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ヴィエンチャン暮らし その (50) ノンカイで買った蘭
 セブの自宅では蘭の花をずいぶん持っていた。過去形になっているのはそのほとんどが死んでしまったためで、家人は『ン十万円をダメにした』という。

 こういった植物を育てるには長期間家を留守にする人間には向いていないことは確かで、2006年に中米で2年間暮らした間など、植物にとっては大打撃だった。

 一応、留守宅の人間にはそれなりに世話を頼むが、人の趣味物にはこっちが思うほど、そんな愛情をかけられないのが東西を通じて共通するようだ。

 それ以降、セブの植木市などで欲しいなと思う植木や蘭を見かけても特に蘭類だけには手を出さず、見るだけで我慢していた。

 それが、ラオスに住むようになって蘭の姿を普通に目にし、栽培条件も難しくなさそうなので買ってみるかという気が起きてきた。特に今のヴィエンチャンは乾季に入っていて蘭の花が盛りで、時々通る植木屋の軒先に咲き誇る蘭の鉢が目立つようになった。

 蘭といえばお隣のタイは大産地。時々行く国境の町ノンカイの大通り沿いには植木屋が何軒も並んでいて、あそこへ行けば面白い蘭が買えるかと、先日ノンカイへ行ってきた。

 このノンカイ行きも以前はヴィザ更新のために
2週間ごとに行っていたことは都度書いている。それが2ヶ月近く前に1ヶ月有効のシングル・ヴィザをようやく取得し、次にマルチ・ヴィザの申請となったが1ヶ月の有効期間内にマルチの方は取れず、マルチが出るまではラオスに足止め。

 それがようやく先日マルチが出てラオスの出入りが自由になった。このマルチも通常なら
1年間有効なのだが、発効日が労働許可証やら外人登録手続きを始めた5月にさかのぼっていて、残存有効期間6ヶ月チョッという理不尽さ。

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ドルも取っていい加減にしろよと思いつつも、こればかりは万事不能率な社会主義国ラオスに文句をいっても始まらない。

 それにしてもやっとマルチ・ヴィザが出たと思ったら、もう翌年分のヴィザ申請用意をしなければいけなく、冗談として笑い飛ばすしかないのがこの国の現実。

 さてマルチが出た初めての国境越え。といっても荒川や多摩川の橋を渡るのとたいして変わらないが、それでも
2ヶ月近く行っていないタイの空気が意外と爽やか。

 これはヴィエンチャンも同じ湿気がないためで、あの身体にまとわりつくモヤーとした湿気が嘘のように消えていた。

 常宿にしているホテルから朝早く、大通り沿いの植木屋に歩いて行くが、朝の散歩もこの時期は快適である。水を撒いていた植木屋でしばし物色するが、時期的なものなのか蘭の鉢がかなり多い。

 値段を聞いてみると
60バーツ(200円)からという。他に大きく寄せ植えした鉢もあったが値段は500円もせず、全部買ってヴィエンチャンに持って帰りたい気持ち充分。

 しかし、車で来ない限りはとても無理な話で、とりあえずザックの中に入れて持ち帰れる鉢を探して、この丈ならザックに入ると買ったのが写真の白い蘭。

 ザックに入れることにこだわったのは、植物を国境間で移動させるには検疫が必要で、そんな手続きは面倒なのでこっそり持って帰る方法を採った。大きな袋に入れていくつも持ち込む方法も考えたが、何となく不自然で摘発されるとこれはもっと面倒になると思ってその方法も放棄。

 その昔、セブ島の隣の島に行って、市場で少々珍しい蘭を見つけて買ったことがあって、帰りの船にぶら下げて持ち帰ろうとしたら、乗船前に持ち出しの許可をもらって来いと言われたことがあった。幸い港にあった事務所へ行って許可をもらったが、このように植物の移動というのは結構面倒なのも事実。

