【写真−1 同駅は地上にあり駅構内を出入りする電車が見られると思った】
その一畑電車の『出雲市駅』1が写真−1で、JR『出雲市駅』から行くには北口改札口を出て高架沿いに歩いて行く必要があり何とも不便で、JR側は1998(平成10)年に高架駅となり、一畑電車側も2年遅れて高架化されたが互いに連結して利用客の便を図る考えはなかったようだ。
一畑電車『出雲市駅』が開業したのは1914(大正3)年で、当時はJR側も一畑側も『出雲今市駅』と名乗っていて、高架化になるまでは一畑電車はJR構内にレールが乗り入れていて相互の乗り換えは簡単であった。
【写真−2 シーズン中は出雲大社へ向かう人々で混雑しそう】
写真−2は一畑電車『出雲市駅』の出札口で、その上に時刻表と路線の駅と共に料金表が表示されていて、時刻表では平日は朝6時から夜10時まで1時間に1〜2本、ラッシュ時には3本運行しているのが分かる。
2路線あると先述したが5駅、8.3キロの大社線『出雲大社駅』へ行くには途中の『川端駅』で乗り換える必要があり、その所要時間は乗り換え時間を含めて25分だが、『出雲市駅』からの直通も1日2本運行しているが、時間はそれほど変わらず料金は500円。
一方の北松江線の終点『松江しんじ湖温泉駅』までは1時間かかり、22駅、33.9キロあるわりには料金700円とはかなり安い気がするし、宍道湖沿いに走る車窓風景はかなりの見ものである。
【写真−3 地上駅であった時代はどういった改札風景であったか】
一畑電車『出雲市駅』の改札口が写真−3で、地方鉄道の現況を表すように通路2つで賄える規模で、正面の階段を上がってホームへ行くが、年配者や大荷物を持っている旅行者にはエレヴェーターかエスカレーターがないとチョッと大変で、同駅に設備されているのかどうかは不明。
頭上の表示板に9:19発の急行『松江しんじ湖温泉』行きと9:50発の『出雲大社駅』行き直通電車の案内があり、この直通電車は1日2本しかない内の1本で、他には発車時刻10分前に改札業務を行うとの案内が見える。
【写真−4 一畑電車の待合室ガラス仕切りに映画の宣伝が】
長い題名の『RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語』の映画は2010(平成22)年に公開され、その舞台となったのがこの一畑電車で監督は『錦織良成』、同監督は平田市(現出雲市)出身で島根三部作の映画を発表している。
島根三部作の最初は2008(平成20)年の『うん、何?』、2作目がこの『RAILWAYS』で、3作目は2017(平成29)年の『たたら侍』と分野は違うが、何れも島根が舞台となっている。
毎年日本の国際交流基金がフィリピン各地で日本映画を上映する行事があって、『RAILWAYS』はセブの映画館で観ていて、出雲路を走る電車の様子がずいぶんのんびりしているなあとの印象があった。
将棋の藤井が棋士にならなければ鉄道の運転士になりたかったと述べているようにレール上を走る列車を運転するのは人気はあり、映画は会社を退職して運転士になった人物を描いていて、待合室に描かれ劇中に出て来る電車は『一畑電気鉄道 デハニ−50系』で、その製造は1928(昭和3)年の文化財級になり、列車マニアには垂涎の車両でもある。
【写真−5 見れば見るほど面白い造りになっている】
一畑電車『出雲市駅』のトイレが写真−5で、今もってこういう和式のトイレが使われていることに驚いたが、出雲大社には海外からの観光客も多く訪れると思い、このトイレを見たら相当吃驚するのではないか。
トイレというのはその国の衛生観念の分かる場所で、社会学に『トイレ学』という分野があるくらいで、かつて中国で公園内にあるトイレに入ったら便槽に板が差し渡していて、前後左右丸見えの中で用を足す様を見て驚愕したが、中国人にとっては普通で所変われば変わるとは言うが、近代化路線を急いだ中国にあのようなトイレはまだ残っているのであろうか。
ハワイのヨットハーバー内にあるトイレに行ったら、ドアがなくて中は丸見えで用を足すようになっていて、さすがに最初は使うのを躊躇ったが、慣れれば何ということなく普通に使うようになったが、同地の博物館内のトイレはドアがあっても中が見えるように低く、これは安全上から来ているようだ。
【写真−6 折角の駅前再開発も土地の特徴がないと同じ雰囲気】
一畑電車は市役所などがあるJR南口側にあり、時間があったので北口に回って撮った駅前が写真−6で、開発前は工場が並んでいて、駅の高架化に伴って再開発されて現在のようになり、写真右側に益田市で泊まったホテルの出雲店があり、同ホテルを含めて広場を囲むようにホテルが3軒建っている。
左側に見える建物は『ビッグハート出雲』と名付けられた多目的ホール施設で、主にクラシック演奏会に使われていて、開館は1999(平成11)年で出雲市は県庁所在地の松江市(人口20万人弱)に次いだ県内2番目の人口17万人を擁し、このくらいの箱モノはあって当然という所か。
]]>
【写真−1 駅に柵がなく住宅と一体化している雰囲気が好ましい】
写真−1の『波根駅』は名前の通り近くに海水浴場があり、ホームから水平線が見え、同駅は大田市内には10駅ある駅の中では最北に位置し、開業は1915(大正4)年と既に100年を過ぎている。
海側から山陰本線、山側に国道9号線、更に山側に高速道路の『山陰自動車道』が並行して走っていて、同高速道路の開通は1985(昭和60)年で、鳥取市を起点に山陰海岸沿いに下関市まで380キロ、時代とは言え開通によって同地方の鉄道事業の衰退を更に進めてしまった。
【写真−2 冬季の景色はまた違う表情を見せるのであろう】
『波根駅』から次の『田儀駅』間は写真−2のように国道9号線を挟んで線路が延び、のびやかな水平線が車窓に広がり、彼方に見える影は島ではなく、出雲方面の半島のようだ。
国道9号線は山陰本線と付かず離れずの距離で並行しているが、写真でも分かるようにあまり車が連なって走っているような光景や、車が走っていてもトラックのような商業車は少なく、山陰地方の過疎化は物流にも影響を与えているようだ。
【写真−3 ホームは北側に面しているので水平線に沈む夕陽はどうか】
その国道9号線と海を臨んだ場所にあるのが写真−3の『田儀駅』で、折しも反対側ホームに『浜田駅』行きの各駅停車列車が入って来て、車両の向こう側に水平線が入る構図はJRが好んでPR用に使う写真でもある。
同駅は大田市を離れ出雲市に入っていて、駅名はその昔の『田儀村』から来ているが現町名は地の違う『多伎(たき)町』で、これは合併によって合成した地名になり、駅舎は2005(平成17)年に町営バスターミナル兼用でログハウス風に建てられた。
【写真−4 山陰本線の電化区間というのは少なくほとんど単線】
写真−4は終点の『出雲市駅』一つ手前の『西出雲駅』で、1913(大正2)年に開業した当時は『知井宮駅』という名称で、宮が入っているように『出雲風土記』に同所に『知乃社(ちのやしろ)』がありそこから来ている。
同駅は1993(平成−5)年に『西出雲駅』に改称し、下関側の『幡生駅』から当駅までは非電化区間で気動車を走らせているが、写真−5で分かるようにここから電化されていて張られた架線が妙に新鮮。
【写真−5 今は山陰本線のみだがかつては大社線があった】
『浜田駅』発6:34の各駅停車列車は8:49に『出雲市駅』に到着し、写真−5は到着したホームの反対側を写したが、JR西が採用しているオレンジ色に塗られた車両を見て同系統の車両で瀬戸内海沿岸を乗り継いだことを思い出した。
同駅が1910(明治43)年に開業した当時の名前は『出雲今市駅』で、1957(昭和32)年に『出雲市駅』と変哲もない駅名に改称したが、当時の国鉄と自治体の連中の貧弱な国語力と地名の歴史を軽んじる態度はどうしようもない。
【写真−6 余りにも取り澄ました駅前で神話の郷を感じさせない】
駅のある出雲市は人口17万人を擁し、山陰地方では県庁所在地の松江市と鳥取市に次ぐ人口で、そのためもあって同駅は1998(平成10)年に同地域では数少ない高架駅となり、写真−6の北口入り口は出雲大社の建物を模している。
大きな市のために駅前は整理されていて、同駅は私鉄の『一畑電車』の起点でもあり、山陰本線『米子駅』行きは10:01のために時間があるので『一畑電車』の『出雲市駅』に行くが、駅構内でホームは隣接していると思ったら、全く別々になっていて一度駅を出ないと行けない。
]]>
【写真−1 新建材の家でも瓦屋根になっている】
山日本海沿岸を走る山陰本線は時々写真−1のような海に臨む集落をすり抜けて走るが、この石見地方の浜田市から江津市にかけては日本三大瓦産地の一つ『石州瓦』を生産している地域で地元産の瓦を乗せた家屋が並ぶ。
石州瓦の特徴は土と焼成温度から生まれる赤褐色の色だが、最近は黒系の瓦も生産していて、瓦を使った屋根は断熱性は良いが瓦自体の重さのためにかなりの荷重が柱と梁にかかり、この間の能登半島地震でも瓦屋根の古い木造家屋は屋根の部分を残して下側は倒壊しているのが多かった。
【写真−2 次の駅は『湯里駅』だが同地には温泉はない】
写真−2が冒頭に書いた難読駅の『温泉津駅』で、これで『ゆのつ』と読むから漢字の読み方は難しく、どうしてこう読むのかと考えても仕方がなくこう読むのだと丸暗記するしかない。
同駅から徒歩で海に向かって15分くらいの場所にある入り江に『温泉津温泉』があり、同温泉街は石州瓦を乗せた古い建物が連なり、2004(平成16)年に国の『重要伝統的建築物群保存地区』に指定され、温泉街としては初めての指定であった。
温泉津で特筆されるのはユネスコの世界遺産になった『石見銀山』から産出した銀を温泉街に連なる温泉津港から積み出したことで、同港も世界遺産の登録を受け、駅そのものは特徴のない無人駅でも歴史の中では同地は豊かであった。
【写真−3 グリーン座席はない特急列車】
『温泉津駅』に『出雲市駅』行き各駅停車列車が停まっていると、反対側に写真−3の列車が通り過ぎ、これは山陰本線と山口線を走る特急で、『米子駅』6:49発の『スーパーおき1号』で、10:19に『新山口駅』到着する。
山陰本線の同区間を走る特急は他に『スーパーまつかぜ』があるが、使用している車両は同じ『JR西キハ−187系気動車』でデザイン的には地味だが、急カーブの多い区間を走るために設計され、2両編成と特急にしてはやはり地味。
【写真−4 この長い砂浜は鳴き砂で知られる『琴ヶ浜』か】
写真−4も車窓からの山陰海岸の様子で、山陰海岸は奇岩の多い岩礁の続く海岸のイメージは強いが、この写真には結構長い薄茶色の砂浜が写っていて意外な感じはしたが、鳥取砂丘を思うと日本海側に砂浜があってもおかしくはない。
車窓から眺める分には綺麗な砂浜と海に見えるが、打ち寄せる波と同じ海なのにどこか太平洋側と比べると重苦しく、海辺に連なる集落も閉鎖的な感じを受け、これが風吹き荒び雪が舞うような冬季だと寂しい光景になるのだろうと想像する。
【写真−5 1日の乗車人員は200人前後と意外に多い】
『温泉津駅』から既に太田市内を走っていて、写真−5は『仁万駅』で、駅のある地名は『仁摩』であり、同地のかつての郡名は『邇摩郡』で合併を繰り返して、最終的には2005(平成17)年に太田市と合併したために、邇摩郡と仁万町は消滅した。
同駅はユネスコの『石見銀山遺跡とその文化的景観』に登録された関連施設に近い最寄り駅でもあり、時間帯によっては特急も停車し、同駅からは鳴き砂で知られる1.6キロに及ぶ『琴ヶ浜』が近く、また仁摩町出身の建築家『高松伸』設計の『仁摩サンドミュージアム』がある。
【写真−6 ホーム上の時刻表は赤色の特急列車運行がかなり多い】
大田市中心の駅が写真−6の『大田市駅』で、『おおた』ではなく『おおだ』と読むが、開業当時の1915(大正4)年には『石見大田駅』で『おおた』と称していて、1971(昭和46)年に『大田市駅』と改称し『おおだ』となった。
同駅の2、3番線ホームからの跨線橋に使われている鋳鉄製の門柱は、現存する鉄道の鋳鉄製門柱では国内最古の1890(明治23)年に神戸の工場で造られた重要文化財級の物で、門柱は勿論跨線橋全体が歴史を感じさせる造りで、もう少し停車時間があったら写真に撮っていた。
大田市(人口3万1千人)の山側には江戸時代に世界の銀の3分の1を産出したというユネスコの世界遺産登録の『石見銀山』があり、同銀山の中心となった同市大森地区は鉱山町として1987(昭和62)年に『重要伝統的建造物群保存地区』に指定された。
石見銀山がユネスコの世界遺産に登録されたのは2007(平成19)年で、一時は不承認であったがロビー活動が功を制して日本の世界登録遺産として14番目、文化遺産としては11番目、産業遺産としてはアジアで最初の登録地となった。
]]>
【写真−1 駅前には岩見神楽をモデルにしたカラクリ時計がある】
写真−1は浜田市の中心駅の『浜田駅』で、浜田市は県庁所在地の松江市、出雲市に続く県内3番目の人口で現在5万1千人を擁し、同地方を表す『石見』は古代日本の7世紀の律令制に始まり、同地域は東西に長いために益田市中心地域を『石西』、太田市中心地域を『石東』、そしてこの浜田市を中心とした地域を『石央』と分けている。
日本海側の『浜田駅』と瀬戸内海側の広島を結んで中国山地を横断する路線がかつてあって、同線は山陽本線『横川駅』から『三段峡駅』までの60.2キロは開通したが、『浜田駅』から『三段峡駅』までは着工出来ず、この区間は幻の『今福線』と呼ばれている。
国鉄時代は中国山地を横断する路線がいくつもあったが、車の時代を迎えて次々と廃線になり、『浜田駅』へ乗り入れるはずであった同線は現在可部線として生き残り『横川駅』−『あき亀山駅』間15.6キロが運行されている。
同線の『横川駅』からの開業は1909(明治42)年とかなり早く、1969(昭和44)年に『三段峡駅』まで開通したが、既に同地域も鉄道の時代は終わっていて1980(昭和55)年に今福線敷設中止決定し、『浜田駅』乗り入れは幻となった。
2003(平成15)年に『可部駅』−『三段峡駅』区間が廃線、その後地元の事情で2017(平成29)年に廃線を利用した『可部駅』−『あき亀山駅』間が開通したように時代の波に洗われた路線であり、仮に『浜田駅』−『横川駅』線が全通しても赤字路線として廃線は免れないのではないか。
【写真−2 読めそうで読めない駅名】
写真−2の『久代(くしろ)駅』は『浜田駅』から2つ目の浜田市内にあり、同駅は『浜田駅』寄りの難読駅『下府(しもこう)駅』とその先の『波子駅』の間に1959(昭和34)年造られた新しい駅である。
同駅は山側の高い所にあり、海に向かって降りて行くと国道9号線に当たり、国道を越えると海辺の集落に出るが、駅の1日の乗車人数は一桁に落ちていて、浜田市内にある山陰本線の秘境駅になりつつある。
【写真−3 特急も停まる直営駅だが駅員の姿は見えない】
『益田駅』発5:45『浜田駅』行きは同駅に6:32に到着し、6:34発の『出雲市駅』行きに乗り換え、写真−3の日本海に面する江津市の『江津駅』に着いたのは7:03で、都会なら通勤通学ラッシュ時間だが、特急が停まる駅でもご覧の通りに閑散。
瀬戸内海側から中国山地を横断して日本海へ抜ける鉄道が過去に何線もあったと先述したが、『浜田駅』同様『江津駅』も瀬戸内海へ向かう『三江線』という路線が2018(平成30)年まで運行していた。
『三江線』の三は広島県北部内陸にある三次市のことで、同市の『三次駅』には『広島駅』を起点に『備中神代駅』まで、44駅、159.1キロの『伯備線』が通っていて、この伯備線は『倉敷駅』から中国山地を横断して山陰本線の『伯耆大山駅』に至り、数少ない中国山地横断路線として生き残り、JR特急がこの路線を経由して山陰側に向かっている。
【写真−4 ホームの向こうに見える雑草と柱の古びた具合が妙に合う】
『江津駅』の反対側ホームを写したのが写真−4で右側に見える列車は『浜田駅』行きで、駅のある江津市は人口2万1千人と山陰地方の市の中では最も人口の少ない市であり、面積も県内で最少の市になる。
江津市は中国地方最大の川『江の川』が流れ込むが、江の川は中国山地に源流を広島側に発するが流れは複雑で反時計回り回り込んで日本海に注ぎ、同市の地場産業として『石州瓦』があり、住宅事情の変化で近年は昔ほど売れていない。
【写真−5 原発が出来てもおかしくない地形と環境】
『江津駅』を出て海沿いを走って見えるのが、写真−5の海岸に建つ風力発電設備で、日本海側は風の強い地帯でもあり風力発電設備は山陰本線の車窓から時々見えるが、写真の風力発電所は民間の運営で2009(平成21)年に操業し、11基、2万2千KWの発電量がある。
江津市には山側に9基、2万700KWの『高野山風力発電所』があり、同発電所は地方公共団体が運営する風力発電設備としては最大で、同市はこの他に太陽光発電などの再生エネルギー事業も盛んで、核のゴミを無限に出す原発容認の自治体が多い中では異色の方である。
【写真−6 高校生の制服も昔のように詰襟というのは稀少になった】
朝7時台の各駅停車列車のために写真−6のように通学で利用する高校生が座席を多く占めていて、写真で分かるように座席で誰しも携帯に没頭していて仲間通しでおしゃべりに夢中というのは昔の話という時代である。
以前、タイ北部を走る国鉄に乗った時にやはり通学時間帯にぶつかり、途中の駅で高校生くらいの生徒が乗り込んで来て、それまでガラガラであった車内の席が埋まったが、男女別に席に着くのは日本と変わらなく、しかも皆携帯を取り出して会話はなく、世界中同じになっていると思い、便利さより人間の退化を感じた。
]]>
【写真−1 赤褐色の地元産の石州瓦が目に鮮やか】
『岩見津田駅』を出てから写真−1の赤褐色の屋根瓦で統一された、日本の漁村の原風景のような景色が目に飛び込み、この屋根瓦は『日本三大瓦』の一つ、島根県の石見地域で生産される『石州瓦』で、凍結に強く豪雪地帯で多用されている。
漁港の縁を走る道路は『国道9号線』で、同国道は京都市を起点に山陰の日本海沿いを通り、山口県手前で内陸部に入って瀬戸内海沿いに下関市まで行く769.6キロの幹線道路で、国道では『4号線』、『1号線』に続く延長距離を持つ。
【写真−2 何気ない駅だが近くの海岸には温泉や景勝地がある】
写真−2は『鎌手駅』で、同駅ホームは写真では山側にある道路と同じレベルになっているが、反対側のホームは盛り土の高架になっていて駅の正面を通る国道9号線から階段を上がり、写真のホームへ行くには盛り土高架に掘られた地下通路で直接行くようになっている。
同駅は写真−1で見えた海岸部から山の方に入った地点にあるが、近くの海岸は『唐音』と呼ばれる石英粗面岩の海蝕崖が続き、その中に幅1m、長さ300mの安山岩の岩が露出しその様子から『蛇岩』と名付けられ、1936(昭和11)年に国の天然記念物に指定されている。
唐音の海食崖には地元の人が植えた200万株に及ぶ日本水仙が群生しその規模は中国地方最大と言われ、見頃は12月末から1月一杯になり、同地域には温泉もあり隠れた行楽地になる。
【写真−3 中国電力は火力ではなく原発を造りたかったのではないか】
再び山陰本線は海岸に出て、先述した海食崖の続きのような写真−3の荒々しい崖上を進むが、重苦しい雲の下の彼方に煙突状の建造物が見えて、海と岩しかない景色の中で異彩を放っている。
