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セブ今昔物語 【2】 セブとマカティにあった飛行場の今昔

この文は今年6月に創刊されたセブのタウン誌『NAVI de Cebu』に寄稿したものだが、加筆及び写真を改めて【セブ今昔物語】2回目とし、本HPに掲載する。

 

 マレーの虎が降りたマカティの飛行場 

山下奉文大将といえば、戦犯として61歳で処刑(1946223日)後も、フィリピン国内では日本軍が隠したといわれるゴールドなどの『山下財宝』詐欺話に話題の事欠かない人物だが、1944年(昭和19年)9月、東条英機に疎まれて満州に飛ばされていた山下はフィリピン守旧の陸軍第14方面軍司令官としてマニラに着任。

 その時降りた空港がY字状に2本の滑走路を持つ『ネルソン飛行場』で主滑走路は1200m長×80m幅、これは現在のマニラ首都圏マカティ市アヤラ通りに当たる。

山下の着任時の第一声で『レイテってどこだ』の科白は喧伝されるが、これはいかにも出来過ぎた話で後世の作り話、山下はそんな凡将ではない。ただし、無策、泥縄だった軍部指導者の象徴として見れば、フィリピン戦線にはこの科白は誰が言っても似合う。

 戦後のネルソン飛行場は国際空港として使われ、1948年に現在のマニラ国際空港が整備、開港されて短い使命を終えるが、もう1本の滑走路(現在のパセオ・デ・ロハス通り)がアヤラ通りに交差する地点に当時の管制塔が健在、『ネルソン・タワー』(写真)と命名され、博物館になって保存されている。

カラバオ(水牛)が草を食んでいた長閑なこの飛行場一帯を廃港後に再開発したのがフィリピン財閥の雄『アヤラ』で、その面積約10平方キロ。この開発が1970年代に入って急成長、高層ビルがスカイラインを描く現在の姿に至る。

 二匹目の泥鰌を狙ってアヤラは1980年代にセブへ進出、セブ市内にあったゴルフ場と飛行場を買収、ゴルフ場跡がセブを代表するモールを持つ『アヤラ・ビジネス・パーク』(写真)、飛行場跡が『Asia Town』から『ITパーク』となって、現在も開発は続いている。 


海軍神風特攻隊が出撃したセブの飛行場と史実

 

海軍神風(しんぷう)特別攻撃隊はルソン島マバラカット町にあった飛行場(かつての米軍クラーク飛行場近辺、今のクラーク特別経済区)からの出撃を始まりとする記述は多く、実際、マバラカット町(現在は市に昇格)には碑も建てられ慰霊祭が毎年行われている。しかし、攻撃の正しい史実が伝わっていない例も多く、最近でもセブの日本人会定期刊行物に誤った記述を見た。

 1944
1017日、フィリピン本拠の海軍第一航空艦隊司令長官として大西瀧治郎中将が来比。既にフィリピンには可動機は寄せ集めても40機に満たなく、こういった事情から大西は『1010死』の飛行機による体当たり作戦生みの親とされるが、特攻作戦は大本営内部で早くから検討されていて、大西は史上初の正式命令による特攻作戦をフィリピンの前線で指揮した人物と見た方が良い。


 大西は特攻作戦の指揮後、日本に帰還して軍令部次長に就任、そのまま敗戦を迎えるが翌日に『若い命を死に追いやった』と東京で自裁する。戦争指導者の責任の所在を自らけじめをつけたことは立派だが、この理屈でいくと腹を切らなければいけないのは天皇以下山ほどいる。

 さて、20日にマバラカットの海軍第201航空隊から敷島、大和、朝日、山桜の4隊を編成(写真は靖国神社にあるゼロ戦)、翌21日からレイテ方面へ攻撃が始まる。この日は天候不順で敵を見ず、セブに移動していた大和隊の久納好孚中尉(1921年=大正10115日生れ、本籍名古屋市。第11期海軍飛行予備学生・法政大法科卒)が同日セブから単機レイテ方面に出撃、未帰還だった久納は海軍特攻作戦第1号の戦死者となった。

 久能は出撃前にピアノを弾いた人物と伝わり、そのピアノは指揮所として使っていた基地横の小高い丘にあった映画関係の仕事をしていたフィリピン人の邸宅とあるが、今では特定するには時代が経ち過ぎている。また、同戦死者第
2号は23日、やはりセブ基地から出撃し未帰還だった同隊の佐藤馨上飛曹(香川県出身)となるが、この人物についてはなかなか文献などに現れてこない。


