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3月30日(日) ヴィエンチャン暮らし-その1 【 駐車違反のない街? 】

 320日にラオス・ヴィエンチャン入りして、10日経った。当初の2週間は市内の老舗四つ星ホテルに部屋を取ってのホテル暮らし。ここは昨年1月から2月にかけてヴィエンチャンに滞在した時と同じホテルで、しかもその時使った同じ部屋で、勝手知ったる感じはある。

 ただし、私の様な貧乏人は毎日、無料のボトル入りの水やティーバッグを飲み、食事は安い所で外食だからホテルには歓迎されない客になり、ひっそりと部屋で静かに暮らしているのが取り柄。

 こういったホテル暮らしは、かつての中国暮らしでも1年以上続けた経験を持つから苦にはならないが、寝るだけの生活だからどうしても自分の時間は仕事に取り組むようになって、あまり続けたい生活ではない。

 目下、市内でアパートの部屋を探しているが、この国ではアパート住まいは外国人のスタイルのため、物件は少なく、しかも狭くてその家賃はかなり高い。私の海外暮らしも色々な国で、長きに渡っているが、今回のヴィエンチャン暮らしは、住環境に置いては最低レベルに甘んじるしかないようだ。

 それにしても現在のホテルにいる間に、次の住まいが決まらなければ、今のホテルの半額以下の安いホテルに移ればよいと思っていて、そう心配はしていない。

 さて、10年以上前に初めてラオスに来た時から見ると、ヴィエンチャンも車社会になって、街中では渋滞も多く発生している。また、市内には公共交通機関がないも同然なので、ヴェトナムやカンボジアと同じく個人のバイクも非常に多い。

 フィリピンも近年はバイクは増えたが、まだ、ジプニーとかマルチキャブといった小型交通機関が縦横に発達しているから、バイクだらけという状況にはならない。

 ヴィエンチャンでバイクに乗る人はヘルメットを被る者もいるし、被っていない者もあって、法律ではどうなっているか分からないが、まだどちらでも良い状態なのだろう。セブのように橋を渡ったら必要、不必要と地域によってバラバラな規制があるよりはまだ良いのかも知れない。

 ヴィエンチャンで走る車種は韓国製が多く、見慣れないメーカーは中国製で、日本製はどのくらいの割合か分からないが、そんなに多くなく、ラオスでは高級な部類になるのだろうか。勿論、ベンツとかBMWのような高級なドイツ車も結構目にし、どこの国でもそうだが高級車を『富』の象徴とする俗物がこの国にも多い。

 ただし、車文化は浅いから、写真のようにどこでも車は我が物顔で、歩道に駐車するなど当たり前。まだ、道路に歩道が設けられているから少しマシではあるが、歩道に堂々と駐車するこういう奴らはどういう精神をしているのかといつも思う。

 しかし、どうもヴィエンチャンでは駐車違反という概念はないようで、重要施設前でなければ構わず、歩道を歩く人間の邪魔になるなど眼中になく、取り締まる気もないのだろう。特に夜の飲食店の前など駐車する車が歩道上は勿論、左右入れ込み混沌状態でその見事な無秩序ぶりに呆れるより感心する始末。

 当然、こういった店に来る連中は酔っ払い運転常習者ばかりだろうから、そちらの面でも要注意。それにして、何でもあり、滅茶苦茶なフィリピンでも丸々歩道上に車を停めるような輩はないから、人間と車に対する感じ方の違いなのだろう。

 こうやってクドクド書いているのも、要するに車が横柄な状態で存在している限り、ラオスはまだまだ『人間』のことが考えられていない国なのではないかと感じている。


author:cebushima, category:ヴィエンチャン暮らし2014年, 19:42
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3月22日(土) 曇り、風強く寒い 閑話休題 《 2014年3月21日 メコンの夕陽再び 》

 10日間ほど寒い日本に行って、セブへ帰り、その1週間後の320日にラオス・ヴィエンチャンへ入った。日本はまだ寒くて桜の季節には早く、伊豆の方へ行った時に早咲きの桜を車の窓越しに見ただけで、これで3年続けて桜の花見ができないかと思うとがっかりする。