この建造物は中国電力の『三隅火力発電所』で、2基あり1号機は1998(平成10)年、2号機は2022(令和4)年に発電開始と新しく、それぞれ発電能力100万KWと国内火力発電所1基当たりでは最大規模になる。
1号、2号共に燃料は石炭で、専用港を造って海外から火力原料の石炭を輸入しているが、一時期CO2削減のために木質チップを混ぜて発電する『バイオマス発電』の実験が行われていた。
【写真−4 火力発電所用の専用線が同駅から延びていた】
写真−4の『岡見駅』は浜田市内にあり、同駅構内から米子方面はトンネルが至近で、折しも『益田駅』行きの各駅停車列車が反対側ホームに入って来て、同駅の現山陰本線は1992(平成4)年に付け替えた新線で、旧線もトンネルになって先述した『三隅火力発電所』の専用線として使われていた。
『三隅火力発電所』の操業開始が新線付け替え後の1998(平成10)年で、発電所から排出する石炭灰を美祢線を経由して瀬戸内海側の宇部にあるセメント工場へ原料として運んでいたが、現在は運行されていない。
【写真−5 石見地方は伝統的和紙生産でも知られる】
写真−5の小奇麗な木造駅舎は『三保三隅駅』で、左の方に幟が立てられそこには『三保三隅駅開業一〇〇年』とあり、同駅が1922(大正11)年に開業したことを示している。
同駅は山陰本線が浜田方面から延伸し、同年に『周布駅』から延びて終着駅として開業し、1926(大正15)年には『三保三隅駅』から『鎌手駅』まで延伸して『岡見駅』が生まれ、山陰本線が徐々に敷設しながら伸びて行った歴史を感じさせる区間でもある。
駅舎の壁に『石正美術館』の案内が見えるが、同美術館は駅から徒歩で30分近くかかるが、浜田市出身の日本画家『石本正』を記念した浜田市立の美術館で、他にも『石州半紙』の看板が見え、これは近隣で生産される障子紙などに使われた和紙で、2009(平成21)年にユネスコ無形文化遺産に指定された。
【写真−6 かつては浜田港へ行く貨物線があった】
写真−3は人口数で島根県内3番目の浜田市の中心駅一つ手前の『西浜田駅』で、同駅も開業は100年以上の1922(大正11)年で、開業当初は『岩見長浜駅』と名乗ったが、1949(昭和24)年に現駅名に改称した。
同駅は浜田港に近く、1955(昭和30)年から2.3キロの貨物専用線の『浜田港線』が運行されていて、SLも走ったこともあったが1982(昭和57)年に廃線となり、廃線跡は山陰本線の分岐点にはレール跡が見え、多くは道路などになっていて港付近に操車跡地が残る。
]]>
【写真−1 益田市の中心市街地はこの駅舎の反対側】
『益田駅』から山陰本線『浜田駅』行きは5:43に出るので、いくら駅目前のホテルに泊まっていると言っても起きる時間は早朝4時過ぎになり、身支度をしてコーヒー豆を挽いてポットにコーヒーを淹れるなどをしている内に時間は過ぎる。
写真−1はひっそり静まり返っている早朝の駅前広場から『益田駅』を見た様子だが、始発に乗るのは『益田駅』−『浜田駅』−『出雲市駅』−『米子駅』と乗り継いで同駅から境港線で『境港駅』へ行って、同駅より隠岐の島へ渡るフェリーに乗るためであった。
【写真−2 低価格でトイレが流れお湯が出れば宿泊場所としては充分】
昨夜は気が付かなかったが、『益田駅』の真ん前に『駅前ビジネスホテル』と名乗る写真−2のビジネスホテルがあり、料金も昨夜泊まったホテルの半分程度で泊まるだけなら充分なホテルである。
昨夜泊まったホテルは日本の大手ホテル仲介サイトで見つけて予約を取ったが、こういう予約サイトに載らない、或いは載せないホテルというのは結構あって、今のようにネット頼りの予約は、『飛び込み』と言って現地で見つけた宿泊所に行って交渉して泊まる楽しみを失わせてしまった。
森繁が主演していた東宝映画の喜劇『駅前旅館シリーズ』で分かるように、かつては駅前に旅館があるのは当たり前の時代があり、今でもそういった名残りは駅前に見るが旅行形態の変化によって寂れ、廃業が続き時代と言えば時代ではあるが。
【写真−3 同市には全日空羽田便1日往復2本の石見空港がある】
『益田駅』のある益田市は人口4万2千人、島根県で4番目の人口を抱えるが最多は松江市の20万人で、年々人口減少の激しい県でもあり島根県全体で65万人となっているがこれはセブ市よりもかなり少なく、セブが人口過密なのか島根が過疎なのかその両方になるであろう。
益田市には今は稀少になったキャバレーが営業していて、その名は『キャバレー赤玉』で1938(昭和13)年創業というからそれだけでも凄く、益田市へ来たからには写真に撮っておきたいと思ったが、所在は写真−3の『益田駅』駅舎の反対側の同市中心街区側にあり、当日は休業で雨も降っていたので取り止めた。
【写真−4 『松江駅』−『岡山駅』間の特急に乗車したことがある】
写真−4の『益田駅』ホーム右側に停まるのが5:43発『出雲市駅』行き各駅停車列車で、左側の青と黄色に塗り分けられた車両は山陰本線を走る特急『スーパーまつかぜ4号』で、『益田駅』を5:36に出て『鳥取駅』まで4時間近くかけて9:31に到着する。
山陰本線も現在『下関駅』−『益田駅』間は特急は走っていないが、2019年の『新幹線全線乗車の旅』の時にはまだ特急を走らせていて、『岡山駅』から特急を乗り継いで『下関駅』へ出ようと計画したが、その年の集中豪雨で山陰本線は被害を受け不通区間を生じ、バス代行となっていたので取り止めた。
ただし、『益田駅』は全く特急と縁がなくなった訳ではなく、山陰本線『米子駅』発、『新山口駅』行き特急『スーパーおき』が山口線の起点である『益田駅』に停まり、同特急は1日往復3本運行し所要時間は4時間強。
【写真−5 吊輪と座席ハンドルの黄色がこの列車の特徴】
写真−5は『出雲市駅』行きの車内の様子で、同車両は『JR西日本キハー120形気動車』と呼ばれ、1990年代に89両製造されたワンマン仕様車で、車体に記された車両番号319から1994(平成6)年から1996(平成8)年にかけて59両造られ浜田鉄道部に配属された13両の一つと分かる。
通常ワンマンで走っているが『出雲市駅』行きは2両編成で出発し、この車両の特徴は色々あるがドアがバスと同じ折り畳み式になっている特色で、車内にはトイレが付属し座席はクロス式とロング式が混ざり、その張地がかつての国鉄色の濃い緑を想い出させる。
【写真−6 駅舎を利用してパン店が営業中】
『益田駅』次が写真−6の『岩見津田駅』で、同駅はまだ益田市内になり停車時に車窓から駅舎を見たらパン屋の宣伝が書かれていて、同駅には2018(平成30)年からパン屋が駅舎を利用して開業していて、現在は2代目の『駅パンくるくる』という名前で営業している。
無人の駅舎を利用してカフェやレストランなどを開く例は多く、山陰本線上の『長門大井駅』駅舎には理髪店が店を開いていて、地域で人の集まる駅は商売としては悪くないのだろうが、鉄道利用者が減ったから無人駅になったことから考えると経営は難しく、『岩見津田駅』の1日の乗車数は10人台になっている。
]]>
【写真−1 同駅は当初山口線の駅として開業した】
『益田駅』は山陰本線と山口線の2線が乗り入れていて、写真−1は山口線の列車が離発着する1番線ホームにある駅名表示板で、左側は山陰本線の松江方面『岩見津田駅』、右側上部は山口線の最初の駅『本俣賀駅』、その下が山陰本線萩方面の『戸田小浜駅』。
山口線は山口県の瀬戸内海側から日本海側の島根県を繋ぎ、『益田駅』から山陽本線『新山口駅』間の28駅、93.9キロの単線非電化路線で、途中には山陰の小京都と呼ばれる『津和野駅』や県庁所在地の『山口駅』を経由する。
山口線を有名にしているのは『新山口駅』−『津和野駅』間を走らせる蒸気機関車『SLやまぐち号』で、牽引しているSLは1937(昭和12)年製造の『C−57』1号機で、戦争や脱線などを経て復活した。
同SL列車は各地で走らせている観光用SL列車の草分けで、1979(昭和54)年から運行しているが、古いSLを使用しているために故障や点検による休止も多く、その時はディーゼル機関車が牽引している。
【写真−2 停まっているのは明朝折り返す『山口駅』行き】
改札口のある側のホームが写真−1の1番線ホームで、停まっているのは『山口駅』18:12発の『益田駅』着20:16の各駅停車列車で、到着したばかりなのでまだ車内には灯りが点いているが山口方面からの最終便になる。
100年前に『益田駅』が開業した当時は山口線の駅であったことがこれで分かるが、『益田駅』−『新山口駅』間を通して走る各駅停車列車は運行していなくて『山口駅』で乗り換える必要があり、『益田駅』発『山口駅』行き最終便は19:20発で既に出ている。
【写真−3 駅の入り口方面から改札口を見る】
『益田駅』は直営駅なので夜間でも駅員が常駐しているはずだが、写真−3で分かるように改札口付近にはひと気はなく、改札口の向こう側には山陰本線『益田駅』21:38発『浜田駅』行き最終便が停まっている。
山陰本線『浜田駅』発21:41が22:28に『益田駅』に入って来るのが最終便になり、これを最後に駅の業務は終わって駅舎の入り口は閉められ、かつての夜行列車が運行されていた時代の駅が24時間開いていた時代は遥か昔の話になった。
【写真−4 夜遅い到着なのでホテルが近くて良かった】
写真−4は左側に『益田駅』、その向こうに見えるビルが本日泊まるホテルで、2006(平成18)年に駅前再開発事業が行われ、ホテルのある場所には市の事務所、商業店舗とマンションの複合ビル棟とホテル棟が建つ。
このホテルは山陰地方で展開しているホテルチェーンで、島根県には写真の益田市と出雲市の2軒、他に鳥取県鳥取市、広島県東広島市、兵庫県豊岡市でそれぞれ1軒を営業している。
【写真−5 明日は始発に乗るから部屋の滞在時間は僅か】
同ホテルは夜8時過ぎのチェックインであったが、大分県佐伯市で泊まったホテルのチェックインが夜10時近かったからまだ早い方で、こういう遅いチェックインになると分かっていたので極力駅に近い駅を予約した。
写真−5がホテルの部屋の様子で右手のカーテンを上げると駅前広場と『益田駅』を見下ろし、部屋の仕様は他のビジネスホテルとあまり変わらないが、茶系の色で統一されて落ち着きがあり、ロビーなどもデザイナーが関わっていると思わせる品の良い造りになっている。
【写真−6 温泉の素を溶かし込んで温まるのがせいぜいの楽しみ】
同ホテルのバスルームが写真−6で、ビジネスホテル共通のユニットバスで良くも悪くもない仕様と設備だが、同ホテルの特徴は宿泊客用の図書スペースや無料のマッサージ器、夜食に無料ラーメン提供と他のビジネスホテルチェーンとは一味違っていて、また泊まりたいと思わせた。
駅の周りにはこれといった食べる場所はなく、結局近くのコンビニへ行って日本では当たり前でもセブでは珍しいインスタント焼きそばを買って食べたが、夜遅く到着し次の日に早立ちする旅行だと外に出て時間を過ごすのも億劫になるから仕方がない。
]]>
【写真−1 車窓の水滴も時には美しく見える】
『金子みすゞ』の生誕地である仙崎町に立ち寄って山陰本線『長門市駅』に戻って、『益田駅』行きの各駅停車列車に乗った頃は、重苦しい雲が垂れ込めながら天気は保っていたが、『萩駅』を出た頃からポツポツ降り出した。
写真−1は『萩駅』から3つ目のまだ萩市内の『長門大井駅』で、既に雨は大降りでホームの上が濡れているのが分かり、無人駅の駅舎なのにかなり明るい照明が見えるのは同駅舎を使って理髪店が営業しているためだが、鉄道利用の乗客は1日一桁台になっている。
【写真−2 小さな駅でもそれぞれの歴史を持つ】
写真−2の『須佐駅』も萩市内に入るが、駅名の須佐は神話上の『須佐之男命(すさのおのみこと)』からで、その昔同町内にある533mの山から朝鮮半島方面を眺めたことかららしいが、どうして須佐之男命がここに来ていたかの理由は分からない。
萩市と合併する前は須佐町という自治体で、湾に囲まれ風光明媚、イカ漁の盛んな町で『須佐之男命イカ』の名で知られるが、鉄道好きには日本で初めて明治時代に全国規模の『時刻表』を作成した『手塚猛昌』の出身地で、駅前には『時刻表の父 手塚猛昌之顕彰之碑』と刻まれた碑がある。
【写真−3 海外から来た人間は使う気にならないトイレ】
途中、写真−3の車内のトイレを利用したが、こういう形式のトイレがまだ使われていることに驚いたが、乗っている車両が『国鉄キハ−40系気動車』という1977(昭和52)年から1982(昭和57)年の間に製造した車両で、洋式トイレなどまだ普及していない時代であった。
かつての国鉄のトイレは『黄害』と呼ばれたように、列車から車外にそのまま垂れ流すのが普通で沿線住民には堪らなくても、世の中は都市部を除いて水洗など普及していない時代なので仕方がないと思っていた時代であった。
その頃は線路際を歩くと使用された紙などが枕木にこびりついているの見るし、列車が通るのが分かるとその汚物をモロに浴びるのを避けるために大慌てで線路際を離れた記憶があり、今のように汚物をタンクに溜めて処理しているのは当たり前と言えば当たり前。
【写真−4 山口県内で最北に位置する鉄道駅】
萩市には9つの山陰本線の駅があり、写真−4の『江崎駅』は萩市最後の駅でここから先は山口県を離れて島根県の『飯浦駅』に入り、同駅は昼間は駅員の居る委託駅だが、1日の乗車数は50人を割り、夜間に到着するこの列車から人が乗降した様子はなかった。
かなり土砂降りであった雨もこの辺りに来ると小降りになり、終点の『益田駅』に着く頃は雨が上がりそうな感じになって来たが、春の気象は目まぐるしく変化するのも特徴で先は読めない。
【写真−5 本日乗車最後の列車が到着】
山口県と島根県の県境を越えて3つ目にある写真−5の『益田駅』に20:16に到着するが、同駅を境に山陰本線の下関方面とその逆の松江方面の列車が折り返し、山口線の終点にもなっていて駅としては大きいが、夜間のせいもあるがホーム上に人の姿が見えない。
『益田駅』は1923(大正12)年に山口線の終着駅として開業し、ホームの柱や梁が木材を使っているために古さを感じさせ、開業当初は『岩見益田駅』という名称であったが、その年の暮れに下関方面から延伸して来た山陰本線が繋がり、同線の所属駅となった。
『岩見益田駅』の岩見が取れたのは1966(昭和41)年と以外に新しいが、2番線と3番線に山陰本線の上下列車が停まり、1番線は山口線の列車が使い駅舎もそちら側ホームにある。
【写真−6 左に見える幟は駅の開業から100年を記念している】
山陰本線では大きな駅になるが、写真−6で分かるように改札口に行くには跨線橋を渡る必要があり、エレヴェーターやエスカレーター設備は全くなく、老齢者や大荷物を持った利用者には苦痛を与えるだけで、鉄道駅のバリアフリー化が進んでいる中、同駅は遅れている。
改札口を出て分かったが、2006(平成18)年に駅舎のある側の駅前は再開発されて、広い広場といくつものビルが建っているが、駅と一体に開発する考えと予算はなかったようだ。
]]>
【写真−1 かえりと書いてあってもこれは往復切符】
『仙崎駅』を『長門市駅』に折り返す列車は『長門市駅』から乗って来た列車で13分後に『長門市駅』へ折り返すが、駅での乗り降り、改札で手間取ると数分は消えてしまうが、幸い切符は事前に東京『上野駅』で手に入れていた。
写真−1がその時の切符で、JRの切符は『上野駅』で一括して購入したことは何度も書いているが、この切符はたった一駅ながら駅で対応してくれた係員の判断で発券されたが、使うまでは気が付かなかったが往復切符で駅の改札は滞ることなく、これが功を奏した。
事前に切符を購入すると使用開始日と最終有効日が記載されて、今回のように何があるか分からない長距離旅では危険を伴うが、この切符は4月16日から17日まで有効だが、使用日は4月16日で予定通りに旅は進んでいて、日本の鉄道運行がいかに正確であるかの証明にもなる。
【写真−2 黄昏時で駅前には人も車の姿は見ない】
乗り遅れたら大変と駆けて来た『みすゞ通り』だが、写真−2は『仙崎駅』の駅舎正面で、駅舎は木造の建物のように見えるが、1998(平成10)年に改築した建物で、従来の鉄筋コンクリートの駅舎を白壁と焼いた杉板を張り屋根瓦を乗せて和風に見せている。
同駅では急いでいて気が付かなかったが、駅舎内にかまぼこ板約2万枚を使ったモザイクアートの『金子みすゞ』の上半身像があり、これは仙崎郵便局近くの壁に妙にぼけた感じの大きな上半身像が掲げられていたが、このモザイクアートが掲げられていたと後で分かった。
【写真−3 安定のある車両だが色はもう少し何とかならないか】
『仙崎駅』で待つ18:02発の列車に間に合って『長門市駅』に到着し、次の山陰本線『益田駅』行きは18:17発なので一息付けたが、写真−3はホームに入って来た『益田駅』行き各駅停車列車で、これが本日最後の乗車で『益田駅』到着は20:16と長い。
山陰本線は『京都駅』を起点に『下関駅』ひと駅手前の『幡生駅』まで、161駅、673.8キロあり、これは日本の鉄道本線では最長となり、長いと思われる東海道本線が589.5キロであることから確かに長い路線である。
【写真−4 奇をてらわない車内の作りがまた落ち着いている】
『益田駅』行き各駅停車列車内の様子が写真−4で、夜の6時台にしては乗客は前の座席に座っている頭が見える程度で、この区間は山陰本線の中でも利用者の少なく、唯一特急列車が走っていない区間にもなる。
乗車している車両は旧国鉄時代に製造された『国鉄キハー40系気動車』で、壁に衣服を掛けるフックがあり、窓の開け閉めはレバーを押して上下させるなどかつては当たり前の仕様がそのまま残っている。
【写真−5 停車時間が長ければ表に出て駅舎の正面を見たかった】
写真−5は幕末史を飾る長州藩の城下町萩市の中心駅の『萩駅』だが、萩市の中心駅は一つ先の『東萩駅』で、特急列車が運行されていた時代はこの『萩駅』には停まらず『東萩駅』に停まっていたから少々利用者は面食らったのではないか。
写真でも分かるようにホーム側の造りと改札口は木造の古いデザインで、この駅舎の竣工は1925(大正14)年で、大正期の建築様式を残し1996(平成8)年に国の重要文化財に指定されたが、こういう貴重な駅でも無人駅で改札口の珍しい横開きのドアは閉まっていた。
【写真−6 幕末の歴史好きには堪らない旧城下町の駅】
萩市(人口4万1千人)内中心に近い駅が写真−6の『東萩駅』で、さすがに同市の中心駅のために簡易委託駅で駅員はいるようだが、夜間になると無人になる駅かも知れず、それほど遅い時間でもないのに同駅で降りたのは数人であった。
ホームの窓の下がなまこ壁風になっているのは、1973(昭和48)年に駅舎を改築した時に白壁の武家屋敷風のデザインにしたためで、同駅からは松下村塾や討幕を進め明治期の要人となった人々に因む史跡が近い。
]]>
【写真−1 この列車で長門市駅−仙崎駅間を往復する】
『長門市駅』−『仙崎駅』間は写真−1の『JR西日本キハ−120形気動車』が両駅間を折り返しで1日上下8本を運行し、『仙崎駅』へ向かうには『長門市駅』で乗り換えるようになっているが、かつては美祢線起点の『厚狭(あさ)駅』からの直通列車も運行していた。
