写真の中ほどに白茶けた道が見えるが、これは新しいリゾートを作っているようだ。この辺り、岩場で使いようのない土地だが、マクタン島のリゾートを開発しようとするとこういった地域しかなく、しかもこの辺り泥質の海岸で澄んだ海には程遠い。それでも何も知らない観光客にはセブのリゾートで売り込むのであろうか。

 この一帯は現在のマクタン・セブ国際空港がいずれ飽和状態になるのを見越して、新空港の計画が起きていて、この辺りを埋め立てて新空港を造る構想が持ち上がっている。

 既にハイエナのような土地業者は辺り一帯を食い荒らしていて、そうは簡単に造れないだろうが、大規模埋め立てに関してはセブは過去にいくつも行っているから、また日本のODAを引っかけて新空港を造るかも知れない。こうして、ミンダナオ島南部への旅は終わった。

【了】

 


 

author:cebushima, category:ミンダナオ島紀行 南部篇, 20:52
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