 写真の蘭をザックに傷めないように何とか納めてタイ側を出国。次はラオス側の入国だが、背負っているザックなど見向きもしないからこれまた難なく通過。急いでバスに乗り込んでザックから息苦しかっただろうとすぐに取り出しヤレヤレと息をついた。

 写真の蘭、種類としてはふつうに見られる『デンドロビウム』種でタイもラオスもこの種が多い。こうやって持ち込んだ蘭だったが、ラオスの人間に聞いてみると別に心配することなくタイからラオスへ持ってこられるという。

 そういえば国境で並ぶ車の中に、荷台に植木を載せた車を見かけたこともあるから、こちらも考え過ぎなのかも知れない。次は是非、車で行って持ってこようと思っている。


 
author:cebushima, category:ヴィエンチャン暮らし2014年, 12:08
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この一枚 ヴィエンチャン篇 (33) 《 メコンの秋を感じる 》


 内陸国のラオスでも今頃は日本の秋を感じさせるような気候となり、正に『秋冷』を感じさせる。

 明け方など寒さで目が覚め、何もかけずに寝ているのに、上掛け替りのシーツをいつの間にかしっかり包んでいるから明け方などはかなり寒いのだろう。

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月から5月にかけての40度を超す殺人的な暑さを思うと、この季節の変化からラオスも過ごし易い時期があるのだなといくらか安心した。

 それでも日中はやはり暑く、この間など少し日なたに停めていた車の室内温度計は41度を指していたし、夕方になっても室内は天井にある扇風機をしばらく回す必要がある。

 そんな陽気に誘われて日没前の1時間、休日にはメコン川の堤防の上を歩いているが、その時写したタイ側に沈む夕陽の光景。

 影絵のように写っているのは『猫じゃらし』のような草で、夕陽の逆光を受けて輝き、『秋の陽は釣瓶落とし』というように、見る見るうちに陽は沈み、いつ見ても飽きない光景が展開される。

 自宅の前がメコン川沿いの堤防になっていて、しかも未舗装でかなりの凸凹。

 車で通り過ぎるにはきつく、堤防沿いの住民が使う車しか通らないのでのんびりと歩けるが、いわば穴場的な道なので親子連れが自転車で通ったり、日課のように歩いている人々と行き交う。

 この道はメコン川沿いということで割合良い家が並んでいて、どうも観察していると外国人向けの貸家が多い。

 メコンの夕陽が見られるがキャッチフレーズになるだろうが、西日というのはかなり暑い日差しで頭の中で思い描くようなロマンチックさはなく、どこの家も西日の当る時間帯は簾をかけたりして西日を遮っている。

 これから年末にかけてもっと寒くなるという話らしく、どのくらい寒くなるのか分からないが昨年の例でいうと、ヴィエンチャンでは室内でマフラーを巻いて暮らしていたという。

 そうなるといつも蒸し暑い夏しかないのではと思っていたラオスに対する認識を変えなければいけない。

 『その国を理解するのは1年住まなければ』とよく言われることだが、四季折々のようなメリハリはラオスにはないだろうが、そこかしこに季節の移ろいを感じ取れることは多い。


 
author:cebushima, category:この一枚 ヴィエンチャン篇, 22:25
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ヴィエンチャン暮らし その (49) 台風『ヨランダ』被災から早や1年−100年に一度の台風を体験して (下)

▽ 炊き出しの効用と物資

 町は人口約7万人、20のバランガイを持ち、トウモロコシ栽培と零細な漁業で生計を立てるが、セブ島でも貧困率の高い地域で身内のフィリピン人海外就労者(OFW)からの送金で生活を頼る、フィリピン中どこでもある典型的な町の一つになる。