美祢線は山陽本線の『厚狭駅』から『小野田市駅』間を結ぶ、12駅46キロの山口県を瀬戸内海側から日本海に向けて縦断する路線で、かつては内陸部で産出した石灰石を小野田市や宇部市にあるセメント工場へ運ぶ路線として栄えたが、今は廃止された。
【写真−2 彼方の幟の見える所に駅がありそこから記念館まで直線で400m】
17:45に『長門市駅』を出た列車は『仙崎駅』に17:49に到着し、同列車は18:02に同駅を折り返して『長門市駅』に向かうために13分の余裕しかなく、駅での乗降時間を考えると実質10分程度しかなく、これで400m先の金子みすゞの生家跡まで往復して『長門市駅』行きに乗れるかどうか賭けるしかない。
『みすゞ通り』と名付けられた生家跡まで続く道路入り口から『須崎駅』を見たのが写真−2で、夕方に近くなり通り沿いにある店はシャッターを下ろして人の姿もないが、その道をザックを背負ったまま走る。
【写真−3 道路を先に行くに従って街並みは細くなり漁港は右側にある】
写真−3は生家跡方面を見た通りの様子で、道路は舗道に石が敷き詰められ『金子みすゞ』を観光資源として利用していることが分かり、この道路は鯨漁で栄えた仙崎町の中心通りで、この先には狭い海峡を隔てて『青海島』がある。
ともかく列車に乗り遅れないようにと走り、道路沿いにどういう建物があるのかゆっくり見られなかったが、この通りは古の仙崎町の家並みが残っていて、金子みすゞが詩に残した家などが現存していてゆっくり見たら面白い。
【写真−4 この建物は右の方に本の看板が立ち現役の本屋のようだ】
それでも写真−4の古い建物を撮ったが、これは土蔵造りで昔からの有力者の家のようで、裏の方も白壁の立派な家屋が続き、近くには鳥居の建つ祇園社と呼ばれる神社があった。
今でこそ『金子みすゞ』で知られる長門市仙崎町だが、長門市も力を入れて町内には詩の書かれた看板や銅像など建てているが、かつては忘れられた詩人で1980年代になって再評価を得ていて、現在に至る。
【写真−5 至る所にみすゞの宣伝が覗き五月蠅い感じもする】
『金子みすゞ』は1903(明治36)年に仙崎町で生を受け、1930(昭和5)年に26歳で亡くなり正に夭折という言葉が当てはまるが、写真−5の左側に見える郵便局もみすゞがこの通りを歩いて行ったかと思うと感慨深いものがある。
『金子みすゞ』は生涯に500編の童謡と詩を残したが、20歳の頃から作品を発表し23歳の時に当時の『童謡詩人会』に入会が認められ、同会は西条八十、泉鏡花、北原白秋、島崎藤村、野口雨情、三木露風、若山牧水など日本の文学史に残る錚々たる人士が会員になっていて、女性会員は与謝野晶子だけであったからいかに『金子みすゞ』が若くして評価されていたか分かる。
【写真−6 記念館は既に閉館していてガラス越しに中を覗いた】
ただし、家庭的には恵まれず、23歳の時に結婚し娘も1人生まれるが、詩作に理解のない夫との仲は縺れて1930(昭和5)年に離婚が成立し、同年の3月10日に服毒で26歳の生涯を閉じたが、『仙崎駅』が貨物駅として開業したのはその年の5月15日なので『金子みすゞ』と駅は時間的には交差していない。
写真−6の『金子文英堂』は2003(平成15)年にみすゞの生家跡に建てられた記念館で、看板にあるように金子家は同所で書店を開いたわけではなく、文英堂というのは下関にあった書店で金子家とは縁戚関係にあり、同店の清国(中国)営口支店はみすゞの父親が店長をしていた。
このように記念館も作られ脚光を浴びた『金子みすゞ』だが、著作権や商標を巡って醜い争いもあり芳しくなく、とにもかくにもザックを背負ってこの生家跡まで駆けて行き、写真だけを数枚撮って『長門市駅』行きの列車に乗り遅れないように『仙崎駅』に向かってまた走った。
]]>
【写真−1 黄波戸姓は全国に40人半数が長門市に住む】
『長門市駅』の手前が写真−1の『黄波戸(きわど)駅』で、現在は山陰本線の駅になっているが、1928(昭和3)年に駅が開業した当初は『正明市駅(現在の長門市駅)』から分岐する美祢線の終着駅であった。
5年後の1933(昭和8)年に同駅は山陰本線の駅として組み込まれたが、近くの海岸には『黄波戸温泉』があり、公営の温泉センターが青海島を臨む温泉として人を集めるが、駅の利用者は1日10人を切っている。
【写真−2 晴れていれば文字通り晴れやかな景色が広がる】
山陰本線と並行して国道191号線が『北長門海岸国定公園』内を通っていて、『黄波戸駅』を過ぎると写真−2のように車窓左に大きく開けた海岸沿いを走り、左手に延びるのは青海島のようだ。
青海島右手側に立ち寄ろうとする美祢線終点の仙崎があり、更にその右手には長門市市街地が広がり、14:29に『下関駅』を出た各駅停車列車は丁度2時間半かけて『長門市駅』に16:59に到着する。
【写真−3 同駅から目的地の益田駅まであと1本乗車】
写真−3は『長門市駅』に到着した直後で、電光表示板の左側は山陰本線の益田方面、中は山陰本線の下関方面、右側が同駅から出る美祢線の『仙崎駅』行きで、17:45発なので45分以上の乗り継ぎ時間があって余裕がある。
山陰本線は電車と気動車が入り混じって運行されているが、各駅停車列車は旧い車両を運行区間によって塗分けられていて、緑、黄色、赤色、無塗装があり、下関−益田間は赤色の『国鉄キハ−40系気動車』が使われている。
【写真−4 金色に縁取りした階段の形状には意味があるのか】
乗り換え時間に余裕があるのでホーム上を歩いていると、写真−4の長門市の観光案内看板があり『青海島』を紹介しているが、その右側に金子みすゞの代表作『大漁』の文が掲げられ、その表示の素っ気なさにいかにも金子みすゞを感じた。
青海島は長門市の北にある奇岩で知られる島で、今は橋によって本土側と繋がっているが日本百景にも選ばれ、江戸時代から明治末期まで沿岸捕鯨の基地となった港があったが近代捕鯨の波に乗れず捕鯨は消滅し、同島内の『向岸寺』には捕獲した鯨の胎児を埋葬した『鯨塚』があり、金子みすゞの詩作に影響を与えている。
【写真−5 山口県内で人口数11番目の長門市】
『長門市駅』は山陰本線と美祢線が乗り入れる長門市の中心駅で、山陰本線運行上同駅で折り返すように重要な駅になるが、写真−5のホームへ向かう改札口には活気は感じられず、1日の乗客は300人台がやっとという水準の有人の直営駅。
長門市は人口3万人で、下関市と長門市で衆議院山口4区になるが、横死した安倍晋三が70%前後の得票率で当選を重ねた自民党の金城湯池選挙区で、自民党は保守政党と言われるが保守するのは政治信条ではなく既得利権であって、地方議員からこの既得利権を握っているのが自民党の強さで、金に汚く嘘を平気でするのも同党の連中。
【写真−6 その内広大な構内と駅前を再開発してガラッと変わるかも】
『長門市駅』北口の様子が写真−6で、夕間暮れが近づいているせいもあるが人の姿は見えず寂しい雰囲気の駅前を歩くと、傍の土産店の上にスティーションホテルがあったが、営業しているのかどうか分からなかった。
『長門市駅』のかつては機関区があったために構内は広く、レール本数も多くその名残りで列車の夜間滞泊駅になっていて、蒸気機関車が運行していた時代には転車台も備え、この転車台は東武鉄道がSL列車を運行するために2016(平成28)年に『下今市駅』に移設された。
]]>
【写真−1 長門の次は銀山で知られる岩見の国』
写真−1の『長門粟野駅』は下関市の一番北にある駅で、こんな所まで下関市内に入るのかと驚くが、同市は近隣自治体を吸収合併して山口県で最多の人口を抱える市になり、同駅の次は隣の長門市に入るが、1日の乗客は5人を切っている。
この旅は2023(令和5)年の4月に行ったが、その年の7月に同駅近くに流れる川に架かる山陰本線の鉄橋が大雨の影響で傾くなど被害を受け、同本線は長い間『長門市駅』−『小串駅』間は不通となり、しばらくバスが代行していた。
【写真−2 国道と言いながら行き交う車は少ない】
写真−2の線路と並行する道は『国道191号線』で、地元では『北浦街道』と呼ばれているが同国道は下関を起点に益田市までほぼ山陰本線と並行していて、このように鉄道と道路が並走していると、鉄道がいくら頑張っても斜陽化は免れない。
『長門粟野駅』から次の『伊上駅』の区間は国道を挟んで山陰の海がかなり近づき、国定公園らしい自然な海岸と海が広がり、晴れていればかなりの絶景であることは間違いない。
【写真−3 海に浮かぶ小島がアクセントになっている】
写真−3も『伊上駅』手前の海岸風景で、『油谷湾』と呼ばれ同湾は日本海に大きく突出する『向津具(むかつく)半島』と西側に開けた海面を持ち、島も浮かんで景観を作っているがこの地には『安禄山の乱』で殺されたとする『楊貴妃』が流れ着いた伝説がある。
『向津具半島』の北端には『川尻岬』があり、同岬は本州の最北西端に位置し、福岡県宗像市沖から下関市、山陰海岸沿いに長門市へ続く『響灘』の東の端に当たり、奇岩の多い海岸が続く。
【写真−4 無人駅でも駅もホームも手入れされている】
写真−4の『伊上駅』は向津具半島方面へ行く駅だが駅からはバスなどの便はなく、オートキャンプ場が駅に近い海岸にあり、青少年自然の家も油谷湾にあるように同地方では行楽地として知られる。
しかし、どれも鉄道を利用して行く場所ではなく、『伊上駅』の1日の乗車数は20世紀に入っても50人を超えることはなく、現在は一桁までに落ちている無人駅であるがかつては駅舎を利用して喫茶店があった。
『長門粟野駅』−『伊上駅』と続いてかつては急行も停まった『人丸駅』になるが、同駅のホーム上にチョッと変わった写真−5の看板があり目を引き、何だと思ってよく見ると近くにある神社の案内であった。
『人丸』という名称は珍しく駅のある地名から来ているかと思ったが、そういう地名はなく『人丸』は柿本人麻呂を祀る『人丸神社』が日本の各地にあり、長門市にも『八幡人丸神社』があり、そこと関係があるのかと思うが詳しくは分からない。
ホームにあった看板の『元乃隅神社』はさぞ由緒ある神社かと思ったが、この神社、個人が日本海の海沿いの私有地に造った個人的な神社で、日本の神社を統括する神社庁とは何の関係もなく、しかも宗教法人格を持たないというから面白い。
1955(昭和30)年にお告げによって創建されたらしいが、ホームにある看板で分かるように朱塗りの鳥居が拝殿から海に向かって並ぶ様子は写真映えするので、海外からの観光客も訪れるという。
【写真−6 無人駅にしてはかなり立派な駅舎】
『人丸駅』に続いて写真−6の『長門古市駅』になり、同駅は旧日置(へき)町にあり同町は2005(平成17)年に近隣2町と共に長門市と合併して長門市になったが、日置町は村の時代に横死した安倍晋三の祖父の『安倍寛』が同村の村長をしていたことで知られる。
写真でも分かるように無人駅ながらなかなか立派な駅舎があり、これは同駅舎に付随して『ふれあいプラザはまゆう日置』というコミュニティーセンターがあるためで、同センターは合併前の2001(平成13)年に駅舎を建て替えて生まれた。
]]>
【写真−1 国定公園の海岸部を山陰本線は走る】
『小串駅』を出ると山陰本線は海岸寄りを走り、『湯玉駅』手前に写真−1のような風景が今にも雨の降りそうな空の下に現れ、線路と平行して走る道路は『国道191号』線。
『国道191号』線は下関市を起点にほぼ山陰本線沿いに益田市へ進み、同市から山間部に入って横断し広島市に至る292キロ余の道路だが、山間部は積雪のある難所で知られる。
【写真−2 新建材の最近の日本の家屋から見ると落ち着く風景】
日本中どこでも新建材の建物ばかりが並ぶ鉄道沿線になり面白味のない景色が続く中、『長門二見駅』の手前に写真−2の集落と海を臨むが、瓦屋根を乗せた家屋が目立ち、この地域は黒瓦で統一されていて落ち着いた雰囲気を感じさせる。
山陰地方には『日本三大瓦』と目される島根県の江津や益田で生産する『石州瓦』があり、同瓦は赤褐色が特徴で、写真の黒い瓦も同地方で生産した瓦かどうか分からないが、他の二大産地は愛知県三河地方の『三州瓦』、兵庫県淡路島の『淡路瓦』になり両瓦ともいぶし銀の黒色が特徴である。
【写真−3 同駅からは内陸部に入る政治路線として知られる】
それまで海沿いを走っていた山陰本線が写真−3の『二見長門駅』に到着する直前に路線は直角に内陸部へ入りそのまま進むが、計画時には海沿いに線路が延びるはずであったが、内陸部の地域の要望によって線路が曲げられた。
『長門』というのは現在の山口県の西半分、藩政時代には『長州』と呼ばれ、幕末史を飾る薩長土肥の一角で知られ、近代でも首相を多く出した地域であり、それだけ中央権力志向の強い風土と言えるが、なお『長門』の入った駅名は『長門市駅』を含めて9駅ある。
『長門』の名称で知られるのは『戦艦長門』で、旧日本海軍の戦艦には沖縄特攻の『大和』、フィリピンのシブヤン海の『武蔵』と、戦艦には旧地名を付けていてこの『長門』は敗戦まで生き残り、アメリカのビキニ環礁原爆実験で標的艦に使われ1度目は凌ぎ、2度目の実験で沈んだ話は有名だが、何にせよ軍事というのは無駄と消費の積み重ねと分かる。
【写真−4 有人駅だと駅舎や周りの管理は綺麗が歴然】
海沿いを走っていた山陰本線が『長門二見駅』から直角に曲げられて内陸に進んで最初の駅が写真−4の『滝部駅』で、2005(平成17)年に下関市と合併するまでは豊北(ほうほく)町という自治体にあり下関市内になっているのが不思議。
山陰本線は無人駅の多い路線だが、『滝部駅』は地元のNPO法人が業務委託を受けて毎日ではないが昼間は人が常駐する数少ない駅だが、乗車する利用者は1日平均100人がやっとが続く。
【写真−5 難読秘境駅で知られる1日の乗車数は一桁】
写真−5は山陰本線が内陸部に曲げられた『滝部駅』の次が難読駅として有名な『特牛駅』で、多少漢字に関心はあってもこれがどうして『こっとい』と読めるのか不思議に思うが、牡牛の方言『ことい』からとか近くの入り江から名付けたと諸説あり、地名というのは合理的に名付けていないから面白いのでは。
ホームから階段を上り下りして駅舎に至るが、駅の所在地は『特牛』とは関係なく、駅の先に走る『国道435号』沿いに『特牛』という集落と港があり、同国道は下関市から内陸部を山口市まで71.5キロの道路で、山口県は有力政治家が輩出し利益誘導も際立つ地域で国道も多い。
【写真−6 瀬戸内の島々とは違う山陰の島と海】
『特牛駅』から山陰本線は再び海岸部を目指し、写真−6の風景が再び現れるが、この海岸は先述した『北長門海岸国定公園』に含まれ、同国定公園は下関市豊北町から長門市、萩市にかけての範囲で1955(昭和30)年に指定された。
景勝地を国立公園と国定公園に分けて指定している違いだが、国立は環境省、国定は都道府県が管轄する縄張りで線引きされ国定の方は国立に準じる自然公園となっているが、どちらも優れた景観と環境を持っているので優劣はなく、最終的には宣伝力と政治力が物をいっているのではないか。
]]>
【写真−1 遠くに見える下関一高い塔まで徒歩で数分】
当時は低価格航空会社など出現していない時代で、個人で東京から飛行機利用で韓国へ行くには航空代金は高く、時間はかかるが『東京駅』から『下関駅』まで新幹線と関釜フェリーを往復した方が安いので利用したが、真夏のザックを担いでの韓国の大陸性の暑さには参りながら、鉄道とバスで韓国を一周した。
写真−1は再開発された『下関駅』東口で、左の方に二つの塔を持つビルは由緒ある建物に見えるがここは結婚式場でそれらしく見せた建物で、下関は朝鮮半島から大陸への出入り口であった歴史から戦前の建物が多く残っていて、山陰線の各駅停車列車に乗り継ぐ時間を利用して廻ってみたいと思っていたが、旅の疲れが出て駅の周りで時間を過ごしただけに終わった。
通路の先に細長い建物が見えるが、これは1996(平成8)年に竣工した国際会議場などを備えた『山口県国際総合センター』に建つ高さ153mの展望塔で、『海峡ゆめタワー』と名付けられているが、この地は旧国鉄の本州−九州間を走る貨物操車場跡で、旧国鉄が持つ広大な土地は民営化後にこのように切り取られた。
【写真−2 トレイに乗っているように立ち食いではない店で食べた】
12:57に『下関駅』に到着して山陰本線に乗り換えるが、『小串駅』行きが13:13に待っていてもその先へ行こうとすると14:29『下関駅』発『長門市駅』行きの各駅停車列車を『小串駅』で待つことになり、同列車に乗ることにして1時間半ほど時間が浮いた。
『下関駅』内にあるスーパーで簡単な食べ物を買ってから駅構内を歩いているとうどん屋があり、『フグの天ぷら』という品書きを見て珍しいなと思って、写真−2のフグ天入りのうどんを頼むが、フグの天ぷらそのものは淡白過ぎて美味いとは思わなかったが、『小倉駅』でうどんを食べそこなったので満足はした。
【写真−3 釜山行きフェリー乗り場はどうやって行ったか覚えていない】
写真−3は『下関駅』山陰線ホームから見た同駅の西口方面で、駐車場の向こう側に見える海面は『小門海峡』と呼ばれ、海峡の向こう側は九州ではなく『彦島』で、島といいながら1937(昭和12)年に下関側と埋め立てられて陸続きになっていて、人口は2万4千人を超える。
彦島の東側の関門海峡に面する海に浮かぶ小島の正式名称は『舟島』だが、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘で知られる『巌流島』で、決闘は1612(慶長17)年に行われたが、決闘については諸説あるが吉川英治の書いた小説『宮本武蔵』の下りが虚実織り交ぜて面白い。
【写真−4 柱や屋根の構造から古い駅であることが分かる】
『下関駅』の次が写真−4の『幡生(はたぶ)駅』で、同駅は山陰本線と山陽本線が交差する駅で、山陽本線は『神戸駅』起点で本州内の『下関駅』が終点かと思うが実際は九州に入った『門司駅』が終点になっている。
日本の地方の鉄道の始まりは地元有力者による私鉄から始まり、その路線を国有化して鉄道網を整えて行った歴史を持ち、山口県は特に私鉄路線の多かった地域で『幡生駅』も最初は私鉄の山陽鉄道の駅として1901(明治34)年に開業したのが始まりで、その当時は現在の『下関駅』は『馬関駅』と呼ばれていたから歴史を感じさせる。
【写真−5 広大な土地を開発業者は狙っているしJRも売りたい】
『下関駅』と『幡生駅』の間には操車場があって、写真−5のように留め置いている車両が車窓から見え、緑色に塗られている車両にはアレっと目を引き、旧国鉄には様々な色に塗られた車両を走らせていたが、写真の車両は『黄緑6号』と呼ばれた色で、かつての山手線で走っていた車両がこの色に塗られていた。
写真の車両の形式はよく分からないが、山手線で走っていたのは『103系電車』であり似た感じを受けるが、当時の山手線で走っていた緑色とは少々違うような気もし、山陰本線や山陽本線でこの目立つ緑色車両を走らせているのかどうか分からない。
【写真−6 運行車両が折り返す重要駅でも無人駅】
写真−6の『小串(こぐし)駅』はまだ下関市内で、市内を走る山陰本線の駅は17駅もあり、『小串駅』から3駅『下関駅』寄りには本州最西端の駅になる『梅ヶ峠駅』がある。
この『小串駅』は『下関駅』間を45分から50分かかる距離で、多くの車両は同区間を折り返し運転をしている重要駅で、先へ行くには同駅発の各駅停車列車に乗り換えるようになるが、先述したように1日5本出ている『下関駅』発の『長門市駅』行きに乗車した。
