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この一枚2015年 セブ篇 その(15) セブの公共墓地にて 
 仏教では亡くなって7日目に故人の魂はこの世からあの世へ行くといって『初七日』と称し、カトリックでも人が亡くなって『9日目の祈りの日』というのがある。



 その意味は多分カトリックでも初七日と同じなのだと思うが、先日亡くなった知人の葬儀が
9日目に行われた。

 フィリピンの葬儀は土曜日か日曜日に行われるが、この日は平日にもかかわらず、最後のミサを行ったセブの山の中腹にある大きな教会では、
3つの棺が置かれていた。

 たまたま、この日に互いに関係のない家族の
3つの葬儀が教会で行われた事になり、こういうことは私には初めてだった。

 ミサの後、山を下って墓地に向かうが着いた所はセブ市内の既に周りは住宅やらビルで囲まれた公共墓地だった。

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1日には日本でいう『お盆』に当る『All Saints Day』になり、一帯は年に一度の最もにぎわう時で、その準備や早々と訪れる人々で墓地とは思えぬ雰囲気だった。

 写真がその墓地内の様子で、一見して『墓地の団地』という様子で、遠くに見える箱上の建造物も同じ物で、これほど立て込んだ墓地は初めて見て少々ビックリした。

 私の知人の棺が納められたのは上下
4段、左右12列の計48の棺が納められる場所の1つで、棺が納められる空間のみしかなく死んでも窮屈と感じざるを得ない。

 あるいはにぎやかで良いと思うかは人様々だろうが、この墓地はこのような形態で墓地一杯に延々と棺団地が作られていて、人口爆発のフィリピンでは死後もこうなるしかないのかと思った。

 写真のスペースには棺が納められ、自然に風化して遺体は棺ごと朽ちて行き、よく考えればあまり気味の良いものではないが、そういった気味の悪さは仏教と違って不思議と感じられない。

 仏教のあの世とキリスト教のあの世、それぞれの死生観が違うためから来るのであろうが、それにしても都市部の墓の逼迫具合を感じさせる墓地であった。

 この写真以外に横
40センチ、高さ30センチくらいのやはり何段も積み重なった墓地団地がたくさんあり、これはとても棺を納めることは出来ないから、想像するに骨となった遺骸を取り出してそれを納める場所ではないかと思う。

 そういえば地方の墓地の葬儀に列席した時、棺を納められる期間は
5年間で、それ以降は取り出さなければならないと聞いたことがあり、それと関連があるのだろう。

 勿論、金のある層は自前で墓地内の敷地を借りるなり、あるいは民間の公園のような墓地を買うなりしているが、金の無い層は写真のような墓地団地に収まるから、死んでも人間に格差がある現実には慄然とするも、死んだ人間には関係ない事であろうか。

 All Saints Day
に備えて、墓の掃除やペイントの塗り替えなどそれぞれ手を入れているが、そうして残された次の代に供養してもらえることを良しとする。


 
author:cebushima, category:この一枚 2015 セブ篇, 19:14
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2015年 桜紀行 その−8 『富士駅から身延線で富士宮へ 先に白糸の滝へ行く』
写真−1

 新幹線静岡駅から普通電車に乗り換えて、東海道線富士駅でまた乗り換えて身延線に乗る。

 写真
1は東海道線富士駅の様子で、昔ながらの鄙びた駅の雰囲気を漂わしている。

 富士とは文字通り富士山の麓に開けた工業地帯で、私などはかつて製紙工場の公害で騒がれた地域との印象を持つが、今は騒がないから改善はされているようだ。

 この富士駅からは甲府までをつなぐ身延線が走っていて、中学生の夏休みの時、この富士駅で乗り換えて身延線のとある駅に降りた事があった。

 その当時は新幹線も出来ていなくて、東海道線普通電車で富士駅まで来たが、はるばる来た感じが強く乗り換えの身延線ホームも木造だった気がする古びた印象があった。

 使われていた車両も向い合せ式の古い車両を使い子ども心にも心細い雰囲気で、発車間隔も相当離れていたような気がする。ところが今は、ある部分は高架式の線路になっていてずいぶんと様変わりしていた。

 高架の上を走るから車窓からは富士山の姿が良く見えるだろうと思ったが、春霞で全く姿を見せなかった。富士から富士宮までは短い距離で、富士宮駅に降り立ちその足で白糸の滝方面へ行くバスに乗るがまた雨が降り出した。

