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2月28日(金) 晴れ、微風 閑話休題 《 近所の道路工事など 》
 先週から自宅近所の道路で工事が始まっている。工事の目的は『排水管を埋める』ためだが、10年以上前にも同じような名目でこの道路に排水管を埋めたと思いながら、その時の排水管は写真の道路右側に埋めたので、今回はその隣の車線、中央寄りに埋めることとなった。

 写真はその工事の様子で既に表面のアスファルトとコンクリートは剥がされ、地面は露出している。この道は何度も書いているが、日本食レストランの多い道路で、左側には2年前に開業した、あまり流行らないショッピング・モールの表側が写る。

 写真の前方、
500mほど先ではセブ島のハイウェイと呼びながら速く走れない幹線道路と交わり、近年ますます渋滞は酷くなり写真を撮った辺りまで渋滞の列は伸びている。

 この道路工事、予算執行が同時なのか、セブのあちらこちらで始まっていて、それは我慢するとしても、朝の
7時から削岩機でガンガン、コンクリート面を剥がしていて『せめて世間並みの始業時間8時にやってくれないかな』と思う。しかし暑いフィリピンは早朝の涼しい時間帯は仕事が捗り、早くなるのは仕方がなく、これが早朝6時から始まらないだけ良いと思わなければならない。

 写真のように工事が始まってしまうと、いつもなら隙あらば割り込む車ばかりの路上なのに、割合おとなしく一車線上でノロノロ走っていて、道路を横断する人間には安全で悪くない。ただし、左側の
2車線は左右1車線ずつ通らせているために、それを知らない対向車同士が睨み合ったりして、つまらぬ渋滞を引き起こすこともある。

 また。右側の写真に写っている1車線も、通勤、通学の足『モルティキャブ』が客の乗り降りのために横柄に駐停車をするので、時間帯によっては団子状態になり、こちら側の通行が止まってしまうなども頻繁に繰り返されている。

 先日、久しぶりにフィリピンでお馴染みの『ジプニー』に乗って中心にあるショッピング・モールへ行こうとしたが、この道路の工事渋滞を避けて、ジプニーがやってこなくて、モール方面に行くジプニーは満員状態。時たまやって来て辛うじて乗れてもここで下車する人が
23人ということで待つ人は増える一方。

 私も妻もたまにはジプニーも良いだろうと思って利用しようとしたが、あまりに乗れないのでやはり家に戻って車で行くかという話になり、結局、しびれを切らしてタクシーに乗った。このタクシーもやはり渋滞に巻き込まれて走るよりは停まっている方が長く、以前と同じ道順を走っても、運賃は倍近くになっていて、こういった交通事情ではセブはマニラと同様どうしようもならない時代に入っているとつくづく感じた。

 それで、帰りは意地になってジプニーで帰ってきたが、このジプニーは運賃が安いのは良くても、昼日中とあって暑くてすし詰めの中をじっと我慢で座っているが、車外の排気ガスをもろに受けて走っているものだから、顔はガサガサになるし、鼻の奥は窒息状態でその空気のあまりの悪さには驚いた。

 普段、エアコンの効いた車で移動しているからこういう感じ方をするのだろうが、こちらの人はジプニー利用などそれが普通だから、その適応力に感心しても、他に選択肢がないから諦めているともいえる。こうして、セブの地獄的な交通事情はますます悪くなる一方で、為政者は総論では何とかしなくてはと思っていながら各論でどうしようもない状態に陥っている。

 マニラ首都圏のようにセブにも軽量鉄道といった大量輸送システム導入の話は持ち上がっているが、これもそのスタイルを巡って利権絡みであっちへ行ったりこっちへ来たりでなかなか決まらない。マニラのこの手の輸送システムはそれなりに敷設されても、今ではその輸送能力は満杯状態で時間帯によっては駅の入場者を制限しながら運行していると聞くから、その昔日本で国鉄といわれた時代の改札制限を思い出す。

 フィリピンの場合は将来の需要を見込んで先立つ投資のできない国だから、その時が来るまで無為無策で過ごすしかなく、分かり切ったこととはいえどうしようもない。その計画性のなさは、四季があって、それぞれに備えて生活、精神が醸成される日本と違って、年中
Tシャツ1枚で過ごせてしまう、フィリピンの風土との違いかなと思ったりする。

