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パナイ島ぶらり旅 2015年 その(12) 島内巡り・島で生きる
 島は平地が少なく石灰岩が隆起した土壌のため畑はあまり見ない。島内で消費する野菜は対岸の町から運んでくるが、元々野菜を大量に食べる食習慣はなく、海から採れる魚介類で食事を賄っている。

写真−1

 特にヒガンテス諸島は『貝』の産地で、これは干満の多いしかも泥質の海岸が島を取り巻いているために、貝の生息に適しているようだ。

 写真
1はマングローブの生える海岸べりで見た貝の身を取った後の貝殻の山で、至る所にこういった貝殻の山を見かけた。

 写真の貝はホタテガイのような形をしているが、大きさは小さなハマグリ程度で、海のリゾートのお土産で糸で繋げた簾のような貝殻細工を見るが、この貝殻がその材料になる。

 これだけ大量の貝がこの海で自然に採れるとすればかなりの乱獲のような気もする。こういったマングローブの生える泥質の海では『蟹』が採れ、そういった蟹を獲る蟹籠なども所々で見る。

写真−2

 写真
2は浜辺で干物を作っている様子で、フィリピンの干物はかなり塩辛く、日本式に焼いて食べると口が曲がるほどである。

 こういった干物は汁物に入れて塩味を整えるように調理することが多く、そのため小魚も干物にしている。この干物にする魚の種類は何でもするといっても過言ではなく、干物を商うセブの市場に行くと様々な魚の干物を見ることが出来る。

 その干物も日本では腹から開いているが、フィリピンでは背中からで、背開きというのはその理由は分からないが他の国でも多い。

写真−3

 写真3は海岸にテントを張って商売をしていた『ハンバーガー屋』。こんな所で商売になるのかと思うが、パラパラと客が買いに来る。

 海で働くかハバルハバル商売くらいしか現金収入の道の少ない島では、なかなか努力しているなとその様子を見て注文したが、味の方はフィリピン最大のハンバーガ―・チェーン店より美味かった。



author:cebushima, category:パナイ島ぶらり旅 2015, 19:19
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へそ曲がりセブ島暮らし2016年 その(10) 30年前のこの目で見たエドサ政変
 225日は1986年に独裁者マルコスを追い出した日としてフィリピンの祝日となっている。



 その出来事をマニラ首都圏にて目撃、体験した一人の日本人として毎年、同じような事を書いているが、歴史というのは繰り返し語られ、記録されるから歴史になるのであって、今年は30年目に当たり同様に書き綴る。

 個人の記憶に頼る回顧物というのはメモを詳しく残すような性格の人ならともかく、時間が経つに連れて曖昧になったり、時空列が混同したりするが、その辺りはむやみに信じるのではない態度も必要で、この拙文もその例外から逃れられない。

 それでも最近のデマ情報の多い独り善がりのSNSなどよりは、まだ真っ当、少なくても捏造する事はなく記述している。

 2016
年の今年、フィリピンは各種選挙の年で、特に6年ごとに行われる正副大統領選が行われ、公式選挙運動も解禁されて選挙戦の真っ最中。

 溯る事198627日は繰り上げ正副大統領選の投票日で、独裁者マルコスに対して野党統一候補として立ったのがコラソン・アキノ。今の大統領の母親に当たり、夫は1983821日、マニラ国際空港で真っ昼間に暗殺されたアキノ元上院議員。

 この事件が引き金になって反マルコス運動が高揚し、1986年の繰り上げ正副大統領選へと繋がるが、私はその時日本政府関係の仕事のためにマニラに滞在していた。政府機関なので投票日前後は仕事場も長い休みになって、この期間を利用してバギオ方面へ旅行に行った。

 選挙戦最終日近くで熱狂的になり、危ない世情かと思いきや長いバス道中では特に変わった様子もない。投票後、バギオの公園で開票速報が行われていて、それを見ると政府発表ではマルコスがリード、民間の選挙監視団体発表ではアキノがリードと全く正反対で、それを見ているフィリピン人は特に不思議がる様子もなく、それが私には不思議な感じがした。

 マニラへ帰ると仕事場ではマルコスかアキノかで盛り上がっているが、政府機関のためかマルコス支持が多かった。これの風向きが変わったのは開票に不正があったと暴露されてからで、222日、国防長官のエンリレと参謀次長のラモスらがマルコスに反旗を翻して、国軍本部のあるキャンプ・クラーメに立て籠もった。

 その日早朝、私はミンダナオ島から友人がマニラ国際空港に来るので車に乗ってその基地前を通りかかったが、いつになくひっそりしていて変だなという感じは受けたが、それがエドサ政変の始まりだとは知らず、歴史の一端を覗いた瞬間であり、日本人として変則的ながら最初の目撃者であったと思うが大袈裟か。

 その夜からエドサには群衆が押し寄せ、私も夜に野次馬気分で見に行ったが、広いエドサの通りに手を繋ぎながら続々と基地へ向かって人々が押し寄せる様を体験。非常に平和的であまり危険は感じなかったし、お手伝い風の人々が祭りにでも参加するように嬉しそうに歩いていたのが印象的だった。

