ヴィエンチャン暮らし その(15) ヴァンビエン行ー2
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2014.06.08 Sunday
メコン川沿いに開けたヴィエンチャンから車で主要幹線道13号線の平地を走ること約1時間半、突然山が立ちはだかり、そこからヴァンビエンまでヘアーピン・カーブを上下に繰り返しながら3時間近く走ってヴァンビエンの町に入る。
途中には鄙びた感じの村も次々と現れて山奥を走っている感じは薄い。また、途中には日本のODAで建設されたラオスの自然環境破壊の元凶といわれるナムグム・ダム水力発電所も別の道をたどって行け、こちらはダム湖に遊覧船などが運航していて、ヴィエンチャンから日帰りで行ける格好の観光地となっている。
ヴァンビエンは地形的には盆地になり、突然山道が切れて写真上に見える奇峰が目に入る。この写真は川沿いのホテルに着いて、その庭から写しているが太陽はその奇峰の向こう側に没する。
こういった奇峰は世界各地にあって、2年前の正月に行ったヴェトナムの『ハロン湾』もこういった奇峰の島が無数に点在し、まだ外国人は兌換券で旅行をする時代に行ったことのある中国の桂林も同様である。
セブの隣にあるボホール島にも同じような奇峰(こちらはお椀を伏せた形の山だが)の連なる観光地があって、かなりの人を集めているし、セブ島自体も似たような地層だが奇峰といえるほどのものは見つからない。
こういった奇峰地帯は、その昔、海底だった所が地殻変動で隆起し、その隆起した地形が風雨に浸食されて形成されたとある。海のないラオスで製塩が行われていると聞くと驚きだが、太古の時代の地殻変動によって地底に閉じ込められた海水を汲み上げて製塩していて、名産にもなっている。
またこういった地質は石灰岩が多く、石灰岩から作るセメント工場が必ずあり、ヴァンビエンにもかなり大きなセメント工場が町外れにあり、モクモクと白い煙を吐いているが、公害云々で騒ぐような時代にはラオスはなっていないようだ。
写真下は同じような位置で写した朝の光景で、太陽は背後から昇っていて、この時間帯は日没時の西日を受ける時とは反対でかなり涼しいが、太陽が高くなるに連れてヴァンビエンといえどもかなり蒸し暑い。
写真の前面に流れる川はヴァンビエンの売り物で、カヤックやチュービングといって大きなタイア・チューブに乗って川下りをする遊び、あるいは小さなエンジン船で川を上下に遊覧など散財する仕掛けに事欠かない。
私も家人もダイヴィングなど水に因んだ遊びは好きだから、カヤックで半日コースというのに挑戦したが、時間で3時間、距離にして8キロぐらいあって、緩やかな流れに乗せて奇峰を仰ぎ見ながら艇を進めるのは気持ち良い。ただし、川は全体に浅く、泥質のせいもあってか日本の清流を見慣れた目にはあまり綺麗でないなと感じる。
しかも川沿いにはホテルやらレストランが建ち並び、そういった場所からの排水は川に放出されるだろうから、見た目ほど清潔な川ではないのではと思うが、こういう物は考えない方が良いだろう。
小学生の頃、近所を流れる荒川放水路(今は荒川というらしいが)で、水泳をした経験を持ち『水練』などといって古式泳法の褌姿になって放水路での練習姿に憧れたものだった。あの当時でもかなり放水路は汚染されていたと思うが、公害がどうのこうのという時代ではなく、親も川で泳ぐことはそんなに強く諌めていなかった。
その頃はやはり近くの隅田川でも大人たちが泳いだという話も聞いていて、いずれにしても私も含めて東京の河川で最後に泳いだ世代であることは確かなようだ。
この一枚 ヴィエンチャン篇 (12) ヴァンビエンの土産
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2014.06.07 Saturday
連休を利用してヴィエンチャンから陸路140キロほどの山の中の町、ヴァンビエンへ行ったが、ここは川の流れに沿って開けた平らな町でアメリカ軍がヴェトナム戦争中に飛行場を作って、ここからヴェトナム方面への作戦を展開していた。
アメリカ軍が引き揚げてから町はかなり寂れたようだが、自然に恵まれた地域なので観光地として、今ではラオス国内でも有数の場所となっている。
以前はドラッグ絡みの怪しげな旅行者も多かったらしいが、今は『健全な観光地』として整備し、世界から人を集めている。
といっても、その多くは大きなザックを担いだバックパッカーで、昔だったら『ヒッピー』と呼ばれる若者が町を縦横無尽に徘徊している。
こういった若者は安上がりな旅行をしていて、一泊せいぜい10ドルくらいのゲストハウスで日中は時間を過ごし、涼しくなる日没後にゾロゾロと町に繰り出してくる輩が多い。