 富士宮は富士登山で有名な街だが富士登山の季節だけにぎわうのだろうかどうも活気がない商店街を抜けて、白糸の滝の方へバスは登って行く。

写真−2

 写真
2は白糸の滝の様子で、今日の目的地は途中で下車して行く『狩宿の下馬桜』だったが、せっかくこちら方面に来たので白糸の滝見物をする。

 白糸の滝は幅
200メートル、落差20メートルという触れ込みだが時期的に水量の少ない時期なのかあまり迫力はない。

 ただし、写真のように川から直接落下するのではなく、溶岩の隙間から流れ落ちて繊細なレース状に落ちる所に価値があり、
2013年に日本では13番目になる富士山を中心とした世界文化遺産を構成する滝になる。

 写真を見ても分かるように雨と霧がうっすらとある中の滝の周囲は新緑の色がしっとり目に写り、フィリピンのように年中緑だけという風景とは一線を画す。

写真−3

 名だたる観光地の白糸の滝も雨降りと午後遅いため、常ならば観光客がゾロゾロ列をなして見物するだろうが、この日は滝へ至る道沿いに開く土産屋や食堂も閑古鳥の状態。

 小腹がすいたのでその一軒に入って、最近有名になっているという名物『富士宮の焼きそば』を食べるが、どこがどう違うのか普通の焼きそばで、『名物に美味いもの無し』そのもの。

 むしろ、焼きそばセットに付いてきた写真
3の『こんにゃくの味噌田楽』がいかにも日本的な味で気に入り、富士山の麓はこんにゃくの産地なのだろうかと思いながら食べた。


 
author:cebushima, category:2015年 桜紀行, 18:44
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2015年 桜紀行 その−7 『大垣から静岡県富士市へ 東海道沿線の様変わり』

 大垣は古い町で、昔の大垣駅の薄暗いホームのベンチで寝て田舎臭い印象があったと書いたが、大垣の人口は16万人を超し、岐阜県では県庁所在地の岐阜市に次ぐ第2の人口を持つ都市だった。

 城下町でもあり、ホテル近くには大垣城があり、朝方になって雨も小止みになって大垣から東海道線と新幹線を使って静岡の富士市へ行く前に城へ寄ってみた。

写真−1

 写真1はその城内の一角で雨に打たれながら咲いていた小振りの枝垂れ桜で、なかなか風情のある姿だった。

 大垣城は
1500年頃に築城し、1945年、敗戦直前の空襲によって国宝だった天守閣などを焼失。今の天守閣は1959年にコンクリート造りで復元している。

 大垣と言えば芭蕉の『奥の細道』の結びの地で知られ、その縁の史跡は数多くあるだろうが、今回は残念ながら端折る事にする。

写真−2

 写真
2は城を出てから駅に向かって歩く道筋にあった商店で、何ともその店の様子は個性的、ゆっくり店に立ち寄って見物して行きたい雰囲気を持つ。

 今の日本は大規模ショッピング・センターに集約するような無個性な店舗作りは全盛だが、こういった店がまだ健在なのは嬉しい。そういえば市内を歩いていると和菓子屋が多く、これも城下町だった名残りなのだろう。

 大垣から東海道線で名古屋に出て新幹線に乗り換えるが、大垣から岐阜駅を経由して名古屋まではかなり近く、大垣から名古屋まで通勤圏になるようだ。

 岐阜駅で停車中に高山本線への案内を見て、この時期の高山も悪くないと思ったが今日の予定は身延線の富士宮市に行き、そこから五大桜の三番目になる『狩宿の下馬桜』へ行くので未練を残して通り過ぎる。

 名古屋から新幹線で静岡へ行き、普通電車で富士市へ向かうが、新幹線には新富士駅があるものの、東海道線とは直接接続していなくて政治的に作られた駅の見本で、乗降客の利便を考えていない。

写真−3

 静岡からの東海道線はさすがに幹線とあって
15分置きくらいに沼津方面に運行されていて、電車も通勤電車と同じような雰囲気。

 静岡市は政令指定都市になったためか、途中の駅は静岡市に入っていて写真は駿河湾沿いの市や町が静岡市になっていて、かつての地名は大変化した。

 写真
3はその一つ興津駅の案内板の様子で由井など海岸と山が迫った場所のイメージを持っていたし、清水市などは静岡市清水区などと訳の分からない変容ぶり。清水市など区となって、こんな変わりようで清水の人間は嫌でなかったのだろうか。

 清水港は、その昔ヨットレースのスタート地点で懐かしく思ったが、一帯は高い防潮堤のような物で遮蔽されていて海の様子は伺えず、眺望さえも今の時代は死んだのかと感じた。


 

author:cebushima, category:2015年 桜紀行, 20:24
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