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この一枚2013年 34-【台風ヨランダ-04】 炊き出しの炊事風景


 炊き出しはボランティアを毎日78人、朝7時くらいから作っていたが、4時の配食までには結構忙しく、これに別の地区に配る分を作る日は戦場のような状態だった。

 写真はその調理の様子だが、水は電気が不通のため、昔からある井戸からポリタンクを持って確保していた。それでも片道
30分はかかり、他の被災者も使うために並んで順番を待つ状態。

 写真左側の彼が水運び専門に手伝ってくれた。炊き出し拠点から
50mくらい先に井戸があって10年くらい前まで当たり前に使っていたが、簡易水道が地域に敷設されてから見捨てられ、今では残骸しか残っていない。

 今回のこういった被災では当然電気も水道も長期間駄目になるが、昔ながらの井戸を持ち、しかも使用している所では不便さはなかったようだ。

 電気に関してはこれはなくても生活はできるが、水に関しては生命にかかわり、もっとも大事になる。

 今回の台風でレイテ島タクロバン市のような都市部ではもう井戸など消え、あっても水道の便利さに頼っているだろうから、被災すると電気も水も供給が途絶えて生活するのに支障が出てしまい、大騒ぎになってしまう。

 今後も今回のような大きな自然災害にフィリピンが見舞われるのは確かだから、昔使っていて今は放置されている井戸を再点検して緊急時に使えるようにしておく体制を作るのは今後必要なのではと思える。

 さて、写真の鍋というか釜というか、サイズは直径
40センチ、高さも40センチある。これを3個とやや小さい釜を1個、大きな中華鍋1個を用意した。

 1つの釜で何人分の米が炊けるのか最初は分からなかったが、何度か使っている内にフィリピン人基準で
100人分を炊けるのが分かった。

 この米を炊くのも野天の薪使用で、キャンプの飯盒炊爨なら要領は分かるが、こう大きいと勝手が違う。

 それでもボランティアの中に経験者がいてかき回しながら炊いて行くコツは覚えた。

 おかずの方はひと釜
150人分くらい作れたが、こちらの人が好む食習慣のため、具とスープの多い献立となった。


author:cebushima, category:この一枚2013年, 19:19
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この一枚2013年 33-【台風ヨランダ-03】 支援活動中に泊まっていたテント


炊き出し実施期間は延17日間だったが、現地に泊まり込んだ日数は合計24日間だった。途中、支援物資を買うためにセブ市の自宅に戻った時もあったが、写真のテントに泊まり続けた。

 テントは3人用で、荷物を置くスペースを考えると妻と2人でちょうど良い。ただし、陽が当り出すと中は暑くて本当に寝るだけの利用だった。

 小学生の頃からテントには馴染んでいたが、当時のテントは木綿製で形も家型、使うポールも木製で、防水加工はしてあっても雨が降るとテントの縫い目から滴が垂れ出し、荷物が濡れないようにするのに大騒ぎだったが、それでも自然の中では充分と思っていた。

 ところが今はテントも形状からして大変化。素材が雨を通さなくなったし、何よりもポールがファイバー製になって組み立てなど1人でもアッという間。木綿テント時代の数人がかりでロープの張りを調整しながらの時代を思うと確かに便利になった。

 先年の東北震災支援の時もテントを使用したが、この時は6人用で、雨傘を広げるのと同じ要領で簡単に張れる仕組みに驚かされた記憶がある。

 写真のテントはセブで買った物だが、この手のテントは2代目。初代も今回の支援に持ってきて炊き出し拠点に張ったが、こちらは集まってくる子ども達の遊び場に開放。

 どこの国の子どもこういった狭い所に入り込んで遊ぶ心は共通していて、暑いさなかに10人以上も入って遊んだり、食事を摂ったりしていた。

 写真のテントの後ろ側に白く光っている2本の線は台風で地上に落ちた電線で、通電してなく1m位の高さで放置されているが洗濯物を干すにはちょうど良い。

 この場所に電気が復活したのは被災一か月後で、早寝早起きのテント生活となったが、時間が経つに連れてテントの周りに写真のように生活物質が増えてきて、さながら日本で見る『ホームレス』状態のようになった。

 今は追い払われてしまったが、上野公園や隅田川沿いなどには写真のようにテントで生活をする人をかつては多く見た。ホームレスというが夜は寝るだけだったらテント生活もそう悪くない。


 
author:cebushima, category:この一枚2013年, 08:45
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12月27日(金) 晴れ、風なし 閑話休題 《 台風被災者支援の炊き出しについて 》
 炊き出しを英語では『Soup Kitchen』というが、これはイメージとしてホームレス対象になるので、日本語その物の『TAKIDASHI』とし、英文で『Share a Hot Meal』の説明を入れたバナーを掲げて台風『ヨランダ』被災者支援を延べ17日間に渡って行い、拠点を構えた地域では『TAKIDASHI』の言葉は普通に通用するようになった。