 翌日から散発的に銃撃戦もあり、基地の周りではタイヤを燃やして黒煙を上げていて人々の顔も緊迫感が見える。そういった人々の上空に機体に何にも書かれていない不明なジェット戦闘機が、低空で旋回し立て籠もった基地内に今にも爆弾を落とすのではないかというのが唯一の恐怖体験となった。

 また、日本大使館からエドサには車は通れるのかという依頼があって、自分達で行けば良いのにと思いながらもこちらも興味があって四駆で行く。この時期には群衆も殺気立っていて、急いで『EMBASSY JAPAN』と紙に書いて車体に張り付けて出発するが、どうも目立たないので途中、アキノ・カラーの黄色いリボンを売っているのを見つけて、それをアンテナにたなびかせてエドサを走り抜ける。

 当時マニラ首都圏に在住の日本人は妻子を日本へ返したり、日本政府筋はマカティにある日系のホテルを邦人の退避所などに定めたが、日本へ避難するにしても全部自腹で負担するから、多くの在留邦人は『いざという時当てにならない日本』と馬鹿にしていた。

 やがてマルコス、アキノ双方が大統領を宣言し睨み合って膠着状態になり、どうなるかと私は知人宅で時間を過ごすことにした。

 その夜遅く、ベッドの上でウツラウツラとしていると遠くの方から歓声が津波のように伝わってきて、これがマルコス一族がマラカニアン宮殿から脱出した瞬間で、そういえば米軍差し回しのヘリコプターが寝ている家の頭上をバタバタ飛んで行ったような記憶もあるが、あれがそうだったのかなと思うも夢の中だったかも知れない。

 この政変は『EDSA Revolution』と名付けられて、革命とされているが指導者が変わっただけで体制は何も変わっていないから政変であって革命の冠詞を付けるのは不適当。

 こうして30年経った今年、ハワイに逃げたマルコス一族は息子を副大統領候補に出して、しかも当選の可能性が高まっているというから、あの独裁時代は既に風化しているのかと、日本人同様に忘れっぽいフィリピン人に少々呆れる。

 【写真はマルコスとトレンチ―ノ(共に既に死亡)の正副大統領候補。名刺大で裏は1986年度のカレンダーになっていて選挙用に配られた】
 


author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2016, 20:50
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パナイ島ぶらり旅 2015年 その(11) 島内巡り・コール・センターと呼ばれる場所
写真−1

 朝早く起きて泊っている竹製の小舎前に広がる海辺を見ると、かなり沖合まで潮が引いている。昇り出した朝日を受けて雲が明るく染まりその変化に興味は尽きない。

 『早起きは三文の得』とは正にその通り。写真
1がその引いた浜の様子で、島の人が三々五々歩いていて、犬を従えて通り過ぎる人も見える。

 時々、水溜りで足を止めて屈んだりしているが、これは干潮時に採れる貝を探していて、朝のおかずにでもするのだろうか。

 島内は午後
4時にならないと送電されず、昼間は無電気状態になるが、リゾートにはテレビがあって、その受信も勿論4時からだが、どういうわけか全国放送網の大手の一つしか入らない。テレビが一局しか映らないと情報も偏るだろうなと思うが、テレビが見られるだけでも島民には良しとなるのだろう。

写真−2

 島内を巡るにはハバルハバル(バイク・タクシー)を利用するが、最初は歩いて泊っている海岸の反対側へ行くことにする。写真
2は海岸から登りになった道の途上で、ここは島民が『コール・センター』と呼んでいる場所になる。

 写真の真ん中辺り、左側に道路に座り込んでいる人が居て、これは携帯電話をかけている姿で、右側の小高い箇所でも携帯電話をかけている人が見える。

 島内では携帯電話は使えないのだが、どういうわけかこの地点だけが外部と携帯電話で話すことが出来、コール・センター=電話の連想でこの地点をコール・センターと呼んでいるのはフィリピン人の持つユーモアから来ている。

 道端で話していた家族はどこか遠くへかけていて、海外か都市圏にでも身内が働きに出ていたのかもしれない。余談になるがこの海外出稼ぎからのフィリピンへの年間送金額は公式で
200数十億ドルに達し、隠れて持ち込む外貨を含めればGDP10%程度になるというから一大産業といって良い。

 そういった中、近年はコール・センター産業が急伸し海外出稼ぎ送金額に迫り、
GDPを押し上げている。しかし、コール・センターというのは人件費の安い国、例えばこれからは英語圏ならミャンマー、バングラデシュ、インドに流れて行く運命にあり、フィリピンのこの業界の成長は早かったが、駄目になるのも早いのではとの見方も出ている。

写真−3

 山道を越えて反対側の集落に入ると、同じような漁村風景が広がり、時々ハバルハバルが通り過ぎる程度のノンビリした雰囲気。写真
3はその道で会った島の重要な運搬車でオートバイにサイドカーを付けた代物だが、こういった小さな島ではこれで充分。

 持つだけでも色々と煩わしい四輪車など要らないし、このくらいのペースで暮らせる島というのは、セブなどのような地獄的な交通渋滞状況を思うと、ある意味では豊かな島といえなくもない。



 
author:cebushima, category:パナイ島ぶらり旅 2015, 17:37
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