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パナイ島ぶらり旅 2015年 その(22) 船は北ヒガンテス島を後にして
 観光客と地元の人が船に三々五々乗り込み、船内はほどほどの込みよう。本日の乗船客はこれで全部と見切った船の乗組員の動きが慌ただしくなり、船内通路床の蓋が開けられる。

【写真−1 こんな調子では海上でエンジン・ストップしたら大変そう】

 写真1はその床下のエンジン・ルームで、始動はセル・モーターで回すのではなく、エンジンのホイールを7、8人がかりで引っ張って回す方法であった。この手の船は船舶エンジン搭載ではなく、トラックから外した中古のディーゼル・エンジンを使っているのがほとんどで、幾分信頼性に欠けるがこれで何とかやっている。

 写真を見て分かるように奥にメイン・エンジン、手前に小さなエンジンが見える。エンジンが2基あれば万が一、片方が止まっても海の上で立ち往生ということはなく、安心感はある。

 ただし、この小さな方のエンジンを始動した様子はないから、スペアで積んでいるのであろうか。それにしても、エンジンを2台搭載する時は、平行に据え付けるのが常道と思うが、これは船体の下部が細い構造になっているために縦置きしたのではないか。


【写真−2 澄んだ水、白い砂浜 フィリピン中どこでも見られる光景】

 などと暇に飽かせて船員の動きを見ていたが、写真2は正に出航という景色で、今日も穏やかな入り江であり、そびえる岩山もいつも通り。

 こうして、パナイ島のそのまた端にある島を訪れるなどなかなかできないが、フィリピンの7000以上はあるという島の風景はそれぞれ違い、フィリピンも広いなというのが今回の感想であった。


【写真−3 船尾からトローリングでもと思うが、少々速過ぎる】

 写真3は北と南のヒガンテス諸島を船尾に見る風景で、船首は一路パナイ島エスタンシア港へ向かっている。

 この写真の船尾左側には合板で囲われた小屋が付属していて、そこはトイレになっている。乗船時間2時間近くとなるとやはり必要になって来るのであろうが、床にただ穴が開いているだけの正真正銘の『水洗』になっているのであろうか。

 この写真で想い出したが、昔、ヨットで長距離航海中に船尾にぶら下がって用を足し、その爽快さは今でも覚えている。もちろん、安全ベルトを付けての用足しであったが。




 
author:cebushima, category:パナイ島ぶらり旅 2015, 07:44
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ミンダナオ島紀行 南部篇 その(10) セブ湖近辺点描
【写真−1 全長で7mはあるから、これだけの真っ直ぐな太い樹を探すだけでも大変】
 
 写真1は湖畔で見かけたセブ湖特有の丸木舟。睡蓮巡りで乗艇したが、船底に置いた低い腰掛用の台に座って膝頭が船端から隠れるほどの深さを持つ。

 通常の木の外皮側は白太と言って湿気に弱く腐り易いため、常時水に浸かる船は芯に近い方の赤太を使用するが、そういった不要部分を加味すると、セブ湖の丸木舟を作るには相当直径の太い樹が必要となる。

 いまだ現役でこの手の船が使われ、しかも作られているセブ湖近在には、まだこれだけの巨木が残っているとは驚きである。樹種名は分からないが、山の方で丸木舟を作っていると聞き、再びセブ湖を訪れる機会があったら、その製作現場を是非見学したい。


【写真−2 他にもう一匹飼われていた】

 写真2は泊まったホテル近くで見かけた猿。日本猿とよく似ている感じだが、セブ湖周辺の山中にはかなり生息しているという。

 実際、滝巡りに行った時、藪の中に野生の猿の姿を何匹も見た。しかも滝を見た帰り、同じ道を戻ろうとしたら猿の大群が道の周りに群がっていて、しかも威嚇するので危険を感じ、河原沿いに川の中に入りながら避けた事があった。

 写真の猿も元は野生だったのだろうが、今は民家で飼われる身となっていて、たまたま町で買ってきたバナナを与えたら、満足な餌をやっていないのじゃないかと思うくらいガツガツと食べていた。