 場所はセブ島最北端ダアン・バンタヤン町でこの町は人口7万人以上。フィリピンは町といえども日本の市以上に人口に関してはどこも多く、総人口が1億人を超えたとこの間アメリカのCIAがニュースを流していた。

 私がフィリピンに足を踏み入れた四半世紀前には総人口が
5000万人台と記憶しているから、出生率2%以上を毎年続けると25年で人口は倍になる『人口統計学』の見本のような国でもある。

 この町は
20のバランガイ(最小行政区)に分かれていて、このバランガイの責任者=議長と議員は3年任期、住民の選挙で選ばれ、今年の10月に選挙があったばかりである。最小とはいってもこの上の町長や町会議員選挙にはこのバランガイの支持が必要で、町長の上には州議会議員、知事、国政の下院議員と上に繋がっていて集票マシンになり、買収する金もこの順にバランガイに流れてくる。

 今回の被災で国関係の救援物資などはこういった組織を通じて配られているが、反対陣営支持者には物資を回さないとか、次の選挙目当てに救援物資を配るなど露骨な動きは当たり前過ぎて、おかしいと思うのは外国人くらいでこちらでは話題にもならない。

 炊き出し拠点は町の中心部から
5キロほど離れた幹線道路沿いで、人口は住民に聞いてもよく分からなく、バランガイ選挙の有権者登録では700人あったというから、3000人くらい住んでいるようだ。

 写真の土地は妻に関係があるため全く制限なく活動でき、炊き出しの燃料用の薪など台風の倒木で使い放題。ただし、水は電気が不通で片道
30分かけてポリタンクで運んだ(ここに電気が通ったのは被災一か月後だった)。遠方に写る木々はすっきりしているが、台風前は木の繁っていて遠くは見えなかった。

 この炊き出しも当初の予定では朝、昼、晩の
3回を考えていたが、予想外に大量の食事を用意するのは大変で、この拠点では平日は晩のみ1回とし、週末が2回、その合間に近隣地区向けに車で別献立の配食を行った。先日、その炊き出しの全体的な報告を作ったが、消費した米は370キロ、人数にして約4000食だった。

 炊き出しは先年の東北震災支援の時何度か現地で行った経験を持っても、今回のような大きな釜を用意して薪で調理するなど初めてで戸惑いも多かったが、何といっても『食べる』ことは生きることの基本中の基本で、被災者の人々にも好評で初めてにしては上々だったと自負している。

 この炊き出しも並べば
OKではなく、事前にチケットを奥の方に住む人や地域を決めて配ったりした。チケットには極力ゴミを生まないために皿持参と現地語で表示し、また優先順位があってまず子ども、次に女性、老人の配食を行ったが、その意思が浸透していたのか、成人男性が列に並ぶことは少なかった。もっとも、これは『男は皿なんか持って並べるか』という見栄があるためではないかともボランティアの女性はいっていた。

 こういった炊き出しは始めるまでは、どうかなと思っていたが午後
4時から配食を始めて、長い時間をかけて調理した物が30分くらいで配食を終えてしまった。ただ、この炊き出しも問題点はあって、始まるまでに被災後2週間近くかかってしまい、切迫性、緊急性が薄れていたのは確か。

 被災地に様子を見に行ったのは台風通過
3日目だったから、その時から炊き出しを始められていればもっと良かったと思うが、それから現地とセブ市を何度か行き来し、器材とボランティア人員をそろえてとなると初めてのことでもあり仕方がなかった面もある。

 遅れ気味に始めた炊き出しだったが、集まる子どもが拠点の敷地に常時
20人以上集まって遊んでいて、そういった子どもに対して新たにケアすることも考えたが、これからの研究課題に留まった。

 それでも日本の募金が必要以上に集まったので、小学生対象に学用品セットを
100セット用意して、少し早いクリスマス・プレゼントをした。これもセブ市に戻って用意したが、100セットを作るのはまたこれが大変だったが、これは別の話。

 学用品を配るこういった情報というのは特に大きく知らせなくても、子どもの間に瞬く間に広まってこちらも事前にチケットを作って配ったが、結構奥地に住む子どももやって来た。


 
author:cebushima, category:閑話休題2013年12月, 19:50
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