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この一枚 ヴィエンチャン篇 (39) 《 ラオスの犬、猫 》


 ラオ人が犬好きなのかどうか聞いたことはないが、街中至る所で犬の姿を見る。

 自宅から
200mほどの通りを車で通ると、7〜8匹が道端で寝そべっていて、毎度見る光景なのでその数が少ないと、今日はどうしたのかなと気になったりする。

 この他に塀に囲まれた敷地内から外に出さない犬も多く見かけるから、この通りだけでも相当数は居るようだ。

 ただし、これら道でたむろする犬には、首輪もなく狂犬病の予防注射を受けているかどうかも分からないから、馴れ馴れしく近づくのは危ない感じはする。

 車に乗っている時はこれらの犬は嫌そうながらおとなしく道の端に避けるが、徒歩や自転車、ラオ人ではなく外国人だと臭いが違うためか、敵意を見せて吠え近づいてくるのもある。

 こういった性悪な犬に対しては、その内、思いっきり蹴飛ばしてやれば二度と近寄らないと思うが、飼い主の方も分かっているのか犬を制止している。

 写真はラオス南部を旅行した時に、滝の見えるレストランで食事をしていたら寄ってきた犬と猫で、仲良く写真に収まっている。

 犬の姿を見て分かるように毛足の長い犬で、ラオスの暑い時は
40度にも達し、湿気も非常に多いからこの手の犬は大変と思うが、結構毛足の長い犬の姿をあちらこちらで見かける。

 セブの家でも毛足の長い犬を飼っていたが、その姿を見る都度に『クーラーの効いた部屋で飼ってやりたい』と思ったもので、本来は裕福な家庭で飼われる犬だが、どういうわけかラオスには毛足の長い犬が多い。

 一方の猫。犬ほどは姿を見ないが、自宅の回りには野良猫の姿をいくつも見かける。

 ラオスの隣のタイには有名な『シャム猫』があって、その流れを汲んだ容姿を持つ猫も時たま見かけるが、ラオ人は犬ほどは好きではないようだ。

 犬といえば仕事場に毎日のように姿を見せていた犬が居て、時々事務所内で昼寝をしてはどこともなく去って行く。まだ、子犬の部類で毛は薄い茶色だった。

 この犬には来る度に日本式にお座りを教えてビスケットを与えたりしていた。ところがある日、急に姿を見せなくなった。

 ラオ人の同僚に聞いてみると、どうも食べられてしまったのではないかという話になった。それも仕事場のすぐそばで大きな建物の建設が進められていて、そこで働くヴェトナム人達が食べたのではないかとなった。

 証拠もないのに疑うのも悪いが、ヴェトナム人は犬を食する習慣を持っているから、そう見られてもしょうがない所がある。

 そういえば消えた子犬は赤犬という種類で、食べるにはちょうど良い年恰好。

 仕事場の回りにはたくさん犬がたむろしていても、どの犬も斑模様や毛の色が濃かったり、また大きくなり過ぎていて食べたいという気を起こさせる犬でないのは確か。消えた犬は食べ頃だったのだろうと思うしかない。



 
author:cebushima, category:この一枚 ヴィエンチャン篇, 19:25
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ヴィエンチャン暮らし2015年 その (5) 1945年2月 マニラにて
 昨日、14日から自宅の前にある寺から音楽など流れてにぎやか、早い話が五月蠅い。今日15日は朝暗い内からいつにない読経が流れて、日曜日だから朝寝しようとした目論見は、この陽気な読経で敗れて、いつものように6時前に起きた。

 昨日、近所にある植木屋の前を通りかかったら、バイクに乗った女性が紅いバラの鉢植えを抱えて植木屋から去って行くのを目撃した。その紅いバラを見て『ああ、今日はヴァレンタインか』と思い出した。

 仏教国のラオスでもこういった行事は若者に広まっていくのだろうが、日本のようにチョコレートがどうなどの馬鹿騒ぎはない。それにしても鉢植えのバラとはなかなか考えたものだと感心した。

 その足で近所の川沿いを歩いていると、赤い提灯をいくつもぶら下げた民家があり、にぎやかにパーティをしていた。その赤い提灯から『そういえば今日は春節だったな』と思い出した。こういう行事を祝うのはラオスでも中国系かヴェトナム系だけだから、図らずもあの家は中国系かと分かった。