 そうした思いで気が付いたのだが、桜を愛でる、あるいは花見を待つ気持ちは軍国主義者の賛美する『散り際の良さ』ではなく、『厳しい季節を越えて変わりなく咲く健気さ』が共感を呼ぶのではないかと思う。

 日本在中に、映画2本を必ず観たいと思ったが、その1本『風立ちぬ』は既に映画館では上映していなくて、断念。もう一つの『ちいさいおうち』は時間が合わず、仕方なく『永遠のゼロ』を観た。

 永遠のゼロはこんな原作だったかなと思いながら観たが、最初のシーンだけ胸を打つも後の作りは凡作。こんな映画が原作と共に日本で大ヒットするとは日本人の感性の劣化、勉強不足、歴史を知らない層が大部分となった証拠なのだろう。

 勉強不足といえば電車の中で日本人を観察すると、10人の内4人は携帯端末を使用していてどれもムッツリ、呆け顔。こんな個人の世界に浸りきり、与えられる情報だけしか知らない人間ばかり増えると世も末、愚民化はますます進行。

 スマホだなどといっていてもほとんどはゲームをやっていて、あれは電話もできるゲーム機だなと思ったし、あんな物が馬鹿売れし、景気に影響を与えているとはどこかおかしい。こんな俯いてスマホに没頭する内向きの、暗い色の日本人の様子を目の当たりにして『日本ももう駄目だな』と思ったのも正直な日本の印象。

 3
20日、朝4時起きしてセブからマニラーバンコクと飛行機を乗り継ぎ、ヴィエンチャン入り。以前はセブーバンコクへの直行便があったが、今は休航中でマニラ回りとなる。

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日の内にヴィエンチャンに着けるがバンコクでは7時間余も次便への時間があり、以前は空港から外に出てバンコク中心部へ行き映画を観たこともあったが、今回は空港ビル内に留まって時間を過ごす。

 バンコク国際空港の設備は悪くなく、椅子も横になって寝られるタイプで場所によってはソファまで置いてある。飲食店などもいわゆるチェーン店も多くあって時間潰しには良いが、不味くてつまらない料理の値段が馬鹿高く『いい加減舐めんなよ』といつもこの空港を利用する度に思う。

 タイの出入り口でこういったあい変わらずの対応を見ると『微笑みの国』ではなく、『ボッタクリの国』と変えた方が良いと思うのは私だけではないだろう。こういった空港の出店は政治利権だから、改まることは無理な話ではあるが。

 もう一つ付け加えるならばバンコク―ヴィエンチャン便はタイ航空を利用したが、たった1時間の飛行に片道320ドルも取るとはどういうことか。セブからマニラ経由でバンコクまで利用したフィリピン航空が飛行時間計4時間で近い値段だったから、タイ航空のボッタクリぶりが目立つ。

 さて、写真はメコン川で早くも眼にした夕陽。1年以上前の1月に眼にした時の水量は少なく、かなり川床は露出していたが、今回の水量は悠々。こういった流れを眺めると『悠久』とか『悠々』といった言葉を思い出すが、正にその通り。人間の営みもこうでなくてはと思い知らされる。

 さて、突然のヴィエンチャンからの便り。ボツボツと書き進めることにする。


author:cebushima, category:閑話休題2014年3月, 23:30
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3月1日(日) 晴れ、風強し 閑話休題 《 1954年3月1日 ビキニ環礁にて 》
 『ビキニ』と聞くと際どい女性水着しか思い浮かべない、呆けた日本人が多い中、この島=環礁は、アメリカが戦後核実験を繰り返した場所として有名で、2010年には世界遺産に指定されている。表題の195431日は、この環礁で原爆1000発分の威力に相当する『水素爆弾=水爆』が史上初めて炸裂した日で、核爆発による放射能物質=死の灰が一帯に降り注ぎ、近くの島や安全海域とされていた場所で操業していた1000隻以上の船が被曝した。

 この中の1隻に日本のカツオ漁船『第五福竜丸』があって、乗組員23人全員が空から降り注いだ死の灰=放射能汚染物質を浴びて被曝。

 その後母港の焼津港に帰り、そこで船も乗組員も異常な被曝値を記録し、当時のアナログな放射能検知器『ガイガーカウンター』の耳障りなガーガー音に驚かされた日本人は多いと思う。被曝半年後には無線長は死亡。広島・長崎の原爆投下に続く、日本人の被曝事件となり、この事件が反核運動のきっかけとなったともいわれている。