]]>
【写真−1 通勤通学時間帯には混雑する駅】
『小倉駅』−『下関駅』間は頻繁に各駅停車列車が両駅間を折り返していて、写真−1は『小倉駅』発12:38の『下関駅』行きで、『門司駅』を経由して『下関駅』まで19分かけて12:57に到着する。
ホームに入って来た電車はJR東日本とJR九州で運行されている『国鉄415系電車』で、同系は1971(昭和46)年から1991(平成3)年にかけて488両製造し、写真の電車は後期の新しい形式で軽量ステンレス製の車体。
【写真−2 日曜日の午後ともあって九州と本州を繋ぐ近郊線はこの程度】
『下関駅』行きの車内の様子が写真−2で、この車両はロングシート仕様だが、同系には固定クロスシートとロングシートの組み合わせなど、いくつかの仕様もあるが首都圏で走っていても全く違和感のない車内の造り。
日曜日の午後ということで乗客は少し乗っている程度だが、『小倉駅』−『下関駅』間は『門司駅』を挟んで15分程度なので、九州から本州へ関門トンネルを通ってというと大げさに聞こえるが、乗っている分にはアッという間である。
【写真−3 古くからの鉄道遺構が残る駅】
九州最初の駅が写真−3の『門司駅』で、同駅は山陽本線の終点でありながら所属は鹿児島本線、しかも『下関駅』−『門司駅』間の管理はJR九州となかなか複雑な駅で、これに輪をかけるのは山陽本線は直流電化、鹿児島本線は交流電化で『門司駅』で両線を跨って通る長距離列車は同駅で牽引する電気機関車を付け替える必要があった。
1936(昭和11)年から1944(昭和19)年にかけて関門トンネルの上下線が開通するまでは本州から船で九州の『門司港駅』に渡ったが、同駅は『門司駅』から2駅突き出ていて、その名残りで同駅は鹿児島本線の起点駅となり、1914(大正3)年竣工の同駅は鉄道駅としては『東京駅』と並んで国の重要文化財指定になり、同駅周辺は戦前の建物が多く残り、観光客を集めている。
【写真−4 下関市は横死した安倍晋三の金城湯池選挙区】
写真−4は関門トンネルを渡って見えた本州側の下関市沿岸の風景で、水路に沿って造船所がいくつも見え、遠くに見えるクレーンは大手の三菱重工下関造船所で他に中規模の造船所が立地している。
また、下関市は北九州工業地域と瀬戸内工業地域と密接な関係があり、工業団地も各所に設置されていて、そのためもあってか山口県内では県庁所在地の山口市を上回る県下最多の24万人を擁する。
【写真−5 山陰本線に乗り換えるまで時間があるので途中下車】
写真−5の『下関駅』は山陽本線と山陰本線が乗り入れ、時刻表の地図で見ると本州の最西端に位置する駅の様に見えるが、本州最西端の駅は『下関駅』から山陰本線で7つ目にある無人の『梅が峠駅』が本当で、無理に言うならば『本州最西端の有人駅』が『下関駅』になる。
『下関駅』には地形の関係から山陽新幹線は乗り入れていなくて、山陽本線で2つ駅先の『新下関駅』が設けられているが、接続は山陽本線で乗り換える面倒臭さはあるが9分、1980年代に『東京駅』から新幹線利用で『下関駅』まで行ったことがあり、『新下関駅』で降りて山陽本線で『下関駅』へ行っているが記憶にない。
【写真−6 いくつもの銅像や記念物がこの階にはあった】
1980年代の『下関駅』で記憶しているのは駅前の狭い駅であったが、2014(平成26)年に駅舎と駅前が大々的に再開発され、駅前広場は広く2階建てになり周辺には新しいビルが造られすっかり様変わりしていて驚いた。
写真−6は同駅の改札口を出てエスカレーターで上がった上層階で、正面の建物入り口に見える三角のガラス屋根デザインは、建て替える前の駅舎正面が三角屋根であったことのオマージュらしいが、そういえば昔の駅舎正面は三角屋根であった記憶が蘇った。
]]>
【写真−1 小倉駅まで6駅所要時間は20分弱】
日本の鉄道には難読駅が多く、それを覚えるのも楽しみの一つだが、写真−1は駅名表示ではなくホームに掲げられた『くさみ医療村』の看板から、この駅は『朽網(くさみ)駅』と分かり、同駅は北九州空港に近くシャトルバスが駅から運行されている。
同駅は北九州市内に入るが、『朽網』というのは明治期に『朽網村』があり、その地名から来ていて、その後合併で曽根町になり1942(昭和17)年に小倉市に編入、1963(昭和38)年の北九州市発足で小倉区になり、1974(昭和49)年に小倉区は南と北に分区し、朽網は小倉南区になったが、自治体も消滅したり新規に出来たりと忙しい。
【写真−2 線路は高架化されず線路の上に新しい駅舎がある】
日豊本線は『南小倉駅』−『西小倉駅』と続いて『小倉駅』に至るが、写真−2は『小倉駅』から日豊本線と鹿児島本線が分岐する『西小倉駅』で、同駅は1915(大正4)年に『小倉駅』が移転して開業した駅で、1958(昭和33)年に現在の位置に『小倉駅』が移転するまで『小倉駅』と称し、その後1974(昭和62)年に新たに『西小倉駅』として開業した。
同駅には『小倉駅』を離発着する『日田彦山線』も乗り入れていて、同線の本来のd起点は『西小倉駅』から日豊本線で2つ大分寄りの『城野駅』からで、『夜明駅』までの24駅、68.7キロあり、同駅からは『大分駅』−『久留米駅』間を走る久大本線に繋がる。
【写真−3 水のある光景は目に優しい】
『西小倉駅』を出ると写真−3の川を渡るが、この川は『紫川』でこの川を挟んで『西小倉駅』と『小倉駅』があり、小倉の中心市街は『小倉駅』側に寄るが北九州市市役所は『西小倉駅』の方が近い。
彼方の橋の右岸に見えるビル群は、2003(平成15)年に竣工した『リバーウォーク北九州』という名の大型複合商業施設で、隣の小倉城址と一体化した景観を作っていて、同所へは『西小倉駅』から徒歩で5分と近い。
【写真−4 九州の出入り口らしい巨大な駅だが九州最初の駅は門司駅】
『中津駅』発11:15の『小倉駅』行き各駅停車列車は写真−4の『小倉駅』に12:21に到着し、これで4月11日に下関海峡を渡って今日6日目の4月16日に『小倉駅』に到着し、九州内の旅は入り口に戻った。
駅名表示の『にしこくら』と『もじ』に挟まれてイラストがあり、これは小倉城内にある八坂神社大祭で行われる『小倉祇園太鼓』を描いたもので、祇園祭は全国にあるが『小倉祇園太鼓』は『京都祇園祭』、『博多祇園山笠』と並んで『日本三大祇園』に挙げられている。
400年続くこの『小倉祇園太鼓』を有名にしたのは1943(昭和18)年の稲垣博監督の映画『無法松の一生』で主人公の打つ暴れ打ちからで、この太鼓の打ち方は裏打ちでリズムを取ることで、その後の和太鼓の打ち方のスタイルを変えた。
【写真−5 立って食べることに意味があり今は女性も普通に食べている】
『小倉駅』から『下関駅』行きの各駅停車列車に乗り換えるためにホームを移るためコンコースを歩いていると途中に写真−5の立ち食いうどん店があり、『下関駅』行きは12:38に『小倉駅』を出るので昼時ではあったが時間が足りなく写真を撮っただけで諦める。
東海道線の駅で立ち食いそばを食べたのが今旅行で最初であったが、西方面はうどんが主流で看板の『玄海うどん』というのがどういううどんかと興味はあったが、単に地名を付けただけのようだが、色々と具を乗せるのが食べ方のようだが、食べていないので何とも書けない。
【写真−6 右側の4番線ホームは特急車両用】
写真−6の左側ホームから『下関駅』行き各駅停車列車が出ていて、12:38の列車に乗るがその次は12:56に出ていて、同区間は頻繁に運行されていることが分かり、実際関門海峡を挟んで通勤通学する人は多い。
『小倉駅』−『下関駅』間の所属線というのは複雑で『下関駅』は鹿児島本線、『下関駅』は山陽本線に所属しながら山陰本線も出ていて、そのために時刻表で調べる時に何線になるか迷うが、使っている時刻表では鹿児島本線の別枠のような形で『小倉駅』−『下関駅』の時刻が載っていた。
]]>
【写真−1 こちらの南口側が中津市の中心に】
『大分駅』から9:14に乗った各駅停車列車は10:42に写真−1の『中津駅』に到着し、到着したホームから外を見たのが写真−1で、上下線が高架になったのは1977(昭和54)年と結構古い。
見えているのは南口で、かつては大きな工場がありその跡地にスーパーや市の教育員会などが入る複合施設が造られ、そのスーパーの右端にある看板の下に大きな人物像が飾られているが、これは中津出身の『福澤諭吉』。
福澤諭吉は中津藩(10万石)下級藩士の出で、大坂で生まれた後に中津で19歳まで育ち、私立の『慶應義塾』を創設した教育者、言論人として幕末から明治期に活躍した人物で、その旧居は『中津駅』から徒歩15分ほどの場所に現存し、下世話には現在流通している最高額紙幣の1万円札の肖像で知られ、これも2024(令和6)年に新たに発行される1万円札の肖像は『渋沢栄一』に変わる。
【写真−2 1970年代の造りのため高架下の店の佇まいは古めかしい】
『中津駅』で乗り継ぐ『小倉駅』行きの各駅停車列車は11:15発なので、30分ほどの時間を生じ駅の外に出て写したのが写真−2の『中津駅』南口で、高架上に停まっているドアーの赤い車両は『大分駅』から乗って来た各駅停車列車。
中津市は県庁所在地の大分市(47万人)、別府市(11万人)に次ぐ県内3番目の8万1千人の人口を擁し、北九州市に近いために同市との経済圏を形成するが、菊池寛の小説『恩讐の彼方に』のモデルになった『青の洞門』がある。
『青の洞門』は川沿いの難所を、僧が18世紀に30年以上かけて手で掘った全長342mのトンネルで、開削当時通行料を取ったために『日本最古の有料道路』と称され、福澤諭吉が洞門のある山を買い取ったために現在まで残った話も伝わるが、明治期に陸軍が車両を通すために大規模に広げたためにオリジナルの部分はいくらも残っていない。
【写真−3 九州も福岡県に近くなると駅は近代的に見える】
写真−3は『中津駅』1番線ホームに停まる『大分駅』から乗車した各駅停車列車で、『JR九州813系電車』と呼び、JR九州の近郊型電車として1994(平成6)から2009(平成21)年にかけて85編成254両製造された同社の主力電車になる。
『中津駅』ホーム上には10m長の木製『日本一長いハモのベンチ』が設置されていることで有名で、その設置場所は写真−3の1番線と2番線のあるホーム上で、ホームの中ほどにあるので気が付かなかったし、或ること自体その時は知らず残念なことをした。
【写真−4 この車両で通勤通学していたら楽だが混んでいれば同じ】
『JR九州813系電車』は何次にも改造版が造られ、車内の転換式座席の張地も変えられていて、初期は赤と黒の豹柄模様が張られていたが、写真−4はその後の改良車両で赤と黒の市松模様になっている。
近郊型電車なので、赤く塗られたドアーに挟まれた天井にはデザイン的な円形の吊革パイプが取り付けられ、車両の連結ドアーが青いのは目に鮮やかで斬新、座席の枕に白いカバーが掛けられているのは優先席。
【写真−5 ホームの佇まいは古いが線路は複線の完全電化】
写真−5は『豊前松江駅』で、『まつえ』ではなく『しょうえ』と読むが、松江(しょうえ)という地域に1897(明治30)年に開業した当時は『松江駅』を名乗っていたが、山陰本線の『松江(まつえ)駅と駅名が紛らわしいので、1945(昭和20)年の敗戦直前に『豊前松江駅』と改称した。
同駅は既に福岡県に入っていて豊前市(人口2万3千人)にあり、この豊前と名称の付く駅を調べたら、日豊本線には3駅、平成筑豊鉄道に2駅、多いのは豊後と付く駅の方で日豊本線に1駅、豊肥本線に4駅、九大本線に5駅あり、この駅の分布を見ると旧藩時代の版図が分かる。
【写真−6 駅関連の整備事業は2002年度のグッドデザイン賞受賞】
写真−6は1999(平成11)年に高架化工事は終了た『行橋駅』で、同駅のある行橋市は北九州市と中津市までそれぞれ25キロの距離にあり、両市の経済圏に入りベッドタウンとして人口増加し、現在人口は7万人を超える。
同駅には第3セクターの『平成筑豊鉄道』が乗り入れていて、同鉄道は旧国鉄時代には田川線と呼ばれ、筑豊炭田からの石炭を行橋市にある港まで運ぶために1895(明治28)年に敷かれた古い路線である。
しかし、石炭産業の衰退と共に1987(昭和62)年の国鉄分割民営化後にJR九州が運行したものの廃線候補になり、2年後の1989(平成元)年に第3セクターとして生き残った。
]]>
【写真−1 譜代3万2千石の旧城下町】
写真−1の『杵築駅』は人口2万6千人の杵築市にあり、関ヶ原以前の同地は『木付』と呼ばれていたが、江戸幕府が木付を杵築と誤記したためにそれが藩名と地名になった経緯があり、杵築市と隣接する宇佐市の間がかつての豊後と豊前の境界になっている。
駅の改札口に木の立て看板が掛けられているが『関所 杵築城下町入り口』と記され、その左の紺色の生地には『小京都 きつき』と染め抜かれ、旧城下町を売り物にしている街なので駅舎も黒瓦を乗せた武家屋敷を模している。
その紺地の生地にイラストと共に『酢屋の坂』とあるのは、杵築藩は南と北の台地の上にあって、その両方の谷間を繋ぐ石を敷き詰めた坂の一つが『酢屋の坂』で、向かい側には『塩屋の坂』があり、現存する武家屋敷を含めて2017(平成29)年に『伝統的建造物群保存地区』に指定された。
【写真−2 旧山香町の中心なので駅名は中山香駅駅】
写真−2の『杵築駅』の次が『中山香駅』で、『佐伯駅』発の各駅停車列車は同駅が終点になっていたが、手前の『大分駅』で降りても乗り継ぐ列車は同じなので同駅に立ち寄った。
列車が折り返す駅なのでどれだけ大きな駅かと思ったが、山野に囲まれた無人駅で現在は杵築市になっているが、かつては山香町で駅は旧町役場に近くホームを挟んで国道10号と県道が走る。
【写真−3 昭和の時代まで宇佐神宮へ行く鉄道路線が乗り入れていた】
写真−3の『宇佐駅』の開業は1909(明治42)年とかなり古く、これは全国に4万4千社存在する『八幡宮』を束ねる総本社の『宇佐神宮』があるためで、同駅の柱や梁は朱色に塗られて、駅舎正面には提灯を下げるなど神社風を装っている。
1916(大正5)年に、日豊本線を跨ぐ形で高田町(現在の豊後高田市)から宇佐神宮まで『宇佐参宮鉄道』が敷かれ、同鉄道は6駅、8.8キロの路線で1965(昭和40)年まで運行し、初期には蒸気機関車が使われ、最後に残ったクラウス製の26号が宇佐神宮境内に保存されている。
【写真−4 国東半島の袂には古寺古跡が多い】
『宇佐駅』の隣『大分駅』寄りに『西屋敷駅』があり、同駅は豊後に入り『宇佐駅』豊前に入るが、『宇佐駅』の次からの駅名には豊前が入り、写真−4は『豊前善光寺駅』で、2つの島式ホームを持つが使われているのは上下のみで、かつてレールが敷かれていた路面には草が生い茂り侘しさを感じる。
同駅名に『善光寺』が入っているように、善光寺は全国に200ヶ寺あり長野県長野市の『善光寺』、山梨県甲府市の『甲斐善光寺』、そして豊前善光寺を日本三大善光寺と称するらしいが、何れも国宝などの文化財指定建造物や寺宝が多く、豊前善光寺は室町中期に建造された本堂が国宝に指定されている。
【写真−5 駅の周りの看板も注意を持って見ると意外な知識を得る】
『豊前善光寺駅』の次は写真−5の『天津駅』で、ホームに停まった時は田圃に囲まれた変哲もない無人駅と思ったが、大きな看板が見えてそこには『大横綱 双葉山生誕の地』と書かれ、ここで双葉山は生まれ育ったのかと改めて認識した。
双葉山は1912(明治45/大正元)に駅名ゆかりの旧天津村(現宇佐市)に生を受け、大相撲に入門し第35代横綱、69連勝など数々の記録を立てた文字通りの大横綱で、後に相撲協会の理事長を務めたが、56歳の若さで没した。
父親の仕事の関係で小学生の時は後楽園の野球と蔵前国技館の大相撲はいつもタダで観覧し、双葉山が理事長で角界を取り仕切っていた時代と重なるが、今の大相撲には関心は失った。
【写真−6 映画のロケに使えそうな渋い雰囲気の駅】
写真−6の『東中津駅』は中津市に入り、この時間帯の乗降客は通学生が多く改札口に列を作って通っていたが、その駅舎は1915(大正4)年に建てた年代物で、青地の白抜きの駅名表示板が渋い。
『東中津駅』は昔のままの佇まいだが、次の『中津駅』は高架化されていてかなり雰囲気は違い、同じ市内なのにたった一駅だけで駅舎や駅前がこうも違うのかと『中津駅』に到着して感じた。
]]>
【写真−1 同じ大分駅でもこちら側は地味な駅舎】
また、先述したが日豊本線で初めて利用で鹿児島まで行った時に、当時の各駅停車列車は準急、急行、特急に追い抜かれるために駅のホームで1時間以上待つのは普通で、『大分駅』では1時間以上待ち時間があり、駅を降りてパチンコ屋で時間を過ごそうかと思った。
その『大分駅』、2015(平成15)年に全面再開発してその昔の面影は全くなく、写真−1は同駅の南口側で、反対側の北口側は『JRおおいたシティ』という名のホテルなどを含む複合施設となっていて、パチンコをしようと思ったのはこの北口で、ホームからパチンコ屋の看板が見えた記憶がある。
【写真−2 豪華な格天井の下に置かれたSL風の電気自動車】
新装なった『大分駅』構内コンコースの天井は木材を惜しみなく使った格天井に組まれて床も石を張ってかなり豪華に造られているが、写真−2はその床に展示されている『ミニトレインぶんぶん号』で、SLデザインなので何か『大分駅』と関係があるのかと思ったら、これは週末と祝日にコンコース内を走らせる遊戯車であった。
同車両の中身はイタリア製の電動車で、外観はFRPとカーボンファイバーで造られ、床に黒い点線で描かれている上を同列車は2両の客車を牽引して走り、乗車料金300円で一周するが、セブのショッピング・モール内でも似たような遊戯車を運行していて、こどもには人気がある。
【写真−3 中もコンコース同様豪華に造られているのかどうか】
駅構内で見たトイレの入り口で、銭湯にあるような暖簾が下がっているのが温泉で知られる大分県らしい趣向で、男性用は黒色と青色系で記され、女性用は左側にあって暖簾には赤色で記されている。
列車旅行中のトイレ事情だが、今は地方のワンマンカーにもトイレが常備されていて困ることはなく、それでも駅で乗り換える時はトイレを利用することが多く、これはまだ春とはいえ空気の冷たいことと関係があるようだ。
【写真−4 日本有数の別府温泉を持つ大分県らしい表示】
『大分駅』から9:14発の『中津駅』各駅停車列車に乗車するが、この列車は8:24に『幸崎駅』を出た『中津駅』行きで、時刻表を調べて『大分駅』から乗った方が同駅で少しブラつく時間が生じると分かった。
ホームで待っていると線路の向こう側に写真−4のイラストを見つけたが、これは温泉の入り方をイラスト共に日本語と英語で説明したもので、温泉で売る県らしい案内で、日本有数の温泉地の下車駅である『別府駅』は『大分駅』から3つ先にある。
イラストは『服を脱ぐ』、『かけ湯をする』、『頭と体を洗う』、『自然を眺めながら楽しむ』、『時々湯から出て休憩する』など5段階に分かれているが、外国人もそうだが日本人でも温泉の入り方を知らないのはいるようだ。
【写真−5 阿蘇高原線と名付けられているように阿蘇山麓を走る】
やはり日豊本線の『中津駅』行きを待っていると、写真−5の黄色く塗られた列車が相次いで入って来て、左側の車両は『三重町』行きと表示されていて、これは九州を横断して熊本本線の『熊本駅』まで行く豊肥本線の列車で、『三重町駅』は『大分駅』から8つ目の駅になる。