 道路工事から変な所に来てしまったが、この道路工事で使用している重機を見たら、日本のメーカーでしかも新しかった。こういう所で活躍する日本の機械を見ると、日の丸の旗なんかよりよほど私には嬉しい。


 
author:cebushima, category:閑話休題2014年2月, 21:31
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2月27日(木) 晴れ、風やや強し 閑話休題 《 飛行機にまつわる話で荷物の行方 》
 3月に日本へ行くようになったので、利用する飛行機にまつわる話を書くことにする。セブ−成田間に就航する直行便は長年週5便程度、4時間少々で結んでいて、これがどういうわけか、昨年12月から毎日2便就航するようになった。日本からの観光客がセブにそれほど増えているとは思えないが、乗る方としては選択肢が増えて便利にはなった。

 ただし、フラッグ・キャリアーなどと中味のないプライドを持つ、フィリピン航空(PAL)が独占運航しているのは変わらず、増便による運賃の値下げ効果などはない。

 PAL
をしのぎ出した後発の低価格航空セブ・パシフィック航空に増便分を振り分けたら、価格競争は起きたと思うと残念で、アジアで一番古い航空会社と自慢するPALの政治力はまだ健在ということになろうか。

 このPALPhilippinesairline Always Late』の頭文字を取ったと揶揄されるくらい、飛行時間を守れないのでも有名である。さて、今までに何回飛行機に乗っているか、考えても記録を取っていないから何とも分からず、それでも3ケタのかなり先は優に達しているとは思う。これだけ回数を数えると、結構いろいろな出来事も起きていてその辺りに触れてみたい。

 飛行機は欠便になると、航空会社がホテルなどを用意してくれるが、その昔、アフリカで遊びに行った湖近くの飛行場では、搭乗機が見えたなと思ったら、着陸せずそのまま彼方に去ってしまったことがあった。この飛行機は週2便しかないので青くなったが、航空会社も慣れていて、今まで泊まっていたロッジに戻り、次の便まで待機、その支払いは全部航空会社持ちでと告げて終わり。こちらは暇だったからありがたく受けてまた、湖畔のロッジ生活に戻った。

 これなどは良い方だが、やはりアフリカの国内出張で近距離を飛んだ時、預けた荷物から短波ラジオを盗まれたことがあった。その荷物に鍵をかけていなかったのが原因でも、まさかと思っていた油断だから仕方はない。それでも頭にきて、航空会社宛てに弁償しろと抗議のレターを送ったが、相手はそんな盗難ケースは日常茶飯事なのかどうでも良い内容の返事をくれただけだった。

 この荷物といえば、やはりアフリカから日本へ帰る時、いくつかの航空会社を経由して荷物を送ったセイシェルで不明となった。ただし、頭の悪そうな航空会社だったから、荷物は多分無事に受け取れないだろうと思って用心していたら、やはりその通りになった。この時も数日待って荷物は受け取れたが、日程のきつい旅行だったらそう落ち着いていられなかったのではと思う。

 この荷物の紛失に付いては、もう8年近く前になるが、家族みんなでタイに遊びに行った時、当時のバンコクの表玄関、ドンムアン国際空港に全員の預けた荷物が着いていないことがあった。この時はセブの飛行場のチェックインで、マニラの方のコンピューターがダウンして、一人一人手書きで搭乗手続きを進めていて、客は溢れて搭乗時間は迫ってくるで戦場のような状態だったから、預けた荷物が到着地に届かないのではとの予感はあった。

 ドンムアン空港に着き、グルグル回るターンテーブルに荷物が乗っていないことを知るとガッカリしたが、航空会社はその場合、Tシャツや洗面具などの当面使う日用品購入などは補てんすると気休めをいい、翌日荷物が来なかったらまた大変と思いながら空港を後にした。

 翌日ホテルに電話がかかってきて荷物を引き取れるといわれ『取りに行くのはいいが、空港までのタクシー代を出してくれ』と交渉して取りに行く。カウンターでいわれた日用品は買っても領収書などいちいちもらう国でもないので請求しなかったが、あれでもっと強硬に主張してホテル代や食事代を負担してもらったらと思ったが、すでに払い込んでいた旅行だったのでそういう無茶はしなかった。

 それにしても、Tシャツ一枚で過ごせるタイだから慌てずに済んだが、これが寒い国の寒い時期だったらそうも行かなかったのではと思う。写真はそのドタバタがあったドンムアン空港ではなく、その後新しく建設されたスアンナブーム国際空港になる。どれほど空港設備が新しくなり、コンピューター化されても人間がやることには変わりなく、今日も世界の空では荷物が着いていないと騒ぐ乗客も多いことだろう。


 
author:cebushima, category:閑話休題2014年2月, 21:28
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2月26日(水) 晴れ時々曇り、軽風 閑話休題 《 2・26事件の回顧から警視庁へ 》
 今朝の日本の大手新聞の電子版を見ると『226事件』についての記事など、どこも影も形もなく、他のメディアは分からないが歴史は忘れ去れるのか、あるいは取り上げるかの二つしかなく、どちらにしても世の中は『ご都合』で動いているのは確かなようだ。