 と、このように現実の世の中は平和、暢気に移ろいで行くが、
70年前にフィリピン・マニラであった『市街戦』のことを書いてみたい。私もフィリピンに関わって30年以上になるが、マニラ市街戦に関してはおぼろげな認識はあっても詳しい内容はあまり知らなかった。

 日本は戦前回帰主義者の自民党の安倍によって日本にとって不都合な歴史を塗り替えようとしている動きが顕著で、今年は敗戦
70年目の節目ということで政府談話が出されるという。

 先日、マニラでマニラ市街戦の追悼式が行われ、フィリピン側要人ではラモス元大統領が列席し、アメリカを始め各国の外交官も列席したが、なぜか一方の当事者、加害者でもある在日本大使館は無視を決め込んだ。安倍の意向を汲んでの無視となったのだろうが、
10万人のマニラ市民が日米の戦闘で死んだ出来事を考えれば外務省、大使館は大馬鹿といわれても仕方がない。

 話は脱線するがこの日本の外務省、最近在外の公館運営予算に
ODAを流用している事実が発覚した。それも公館予算の40%、額にして500億円を超える巨額な額である。途上国用に使われるODA予算が身内に使われているのも驚くが、この事実を報道しない日本のマスコミの連中も馬鹿。

 外務省は会計上問題ないと嘯いているが、身内の監査ではどうにでもなる。
ODAの一端を担うNGOでは1円の決済でも神経を使っているというのに、外務省のこいつらは何だ『税金ドロボー』といって良いだろう。

 マニラ市街戦に戻ろう。当時の時の流れを追うと、
194519日、米軍フィリピン上陸。23日、米軍マニラ攻撃。226日日本軍マニラ防衛隊司令官自決。33日、米軍戦闘終了を宣言。となる。この一か月間に及ぶ戦闘で、日本軍側16千人以上、アメリカ・フィリピン軍側1000人以上が戦死した。

 と書くと通常の戦闘となるが、この戦闘が特異なのはマニラ市民が
10万人死んでいることである。その死も日本軍による虐殺行為が多く、この数字には米軍の容赦ない空爆、砲撃による被害もあったと日本側の言い訳めいた見方もある。といって、日本軍のこの無意味だった作戦が免罪される物ではない。

 当時マニラには
100万人ほどの市民が住んでいて、占領していた日本軍は陸軍と海軍で意見が分かれて、陸軍はマニラを出て北方山中へ退却方針。海軍はマニラ港があるために死守を決めたという。というが軍事上はほとんど無意味な戦いであったのは結果が証明している。

 死守派の海軍は沈められた艦船乗組員生存者を中心とした部隊を結成。陸軍の一部も加わって『マニラ防衛隊』となるが、その兵力
16千人前後。兵力と書くと勇ましいが、要するに寄せ集めで銃を持ったことのない在留邦人も兵力として数えられ、実際に地上戦闘能力を持つ兵はわずかで、その火力も貧弱。

 陸軍
14方面軍の山下大将は自軍の貧弱さを分かっていたのか『無防備都市宣言』を考えていたようだが、この無防備都市宣言というのはジュネーブ条約にも明記されているように、軍が明け渡して無用な戦闘を避け、都市、市民への損害を防ぐためにあるが、過去の歴史でいうと実際は宣言しても無視されて攻撃されているのがほとんどで、血が頭に上がった軍人には条約の条文など何にもならないのは確か。

 一つの都市内で市民
10万人が死ぬというのは歴史の中でもそうはなく、例えば広島・長崎の原爆、あるいは東京大空襲以上の惨禍であるし、歴史を見直すというもっともらしい言葉で、安倍以下、産経新聞を中心とした連中がその事実を消し去りたい『南京大虐殺』にも匹敵するのではないか。

 マニラで行われた追悼式典では日本軍に親族を殺された遺族から日本政府に対して『謝罪』を求められている。
70年前のことを何を今更と思う日本人が大多数だろうが、過去の事実と真実に耳を塞ぐ今の日本人に対して批判の矛先は向かっている。