 一方、マバラカットの敷島隊は1025日、実に4度目の出撃で、レイテ沖の米艦船攻撃に成功。28日、待っていたように全軍布告の最高栄誉が連合艦隊長官名で関行男敷島隊隊長(1921年=大正10829日生れ、本籍愛媛県。海兵70期)以下に与えられ、軍神への道が開かれた。ところが、この25日の攻撃ではミンダナオ島ダバオ基地から出撃した朝日隊と山桜隊が敷島隊より早く戦果を挙げていて、こちらが攻撃一番乗りの栄誉を受けて良いのに、なぜか戦果報告が途中で留め置かれてしまった。セブから出撃の久納、佐藤、ダバオ組も後に全軍布告の栄誉は受けたが、関の敷島隊と比べて戦史上では不運な扱いとなっている。


 これは特攻成果と戦死第1号を海兵出の指揮官にすると軍上層部で決めていたためで、敷島隊の関は海軍兵学校出ゆえに新婚にも関わらず貧乏くじを引かされた。関の残された家族は戦時中には軍神の家族として崇められたが、敗戦後は一転して『マッカーサーは神様』というような節操のない世間に邪険に扱われ離散するなど不幸な末路を辿った。ところが、特攻作戦の是非はともかく特攻隊員の存在が涙と共に世に受け入れられるようになると、特攻作戦を推進した源田実元航空参謀(後に自衛隊航空幕僚長、自民党参議院議員4期)などが時代を巧みに読んで、関の出身地にある神社に反省なく慰霊碑を建立。変わり身の早い日本人の特性はこういった所にも表れている。

 

平和な時代の元海軍特攻隊基地 

私がセブに住み始めたのは1991年からで、当時の特攻隊が飛び立った飛行場(滑走路、1400m長×30m幅、1本)は時折軽飛行機が離発着する程度で、滑走路以外は草ぼうぼう。しかも滑走路を横断する道路はその時だけ通行止めという呑気な時代だった。夜はアスファルトの滑走路から熱が伝わる中、夕涼みをした空間で、今のマクタン・セブ国際空港が民間に供用されるまでは、しばらくこの空港にマニラからの旅客機が降り、その頃の体験を話す日本人もいる。なお、マクタン・セブ国際空港も戦時中には日本海軍の飛行場として使われ、セブの飛行場指揮所からマクタン島のヤシの連なりが良く見えたという。

 
 やがてセブの空港は廃港。先に書いたようにアヤラによって再開発されるが、なかなか開発は進まず、当初はカジノと大きな展示場を持ったホテルといくつかの企業の小さな建物があるだけだった。

 ところが
2005年前後からBPO(ビジネス・プロセス・アウトソーシング・)事業、いわゆるコールセンターが活況を呈し、この地はそれらのオフィス需要から建設ラッシュが始まった。それに加えて居住地としても見直され、高層コンドミニアムが作られ、計画も含めていくつも建設中である。

(写真は2003年(上)と2012年現在(下)の元特攻隊基地跡入口)
 

 こういった建物の1階部分には各種飲食店が入り、コールセンター事業で働く人々は普通の会社より給与ベースがかなり良いため、普通のフィリピン人が飲むには高額なアメリカのコーヒーやドーナツのチェーン店などに出入りする。

 もっとも、こういった店はブランド名に寄りかかるだけで味は平凡、それも無理なく、例えばコーヒーを淹れる店の係員が店のコーヒーを飲んだことがないなど当たり前で無理からぬことがある。またコールセンターは欧米向けが多く、フィリピンとは昼夜逆になるため、そこで従事する人々が昼夜を問わず出入りし、新しい風俗、風景を生んでいる。(写真下は現在の飛行場跡地)

 この平和になったセブ基地跡に特攻隊の事績を印そうとの動きもあるが、こういった類は慰霊の名を借りた過去の美化が多く、その当否は攻撃された連合軍側と蹂躙されたフィリピン側の意見と賛同があっての話で、何もないことが相応しい場合もある。






(写真は靖国神社にある特攻隊像。若者を死に追いやった反省など全くない)




 
author:cebushima, category:セブ今昔物語, 06:45
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9月28日(金) 曇り時々晴れ 風なし 閑話休題 《 最近の日本の政治を見る 》
 自民党の総裁に安倍が復活した。2006年に安倍が首相に選ばれた時、私は東京に向かう高速バスのテレビで知ったから時間的な印象は強いが、安倍に対してはこれが戦後の6・3・34制の教育を受けた人間とは思えない戦前の亡霊のような人物と思った。