豊肥本線は37駅、148キロの路線で、黄色い車両は『JR九州キハ−125形気動車』で、1993(平成5)年に25両製造された2両編成のワンマンカーだが、この車両で外装と内装を変えた特急が日南線で『海幸山幸』として走っているし、やはり筑肥線でも使用され乗車しているが良く覚えていない。
【写真−6 難読駅の一つになる】
『別府駅』を過ぎて国東半島の袂にあるのが写真−6の『日出(ひじ)駅』で、同駅は人口2万7千人の日出町にあり、日出という名称で連想するのは別府湾で獲れるカレイで『城下カレイ』という名称でブランド化されている。
城下というように同町には『日出城』が築かれ『日出藩』が廃藩置県まで存在し、近年は別府市や大分市に近いためにベッドタウンとして人口が増加中で、町内にはサンリオのテーマパークの姉妹園である『ハーモニーランド』がある。
]]>
【写真−1 国宝指定の仏頭のレプリカがあるホーム】
『津久見駅』の次が『臼杵駅』でどちらも特急が停車し、写真−1は『臼杵駅』ホームに造られたベンチで、駅のある同市(人口3万4千人)を有名にしている『臼杵摩崖仏』の頭部が右側に鎮座している。
この摩崖仏は駅から5〜6キロ離れている地帯に柔らかい凝灰岩を刻んだもので、その始まりは平安後期から鎌倉時代で、4ヶ所に61体があり内59体が1995(平成7)年に九州地方初の国宝に指定された。
この摩崖仏で有名なのは首が像の前に落ちていた『大日如来像』で、『臼杵駅』ホームに飾られている頭部はその像のレプリカで、1993(平成5)年に落ちていた頭部は元のように修復されたが、九州に来たなら一度は拝観したい場所であった。
【写真−2 近代装置の尖兵であった鉄道にまつわる怪奇話は多い】
写真−2の『下ノ江駅』は臼杵市にあり、同駅は1915(大正4)年に開業したが、開業時から駅周辺で事故など怪奇な現象が起こり、これは駅を造る時に狐の巣を壊したための祟りではないかとなり、1930(昭和5)年に稲荷神社を建立し祀った所そういった現象は収まったという。
怪奇話の続きはあって、ある駅長が例祭を怠ったら駅構内で貨物列車が脱線し乗務員の死傷事故が発生し、それ以来11月3日を例大祭として代々の駅長が取り仕切っていたが、1972(昭和47)年に無人駅となってしまい、その後どのようにしているかの話は聞かないが、駅舎のある側に赤い鳥居が何本も並んでいる稲荷が現在もある。
【写真−3 新緑に包まれて八重桜の老樹が満開】
写真−3は『佐志生駅』ホーム越しに見た桜の樹で、今年の日本の桜は史上最速の開花、満開でセブから日本へ入った時期には盛りを過ぎて葉が出て葉桜に近かったが、旅の途上で遅咲きの桜を車窓から見ている。
その多くはソメイヨシノが終わってから咲く八重桜で、『佐志生駅』で見える満開の桜も八重桜で、その周りを見るとソメイヨシノと思われる老木が葉桜状態になっているのが見え、満開時のホームの周りは見事であったのではないか。
【写真−4 無人駅を通過する特急】
その『佐志生駅』に停車していると写真−4の灰色の車両が通過して行ったが、この列車は特急『にちりん1号』で、『大分駅』を7:00に出て『宮崎空港駅』まで3時間31分かけて10:31に到着する。
ちなみに特急『にちりん』で『大分駅』−『宮崎空港駅』間を利用すると自由席利用で運賃4200円、特急料金2930円、計7130円かかり、運賃に比べると特急料金の設定が高いことが分かる。
【写真−5 同駅は旧佐賀関町の中心であった】
『佐志生駅』までは臼杵市になるが、写真−5の『幸崎駅』は大分市に入り先述した『佐志生駅』の次の駅になり、『大分駅』発の特急が最初に停まる駅で、また『大分駅』からの各駅停車列車が折り返す重要な駅だが、現在は無人駅になっている。
同駅からは大分市と合併する前に『関鯖』や『関鯵』で知られる佐賀関町へ通じる『日本鉱業佐賀関鉄道』が敷かれていて、同線の開業は1946(昭和21)年で、同線が敷設するまでは1933(昭和8)年からバスが走っていて、同路線は九州最古のバス路線であった。
『日本鉱業佐賀関鉄道』は佐賀関町にある日本鉱業の銅精錬所を結んだ同会社が運行していた路線で、9駅、9.2キロあり同鉱業で働く人々でかなり賑わった時代もあったが1963(昭和38)年に廃線となった。
【写真−6 大分駅もすっかり近代的な駅に変わった】
大分県の県庁所在地の大分市にある写真−6の『大分駅』には3本の路線が乗り入れていて、左の『にしおおいた(西大分)』と右上の『まき(牧)』は日豊本線、右中の『たきお(滝尾)』は九州を横断して『熊本駅』に至る豊肥本線、右下の『ふるごう(古国府)』は同じく九州を横断して『久留米駅』に至る久大本線になる。
豊肥本線は別名『阿蘇高原線』と呼ばれ、久大本線は別名『ゆふ高原線』と呼ばれ、何れも九州内陸部の阿蘇山を始めとした雄大な景色を眺められる路線で、一度は乗ってみたい路線で、どちらの線も観光特急が運行されている。
]]>
【写真−1 どこかのんびりした早朝の佐伯駅】
『佐伯駅』からの始発電車は5:49発の『大分駅』行きだが、昨夜10時にホテルにチェックインした身にはあまりにも早く、2番目の6:34発の各駅停車列車『中山香駅』行きに乗ることにした。
写真−1はホテルからその各駅停車列車の出る『佐伯駅』前に到着した直後に写したもので、左に見える高い建物は最初泊まる予定だったホテルなどと吞気に思いながら待合室に入ってから、ホテルの部屋に貴重品の入った肩架けカバンを忘れたことに気が付き、慌てて戻った。
『佐伯駅』からホテルまでは数分で乗車時間には余裕はあったがザックを背負って走って、フロントの人間に事情を話して部屋に入ると、肩架けカバンはベッドの上にあってホッとしたが、再び『佐伯駅』まで走って戻るが、最近は空身でも走っていないのに結構重いザックを背負って走ったのはかなり息が切れた。
【写真−2 難読駅の一つでこの小さな駅が乗り継ぎ駅なのか分からない】
この早朝の忘れ物事件から、以後はザック、肩架けカバン、カメラを3点セットとして必ず点呼して部屋を出るようにと確認しながら駅に入り、ホームに停車している写真−2の『中山香(なかやまが)駅』行きの各駅停車列車に乗車する。
8時間ほどの佐伯市滞在であったが、同市(人口6万2千人)は大分県の南東端にあり、リアス式海岸を持ち風景に富み2005(平成17)年に近隣の5町1村と合併して九州では最大の面積を持つ自治体で、戦時中には豊後水道防衛の海軍航空隊基地があり、現在は重点港である佐伯港を持ち、四国の宿毛へ渡るフェリーも出ている。
【写真−3 ドアや運転席の鮮やかな黄色がアクセントとして効いている】
『中山香駅』というのは聞きなれない駅だが、『杵築駅』の次の駅で県庁所在地の『大分駅』を過ぎた国東半島の袂にあり、『佐伯駅』−『中山香駅』間106キロ余を2時間23分で地方の路線としてはかなり長い時間を走っているワンマンカーだが、写真−3の車内は早い時刻のために乗客の姿は見ない。
8:57に『中山香駅』に到着し、次の各駅停車列車は9:52に来る『中津駅』行きになり、その列車に乗るならば途中の『大分駅』で乗っても同じと考え『大分駅』で途中下車することにする。
【写真−4 山の方は深い地形が続く】
佐伯市は海岸に面していると先述したが、それを裏付けるように時々写真−4のような小島の浮かぶ湾が車窓に見え、この写真で分かるようにこの辺りの日豊本線は複線で、架線が見えるように完全電化になっている。
『東京駅』から『大阪駅』まで夜行の各駅停車列車が走っていた国鉄時代に、日豊本線の各駅停車列車で小倉方面から『鹿児島駅』まで乗ったことがあり、当時はディーゼル機関車が牽引する古い客車が走っていて、乗客の姿は全く見えない山の中をガタゴト揺られて走っていると、本当にこの列車は目的地へ行くのだろうかと不安になったことを想い出した。
【写真−5 同市の東九州最大の港から生産されたセメントが出荷される】
写真−5は『津久見駅』ホームで、ホームに置かれている白い物は石灰石で造られた椅子とテーブルで名所案内の一番下に良質の石灰石が駅付近一帯で産出すると書いてある。
同地にはセメント製造会社では日本最大の『太平洋セメント』津久見工場があると書いてあり、同社は秩父セメント、小野田セメント、浅野セメントなどを吸収合併して現社名になったが、このセブにも同社工場が2ヶ所あり南部にある工場(当時は小野田セメント)は戦前からの操業で、同工場は戦時中に連合艦隊最高幹部の乗った海軍機が工場沖合いに墜落し『海軍乙事件』の発端となった場所としても知られる。
【写真−6 何れは山容が変わるほど掘り尽くされる石灰岩採石地】
『津久見駅』を過ぎると左側に写真−6の石灰岩を採取している山が見え、石灰岩の採れる山というのは海底の珊瑚礁が隆起したもので、セブ島も石灰岩の隆起した地層なのでセメント工場が造られたのだが、ここで採取した石灰岩を加工してセメントにする。
見ている分には平和な感じだが、岩石採取は今ある自然を破壊するもので、この手の産業を見る目は厳しくなっているが、恐らく津久見市(人口1万4千人)は街の規模からセメント会社城下町になっているだろうから、そういった声は高くないであろう。
セメント製造会社はその工程で白い粉塵を近隣に撒き散らす公害発生工場と嫌われたが、今は規制が強くなってそういった野放図な工場はなくなりつつあり、かつてミンダナオ島にあるセメント工場付近を通った時に一帯がセメントの粉で真っ白になっていて吃驚したが、途上国ではまだそういう工場はあるようだ。
]]>
【写真−1 これでも昼間は乗降客で賑わうのであろうか】
『佐伯駅』に到着した直後のホームの様子が写真−1で、左側に停まるのが『延岡駅』から乗って来た特急車両を代用した『佐伯駅』止まりの各駅停車列車で、右側に停まるのは明日の大分方面へ向かう各駅停車列車。
改札口方面から撮っているが、特急車両の屋根の上に灯りが何段も見えるのは全国チェーンのホテルで、近いのは立地する場所がかつての駅構内で、当初深夜に到着するので駅に近ければ近いほど良いとここに決めようとしたが、近くにもっと安いホテルがあったのでそこに決めた。
【写真−2 構内の右手側には低い山が迫っていて余計に暗い】
日豊本線の上下線の終着駅として『佐伯駅』は使われ、それらの列車を留め置くためにいくつも線路があり、写真−2は留め置かれている車両で、左側は各駅停車列車で表示は『佐伯』となっているので大分方面から来ている。
その右側の丸い頭の白い車両は福岡県と大分県間を走る特急の『ソニック』で、ソニックには角ばったデザインの『883系青いソニック』と鼻先の丸い『885系白いソニック』があり、『佐伯駅』に留め置かれているのは885系。
885系は2000(平成12)年から運行が開始されているが、翌年には鉄道車両の最優秀車両賞である『ブルーリボン賞』『ブルネル賞』、グッドデザイン賞を受賞している。
留め置かれているソニックの丸い鼻面を見てどこかで見た車両だなと思ったら、先年台湾を鉄道で一周した時に『台東駅』から台北まで乗った特急の『太魯閣号』に使われた車両と同じで、台湾には2006(平成18)年から輸出された。
【写真−3 直営駅なので駅員は常駐しているはずだが】
写真−3は『佐伯駅』の改札口で、2人の姿が写っているので乗客が何人か乗っていたことは分かるが、駅員の姿は全く見えずこれで乗降客の管理は大丈夫なのかという気がする。
改札口に『浦 100』のロゴが赤字で描かれた垂れ幕や旗が見えるが、『浦』というのは佐伯市はリアス式海岸に恵まれた自然が造る浦が多く、佐伯藩があった時代から漁業が繁栄をもたらし、それを合言葉に100年先まで見据えて100のアクションを起こそうという地元観光協会が2023年から始めた観光キャンペーンであった。
【写真−4 駅前には店らしきものは見当たらない】
『佐伯駅』の正面が写真−4で、灯りは点いているが人も車の姿も見えなく闇の中に沈んでいる佇まいが伝わるが、『延岡駅』からの各駅停車列車が同駅の最終便ではなく、21:28に『南宮崎駅』行きの特急『にちりん17号』が同駅の最終便となっている。
国鉄時代はどこの本線でも夜行列車を走らせているために、多くの駅は夜中も開けていて待合室を利用出来、その待合室のベンチで寝袋を敷いて寝たことも多く当時は良く見る光景で、今はどの駅も完全に閉めてしまい夜を駅で明かそうなどという旅行者はいないし、いたとしても排除されるから嫌な時代ともいえる。
【写真−5 大手ホテルチェーンのグループに入っている】
『佐伯駅』は市内の外れにあってそのために駅前も何だか暗く感じたが、写真−5は翌朝撮ったもので、駅から数分とはいえ暗い初めての夜道を歩くのは穏やかではないが、以外に新しい建物なので見つけた時はホッとした。
同ホテルは市内では昔からあり、道を挟んで本館と新館に分かれていて本館の方は市内で祝い事をするような時に使われるような建物で、チェーンホテルでなくても伊万里市で泊まったホテルのように地方には結構しっかりしたホテルがあるものだ。
【写真−6 翌朝窓から佐伯の街並みは見えたが特徴は感じなかった】
そのホテルの部屋の様子が写真−6で、典型的なビジネスホテルの造作になっているが、一晩安心して眠るには充分だが、到着した時間が遅かったせいもあるが結構広いロビーや部屋の方にも客の姿は見えなかったから経営の方はどうかなという感じがした。
夜の10時近くにチャックインして『佐伯駅』発朝6時台の電車に乗るから、ホテル滞在は8時間に満たず、これであったら公園にでも寝ていた方が良いと思うが今はそういった気力や体力はなく、延岡で夕食を済ませているので部屋に入ったら翌朝のチェックアウトまで一歩も部屋を出ず、佐伯の町がどういう所なの全く分からずに終わった。
]]>
【写真−1 天井と左右の壁全面の杉の板張りは少々圧迫感がある】
『南宮崎駅』発16:40に乗って『延岡駅』には18:15に到着し、本日の宿泊地の『佐伯駅』行きは2時間弱先の20:07に出るので、その時間を構内で待っていても無駄なので『延岡駅』の外に出る。
写真−1は『延岡駅』の改札口で、ワンマンカーを運行しているのでこのように改札口で清算する人が並び、急いている時に長い列だったらイライラするだろうなと思いながら駅舎の壁や天井を眺めると全面に木材が張られていて、金がかかっていると分かる。
【写真−2 全国どこでも同じ味と思いたいが結構パラつきはある】
そのまま出口に進むと写真−2の『スターバックス』の店があり、オヤと思ったが宮崎県には同店は12店あり、その内延岡市内には写真の店ともう1店の計2店あり、日豊本線上には都城市と日向市に各1店、その他は県庁所在地の宮崎市にあり、県内の12店は鹿児島県と同じで、佐賀県、長崎県は11店。
旅行中は携帯コーヒーミルで豆を挽いてドリップでコーヒーを携帯ポットに淹れるのが毎朝の作業で、始発に乗る時はかなりきついが名前だけの不味いコーヒーを店で飲むよりは遥かに美味く、車窓から景色を見ながら飲むコーヒーはまた格別。
【写真−3 入れ物が優れていても利用する人が少なければ宝の持ち腐れ】
駅構内のデザイン的な造りから駅前に出ると再整備された広場が広がり、そこから『延岡駅』舎を見たのが写真−3で、駅にしてはかなり前衛的なデザインで感心するが、同駅舎は駅と店舗と図書館の複合施設で、2018(平成30)年に開業し、駅前を含むデザインが2020(令和2)年の日本建築学会賞とグッドデザイン賞を受賞した。
この複合施設は『エンクロス』という名称で、運営は『TSUTAYA』の大元である『CCC』だが、同社の年商は1000億円を超えるが、市からの高額な委託料を巡って市長選でも争われたこともある。
『佐伯駅』に到着するのは夜遅いので夕食は『延岡駅』前にある小さな町中華店で中華丼と餃子を食べ、その後駅舎の左側1階には誰でも入れる雑誌などを備えた快適なスペースがあって、そこに座ってガラス窓の外を行き交う市民の姿を眺めながら時間を過ごした。
【写真−4 つばめのロゴが見えるようにJR九州の代表特急車両】
時間になって『佐伯駅』行きが出るホームへ向かうと、ホームで待っていたのは写真−4の特急車両で目を疑ったが、上の表示に『普通 佐伯』となっているのでこれに間違いないと思ったが、何となく落ち着かない。
2019年秋に『ジャパンレイル・パス・グリーン』を利用して新幹線全線乗車の旅を行ったが、その時『博多駅』から分岐する博多南線の『博多南駅』を往復したが、通学生がグリーン席に座っていたので驚いたものの、この区間は特例になっていて普通乗車券で新幹線車両に乗れる。
また北海道の石勝線では特急しか走っていない区間があって、その区間だけは乗車券だけで特急に乗れるし、こういった措置は他にもあり、『延岡駅』−『佐伯駅』間は特急車両を各駅停車列車に代用していることになる。
【写真−5 せっかくの特急指定席も豪華さは感じずしけた感じがする】
その特急車両代用の各駅停車列車の車内の様子が写真−5で、特急指定席と分かるが、左端に乗客が1人座っているだけで、他にも乗っているかどうか分からないが、このような時間帯に利用する人自体どう見ても多いとは思えない。
『延岡駅』−『佐伯駅』間の路線は宮崎県延岡市と大分県佐伯市の自治体を結び、その間の駅は9つあるが、1日上下で3本しか停まらないためにどの駅も利用者は1日に一桁から二桁やっとで日豊本線の秘境駅と言われるのも無理もない。
【写真−6 初めての駅で夜遅い到着だとさすがに一抹の不安感は持つ】
そういった無人駅に各駅停車列車代車の特急車両が、時間通りに律義に停車を繰り返すのもシュールな感じがし、ほとんど暗闇の中を走るためにどういう駅があったかの記憶はない。
そうして21:11に写真−6の『佐伯駅』に到着するが、同駅の表示は『さいき』になっているが、1916(大正5)年に開業した当時は『さえき』であり、これが1962(昭和37)年に『さいき』と改称した経緯があり、駅のある市は『さいき市』と名乗るが国の旧施設名では『さえき』と名乗る所もあり一定しない。
]]>
11日目は『宮崎駅』から日南線で終点の『志布志駅』まで往復し、日豊本線に戻って『南宮崎駅』から北上して大分県の佐伯市までが1日の行程になるが、佐伯市で予約していたホテル到着は夜10時近い。
【写真−1 何度乗ってもしみじみ積層合板の座席を観察してしまう】
16:40に『南宮崎駅』を出た各駅停車列車はその時間帯から通勤に使っている乗客が目立ち、写真−1は6時近い車内の様子で、時間帯に上手に運行すれば利用者が多いことが分かる。
通勤電車にしては違和感のあるデザイン的な座席を持つ『815系近郊形電車』が使われ、こういうゆったりした座席で通えるなら面倒臭い車通勤を止める人もいるだろうし、ドアの横にある座席は折り畳み式になっていて混雑時の便を図り、この手の車両はJR九州管内だけに走っているが首都圏でも走らせたいものだ。
【写真−2 新幹線の駅よりデザイン性は優れている】
新幹線駅などで見られる鉄材を多用したずいぶん近代的な写真−2の駅に到着したなと思ったらこれは『日向市駅』で、同駅はJR九州内の駅では4番目の高架化に伴い2007(平成19)年に駅全体を一新させた。
同駅は鉄道に関する国際的なデザイン賞で駅舎としては日本で初めて最優秀賞を受け、JR九州は特急の『つばめ』『にちりん』『かもめ』など車両を中心に多く国際賞を受賞していて、駅には地元産の杉材を多用しているとのことだが車内からは良く分からなかった。