【写真−3 これ見よがしでない地味な感じが良かった】

 写真3はやはりホテル近くの道路沿いにあった多分礼拝所だと思うが、イスラムの施設。細い塔の上に月のシンボルがあってイスラムと分かったが、人の出入りは見えなかった。

 ミンダナオ島はカトリックが布教する前はイスラム教の強固な布教地域で、特に南部と西部は今もイスラム王国と言ってもおかしくないくらい続いていて、カトリック側との確執は強く、内戦状態となっている地域もある。セブ湖近在もイスラムは強いと思ったが、写真のように地味な建物を見ただけで、この地域は融合が進んでいるためではないかと思う。

 今年の5月で終わるアキノ政権がミンダナオ和平を推進したが、結局尻切れトンボになってしまい、次期新政権がミンダナオ和平をどう扱うかは未定。フィリピンでは政権が変わると和平路線から好戦路線に切り替わる事もあって、前途は多難である。




 
author:cebushima, category:ミンダナオ島紀行 南部篇, 18:35
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ルソン島紀行 イロコス篇 その(8) ヴィガンでは没落した有力政治一族の家
【写真−1 行った時は昼の閉館時間近であったが、快く見学させてくれた】

 前掲のシキア・マンションにそれ程遠くない場所に、写真1の建物がある。現在は博物館になって内部を公開しているが、この家は1970年10月、ヴィガンの中心にあるセント・ポール大聖堂内でミサの最中、何者かによって銃撃を受け暗殺されたクリソロゴ下院議員(当時)の家になる。

 ヴィガンを州都とする南イロコス州は政争の激しい地域で、特にこのクリソロゴ家とシンソン家の確執は有名で、その原因はイロコス地方の農産物『タバコ』を巡っての利権が絡んでいる。また、今もフィリピン全土にその気風は残るが、銃と金で住民を脅しつけて投票させるなど普通で、キリノ大統領を生んだのもキリノを支持したこの一族の恐怖政治からともいう。

 この一族は独裁者マルコス一族の遠縁に当たり、北イロコス州はマルコス一族、南イロコスはクリソロゴ一族の色分けになっていたが、そこにシンソン一族が割り込み暗殺事件が多発する。


【写真−2 政治一族とあって、各国の元首クラスと一緒に撮った写真も多数】

 写真2はその博物館の中の一室で、前に見たシキア・マンションより規模や造作は劣るものの、展示物などで過去の栄華は偲ばれる。壁に掛かるのは一族の肖像や写真で、他の部屋にも所狭しと縁の品物や資料があって、一つ一つ見ると結構興味を引かれる物とはいえ、他人にとってはどうでも良い価値の薄いものばかり。

 それでも、上述した当主の暗殺事件の生々しい写真や資料が展示する場所は面白く、案内してくれた人に『暗殺犯はどうなったのか』と聞いたら、『結局分からない』との返事。しかし暗殺は政敵シンソン側の指図というのは見え見えであったが、現在の南イロコス州を牛耳る絶対権力者のシンソン一族には逆らえない口ぶりであった。


【写真−3 半世紀前以上前のアメリカの車。当時の高級車はアメリカ車であった】

 1961年5月、当時の南イロコス州知事が乗用車で走行中に襲撃され銃弾を受ける事件が勃発。この人物は後に大聖堂で暗殺された下院議員の妻で幸い死亡には至らなかったが、こうして一族で公職を独占するのは昔から珍しくない。写真3は襲撃時に知事が乗っていた乗用車で、錆び付いた車体の横に銃弾の跡が何ヶ所かあった。

 それにしても、その当時の車を残して展示する執念も執念だが、地方の領主然として政治を支配していた様子が、この一族を通じて分かり、その後どういう経過か分からないが、暗殺された父親の跡目を継いだ息子は現在、マニラ首都圏ケソン市選出の下院議員になっている。

 結局、この一族はシンソン家に敗れたことになり、絶対的権力を誇ったこの一族名は、ヴィガンの最も有名なスペイン風の建物が連なる『クリソロゴ通り』に名を残している。そういった地元で没落した名家の変遷を思うと、写真1の建物もどことなく寂しさを漂わせている感じがする。




 
author:cebushima, category:ルソン島紀行 イロコス篇, 17:26
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