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新・へそ曲がりセブ島暮らし100景 その21 教会の結婚式
教会の結婚式 昨日の新聞に面白い記事があった。マニラの大司教が『市内でカトリック教徒が結婚式を挙げる場合、教会以外では禁止する』と言明した。
 フィリピンはカトリック王国で国民の80%以上を占めるから、教会の発言力は大きい。憲法では政教分離を謳いながら、露骨に政治に介入しているのも教会である。
 フィリピンの結婚は教会婚と判事の前で行う民事婚形式があって、教会婚は金がかかると言うので最近は民事婚に流れる信者が多く、大司教の癇に障った。
 教会で結婚式をすると幾らかかるか知らないが、私は何度もこちらの教会での結婚式に列席したが、日本と違って華美な感じは受けない。教会もまさかランクがあって式費用徴収(寄付)に違いを付けている訳でもあるまい。
 式後の披露宴をどこでやるか、また招く人数で費用が変わるのは万国共通である。ただし、フィリピンはご祝儀の習慣はなく、親しい人は新婚家庭用に食器などの家庭用品をプレゼントするが、ほとんどの客はただ食いただ飲みになる。
 さて、大司教は『他でやると婚姻儀式の厳粛さを忘れ、品位を落とし、教会戒律の乱用を防ぐため』と言う。教会には教会の理屈があるようだが、後半の乱用云々は不信心の私にはサッパリ分からないし、どちらにしてもつまらぬ事を言っている。
 それにしても、外に流れたものをうちの方でやりなさいというのは、落ち目の商売人が身内に良く使う手で、本当に禁止令が徹底するか分からない。マニラに限ってだから他は黙殺になるのではないか。
 写真はセブ島北部の町へ行った時、たまたま教会の結婚式に行き会った。この日は日が良いのか何組もの結婚式があった。新郎新婦以下、列席者も皆幸せな顔をしていた。
 
author:cebushima, category:新・へそ曲がりセブ島暮らし100景, 07:27
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11月30日(月) 快晴、風なし 閑話休題 《 ボニファシオ・ディー 》
ボニファシオ  今日30日はフィリピンの祝日になる。フィリピンには年間17日の祝日があり、人物にちなんだ祝日は821日のニノイ・アキノ、1130日のボニファッシオ(左写真)、1230日のリサールと3日ある。いずれも暗殺、銃殺と非業の最期となった人物達である。

 今日の人物、アンドレス・ボニファッシオは18631130日生まれ、1897510日、33歳の若さで処刑された。その前年にはリサールが処刑されていて、共にスペインからのフィリピン独立革命のリーダーだった。この独立運動はヨーロッパ人の植民地支配に対するアジア人最初の革命運動であり、歴史的評価は高い。

 同時代にアギナルドと言う人物がいる。この人物、初代フィリピン共和国大統領として重要だが、先の3人と違って1869年―1964年まで生き94歳で死んだ。1960年代だからついこの間まで歴史の証人が生きていた感じになる。

 さて、ボニファッシオは貧困層出身、アギナルドは富裕層出身だった。(リサールも富裕層出身)最初は共に革命路線を歩んでいたが、富裕層のアギナルド側は革命の行き先を考えるとボニファッシオの路線は危険で、結局ボニファッシオは逮捕され銃殺となった。いつの時代でもある路線の違いによる粛清というやつである。

 長寿を全うした初代大統領はフィリピン人の感性に合わないのか、あるいはボニファッシオ逮捕、銃殺に関わったためなのか理由は分からないが、祝日創設にまでは至っていない。

 さて、フィリピンの休日の在り方は時々問題になるように、突然決まる事が多い。これは大統領が思い付いたら、明日は休日と決めてしまう事から来る。そんな馬鹿な事が出来るのかとお思いだろうが、そこは何でもありのフィリピンである。

 政府が祝日出勤の扱いをいちいち賃金の割増から残業の扱いまで指示を出すから、企業は大変であるが慣れるしかない。
author:cebushima, category:閑話休題2009年11月, 06:46
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新・へそ曲がりセブ島暮らし100景 その20 滑り台から
滑り台 公園で見かけた素朴な滑り台。英語ではChute=物を滑らして落とすダスト・シュートのシュートである。
 写真の滑り台は鉄パイプと鉄板で出来ていて、滑る部分は尻に磨かれてピカピカになっている。子どもの頃は良く滑ったが、当時の一番印象的な滑り台は、実家から歩いて10分位先の区営公園内にあった。
 この公園には区内で珍しい公営プールがあって、近在の小中学生は夏になると待ちかねて通った。今でこそ学校にプールを付属するなど当たり前の時代だが、まだどこにもない時代だった。
 料金が幾らだったかは忘れたが、1時間毎の入れ替え制で、入場出来るまでは炎天下に長時間並んだ。友達と行っては順番待ちを交代で受け持ち、その時間を公園の遊具で遊んで時間を潰した。
 その公園の滑り台はコンクリートに人造石を張り付けた物で、夏の陽射しに熱せられて火傷をしそうな状態だった。これがプールで泳いだ後だと、冷えた身体には適度な熱さになって、今でもその心地良さを思い出す。
 今もその滑り台が残っているか分からないが、プールは無くなったと聞く。学校毎にプールを備え、設備の良いスイミング・クラブがあちらこちらにある時代では、夏だけ開く屋外のプールなどやはり時代遅れになったのであろう。
 公園のプールに通う時はまだあった赤線地帯を通り過ぎた。1956年、日本に売春防止法が施行され、1958年にいわゆる赤線が廃止されたが、子どもだったので何の意味か分からなかった。
 後年、いつも通り過ぎた一角が文献通りの街だったので、もっと観察、写真を撮っておけば良かったと悔やんだ。今は当時の痕跡は全くなく、マンションと駐車場ばかりに変わってしまった。
 
author:cebushima, category:新・へそ曲がりセブ島暮らし100景, 09:48
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