 親日といわれるフィリピンがこういった戦前、戦中の日本人による蛮行を糾弾はするが許してくれる、その心の大きさに感謝すべきで、
70年前というのはついこの間なのである。【写真は現在のセブ州庁舎。ここも戦時中に焼け、ドームが崩れ落ちた写真が残っている】 


author:cebushima, category:ヴィエンチャン暮らし 2015年, 09:21
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ヴィエンチャン暮らし2015年 その (4) 都はるみ、小椋佳の時代
 ヴィエンチャンの知人宅へ行った時、写真のCDがあるのを見て借りてきた。

 都はるみと小椋佳、
1960年代半ばから1970年代にかけて一世を風靡した歌い手で、今も最近の意味不明の、特にがなり立てるだけの集団で空虚な歌を歌っている連中とは、同じ芸能人とはいえ世界が違い過ぎる。

 都はるみ60歳代、歌われた歌はしっかり残っている。

 都はるみの最初のヒット曲『アンコ椿は恋の花』は伊豆大島を舞台にしているが、高校生の時からこの島に行っていて、この歌は
1964年に流行、その翌年19651月に大島町元町の大火があった。

 今、記憶を呼び起こしてみると大火のあった前年に同級生たちと大島へ行っていて、まだ焼ける前の元町の様子などおぼろげに覚えている。

 この大火は
1965年の10大ニュースに選ばれたほどの災害で、あの町が焼けてしまったのかとビックリした記憶がある。

 ちなみにこの年の
10大ニュースを見てみると戦後の誘拐事件で知られる『吉展ちゃん事件解決』があり、『池田前首相死去』、政治案件では『日韓基本条約成立』とあり、既に条約成立後半世紀経っているというのに、日韓の間には相も変らぬ深くて暗い川が流れている。

 明るいニュースでは朝永振一郎ノーベル物理学賞受賞があり、天皇の座を狙っているという野心が伝わる次男が生まれたのはこの年である。

 さて『アンコ椿は恋の花』は軽快なメロディーと都はるみの歌いっぷりが良く合って、いつ聞いても名曲と思う。

 今回じっくりヴィエンチャンの自宅で聞いてみると、歌詞の中に『まえば恥ずかし
16の〜』くだりがあって、私は長年『まえば』というのは『前歯』と思っていた。ところがこの『まえば』は『舞えば』ということが分かり、こういった歌詞を間違って覚えてしまっているのは他にもある。

 さて
1976年、都はるみは『北の宿から』で絶頂を迎えるが、この曲も正月に伊豆大島で炬燵に入りながら聞いた記憶があって、都はるみというと伊豆大島を連想する。

 次に小椋佳だが、当人の容貌は見ない方が良いといわれるくらいだが、自作の歌はなかなかのものが多い。

 ただ、今回
CDで昔の曲を聞いてみると前ほど音質は良く感じず、これは当時アナログで聞いていた音質と、今の様なデジタル一色の音質との違いなのかも知れない。

 アナログの方が音質は膨らみがあると聞くが、確かにそのようだし、小椋佳はそういった音作りの造詣が深かったのだろう。小椋佳は銀行員となって、一時は頭取候補といわれたらしく、実際同期の人物が頭取になっている。

 この時代、井上陽水、吉田拓郎、荒井由美、その他各種グループが煌びやかに音楽の世界を彩り、曲名は今に歌い継がれている。

 今出来の曲がすぐに忘れられてしまう消耗品となっているのは、こういった曲作りをしている今の連中の日本語力、国語力の欠如と想像力の貧困と共に、コンピューターで作っているのではないかと思わせる安易な発想から来ているのではないか。

 と偉そうに書いているが、都はるみは今どうしているのかと思うが、といって調べるほどでもない。

 この間『フーテンの寅』シリーズで、都はるみがマドンナ役で出ているのをネット上で観た。この映画確か日本にいた時、劇場で見た記憶があるが、再度観た映画のほとんどのシーンは記憶に残っていなくて、初めて観る映画のようだった。

 フーテンの寅は
48作作られていて都はるみは1983年の31作目に出演。前後のマドンナ役が田中裕子、竹下景子だから何となく、こういう映画から時代が分かる。


 
author:cebushima, category:ヴィエンチャン暮らし 2015年, 19:45
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