 写真は福島県いわき市にある原発避難民仮設住宅にあった『放射線量情報板』で、数値は
2分毎に表示されるらしいが、この時は使っている様子はなかった。半世紀以上前とは違って科学は進歩して、こうやって逐一、自動的に大気中の放射線量を計れるようになり、便利にはなっただろうがこんな物の必要な時代と環境は狂っている。

 さて、死の灰を浴びた第五福竜丸、この現物が東京・夢の島に展示されていて、私も時期は忘れたが一度訪れたことがあった。第五福竜丸はすぐには廃船にならず、除染後に東京水産大学の練習船として使われ、
1967年に廃船となり、スクラップとして現在の保管場所近くの埋立地に放置、朽ちるのを待つだけだった。

 ところが、この船の歴史的重要性を見出したグループが保存運動を始め、
1973年、保存のための財団法人設立。所有を東京都に移して保存館を1976年に開館した。こうやって書くとトントン拍子の様な感じを受けるが、この時の都知事は『美濃部亮吉』で、美濃部は1967年から1979年まで都知事を3期務めていて、第五福竜丸保存運動と美濃部の在任期間が重なったことが、この船にとって幸運だったのは間違いない。

 美濃部は文化人を中心に社会党、共産党をまとめた『革新統一候補』のシンボルとして、当時の佐藤政権に対してアンチの立場を取り、日本の各地で革新自治体が生まれていた高揚期でもあった。この間の都知事選の結果では『統一さえしていれば』と、負けた陣営は繰り言ばかりいっているらしいが、その昔の革新共闘は、今のような不安定な風頼りではなく、それぞれが信念を持って相手を認めながら築いたもので、中身が違う。

 と書くと肩を入れ過ぎだが、地道な運動の成果であることは間違いなく、インターネットのない時に足で歩いてコツコツ積み上げた成果でもある。余談になるが、東京都の最高責任者、即ち知事は初代が慶応
4年という時代から数えて、今の知事まで80人出ているが、東京出身というのはわずかに2人で、毛並みの良かった美濃部と美濃部の次の次になった日本橋生まれの『青島幸男』だけである。

 これをどう解釈するか様々だろうが、東京は地方人の寄り集まった町であることは確かである。さて、実際に見た第五福竜丸の印象だが、
141トン、全長28mの船体は海に浮かんでいれば小さな物だが、地上に展示されていると見上げてかなり大きく迫って迫力はある。1945年進水の木造船で、一時は捨てられていた状態だから決して状態は良いとはいえないが、核の悲劇を証言する存在として永久保存する価値は充分に与えてくれる。

 アメリカの核実験の行われたビキニ環礁、聞くところによるとダイヴィング・スポットとして有名で今は泊まる所もあり、こういったダイヴィングをする連中のノー天気ぶりも問題だが、それはさて置き長期滞在は放射線の影響があって無理との話である。周辺の島でもアメリカの手で除染をして住めるようにしたとあるが、それは一部区域であって除染していない区域には入れないという。

 ビキニはこれ以上、放射線は増えることはないが、福島の場合は今も放射線を発している元凶は健在、放射能汚染水は垂れ流し状態。巨額な費用をかけて一帯の除染をしているが、その効果は本当にあるのかどうか、分からない所も多いし、『帰還』などとできもしないことを餌に元住民へチラつかせるのは止めた方が良く、正直に『放棄』すると為政者は宣言した方がよほど将来の見通しは生まれる。

 そういった中、福島の原発爆発、放射能汚染などなかったかのように振る舞う東電、電力業界、原発産業に政府自民党。こういう連中は懲りることはないからどうしようもない。第五福竜丸事件の時でも、アメリカは事件を隠蔽しようとしたし、日本政府もアメリカべったりで追随、何だか為政者というのは何にも変わっていないことを証明するような『第五福竜丸』の存在と今日の『ビキニ・デー』に感じる。


 
author:cebushima, category:閑話休題2014年3月, 21:36
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