 【写真1−台風被害を免れたトウモロコシ畑』 

 今回の炊き出しでも「物資を」の声もあったが、炊き出しの場合は近隣の者が集まって会話やつながりを生じ、物資配布のような一方通行の関係ではないのは確かである。

 また、1カ所で炊き出しを続けると他の地域に不公平だという話になって、車に釜を積んで、支援の行渡らない山間部にある集落へ定期的に巡回、配食を行う。

 【写真2−巡回配食中、手前には台風で壊れた家】

 こういった山間部に入ると、昭和
20年代後半、日本の光景と同じで子どもが大勢集まり、一家で5〜6人の兄弟姉妹はまだ少ない方で、10人を超える家も珍しくなく、フィリピンの抱える「人口爆発」問題にも遭遇した。

 【写真3−炊き出し拠点に張ったテント内で食べる子ども達】

 救援物資は「リリーフ・グッズ」と称しているが、配布に関しては弱肉強食で、幹線道路沿いの被災者宅に有利で偏っているのが実情。

 ある被災宅にはベッドの下に配布物資がたくさん隠してあって、本当に必要なのかと感じた。

 もともと、質素な生活を維持している地域で過分な物資など益にならず、むしろ破壊された家屋再建用の材料を配る方が台風被害直後と違って有効と見る。

 実際、スイスのNGOがフィリピンの組織を使って、被害に応じて波板トタン、釘、のこぎり、ハンマー、スコップなどを配っていた。

 【写真4−ある日の炊き出しメニュー『チョプスイ』】

 週末になるとセブ市方面から車を連ねて物資を配る団体や篤志家などの車が頻繁にやってくる。

 常々フィリピンの人は「走らない」と思っていたが、それらしき車が道端に停まると遠方から子どもも大人も車めがけて走り寄って、その場は騒乱状態。

 こんな中、道に投げられたお菓子を拾うため子どもが道路を斜めに横切り、車に接触する事故も発生。被害の甚大だったレイテ島やサマール島は違うだろうが、この地では被災者側も割り切って、援助物資の獲得は一種の楽しみになっている面も見受けた。

 【写真5−サトウキビ畑の向こうに被災者が待つ。沿道から外れているので支援も少ない】

 こんな中、沿道で手を出す子どもに対して地元警察は捕まえるという警告を発し、確かに最近は手を出す子どもの姿が少なくなった。

 この炊き出しは
17日間行ったが、被災直後ならかなり有効だったと思えるが、被災後1カ月を過ぎ電気も水も通じると、炊き出しも子どもに対する「栄養補給」事業となり、結局はフィリピンの抱える「貧困問題」に行き着く活動となって終えた。

 【写真6−子ども中心の巡回炊き出し】

 炊き出しはコメ370キロ、約4千食を提供したが、この方法が最良なのかと常に考えるも、遠くから皿を持って駆け寄って来る子ども達の姿を見ると無駄ではなかったと思った。

 炊き出し拠点の電気と水道は被災1カ月目に復旧したが、まだ復旧していない地域も多い。

 【写真7−炊き出し拠点に集まる子ども達への折り紙教室】

 丸坊主状態だった木々も新しく葉を繁らせ、ちぎれたバナナからは新芽も出て、倒れたヤシの木を製材し家屋の用材にするチェーンソーの甲高い音が各所から鳴り響く。

 台風被害を免れたトウモロコシ畑も順調に育ち、サトウキビの刈り入れも始まり、復興への道を歩んでいる様子が伺える。

 【写真8−このように毎日村々を訪ねて配食】

 フィリピンは気候変動の影響からか、昨年は通常なら台風のないミンダナオ島南部を襲った台風、今年のボホール地震と、毎年のように自然災害に見舞われ、今後もこういった大災害に襲われる可能性が高い。

 今回の経験から即応体制を持った地元民による被災者支援NGOがあっても良いのではと考えている。
 

 【写真9−沿道で救援物資を待ち構える子ども達、この姿も警察の警告で見えなくなった】

 (了)




author:cebushima, category:ヴィエンチャン暮らし2014年, 19:46
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