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4月29日(月) 晴れ、微風 閑話休題 《 沖縄反戦ディーと西郷隆盛 》

 昨日の28日は1970年代に学生生活を送った者には『428沖縄反戦ディー』と記憶に刻まれているが、自民党が国政に復帰したらこの日を『主権回復の日』、慶賀の日とし、政府主催の式典をよりによって『憲政会館』でやった。

 確かにサンフランシスコ条約で曲がりなりにも主権は回復されたが、沖縄、奄美、小笠原にとっては同時に切り捨てられた『屈辱の日』であり、沖縄では何がお祝いだと左右を問わず反発甚だしい。

 こういった事実を学校でしっかり日本史で学ばせる必要があるのに、戦後の日本史など受験に関係ないとこちらも切り捨てられ、しまいには『自虐史観』などと非難する都合の良い歴史解釈が幅を利かし出した。

 沖縄は日本で唯一地上戦が行われ多くの島民が犠牲になり、戦後も日本の国土の1%に満たない面積で、日本にある米軍基地の75%近くを負担していて、どこまで本土の人間は沖縄を踏み台にしているのかと憤る。

 写真の本は
3部作の1巻だけしかなく、枕元に長い間放置していた本で、片付けるために読んだ。

 私の場合、西郷隆盛というのは上野の銅像、征韓論、西南の役といった程度で、鹿児島の人間が大英雄のように崇める気持ちは全くないが、鹿児島に旅行した時は死没地の城山まで行った。

 高校生時代から南の島に興味があって、奄美大島、徳之島に行っていて、最後は与論島まで足を伸ばそうと計画していたが、当時、与論島が日本の最南端で沖縄はパスポートとアメリカの許可が必要な時代で『同じ日本なのに馬鹿な』と思った。

 この本によると西郷は薩摩藩の諜報部門で活躍していたようだが、生涯に奄美大島、徳之島、沖永良部島に流罪の身となっている。特に奄美大島では『島妻』を娶り、
2児を産ませている。流人が現地で所帯を持つのは普通で倫理がどうのこうのという時代ではないが、残された子どもの運命はどうかと思ったら、男の子の方は外務官僚になり、後に京都市長までやっているから非嫡出子ながらそれなりに庇護はあったようだ。

 薩摩藩の奄美地方の治世は税金を始め苛斂誅求を絵に描いたような圧政で、それが幕末の薩摩藩の資金にもなったわけだが、流人の西郷もさすがに見かねて藩に文書を出しているが効果のほどはどうだったろうか。

 西郷と沖縄の関係は良く分からないが、その当時の沖縄は『琉球王国』で
500年近い歴史を持っていた。これが明治になって廃藩置県で琉球王国は滅亡させられ、これがいわゆる『琉球処分』と悪名を残す。こう振り返って見ると沖縄は本土の人間から踏んだり蹴ったりの歴史の繰り返しで、今もそうだから本当に沖縄には足を向けて寝られないと思わなければいけない。

 西郷は維新の三傑などと挙げられているが、城山で死んだ時は
49歳だから、改めてその当時の世を動かしていた人々の若さに瞠目する。もっとも当時の平均寿命は5060歳位と思うから、それほど若くなく充分に老成していたのかも知れない。

 この本、あと2巻を日本の
105円で見つけなければいけないが、続きを読もうとは思わない。私は西郷よりも勝海舟の方に興味があって、やはり『薩長土肥』の田舎者に江戸が蹂躙されたという底流が東京者の気持ちには流れているようだ。そう思うと今の自民党長州政権はやはり気に食わない。


 

author:cebushima, category:閑話休題2013年4月, 21:09
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カンボジア・ヴェトナム二人旅 その(5) 『アンコール・トムと日没を見る』
 アンコール・ワットの次はアンコール・トムへ。9年前の時はアンコール・ワットからトムまで近いだろうと思って歩いたが結構あって、そんな道を歩く人など地元民を含めて全く見ず、さぞおかしな観光客と見られただろう。

 しかし道の両側は鬱蒼と樹が茂り日影を選びながら歩けば気分は悪くはない。この鬱蒼とした森の中から『キュンキュンキュン』と絶え間なく電子音が鳴り響いていて、耳障りだなと思ったが、これは地雷が埋まっているので森に立ち入らせない警告音と後で分かる。

 カンボジアは内戦の時アンコール遺跡群を格好の要塞と見て、クメール・ルージュが陣を張り、実際戦闘もあり弾痕なども残っているらしいが、その時地雷を周辺に無数埋め、前回の時にはまだ完全に除去できていず、この警告音を発していたわけである。

 今回はこの警告音はどこにも聞こえず、カンボジアもこの地域は安全になったが、まだまだカンボジア各地には処理されていない地雷がたくさんあって、各国の機関や
NGOが除去事業を進め、安全宣言が出るのは何年先になるか分からない状態である。

 写真上はアンコール・トムの入り口、南大門を撮ったが左右には堀があって、何だか日本の城と同じような配置で、権力者の考えることは古今東西同じと感じる。

 写真中はこの区域内中央にあるバイヨンで、人面像で有名、確かに光線や見る角度によって悪くない表情の像だが、そんなありふれたお勧めよりも、この写真のようにいまだ修復が進まない裏手の方に累々と横たわる石材の方に興味が高かった。