 『妖怪』といわれた岸信介のさすがの孫と評価する者もいるが、安倍は岸よりも人物、能力は何段も劣る。

 今回の自民党総裁選はいかにも小粒、何よりも世襲議員ばかりの総裁候補者で、党が駄目になったのは政治屋稼業の中で近親相姦を繰り返した結果だから、この数年間の野党暮らしも何にも役に立っていない証明のようだ。

 一方の民主党もこれほどの惨状になるとは誰も予測出来ず、当初から民主党政権をぶっ潰すと宣言した産経だけがほくそ笑んでいることだろう。今の野田など民主党より自民党の人間といっても良く、消費税といい、尖閣、竹島の対応など自民党歴代首相も出来ない事をやって、自民党のスパイ、回し者に見える。

 どだい、民主党そのものが自民党から社会党まで含んだ野合政党だから、右に行ったり左に行ったりの迷走は初めから分かっていたことだ。それにしても尖閣の中国側の対応というのは酷いものだが、こんなことは中国を少しでも知るものならトコトンやられるのが当たり前で、日本の外務省は中国相手に本当に外交をやっていたのか疑わせる。

 こういった既成政党の間隙を縫って大阪の橋下の党に人気があるらしい。あれはAKB48と同じ宣伝戦略で政治を弄ぶ連中で、もしかすると同じ広告会社が関わっているのではないか。勿論、変革、改造結構なことだが、足元の大阪はどう変わったのか伝わってこないし、マスコミ、支持する人間も浮かれて忘れているのではないか。

 橋下は弱い者叩きで世間の喝采を浴びのし上がったが、元々は自民党右派のスタンスで口から出まかせ、弁が立つだけで最近では『うどん屋の釜=湯だけ』が見透かされて人気は下降しているという。人気などは頂点があれば後は下がるだけだから、当然の成り行きである。

 こうやって記述しても正に遠吠えでしかないが、少なくても日本の人口は将来8000万人位になるのは分かっていて、これに対応したグランド・デザインが全く日本の政治、経済、あらゆる層で見られないことが不思議である。相変わらず過去の成長を夢見ていて、これから縮んで行く未来社会に全く備えがなく、例えば電力など今の半分位の消費量になるから、原発はもとより無意味な道路、箱物投資は必要なくなる。

 今、数十兆円もの巨費を投じている東北関連復興事業でも、確実に東北の人口は半分以下になるのだからその見立てで事業を進めているとは思えず、巨額の復興資金の分捕り合いで終始しているとしか見えない。

 小松左京の日本沈没は自然災害から書き起こされているが、やがて来る日本の没落は人災で、いかに軟着陸させるかが政治の役目だと思うが。あんな呆けた顔の政治屋連中には無理な話か。

【写真はセブ島近くのオランゴ島の船着き場。ここには領土問題などない】




 
author:cebushima, category:閑話休題2012年9月, 20:50
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この一枚2012年 (70) セブの通せんぼ


 セブ市は海に沿って並行する主要道が数本、その間を繋ぐ縦道があり、ここ20年位でも道はほとんど増えず、車だけが激増、市内は慢性的な交通渋滞がどこでも当たり前になっている。

 写真は横道と横道を繋ぐ
1400m足らずの道で、この沿道にはどういう訳か日本食レストランが7〜8店も営業していて別名『日本食通り』などとも呼ばれている。

 以前からこの道は渋滞していたが、最近は渋滞の長さが10倍位になって写真でも分かるように片側が延々と繋がるようになった。

 車に乗っていると分からないが、舗道がお情けのように作られていて、電信柱が真ん中を堂々と塞いでいるのが分かる。フィリピンは暑いから、こういった舗道を炎天下に歩く人などいないから別に邪魔とは思わないのだろう。

 せいぜい、私のような外人が『何だこれは』とこのように取り上げる位である。それにしてもこれは酷く、この無神経さがフィリピンが浮上できない遠因なのではないかと大袈裟に考えたりする。

 そういえばこの辺りの道は上手から伸びた道が急に凸凹し、広い道が狭まっている。

 これは道を拡張する時、この辺りの有力者(国会議員や商売の上手い弁護士が居る)の店や工場などは土地を供出しなかったようで、素直に従ったのは力のない庶民だけで、この国の有力者と自惚れる連中の傲岸さを通る度に感じる。



 
author:cebushima, category:この一枚2012年, 17:09
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