その若者相手にヴァンビエンはレストランが軒並みにあるが、食い気よりも安いビールをチビチビ飲んで時間を過ごすのが定番のようだ。
若者が多いといってもレストランの値段は首都ヴィエンチャンより高く、金のない若者にはチョッときついのではないかと思うが、こういった層は安上がりなレストランをネットなどで調べているから、あまり影響はないのだろう。
そういった町だから特産品とか、町を象徴するような物はなく、どこの観光地でも見かける織物やアクセサリーを扱う店がチラホラある程度だった。
写真はヴァンビエンでオートバイを借りて、町の市場へ行けば面白いものがあるだろうと出かけたが、収穫はなく、その帰り道に雑貨屋で見つけた魚籠。
ヴァンビエンは川で売っている町だからこの手の品物はいくらでもあると思っていたが、案外と不作でこれだけを手に入れた。
普通の魚籠は丸い形をしているが、この魚籠は高さ25センチ、上部は円形、下部が三画状にすぼまっている珍しい作りでしかも丁寧、煙で燻してあった。
この魚籠を手に入れてヴァンビエンに来た価値があったと思う逸品で、これで何十個目の籠になるかとセブの家にコレクションしているそれぞれの籠を思い出している。
ヴィエンチャン暮らし その(14) ヴァンビエン行ー1
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2014.06.04 Wednesday
ラオスは日本のような祝祭日は少なく、その数少ない祝祭日に6月1日の『International Children’s Day』がある。日本語に訳せば『国際子どもの日』になるが、日本の子どもの日とはまた別の観点からの祝日で、この日が世界の子どもの日だというのは初めて分かった。
それにしても社会主義国ラオスだから祝日にしたのだろうが意外な感じを持つ。
今年は日曜日に当ったため翌月曜日の3日を振り替え休日とし、3連休となったので、これを利用してヴィエンチャンから陸路140キロほど北へ向かった『ヴァンビエン』へ家人と遊びに行くことにした。
この町はヴェトナム戦争を覚えている世代には何とも不思議な感慨を持たせる町で、写真はヴェトナム戦争時代にこの町にあった『飛行場』跡で、現在はご覧の通りの細長い空き地になっている。
ヴァンビエンは平地のヴィエンチャンから1時間半ほど走り、その後2時間から3時間近く山道を昇り詰め、いきなり山の中に平地が現れる所にあって、いわば盆地の様な地勢で周辺の山々は面白い形をしている。
この忽然と現れた平地を利用してアメリカ軍はここに飛行場を作り、ヴェトナム方面への攻撃、支援、あるいはいくつかの党派に分かれて内戦中だったラオスで、アメリカ派への支援を1960年からラオスで社会主義革命が成就する1975年まで展開していた。
この飛行場横にはラオスの幹線道路『13号線』が平行していて、その昔、ラオスで行方不明になった元大本営参謀『辻政信』が参議院議員時代に僧衣姿に化けてこの道を北上、この飛行場も目にしているかと思うと、ぞくぞくする感じがする。
ヴァンビエンには2度目で、前回は日帰り仕事だったが、その時、アメリカ軍が駐留していた時に銃を取って戦ったという老人にたまたま会って、その頃の様子を聞いたことがあった。
老人いわく『アメリカ軍は前線とはいっても、攻撃されると後ろに逃げて、タイやラオスの兵隊に防御させていた』など、アメリカ人のやる気のない、かつ臆病な戦争の実態を如実に示す面白い話が聞けた。
この老人、その時銃を持って撃つ様は堂にいったものだったが、今思うとアメリカ軍を守った方だったのか、攻撃した方だったのか聞き漏らした。こういう老人の話もやがて風化してしまうから聞いておく必要がある。
さて、この飛行場の長さは1500mほどあって、輸送機やヘリコプターの離発着は可能だったろうが、爆撃機のB-52は無理にしても戦闘機はどうだったろうか。現在の砂利が敷き詰められた状態だったらやはり無理だなと、跡地に立って思いを巡らす。
今は広大な空き地となって、写真の奥のオレンジ色のテントは日用品や衣類などを売るマーケットで、射的や子どもの遊ぶ遊具などがある、至って平和な光景。手前右は焼き鳥などの屋台が並び、地元の人間の憩いの場となっている。
と、こういう書き出しで観光地ヴァンビエンに触れているが、滞在した印象は『日本の温泉街』といった感じで、もちろん温泉はなく、じいさんばあさんが浴衣姿でたむろはしていない。
代わりに、外国人の若者がたむろしているラオス屈指の観光地として今回認識し、眼にしたこと感じたことを例によって『へそ曲がり』に綴って行こうと思う。