日向市は1951(昭和26)年に1町1村が合併して生まれた市で、現在人口は5万7千人を数え、市内には重点港湾に指定されている国際コンテナターミナルを持つ細島港があり、県内有数の工業地帯となっているが、歌人の『若山牧水』の生誕地でもある。
【写真−3 駅と自治体コミュニティーセンターの合体は悪くない】
日向灘に面する門川町(人口1万6千人)の中心駅が写真−3の『門川駅』で、駅舎にしては役所っぽい妙な建物に降りた利用者が向かうなと思ったら、同駅舎は門川町のコミュニティーセンターを兼ね外観デザインは『船』をイメージし、駅の管理は同町商工会に委託されている。
同駅の出入り口の上部に『カンムリウミスズメ 世界一の繁殖地』と記されていて、同町沖合いにある『枇榔島』がその繁殖地で、鳥に興味のある人には有名な場所らしいが、絶滅危惧種リストに載り天然記念物、繁殖地は鳥獣保護区になっているが海釣りの適地であるために釣り人による弊害も多い。
【写真−4 大分県に向かって日豊本線で走って延岡市最初の駅】
各駅停車の旅を続けて数多くの乗降客の姿を目にしているが、その中で印象的であったのが写真−4の左に立つ初老の夫婦の姿で、短い停車時間であったがこの夫婦に見送られて若い男女が『延岡駅』行きの車内の人となった。
これだけでは何ということはない光景であるが、送られたのは息子か娘の婚約者で実家に初めて挨拶に来たのかとか、いや既に新婚夫婦として暮らしているなどと想像を逞しくさせる人生の物語を感じた。
この駅の名前は分からなかったが、写真の青い柱の駅舎を基に調べたら『土々呂駅』と分かり、同駅は既に延岡市内に入り『延岡駅』まであと2つの駅を残すが、アニメの傑作『となりのトトロ』と同じ『ととろ』なのでアニメファンには人気のある駅なのではないか。
【写真−5 日本の鉄道貨物輸送は斜陽に向かっている】
18:15に『延岡駅』に到着するが、降りたホームから最初に目に入ったのは広大な構内に停車する機関車と積まれたコンテナで、延岡市は総合化学会社の『旭化成』の発祥の地で旭化成の城下町と言われ、『延岡駅』から盛んに同社の製品が専用線を通じて発送された名残りを感じさせる。
今の鉄道貨物輸送は『JR貨物(正式名称は日本貨物鉄道)』という旧国鉄が1982(昭和62)年に民営分割化された時に生まれた会社で、売り上げは1800億円程度でしかなく、物流会社では日本郵政が11兆円を超すのを別格としても、2位にヤマトが1.79兆円、日通1.76兆円と続いているから、いかに鉄道輸送というのは黄昏ているのか分かる。
【写真−6 各駅停車列車で『延岡駅』から先へ行くには超不便】
降りた『延岡駅』ホームで見た日豊線の時刻表が写真−6で、左側に大分方面列車が載っていて、黒字で各駅停車列車6:10発が1本、その間は赤字で7:06を始めとして18:46まで特急だけ8本が運行され、20:07になってようやく各駅停車列車の『佐伯駅』行きが運行される異常ぶりで本線の名が泣く。
このため『延岡駅』−『佐伯駅』間にある9つの駅は朝と夜の各駅停車列車以外は停まらず、半ば見捨てられたような駅になり、日豊本線の秘境駅と秘境区間と言われるほどで、特急ばかりを走らせて金を稼ごうというJR九州の魂胆は嫌らしい。
]]>
【写真−1 『延岡駅』までは順当な本数が運行されている】
『南宮崎駅』から『延岡駅』間の各駅停車列車は、5:57を始発に22:49発の最終便まで『宮崎空港』発を含めると1日に15本あり、この他に『宮崎駅』発の便もあって特段不便な本線ではない。
写真−1はその内の1つ『南宮崎駅』発16:40の『延岡駅』行きで、同駅には18:15に到着し、2時間弱の待ち合わせで『佐伯駅』行きに乗車するが、到着は21:11とかなり遅いが、『延岡駅』−『佐伯駅』間はこれだけしか運行していないからどうにもならない。
【写真−2 用がなければ少し大きいなと感じる程度の県内一の駅】
宮崎市内には大淀川を挟んで『南宮崎駅』と『宮崎駅』の2つの駅があり、写真−2は『宮崎駅』ホームで、昨夜は駅に隣接するホテルに泊まるために下車したが、今日は停車したホームを横目に見るだけであった。
宮崎県の人口は117万人で、都道府県別では37番目と総数は少ないが面積では14番目と案外と広く、同県を広く知らしめたのは都城市出身のタレント『そのまんま東(東国原英夫)』が2004(平成19)年に県知事に当選したことで、発信力はあったが中味は薄かった。
人口規模で15番目に熊本県が入っていて、宮崎県は最近新幹線構想で熊本県を通る既設の九州新幹線『新八代駅』から内陸部を通って『宮崎駅』までを結ぶ構想を出し、また大分県が『熊本駅』から九州を縦断して『大分駅』に至る構想を打ち出していて自治体間の誘致合戦は激しいが、人口減少が確実な時代がやって来ることを考えると実現にはかなり厳しい。
【写真−3 紅く塗られたホームの丸柱が駅の雰囲気を出す】
『宮崎駅』の次が写真−3の『宮崎神宮駅』で、駅名通り駅前から参道が神宮まで続き、神宮周辺には県立の博物館、美術館、図書館、芸術劇場が建てられ学校も多い文教地域になっている。
宮崎県は高千穂の神話を持ち、宮崎神宮も神話上の神武天皇を祀っているが、戦前の1925(大正14)年に建てられた2代目駅舎は銅瓦葺の神宮の建物を模した木造建築であったが、2007(平成19)年に解体されて駅舎はなくなり、現在は赤い鳥居が駅入り口に建つ。
【写真−4 戦前からの知らざれる基地の町の駅】
日豊線の日向灘沿いはしばらく平地が続き農業地帯でもあるが、地震の際には津波が押し寄せる弱点もあり、写真−4は『日向新富駅』で、同駅は人口1万6千人の新富町にある。
同町で知られるのは航空自衛隊の『新田原基地』があることで、同基地は旧陸軍の飛行場として開設され戦争末期には特攻機も出撃し、戦後は自衛隊の戦闘機基地として使われ、沖縄の辺野古基地有事の際には同基地が移設先の一つとなっていて、戦闘機の起こす騒音のために、町内の学校などは基地の町を象徴する防音措置が取られている。
2023(令和5)年にフランス空軍の戦闘機が戦後初めて同基地に飛来したことがニュースになったが、このフィリピンにも同年に戦後初めて同基地から最新鋭戦闘機2機がルソン島中部にある海軍神風特攻隊発祥の飛行場に飛来していて、そういう時代になってしまったのかとフィリピンに住む者は思った。
【写真−5 向こうに停まる電車は『宮崎駅』行き各駅停車列車】
写真−5の『都農駅』は人口9500人の都農町は新富町と同様日向灘沿いにあり、同町はかつて『ふるさと納税』の町村レベルの納税額でトップに立ったこともあるが、返礼品に使う牛肉の供給が問題となり、主管する総務省から現在は納税対象団体の指定を外されている。
『ふるさと納税』制度は官製ネットショップで、得をするのは資金に余裕のある層だけという指摘もあり、返礼品を巡っては各地の自治体で問題を生じ、2022年で9654億円に達する巨額な寄付額の10数%以上が仲介サイト業者に手数料名目で抜かれていて、仲介サイトだけが濡れ手で泡の労せずして儲けているとの批判は高い。
【写真−6 鮮明でないのは窓が汚れているのと急に出現したためブレた】
『都農駅』を出てから右の車窓側に写真−6の高架の建造物がしばらく並走し、高速道路にしては変だなあと思い、後で調べたらこの高架は『リニア実験線』で旧国鉄時代の1977(昭和52)年に施設は造られた。
実験線は日向市から都農町間の日向灘沿いの平地に造られ、全長7キロ、1979(昭和54)年には無人で時速517キロを記録し、有人では1995(平成7)年に411キロを記録したが、直線のみの実験線であり1996(平成8)年にリニアの実験走行は終了した。
その後、他の研究にも使われたが2011(平成23)年になって民間会社によって太陽光パネルが路線上に設置され、現在はパネル1万2500枚余が敷かれ、発電能力は1000KWに達している。
宮崎実験線が閉鎖された翌年の1997(平成9)年に山梨県の山間部に全長42.8キロの実験線が造られ、現在JR東海の巨額資金による『品川駅』−『名古屋駅』間を走るリニア新幹線の工事が進んでいるが、そんなに速く走ってどうなるという感じも強い。
]]>
【写真−1 宮崎市市街地を2つに分ける大淀川南側にある】
そのために『宮崎駅』を出発しても『延岡駅』で夜まで待つ必要があり、そんな無為無策になる時間を使うなら日南線で『志布志駅』を往復した方が良いというのが、動機の一つでもあり、実際時刻表で調べると無理なく『志布志駅』往復が出来ることが分かった。
その『志布志駅』往復の旅を終えて、日南線の起点である16:10に『南宮崎駅』に戻って、同駅から16:40発の『延岡駅』行き各駅停車列車に乗車するが、日南線ホームから日豊本線へ乗り換えるには写真−1の跨線橋を渡っていくが、要衝駅なのでホームの上下はエレヴェーター利用で楽。
【写真−2 駅の向こうに見える建物は駐車場】
乗り継ぎ時間を利用して駅の外に出て写真−2を撮り、その時は気が付かなかったが駅前に女性の銅像が建っていて、作者や作品名などを調べたが分からず、駅舎の壁に日本語、中国語、韓国語で『ようこそ宮崎へ』と記されている。
これは『南宮崎駅』から直接乗り入れている宮崎空港線と関係があり、同空港の国際線はコロナ以前には韓国、台湾、香港などの航空会社の路線が乗り入れていて、いわゆるインバウンド需要は大きかったが、現在は韓国のアシアナ航空だけが運航している。
宮崎空港は戦時中の1943(昭和18)年に開設された海軍飛行場が始まりで特攻機が出撃した歴史を持つが、戦後は航空大学校の訓練飛行場を経て民間機使用空港になり、その後拡張を続け現在は2400m級の滑走路を持ち、国内空港としては活発な運行状態で愛称は『宮崎ブーゲンビリア空港』。
空港に鉄道が乗り入れるのは利便性から当たり前過ぎるが、フィリピンを代表する海外からの窓口のマニラ国際空港にはすぐ傍まで軽量鉄道は来ているが、何十年もターミナルには繋がらず高架が切れている状態が続き、利用者の不便さなど眼中にないのがこの国のやり方なので当たり前の光景となっている。
そのために空港から街へ行くために利用するタクシーのぼったくりは有名で、同空港の国内線ターミナルからすぐ見える国際線ターミナルへ移動するだけでも、地方から来たフィリピン人がぼったくられ、事情を知らない外国人など最上のカモになるなど悪評高かった。
今はグラブなどの配車サービスが盛んになってタクシーもおとなしくなり、日本の数千億円に及ぶODA借款で第3ターミナルへ乗り入れるフィリピン最初の地下鉄が建設中で、ようやく普通の空港に仲間入りしそう。
【写真−3 ロスアンゼルスでも同じような並木道を見た】
駅前通りの様子が写真−3で、街路樹として植えられている高い樹木は『ワシントンヤシ』と言われているが、同ヤシはもっと幹は太く成長するので同じ属の別のヤシのような気もし、ヤシ科は分類の方法によって150属1500種から236属3400種もあり、フィリピンで普通に見られる『ココヤシ』も実際は色々な種類に分かれるのであろう。
宮崎の観光地というとこのヤシやフェニックスの並木で知られるが、植樹をしてこのイメージを作ったのは地元財界人の『岩切章太郎』で、同人は県内大手企業の宮崎交通を設立し宮崎観光に力を入れ、その結果、日本の新婚旅行先として宮崎がブームになった時代もあった。
【写真−4 改札口に駅員が居るとホッとする変な時代になった】
『南宮崎駅』は隣の『宮崎駅』と同じ年の1913(大正2)年に開業したが、月日では『南宮崎駅』の方が少し早く、開業時は『赤江駅』で、2年後に駅が宮崎市内を流れる大淀川近くにあるので『大淀駅』に、1942(昭和17)年に現在の駅名になった。
写真−4は日豊線に乗るために改札口を入る時のものだが、珍しく駅員が改札業務をしていて、駅の業務もJR九州の直営、JR九州の子会社への委託、地元自治体やNGOへの委託などといくつもあり、『南宮崎駅』は直営の『宮崎駅』に次いで県内では2番目の利用者数だが子会社委託で、直営駅というのは少ない。
【写真−5 こういうので稼いで赤字路線を補填するのならば分かるが】
日豊線ホームに入ると写真−5の灰色の車両が停まっていて、これは『博多駅』行きの特急『にちりんシーガイア』で、日豊本線の特急には『ひゅうが』と『にちりん』があり、その中で『にちりんシーガイア』は『にちりん』の使用車両が新しくなっていて『南宮崎駅』−『博多駅』間を6時間ほどで走っている。
日豊本線の『延岡駅』−『佐伯駅』間を走る各駅停車列車は夜の1本しか走っていないと再三書いているが、その間は2時間ごとに走らせている特急に乗るしかないが、この特急も『延岡駅』−『佐伯駅』間にある9駅には停まらず、この9駅は死んだも同然でこんなダイヤが罷り通るなどJR九州はおかしい。
【写真−6 SUNSHINEと名乗り太陽のロゴは良いが車両は古過ぎる】
写真−6は『南宮崎駅』−『宮崎空港駅』を結ぶ宮崎空港線を結ぶ各駅停車列車で、同線は日南線の『田吉駅』から分岐して『宮崎空港駅』ターミナルへ入る1.4キロしかなく、JRの路線としては最短で開業は1996(平成8)年と新しい。
そういった路線のために『宮崎駅』−『宮崎空港駅』間を走る特急に乗る場合は、特例で乗車券のみで乗れ、このような乗車券のみで上級車両に乗れる措置は北海道石勝線や新幹線の博多南線にもある。
]]>
【写真−1 駅を出た所に山頭火の句碑が建っている】
志布志市は俳人の山頭火が1930(昭和5)年の10月に3日間だけ訪れた場所で、その縁から市内には句碑が13基も建てられ、写真−1の『志布志駅』隣の『大隅夏井駅』前に句碑がある。
『大隅夏井駅』前の句碑は『線路へこぼれるゝ 萩の花かな』と詠まれているが、同駅が開設されたのは1935(昭和10)年であり、山頭火は串間から駅前を通る現在の『国道20号線』を歩いて志布志へ入ったように当時の日南線はまだ『志布志駅』とは繋がっていなくて、萩の花を見て詠んだ線路は別なのではないか。
【写真−2 全面は白い塗装だが車体の横に杉板が張られている】
『油津駅』に14:36に到着し同駅で14:51発の『南宮崎駅』行きに乗り換えるが、途中写真−2の列車に追い抜かれ、この列車は日南線で週末など期間限定の臨時特急『海幸山幸4号』で、『油津駅』2つ先の『南郷駅』−『宮崎駅』間を1時間21分で走っている。
同特急車両は旧国鉄、第3セクター路線であった『高千穂鉄道』が2008(平成20)年に廃線になった時に使われていた列車をJR九州が購入し、地元産の杉の木を内外装に多く使った車両で、全席指定の2両編成のワンマンカー。
高千穂線は『延岡駅』−『高千穂駅』間、19駅、50キロの山間部を走り、特に高さ105mの『高千穂橋梁』は日本一高い鉄道橋梁として知られるが、同線は2005(平成17)の台風で大きな被害を受け、復旧ならず廃線となった。
【写真−3 戦時中にこの沖合いに連合軍の上陸部隊が来るはずであった】
日南線は写真−3のように時々海の姿を見せるが、戦時中には沖縄の次に連合軍の九州への上陸地3ヶ所に挙げられていて、『志布志駅』のあった志布志湾はその一つで、残る二つは東シナ海に面する鹿児島県『吹上浜』と『宮崎海岸』となっていた。
この作戦が決行されていたら、本土決戦と叫んでいた日本は数百万人どころか1千万人を超す死者を生じたといわれ、それでも日本の軍部は本気で対抗作戦を立案していたから戦争の狂気というのは本当に怖く、煽って何事も好戦的になった今の日本に対して『新しい戦前』という指摘も当たっている。
【写真−4 国道220号線の山側にあり利用者は1日一桁の無人駅】
写真−4の『伊比井駅』では停まる時間が長かったのでホームに降りたが、日南市内には10の駅があり、同駅は日南市では最も宮崎寄りにある駅で、次の『小内海駅』から宮崎市内に入る。
『伊比井駅』の近くに『鵜戸神宮』があり、と言って歩いて行くには遠く駅の下にある国道220号からバス利用になるが、同神宮は海蝕洞窟内に建てられ参拝するには崖を降りて行く珍しい神社で、建造物は焼失したりして国の文化財指定にはならないが、日南地域では著名な観光地になっている。
【写真−5 駅の近くは大手のホテルなども建つリゾート地域】
『こどものくに』と名付けた駅は神奈川県横浜市や愛知県西尾市にもあるが、それらは平仮名表記で宮崎県の写真−5の『子供の国駅』は漢字表記で、同駅の最初は1923(大正12)年に『青島温泉駅』として開業した。
1939(昭和14)年に地元資本が『こどものくに』という名のレクリエーション施設を開設した時に『子供の国駅』と改称し、戦前なので『こども』ではなく『子供』が当たり前に使われたが、戦後の1949(昭和24)年には『こどものくに駅』となったが、日南線が国鉄所有になって現在の漢字表記の駅に戻った。
『こどものくに』は海岸沿いに造られた遊園地で、宮崎が新婚旅行地としてブームになった1960年代の最盛期には年間165万人が訪れたが、その後時代遅れの施設となって遊具は撤去され、開店休業状態となっていたが、『AOSHIMA PICNIC CLUB』と名前を変えて新規の設備と内容を導入して2024年春に再開する。
【写真−6 同駅には宮崎空港へ直結する列車も入る】
『油津駅』から14:51に出た各駅停車列車は16:10に写真−6の『南宮崎駅』に到着したが、本来の日南線は同駅を起点とするが運行上から一つ先の日豊本線の『宮崎駅』が離発着駅になっている。
ホームの左側に停まるのは日南線の『油津駅』から乗って来た車両で、その右に見える車両は日豊本線を走る車両で、左は製造後やがて半世紀にもなろうとする古い気動車、右は最新式の仕様もデザインも優れた電車で、同じJR九州でも路線によって力の入れ方は違うことが分かる。
]]>
【写真−1 駅前に立って空の広さに気付かされる】
写真−1は『志布志駅』から駅前を見た様子で、真っ直ぐ伸びる道にはコンテナ車が停まりその先は港へ通じ、左側の建物は商業施設の『サンポートしぶしアピア』で、この場所には志布志線と大隅線の線路があって廃線後に同施設が造られた。
志布志市は80キロに及ぶ円弧上の志布志湾に面し、人口は2万7千人台でそう大きくない規模だが、先述の九州唯一の中核港を持ち志布志湾を大規模に埋め立てて工業区を造る計画もあったが、反対運動で規模は10分の1以下に縮小し、国内消費の10日分近くに当たる『国家石油備蓄基地』が1992(平成4)年に出来た。
【写真−2 昔の『志布志駅』には駅弁があった】
適当な食事をする店が駅近くに見当たらないので『サンポートしぶしアピア』にあるスーパーへ行き、写真−2の握り寿司を買って『志布志駅』の待合所で食べるが、九州の果ての街でも大きな都会でもスーパーはどこで入っても同じ。
改めて写真を見ると8貫のネタは悪くなく値段も高くなく、今回の旅行で宿泊地で地場の刺身を食べたことはあったが握りは初めてで、狭い待合所で時間を気にしながら食べる寿司は味よりも詰め込む方が勝っていた。
【写真−3 構内の広さからかつての『志布志駅』の繁栄を知る】
写真−3の左側に見える建物が現駅舎で、その右に広がる草地は志布志線と大隅線が乗り入れていた時の駅構内で、かつてはかなり広かったことが分かり、写真を撮った辺りに旧駅舎が現駅舎の正面に直角に建っていた。