 ここは前回来た時とあまり修復は進んでいないような気もするが、焦ることもないのだろう。以前、インドネシアの『ボロブドール遺跡』を見物しているが、例えば石材の上下左右を間違えるとかいい加減、拙速な修復箇所が多くて問題になっていると聞いたがここではどうだろうか。今はコンピューターでこの部材がどのように収まっていたか分かる時代だから、心配は要らないだろう。

 アンコール・トムは広大で、様々な遺跡が木々に囲まれて残っているが、観光客の多くは要所だけを見て素通りするのが多い。この点個人はほとんどひと気のない遺跡を静かに探索できるから悪くない。

 写真下はブケン・バノン遺跡の上。ここは他の遺跡は平地に散在するのに小高い山にあり、写真でも分かるように一面の平野を眺め、日没を見るには最適の場所だが、どういうわけかアンコール・ワットやトムの遺跡が全く見えない配置。

 遠くに丸く浮かぶのは熱気球で、
9年前にも見たが遺跡群に浮かぶ熱気球は静かで良いが何だか妙なシーンだった。ここには日没前に観光客が押し寄せ、時期によっては狭い遺跡から観光客が押し合いへし合いになる時もあるという。

 家人も私も早目に行って、西日を避けて場所を確保、徐々に陽射しが和らいで行く様子を観察しながらノンビリ時間を過ごす。

 訪れる観光客は日没の様子を狙って高級カメラを構えるが、そのカメラは日本のニコンやキャノンが圧倒的で、何となく安心、私など日没見物より各国の観光客がどういうカメラを使っているかに興味が強かった。中には画板のように構えて写真を撮るタブレットの人もいたが、これは何だかダサいというか滑稽な感じがした。


 
author:cebushima, category:カンボジア・ヴェトナム二人旅, 20:33
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4月27日(土) 曇り時々晴れ、微風 閑話休題 《 JOB・フェアーから見るフィリピン経済 》
 フィリピンの学校の卒業式は3月に行われるが、今の時期は『JOB・フェアー』が各地で開かれている。

 JOB
・フェアーとは日本にもあるが就職紹介イヴェントで、フィリピンには『ハローワーク』のような機関はないから、民間会社が職を開拓、斡旋する構造で、この手の『人材派遣業』が盛んである。

 海外で就労するフィリピン人は合法、違法併せて既に1000万人を超えているが、フィリピンの就労可能人数は多く見積もっても5000万人足らずだから、実に5人に1人は海外就労(OFW)に出ている数字になる。

 確かに私の身の回りでも夫や妻、あるいは子どもが海外に出ている話など当たり前のようにあり、こうやって驚くような文を書いている方がおかしいのかも知れない。

 この
OFWを斡旋する業界は莫大な売り上げで、こちらの英字新聞広告欄を見ると、中東辺りの求職情報が満載で活況を呈し、表には出ない人身売買紛いの斡旋でも政府は強い規制が出来ないのが実情となっている。

 そういえば
2月にアルジェリアであった石油基地襲撃事件で、日本人技術屋の死亡ばかりを日本のマスコミは取り上げていたが、フィリピンも10人近くの犠牲者を出した。

 しかし、こちらの世論も政府もマスコミもこれだけ
OFWが世界中に出ている現状では仕方がないの論調で、日本のようにこの事件を利用して海外派兵をするような陰険な策動はなかった。

 写真は近所のモールで開かれたが
JOB・フェアーで、規模は小さいが盛況、良い仕事を求めようとする若者の表情は真剣。これはまた、大学を卒業しても就職がまだ出来ないことの裏返しで、このフィリピンの慢性的な就職難は永遠に続きそうな気さえする。

 BOP
といっていわゆるコールセンター業界が伸びてこういった無職層の受け皿になっているが、コールセンターも労働者は使い捨て、労働者も何のキャリアーにもならなく、人はいくらでもいるから安心して企業は事業を進められる。

 右肩上がりの業界だが、急成長しただけあって後発のインド、バングラディシュ、ミャンマーといったかつてのイギリス植民国が追い上げ、これにやがてアフリカ勢が加わるだろうからフィリピンのコールセンター業界も今が華で、没落するのも早いのではないかと見ている。

 私が初めてフィリピンに来た
30年位前でも、既にフィリピンは就職難の話が多く、町にはほとんど失業者じゃないかと思われるような人々が群れ、それは今も変わっていない。

 政府は失業者は
20%位と数字を発表するが、街頭でタバコの1本売りをするような不安定なその日暮らしの人々をも就業者として計算するから数字は良くなる。

 地方に行けば農業に携わっているとはいえ、就農者なのかただ食っているだけの飢餓線上で生きている人はいくらでもあるから、フィリピンの労働人口の半数は失業者と見て良く、経済成長が順調といいながら恩恵は隅々に及んでいない。

 のようなわけで、フィリピン人が少しでも職と高給を求めて海外に向かうのは当然であるし、帰ってきても職がないで半永久的な行きっ放しの
OFWも多い。

 こういった人々の海外送金額は表裏合わせればフィリピンの国家予算に匹敵する額で、毎年
78%の伸びを統計では誇示するが、ドルに対してペソも異常な値上がりで手取りが減っているから、それを補う分だけ増えてOFWの送金負担が増しただけである。


 
author:cebushima, category:閑話休題2013年4月, 22:22
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