 それにしても1936226日から29日にかけて起きた昭和の大事件『にーにろく事件』が話題にならないとはいくら健忘症の日本人でもおかしいのではと感じるが、今を盛りのFBを始めとするSNSだって、話題は食い物、子ども、仲間の3つで全てだからどうにもならない。

 2
26事件の前には1932515日の『515事件』があって、こちらも既にメディアからは完全に忘れられている状態で、これらは戦争をやりたくて仕方がない自民党の安倍に気を使い萎縮し、首根っこを押さえられているメディアが、こういった戦前の軍国主義の記憶を呼び起こす軍部関連の事件は取り上げないことにしているのではと見、こうやって情報を取り上げないのもある意味ではこの間、議会を通過した『秘密法』に添っているのではないか。

 昭和史の上で『
226事件』は軍部の独走が確定し、以降19458月の敗戦まで戦争の時代といわれる昭和を形作った重大事件で、その時代と今の時代は似通っていると指摘する人も多い。ロシア・ソチで冬季オリンピックが開かれこの間終わったが、19362月にドイツで第4回冬季オリンピックが開催され、同年8月にはベルリンで第11回夏季オリンピックが開催されている。

 歴史を少しでも学んだ人間なら、このオリンピックがナチス・ヒットラーの絶頂期に開かれた政治ショーだったとすぐに思い出すだろう。ベルリン・オリンピックに先立つ前の
7月には幻の第12回オリンピックが東京に決まっていて、2020年に東京でオリンピックが開催されるが、確かに今の日本の政治状況が妙に重なり合っている感じがする。実況するテレビに呆けて、オリンピックは国民を感動させた、あるいはスポーツの祭典など戯けたことをいっている連中はこういった史実に目を向ける必要があるのではないか。

 この
1936年というのは5月に『阿部定事件』のあった年で、何となく退廃的な世相もあったし、当時は世界的な不況で、東北地方は冷害、凶作で塗炭の苦しみ、しかも1933年には『昭和三陸津波』があって、5000人余の死者、行方不明者を出す災害もありこういった状況から娘は苦界に身売り、男子は兵役に行ってようやく三度の飯が食えるという時代で、先の『東北大震災』と符合は合い過ぎる。

 2
26事件は当時の状況を打開するために起こしたといわれるが、首謀者の士官連中を裁いた軍法会議記録が1980年代になるまで不明ということもあって、真相はなかなか解明されていない点も多い。

 2
26事件は226日未明、降雪の中を東京の師団と連隊を中心とする1400人が時の重臣や政府の建物を襲ったクーデターだが、後に銃殺刑に処せられた士官連中はそれなりの覚悟で決起しても、配下の下士官、兵は上官から命令されれば、ことの是非など関係なくわけも分からず動いただけというのが実態で、この中には先代の柳家小さんがいたのは有名な話である。

 小さんは占拠した建物内で上官から、緊張する兵のために『落語を一席やれ』と命令され、椅子の上に座って一席話したそうだが、誰も笑わず『噺家人生で一番笑ってくれなかった』と後年述懐している。

 さて、このクーデター、当初は軍内部の派閥抗争に利用されてかなり良い線まで行ったことは資料から分かっているが、信頼していた重臣を殺された昭和天皇の怒りは激しく、天皇を担ぎ『昭和維新』を断行しようとした目論見は外れ、
29日には討伐命令が出、有名な『勅命下る軍旗に手向かうな』と書かれたアドバルーンが上げられる。

 話は変わるが写真は現在の東京・警視庁(
1980年竣工)のビルで、ここも旧庁舎時代に反乱軍500人ほどに襲撃され、警官側は無抵抗で占拠されている。手前の歩道上に見える駅は桜田門で、警視庁の別名、桜田門は右手奥のほうにある。この庁舎も今は変哲のない大きいだけのビルだが、昭和初期に建てられた前の茶色っぽい旧庁舎もなかなか良かった記憶を持つ。

 私は新庁舎になって
2度中に入ったことがあって、1度はある若者用雑誌に記事を書くために広報課を訪ねたが、目的がはっきりしているから警備などそれほどうるさくなかった。また、フィリピンへ仕事で渡った時、当時のフィリピンはヴィザをもらう時に『無犯罪証明書』が必要で、この庁舎を訪ねて手続きをした。この時はどこでどうやったのか記憶にないが、全部の指の指紋を取られ、後日その証明書を受け取りに行った。


 
author:cebushima, category:閑話休題2014年2月, 21:04
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