円弧上の屋根の下には静態保存の車庫で、蒸気機関車の『C−58−112号』、貨車列車後尾に連結した車掌車の『ヨ−8915』、エンジンを2基積んだ国鉄時代に急勾配区間に使用された『キハ―52−130号』が保存されている。
【写真−4 この句碑は市内にある13の中ではかなり古びている】
写真−4の句碑を見るまでは志布志市が俳句の『山頭火』と縁が深かったことを知らなく、山頭火は1930(昭和5)年9月9日から熊本県八代市を旅立ち、10月10日に宮崎県串間市から徒歩で志布志へ入るが、現在の日南線は志布志へはまだ通じていないことが分かる。
志布志では今は廃業している『鹿児島屋』という宿に2泊して10月12日に志布志を離れるが、この時は午前9時『志布志駅』発の列車に乗って『西都城駅』方面に向かうが、この志布志線が『西都城』から『志布志駅』まで全通したのは1925(大正14)年なので昭和に訪れた山頭火の平仄は合う。
山頭火は志布志滞在中に50句近く作っていて、その内13の句が志布志市内のゆかりの場所に句碑が建てられ写真−4の句は『一きれの雲もない 空のさびしさまさる』で、その後ろに見える藪はかつての線路跡で碑の建つ辺りにホームがあったのかも知れない。
【写真−5 乗車する日は4月15日で計算通りの切符有効期間開始日】
以前にも書いているが切符入手は事前に『上野駅』で行ったが、手に入れた切符はJR路線のみで、それに接続する第3セクター路線は現地購入となったが、元々は国鉄の分割民営化以前は同じ路線であり、連結して購入出来ないのはやはりおかしい。
写真−5は『志布志駅』から日南線、日豊本線、山陽本線、山陰本線、舞鶴線、小浜線、北陸本線を経由して『金沢駅』までの切符で、8日間有効、15510円で切符の中では最長で一番高かった。
『金沢駅』から先は本来なら北陸本線の路線だが、北陸新幹線が開通したために石川県内は『IRいしかわ鉄道』、富山県内は『あいの風とやま鉄道』、新潟県内は『えちごトキめき鉄道』として、沿線自治体が運営する第3セクター路線になってしまった。
【写真−6 黄色い車体に青地に白のイルカのイラストが目立つ】
『志布志駅』発13:20の各駅停車列車が写真−6で、同列車は『油津駅』に14:36に到着し、同駅から15分待ちの14:51発『南宮崎駅』行きに乗り換えるが、この黄色く塗られた車両は『志布志駅』−『油津駅』間を行ったり来たりしている。
『南宮崎駅』には16:10に到着し、同駅から『宮崎空港』からやって来る各駅停車列車に16:40に乗車し日豊本線を北上して『延岡駅』まで行き、同駅で『佐伯駅』行きに乗り換え、『佐伯駅』到着は21:11と今回の旅行で一番遅い到着で佐伯泊まりとなる。
]]>
【写真−1 ようやく志布志駅手前の利用者ゼロに近い駅に到着】
日南線で宮崎県内を南下して、鹿児島県の県境を越えて最初の駅が写真−1の『大隅夏井駅』で、鹿児島県内で駅の所在は志布志市に入っているが、1日の利用者は1人にも至っていない。
そういう駅でも快速『マリーン号』の停車する駅になっていて、この快速『マリーン号』は始発の『宮崎駅』と終着の『志布志駅』を含めて29駅ある中で、通過駅は6駅のみで『飫肥駅』から先は各駅に停まるのでどこが快速なのかと思うが、駅舎前には志布志ゆかりの『山頭火』の句碑が建ち、近くの国道220号線沿いにも句碑がある。
【写真−2 九州唯一の中核国際港に指定されている志布志港が見えた】
『大隅夏井駅』と『志布志駅』間でチラッと見えたのが写真−2で、志布志港の一部が彼方に見えるが、同港は日本で8ヶ所ある国際コンテナターミナルを備える『中核国際港湾』に指定されている1つになる。
『さんふらわあ』という船名を付けたフェリーは有名だが、現在も大阪港−志布志港間を15時間かけて航行し、数々ある『さんふらわあ』の中で1979(昭和49)年建造の11号船がフィリピンに売られて、『PRINCESS OF THE ORIENT』と名前を変えてセブ−マニラ航路に就航し、船体横の大きなシンボルは消されていたがその白い大きな巨体はセブのリゾートから何度も目撃した。
フィリピンは日本の中古船販売のお得意先で、船内の表示が日本語そのままになっているのでこれは日本で使っていたと分かり、『PRINCESS OF THE ORIENT』は1998(平成10)年に台風の荒天下に出港し、ルソン島東岸沖で転覆し水没、死者・行方不明260人以上を出す大事故を起こしたが、会社や責任者の追及はどうなったか分からないほどこの国は有耶無耶。
1万トンを超える船が簡単に転覆した原因は、フィリピンで普通に行われている乗客をたくさん収容するために無理な改造で重心が高くなり、荷崩れによって引き起こしたと考えられ、フィリピンでは海難事故は日常的に起きていて船に乗る時は要注意で、先年隣の島のボホール島へ夜行の船で行った時は救命胴衣の場所を確認したくらいであった。
【写真−3 この各駅停車列車が油津駅まで折り返す】
『油津駅』で11:07に乗り換えた各駅停車列車は12:18に写真−3の『志布志駅』ホームに到着し、『宮崎駅』を9:10に立っているので乗り換えの待ち時間を加えて3時間余の日南線の乗車であった。
同駅では13:20発の『油津駅』行きに乗車して『南宮崎駅』へ戻るが、滞在時間1時間ほどあり、駅前で昼を食べようと思ったが目に付く食堂のような店は見当たらなかった。
【写真−4 終着駅に下車した人は5人もいたかどうか】
写真−4は『志布志駅』のホームで日南線の行き止まりと分かる車止めは見えるが、線路自体は貨物線用を利用したもので、その向こうは駅舎になり、この駅舎は3代目で2代目駅舎の所在地から移動して建てられた。
今でこそ『志布志駅』は日南線の行き止まり駅になっているが、かつては大隅線と志布志線も発着した駅で、当時は機関区や保線区も置かれ転車台もあり広大な構内を持っていたが、両線の廃止後は跡地は民間に払い下げられ、また公園として整備され蒸気機関車や古い車両が保存されている。
【写真−5 結構渋い駅名表示板】
写真−5の駅名表示から『志布志駅』は行き止まりの駅と分かるが、上述したように大隅線と志布志線が健在であった頃は、それぞれ大隅線の『菱田駅』、志布志線の『中安楽駅』の駅名が左の空白場所に記されていた。
大隅線は33駅、98.3キロの非電化、単線で鹿児島本線の『国分駅』に繋がり、大正初期に鉄道施設が始まり全通したのは1972(昭和47)年であったが、1987(昭和62)年に廃線となり、15年しか『志布志駅』−『国分駅』間は走らなかった。
志布志線は10駅、38.6キロ、やはり非電化、単線で鹿児島本線の『西都城駅』まで繋がり1925(大正14)年に全通しが、大隅線同様1987(昭和62)年に廃線となり、日本の鉄道史の中でこの年は全国の地方鉄道が大量に廃線になった年と特筆される。
【写真−6 綺麗な駅だが無人で1日の乗降客は100を大きく切る】
写真−6は『志布志駅』駅前から駅舎を見ていて、駅前は芝生の植えられた公園風に整備され、改札口の隣には市の観光協会の案内所が入り、通路を挟んで小さな待合所が設けられている。
写真を撮った側にはバスターミナルがあり、駅舎の右側はかつての駅構内が広がっていてかなり大きな駅であったことが分かり、駅前の道路は広くフェリーターミナルがあるためにトラックの姿を多く見る。
]]>
【写真−1 同駅は旧南郷町にあり同じ日南市に北郷駅がある】
写真−1の『南郷駅』は日南市にあり、3つ先の『日向大東駅』まではまだ日南市域で、同駅は2009(平成21)年に日南市と北郷町と合併するまでは南郷町という1万人の人口を擁する自治体で、漁業の盛んな町として知られる。
『油津駅』が広島カープの縁で駅舎を赤く塗っているのに対抗して、同駅舎はその昔西鉄ライオンズが同地でキャンプを張った縁から、2020(令和2)年に、白く塗られて『Lions』のロゴが青地で正面に記されている。
西鉄ライオンズとはずいぶん古い球団名が出て来て思い出したのは、小学校の頃の正月に当時の監督の成城にあった三原修宅を父親に連れられて行ってお年玉をもらったことがあり、その時先年亡くなった強打で鳴らした中西太も居た。
【写真−2 晴れていればかなりの絶景が車窓から見える】
日向灘に面する海岸は『日南海岸国定公園』に指定されているために、海岸近くを走る時は写真−2のような景色が見え、水平線上に雲が低く降りていて、天気は完全に回復していないことが分かる。
『日南海岸国定公園』は1955(昭和30)年に指定されたが、指定までは宮崎の観光開発に力を入れた人物の功績が大きく、今は多様化したが日本人の新婚旅行先で日南海岸を目指すのがブームになった頃もあった。
【写真−3 駅から歩ける範囲でないと簡単には名所へは行けない】
写真−1の『串間駅』は串間市にあり、そのホーム上の左に見える名所案内には日向灘南端の『都井岬』と『幸島』が載っていて、『都井岬』は野生の馬が生息していることで知られ、無人島の『幸島』に生息する日本猿が芋を洗うことで知られるが、どちらも同駅からかなり遠い。
『串間駅』は串間市の中心駅ながら1日の乗車人数が100人を大きく切る駅で、市は駅舎を購入して2007(平成19)年に、『道の駅』ならぬ『駅の駅』をオープンさせたが、話題にはなっても長続きしているのかどうかは知らない。
【写真−4 馬と猿のイラストが迎える駅】
写真−4は『串間駅』で降りた珍しく多い乗客で、ヒジャブを付けているのでマレイシアとかインドネシアのイスラム国から来た人々のようで、観光で来たのかいわゆる技能実習生として同市で働いているのか分からない。
この串間市には九州電力が3ヶ所目の原発を建設する計画がかつてあって、これを巡って市長が反対、賛成で変わり、挙句の果てには賛成の市長が賄賂で逮捕され、最初は市議会も原発反対決議をしても最後は寝返って賛成に回るなど市政は紛糾した。
原発誘致を巡って地方政治が紛糾するのは良くあることで驚くほどのものではなく当人達は必死であろうが、核のゴミ捨て場で北海道の自治体が交付金欲しさに手を挙げたように、原発というのは金塗れで推進するしかない体質があるが、2011(平成23)年の福島原発爆発によって串間から原発誘致の話は消えた。
【写真−5 同地域で生産される肉牛の銘柄はなんというのであろうか】
日向灘沿岸は漁場も恵まれているが、平地では農業も盛んで写真−5のように綺麗に植えられた畑を車窓から眺められ、また肉牛用の牛舎も沿線にいくつも見え、この畑は最初はキャベツかと思ったが、良く見たら葉の形から『タバコ』と分かった。
この地がタバコの葉の産地なのかどうか分からないが、こういう畑は次々と現れ、タバコの葉の栽培は許可制になっていて、以前岩手県の遠野に住む知人宅を夏に訪れた時にタバコの葉の収穫をしていて、その葉を縄にぶら下げて乾燥する作業を手伝ったことがあり、今もその素朴な作業を続けているのかどうか。
【写真−6 利用者がほとんどない日南線の秘境駅と言って良い駅】
県庁所在地の福島と高松を併せた駅名は大きな写真−6の『福島高松駅』は串間市最後、宮崎県最後の駅で次の『大隅夏井駅』から鹿児島県に入るが、駅名の割には1日の乗車客は1人いるかどうかという無人駅である。
同駅の手前の駅も福島の名称が入っているが、これは1954(昭和29)年に福島町と都井村など4村が合併して串間市が生まれ、旧福島町は同市の中心であったことが分かり、日南線の全通は合併後の1963(昭和38)年とかなり遅い。
]]>
【写真−1 車窓からは伝統的な街並みがあるとは思えない普通の住宅群】
『飫肥駅』を出ると写真−1のほとんど流れを感じない川が目に入り、この川は『酒谷川』で左側が上流になり、同川は飫肥の町に沿って巾着のように大きく曲がりこれが天然の要害となって飫肥藩の城下町になった。
写真では飫肥の町は平坦に見えるが同町のある日南市は78%が森林で占められ、その山に江戸期から旧藩が奨励して植林した杉は油脂分が多く、『飫肥杉』の名称で和船造りの用材として重用され、和船造りが廃れても建築用材として需要は高い。
【写真−2 路線の名前の入った日南市の中心駅は恐ろしく地味】
『飫肥駅』の次が写真−2の『日南駅』で、人口4万2千人を擁する日南市の市役所も近い中心駅になり珍しく乗客が降りたなと思ったが2人のみで、駅舎の地味さ加減を見ても廃線話が出るのは仕方がない状況。
日南市の『日南』は旧国名の『日向』の南にある市から名付けた造語で、同市は1950(昭和25)年に飫肥町など3町1村が合併して生まれ、『日南海岸国定公園』があるように南国風の風光明媚な場所も多い。
【写真−3 ホーム前面には小高い山があり眺めて時間を潰すには良い】
9:10に『宮崎駅』を出た各駅停車列車は10:31に写真−3の『油津駅』に到着し、36分待ちで『志布志駅』行きに引き継ぐが、写真の先が『志布志駅』方面で、数人がホーム上に見えるがこの人達は反対側から『宮崎駅』へ向かう列車に乗車した。
『油津駅』は宮崎方面と志布志方面から来る各駅停車列車の折り返し駅になり、それなりに重要な駅になるが、利用者は1日100人台に落ちていて、市は梃入れを図っているが車時代にはどの駅も昔のようには復活は難しい。
【写真−4 ファンにとっては嬉しいが興味がないとただ派手なだけ】
次の各駅停車列車に乗り継ぐまで時間があるので駅の外に出るが、誰もいない無人駅でこれで乗降客の管理はどうなっているのかと思うが、改札を出て待合所、ベンチなどが赤く塗られているのには驚かされるが、2018(平成30)年に改装した。
これは赤ヘルで知られるプロ野球の広島カープが油津にある球場でシーズンオフにキャンプを行うためで、歓迎の意味で塗られカープ関連の記念品も飾られているが、ファンでも何でもないとギョッとする。
【写真−5 派手に塗られているが戦前に建てられた駅舎】
駅舎の外に出て駅舎全体が写真−4のように赤く塗られているのにも驚いたが、白い壁に駅名より大きく『Carp』と赤く印されて、こうなるとその熱意に感心するが、同駅舎は1937(昭和12)年に造られた年期物で、2022(令和4)年にクラウドファンディングを使って全体をリニューアルした。
駅前にタクシーが停まっているので、時間があればそれを利用して遣唐使の時代から使われ鮪漁で知られる『油津港』と旧藩時代に掘削、整備された長さ1キロ弱、幅30mの『堀川運河』を見たいと思ったが飫肥の町同様に時間がなくて断念した。
【写真−6 色鮮やかで悪くはないが土台の車両がいかにも古過ぎる】
『志布志駅』の各駅停車列車が出る前に反対方向から黄色く塗られた『油津駅』止まりの列車が11:00にやって来て、このまま11:08発の『南宮崎駅』行きとなったが、これは『宮崎駅』から乗車した各駅停車列車も同じで、『油津駅』でそのまま『志布志駅』行きとなった。
同じ列車を運行するのは運転士勤務の関係かと思うが乗客にとっては面倒臭く、この写真−6の黄色い車体は『キハ−40』で、横には青い字で大きく『NITINAN LINE』と記され、この車両は同線を1日上下各1便走る快速『日南マリーン』号にも使用されている。
]]>
【写真−1 無人駅だが2023年に一躍脚光を浴び日本中に知れ渡った駅】
『宮崎駅』から5つ目に写真−1の『運動公園駅』があり、群馬県桐生市の『わたらせ渓谷線』にも同名の駅があり、どちらの駅も無人駅だが、宮崎の方は2023(令和5)年にかなり話題になった。
同駅は名前通り各種運動施設が設けられていて、この中にプロ野球の公式戦も開催される『サンマリンスタジアム宮崎』があり、ここでワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表チームがキャンプを張り、大リーグで活躍する大谷やダルビッシュが加わったためにファンが押し掛け、普段は数十人の利用者しかいない同駅は大混雑し応援の駅員を配置したのがニュースになった。
【写真−2 この式の座席は横になって寝るには都合は良い】
『宮崎駅』を出た頃は昨夜の雨が残っていたが、進むに連れて上がって停まるホーム上に水溜りを見る程度になり、どうやら日南線往復は晴れとまでは行かないものの持ちそうな感じになった。
写真−2は『キハ−40系気動車』の車内の様子で、古びた感じはあるどっしりした雰囲気があり、それにしてもガラガラの座席はどうしようもなく、コスト重視のJR九州はサッサと廃線、悪くても沿線自治体に出資させて第3セクター化を目論んでいるのではないか。
【写真−3 ホームの左側に見えるのは駅開設のきっかけとなった学校】
写真−3の『折生迫(おりゅうざこ)駅』も次の『内海駅』もまだ宮崎市内で、同駅は地域の中学校が統合した時に通学に不便を来すために、宮崎市の負担で1966(昭和41)年に開設された経緯を持つ。
『宮崎駅』寄りの『青島駅』は宮崎県でも著名な観光地で、文字通り島にある青島神社、島の海岸を形成する『鬼の洗濯板』と称する、板状にしかも平行に盛り上がった様子は奇景で知られる。
【写真−4 良くぞ命名した鬼の洗濯板】
『鬼の洗濯板』は青島の周りだけにあるのではなく、一帯の海岸は同じような海岸があり、写真−4は車窓から見えた『鬼の洗濯板』で、晴れていれば水平線を彼方に臨んでかなり壮観な風景になった。
『鬼の洗濯板』は地質的には『青島の隆起海床と奇形波蝕痕』といい、砂岩と泥岩が交互に重なった地層が海蝕で生まれた物で国の天然記念物に指定され、青島は亜熱帯植物群の最北地であり、こちらは『青島亜熱帯性植物群落』として国の特別天然記念物の指定を受けていて、同地が暖流の黒潮が洗う温暖な土地と分かる。
【写真−5 せっかくのログハウスも宝の持ち腐れ】
写真−5の駅は『北郷駅』で同駅は既に日南市に入り、それ以前は北郷町という自治体で、2009(平成21)年に日南市と合併して同自治体は消滅したが、内陸部にある町で総面積の9割近くが森林になっている。
同駅のログハウス風の駅舎は目を引くが、この素材は同地で産する杉で造られ、同地域の杉は『飫肥杉』と呼ばれる銘杉で、せっかくの建物も無人駅でタクシー会社と自転車置き場として使われている。
【写真−6 この駅の次の駅が各駅停車列車を乗り継ぐ『日南駅』】
日南線利用で途中下車したかったのは写真−6の『飫肥駅』で、同駅のある飫肥は鎌倉時代以来の地頭であった伊東氏が、江戸時代初頭に外様の飫肥藩として発足し、幕末まで5万石超で代々収め14代まで続いた。
そのために1977(昭和52)年に九州で最初の『重要伝統的建造物群保存地区』指定の古い町並みが残っていて、また外交史に名を残す『小村寿太郎』の生家もあり見所は多い。
『飫肥駅』で降りて街並みを歩いてからバスに乗って、次の乗り継ぎ列車が出る『日南駅』まで行く、或いはタクシーで『日南駅』へ向かう計画を立てたが、やはり時間のなさで断念した。
]]>
【写真−1 停まっているのは日南線『志布志駅』行き各駅停車列車】
昨夜の激しい雨もこの朝になって上がり、今日の日南線往復の天候は問題ないと思え、写真−1の『宮崎駅』から終点の『志布志駅』まで直行する各駅停車列車は5:24の始発があり、その後の直通列車は16時台と19時台の2本しかない。
そのため途中の『油津駅』で乗り継いで行くことにするが、『宮崎駅』−『油津駅』行きは6時台と9時台に出ているが、『油津駅』からの『志布志駅』行きの接続が良いのは『宮崎駅』発9:10発なので、これで行くことにする。
【写真−2 著名なデザイナー作だが何とも不気味で横柄な感じ】
『宮崎駅』ホームに写真−2の黒い列車が停まっていて、車体の横には『36+3』、『DISCOVER KYUSHU』と金文字で記されていて、これはJR九州が富裕層相手に運行している車内の造作など特別仕様の特別列車になる。
『36+3』の36は九州は世界で36番目の島であること、『3』は乗客、地域住民、JR九州を指し、併せて『39=サンキュウ』としているが、こういうのを『判じ物』というがその出来は悪い。
同車体に6つの星が6列と1つの星が同じく金で描かれていて、これは『7つ星』を指すが、同特急は団体専用の臨時寝台列車で、2013(平成13)年から九州管内を1〜3泊をかけて周遊しているが、やはり豪華な仕様になっているが、車内はドレスコードがあるなど、こうなると俗物相手の列車でしかなく本来の鉄道好きには縁はない。
【写真−3 雨は小やみになったがこの時間でホームはガラガラ】
写真−3は日豊本線と日南線の列車が停まるホームで、行き先表示には1番線から日豊本線の『西都城駅』行きと、日豊本線『南宮崎駅』で分かれて日南線に入り次の『田吉駅』から更に分岐して『宮崎空港』へ行く列車の案内が出ている。
その左側上が乗車する日南線『油津駅』行き9:10発、下が反対方向になる9:32発日豊本線の『延岡駅』行きで、何れも各駅停車列車になるが、この『延岡駅』行きが曲者で、その先へ行く各駅停車列車は夜の8時台に1本しか出ていない。
【写真−4 製造後40年以上とはいえ安定性を感じさせる車両】
『宮崎駅』発9:10の各駅停車列車が写真−4で日豊本線に走っている洒落た外観と内装と比べたら格段に古い車両が運行されていて、廃線の話が出る地方路線はこの手の車両を走らせているようだ。
この車両は『国鉄キハ−40系気動車』で、国鉄と冠しているように民営分割前の1977(昭和52)年から1982(昭和57)年にかけて888両製造され全国で運用され、今でも非電化路線で重用されている頑丈な印象は頼もしい。
【写真−5 発車時に何人乗車していたか分からないほど乗っていなかった】
『国鉄キハ−40系気動車』も運用路線によって数々の派生車種が生まれていて、特にワンマンカー仕様車は多く、写真−5は先頭の様子で運転席後方頭上の行き先と運賃表、その下の運賃箱などバスのワンマンカーとまったく同じ仕様で、右隅にゴミ箱が置かれているのが鉄道らしい。
バスから車掌がいなくなってワンマンカーが出現した頃は運転は大丈夫かと騒がれたが今は当たり前になり、鉄道も同じようにワンマン化が進み、定まったレール上を走るとはいえ、運転、確認、料金徴収を一人でやるにはかなり大変な労働だと思われる。
【写真−6 同駅構内には他にも珍しい車両が停まっていた】
日南線の本来の起点は『南宮崎駅』で、写真−6は同駅構内に入った時に目に付いた車両で、これは日南線を走る週末と連休時に走る臨時特急の『海幸山幸』号で、1日上下で4本『宮崎駅』から『油津駅』から2つ先の『南郷駅』まで1時間半ほどで走っている。
この列車は廃線になった高千穂鉄道で走っていた『TR−400形気動車』を、JR九州が2009(平成21)年に買い取って改造したもので、車体横の茶色は日南線途中にある『飫肥駅』の名を冠した飫肥杉が使われ、内装も同材が使われ2両編成全席指定となっている。
]]>
【写真−1 通勤通学時間帯には混むであろうが大体この様な状態】
『鹿児島中央駅』、『国分駅』、『都城駅』と短く繋いだ各駅停車列車はかなり個性的な車両で、写真−1は先頭車両を後方から写しているが、ドアの次に見える座席は折り畳み式で、これによって車椅子利用の乗客のスペースを作っている。
日豊本線は鹿児島本線同様全線電化になっているが、どちらも完全複線にはなっていなくて単線区間もかなり残っているが、利用客の多い福岡県都市部間では複々線区間もある。
【写真−2 『36ぷらす3』という高級化を図った特急が停まっている】
15:08に『都城駅』を出た各駅停車列車は篠突く雨の中を進み、ちょうど1時間の16:08に本日の目的地『宮崎駅』一つ手前にある写真−2の『南宮崎駅』に到着する。
ホームの反対側に停まる黒い車両は特急『にちりんシーガイア』で、日豊本線を走る特急はこの『にちりん』と『ひゅうが』の2種があり、その中でも1日1本のみ走らせているのが『にちりんシーガイア』で『宮崎空港駅』−『博多駅』間を薬時間で結んでいる。
『シーガイア』というのはバブル景気時代に『宮崎駅』から先の海岸に宮崎県などと民間企業が造った第3セクターの巨大なリゾート施設だが、赤字続きで2000(平成12)年の沖縄サミットでは外相会議も開催されたが翌年に倒産する。
その後再建され、同じく倒産したことのある長崎の『ハウステンボス』と同様に、JRの特急に名前を付け、最近の経営は良くなっているらしく、特に海外からの集客に力を入れ、この2月の春節時期には中国からの利用者で埋まっているかも知れない。
【写真−3 日豊本線は特急をやたらに走らせ各駅列車は圧迫されている】
16:21に写真−3の『宮崎駅』に到着し、右側に停まる車両が『都城駅』から乗って来た各駅停車列車で、左側に停まる先頭部分が特徴のある灰色の車両は特急の『JR九州787系電車』と呼ばれ、開発されたのは1992(平成4年)で翌年にはグッドデザイン賞と優れた車両に贈られるブルーリボン賞を獲得している。
JR九州管内で運用されている特急車両だが、その前身は『つばめ』で、そのために車体にはつばめをあしらったロゴが描かれ、九州新幹線が部分開業の時代には『リレーつばめ』とした運用された。
最近は同型車両を改造してグリーン車個室やビュッフェを備える高級化を図った『36ぷらす3』という列車も走らせているが、JR九州もこういったつまらない高級化を進めるよりも足元の方を固めた方が良いのでは。
【写真−4 短距離しか走らない各駅停車列車が待機中】
終着の『宮崎駅』行きの停まるホーム反対側に写真−4の『日向新富駅』行きの各駅停車列車が待っていて、4分の待ち合わせで出発するが同駅は『宮崎駅』から5駅しか進まない。
『日向新富駅』から先は『延岡駅』行きに繋がり、同駅には17:25に到着し、そこで宿泊も可能だが、宮崎市には古い知人が住んでいて久し振りに逢うことと、日南線の『志布志駅』まで行って見たいので宮崎市止まりにする。
【写真−5 宮崎駅改札は県庁所在地の駅では自動化が一番遅かった】
『宮崎駅』は県庁所在地の駅としての威容を誇るが、鉄道としては日豊本線の単独駅だが、『南宮崎駅』を起点とする日南線、また『宮崎空港線』が同駅に乗り入れ、実質的な起点駅となっている。
写真−5は同駅の改札口で少々小さいが、同駅にはいくつも改札口はあって泊まるホテルが線路際にあり、駅構内で見た近隣の案内図の道順に沿って歩いていたらこの改札口に至ったが、外に見える電光表示板がなければどこの駅か分からない。
『宮崎駅』に着いた頃は土砂降りで、この雨の中を荷物を持って移動するのは嫌だなと思ったが、幸いホテルは駅ビルの店が並ぶ通路を抜けた場所にあり濡れなくて済む。
【写真−6 翌朝まで結構激しい雨が降り続いた】
ホテルの部屋の窓から見たのが写真−6で、下に見えるのは『宮崎駅』構内で雨に濡れないのは勿論、明日の早い出発も楽だが、天気は低気圧が通過中で明日は止むとはいっている。
久し振りに逢った知人は、同市に住む水俣や土呂久などの公害を撮った写真家で、今は宮崎県選出の衆議院議員の後援会長もやっていて、保守全盛の九州で野党の議員を応援するのは大変と思うがその達者振りには驚き、その夜は奥さんも交えて色々と話が弾んだ。
『噓つきは泥棒の始まり』とこどもの時は教えられて来たが、昨今の日本の議員連中の厚顔無恥、嘘つき振りには呆れ返り『嘘つきは政治屋の始まり』と直した方が良く、それにしても議員連中の無教養、馬鹿さ加減に人材は払底していると感じるし、こういう連中をのさばらせているのも投票に行かないからで、『国民の水準以上の政治家は生まれない』言葉を思い出す。
]]>
【写真−1 JR九州管内だけに走らせるのは勿体ない車両】
日豊本線の各駅停車列車は長距離を走らずに短い区間を繋いで運行していて、そのためもあってか車両は近郊型の『JR九州817形電車』ワンマンカーを投入し、写真−1はその車内座席。
毎日乗車している人には目新しくもないだろうが、この座席は何度見ても面白くマジマジと見てしまうが、乗り心地の方は格別に良かったという記憶はないが、積層合板と頭乗せなどのカバーを綺麗な状態に保つには大変なことは確か。
【写真−2 宮崎駅から来る各駅停車列車はこの駅で折り返す】
都城市出身の知人がいて、長い間同人は鹿児島県出身と思っていたら都城は宮崎県であったというのは最近知ったが、地理的認識というのはそのくらい曖昧な面もあり、写真−2は宮崎県に入って2つ目の『西都城駅』。
同駅は写真でも分かるように1979(昭和54)年に高架になった駅だが、1987(昭和62)年に廃線になった志布志線の起点駅であり、この志布志線も途中まで高架化されていて、廃線後に鹿児島寄りの高架が鹿児島本線との分岐点でY字状に切られ途絶した状態で残っている。
志布志線はその名の通り大隅半島海沿いの『志布志駅』まで10駅、38.6キロの路線で、現在の『志布志駅』は『南宮崎駅』からの日南線のみ乗り入れ行き止まりになっているが、かつては鹿児島本線『国分駅』からの大隅線、そしてこの志布志線が乗り入れていて同地方の鉄道の要衝であった。
【写真−3 この駅先表示から都城駅の現在が分かる】
『国分駅』を13:55に出た『都城駅』行き各駅停車列車は14:44に写真−3の『都城駅』に到着したが、表示板の左側は鹿児島本線宮崎方面の『三股駅』、左側上は先述した『西都城駅』、その下の『日向庄内駅』は『都城駅』が起点になって肥薩線途中の『吉松駅』まで行く吉都(きっと)線。
吉都線は霧島山の北東側を走り、風光明媚な路線として知られ、17駅、61.6キロあり『えびの高原線』の別称を持ち、山岳地帯を走るのにトンネルが一つもない珍しい路線になるが、常に廃線の話が出て来る路線でもある。
【写真−4 古レールで造ったホームの構造は面白い】
『都城駅』は都城市の中心駅の様に思うが、市役所などの市の中心部は『西都城駅』で降りた方が近く、都城市は宮崎県で宮崎市に次ぐ第2の人口15万人8千人を擁し、『ふるさと納税』で全国自治体の中1位の195億円を集め、その巨額には驚かされる。
とかく問題のある『ふるさと納税』制度だが、都城市は牧畜業が盛んで地元産の牛肉や豚肉を返礼品として使っているのが人気の源で、こういう見返りの返礼品をなくしたら、恐らくどこの自治体も寄付はゼロに近くなるのではないか。
【写真−5 この後分かるが日豊本線は特急しか走らない時間帯がある】
写真−5の向こう側のホームに停まっている黒い車両は特急『きりしま』で、同特急は『宮崎駅』−『鹿児島中央駅』間125.9キロを2時間強で走り、この区間の乗車運賃は2530円、特急料金2330円で計4860円になるが、各駅停車列車の旅には関係ない。
現在の『都城駅』の駅舎は3代目で、2代目は1945(昭和20)年8月6日の都城空襲で焼失したが、同駅を含めて九州方面の駅は敗戦間際の空襲で被害を受けた所が多く、軍需物質を運ぶ鉄道は空襲目標になり、上空から見て長く伸びる線路は目立つから狙い撃ちされ易い。
【写真−6 本日最後に乗る宮崎駅行き各駅停車列車】
乗り継ぐ『宮崎駅』行きの電車は20分ほどの待ち合わせでやって来て、『都城駅』を15:08に出て『宮崎駅』には16:21に到着するが、4時台にホテルへチェックイン出来るのは初めてではないか。
『鹿児島中央駅』から『宮崎駅』間を3台の各駅停車列車で乗り継いだが、一列車当り40キロ前後の運行距離で短いと思うが、東海道本線でいえば『東京駅』から『横浜駅』の次の『戸塚駅』間が40.9キロあり、それと比較すると納得する。
]]>
【写真−1 ホームの向こう側は改札口のない西口】
『花は霧島 煙草は国分〜』の出だしで知られるのは『鹿児島おはら節』で、民謡に興味はなくても聞いた曲であり、写真−1はその『国分駅』のホーム1番線に到着した直後で、同駅は霧島市にある。
頭上の電光表示板には左右上側に『鹿児島中央駅』と『宮崎駅』行きの特急『きりしま』があり、その下に左側は『鹿児島中央駅』と右側は『都城駅』行きの各駅停車列車の表示が見える。
【写真−2 同駅から大隅線が志布志駅で日南線に繋がっていた】
次の『都城駅』行きの各駅停車列車が出るまでに2時間半ほど時間があるので、昼に近いので食べようと思い跨線橋を渡って駅の外に出るが、写真−2は跨線橋から見た『国分駅』構内で、今の同駅は鹿児島本線しか乗り入れていないが、かつては大隅半島を走る大隅線の起点駅であった。
写真−2の車両の停まる鹿児島本線ホームの右側にかつての大隅線ホームと線路があり、その跡も残っているが、同線は現在の『南宮崎駅』からの日南線の終点『志布志駅』までを結び、『志布志駅』は廃線によって枕崎線の『枕崎駅』同様に行き詰まりになってしまったが、同半島は鉄道で回遊出来た時代もあった。
大隅線は33駅、98.3キロあり、錦江湾沿いに垂水市に至り同地より内陸部に入って鹿屋市を経由して志布志市に入るが、その前身は1915(大正4)年とかなり古く、1987(昭和62)年に廃線となったが、この年は国鉄の分割民営化が実行され全国の地方路線が廃線となった年でもある。
【写真−3 県内第2の都市にあるのに駅舎は地味】
写真−3は『国分駅』の東口にある駅舎で、同駅は霧島市の中心駅になり市役所も近いが平屋の地味な建物で、同駅は東口にしか改札口はないために、西口へ行くには駅舎の左側に見えるエレヴェーター装置の備えた自由通路を利用する。
霧島市と書いているが同市は2005(平成17)年に旧国分市と近隣6町が合併して生まれた市で、人口は12万人を超え鹿児島県内では2番目の人口を抱え、その半数近くは旧国分市地域に住んでいる。
そういった大きな都市なので昼を食べる店はいくらでもあるだろうと駅前の真っ直ぐな道を小雨の中を歩くが見当たらず、ようやく大きな交差点角にある喫茶店でコーヒーとホットドッグを食べるが、探し方も悪かったとはいえ食堂一つない駅前通りは県内第2の市とは思えなかった。
【写真−4 日豊本線はこの手の新型車両で短い区間を繋いでいる】
霧島市は名峰の霧島連山が控えて良質な水が得られるために大量の水を使用する京セラやソニーなどの大手ハイテク工場があり、その関連産業で税収は多いのだろうが、民謡に唄われた『煙草』は国内有数の生産地であったが、近年の生産は縮小の道を辿っている。
ハイテク工場と言えば熊本県の水の豊富な町に台湾の半導体工場が建設中で、近辺は異常な建設、経済バブル状態となっているが、台湾にある半導体工場にはフィリピンから10万人以上が出稼ぎに行っている中、日本に工場を造るとは日本のかつての工業立国も地に落ちた。
駅に戻って写真−4の13:55発の『都城駅』行きの各駅停車列車に乗り込むが、同駅に到着するのは14:44と1時間に満たない乗車時間で、『都城駅』から本日は6本目の『宮崎駅』行きに乗り換えて、宮崎市泊まりとなる。
【写真−5 神宮は勿論だが温泉地でも有名】
『国分駅』の次は写真−5の『霧島神宮駅』で、駅前となっていないように霧島神宮は駅からバスで15分ほど先にあり歩いて行くには少々遠いが、時間が上手く合えば霧島神宮へ行くことを計画の段階では考えた。
しかし、旅の初期で紀伊半島を廻った時に同地の熊野三山の一つ、『新宮駅』から歩いて行ける『熊野速玉神社』に行けると思ったが、利用した各駅停車列車の都合で取り止め、旅も二兎を追っては行けないと思った。
霧島連峰の一つ標高1574mの『高千穂峰』は天孫降臨の神話が伝わる場所で、霧島神宮も関係は深いが神話はともかく、同神宮は6世紀に社殿が造られたのが始まりで、18世紀初めに島津家によって再建された国宝や重要文化財に指定された社殿の方に興味はある。
【写真−6 乗降客数の割合には結構立派な和風の駅舎】
なかなか立派な写真−6の建物がホームの向こうに建っているが、この建物は『財部(たからべ)駅』駅舎で、建物は何度か改築して現在の姿になったのは2008(平成20)年で、多目的ホールを備え蕎麦店も入居しているらしく、現在の屋根瓦は青系色だが改築時の屋根瓦の色は赤系色であった。
同駅は曽於市にあり宮崎県方面からは最初の鹿児島県の駅になるが、霧島市と同じ年の2005(平成17)年に曽於郡の3町が合併して生まれ人口は3万1千人で、市域は内陸部にあり海はない。
]]>
【写真−1 グッドデザイン賞を受けた割合新しいワンマンカー】
日豊本線は福岡県『小倉駅』から始まり、大分県、宮崎県の主要都市を結んで鹿児島県『鹿児島駅』まで111駅、462.6キロある鹿児島本線と並ぶ九州の全線電化の基幹路線になり、全通は1932(昭和7)年。
写真−1は『鹿児島中央駅』発10:34の近郊型電車の『JR九州817系』の『国分駅』行きで、同車両はデザイン、仕様に優れ、運行上から日豊本線は隣の『鹿児島駅』ではなく『鹿児島中央駅』になっている。
【写真−2 鹿児島市は市電があるように公共交通機関を使う人も多い】
写真−2は日豊本線のホーム上にあった時刻表で、左側が鹿児島本線の『伊集院駅』『川内駅』方面、中が『隼人駅』『都城駅』『宮崎駅』方面、右側が指宿枕崎線『谷山駅』『指宿駅』『枕崎駅』『枕崎駅』方面で、これを見ると結構運行回数が多いと分かる。
ただし、これは『国分駅』行きの各駅停車列車で分かるように、その多くは『鹿児島中央駅』を中心の短距離しか運行しない列車で、特に鹿児島本線と日豊本線は朝晩の通勤通学時間帯に増発していることが分かる。
【写真−3 こういう雨にけぶる桜島の風景も乙なもの】
『鹿児島中央駅』を出てから天気は崩れて大粒の雨が車窓を叩きつけ、同駅を出てから日豊本線はしばらく錦江湾沿いに進むために桜島の雄姿が見られるかと楽しみにしていたが、雨と共に低い雲が垂れ込め景色を楽しめるどころではなかった。
それでも時々雲間が切れて、写真−3のように錦江湾越しに桜島の姿が見える時があり、手前に写る道は日豊本線とほぼ並行して走る東九州の大動脈の『国道10号線』で、同国道は北九州市を起点に鹿児島市まで九州内では最長の556.6キロある。
【写真−4 昔は当たり前でも跨線橋を上り下りするのは老齢者には大変】
『鹿児島中央駅』から3つ目の駅が写真−4の『重富駅』で、同駅は1901(明治34)年に鹿児島県の鉄道駅として最初に開業した駅の一つで、右側に見える瓦葺の駅舎は1950(昭和25)年に建てられた。
同駅は姶良市にあり、同市は2010(平成22)年に姶良町、加治木町、蒲生町が合併して生まれた新しい市で、鹿児島市に隣接しているために同市のベッドタウン化し、現在人口は約7万7千人あり県内では薩摩川内市(9万人)に次いで5番目の人口を抱える。
【写真−5 駅名と同じ苗字を持つ人が同地方には多い】
写真−5の『帖佐駅』は姶良市の中心駅で、地方の駅は無人駅が多い中、同駅は『業務委託駅』となっていて、これはJR九州が退職者などを再雇用して駅業務や清掃事業を担わせていて、委託と聞こえは良いがコスト削減のための子会社化である。
ホーム外の木の生い茂っている手前の右に立つ表示は、駅近辺の名所を記したもので各駅停車列車で停まる度に見ては『こういう所があるのだ』と気が付くが、上に書かれているのは鹿児島県の伝統工芸品指定の『帖佐人形』で、その下は薩摩地方を支配した島津家16代の『島津義弘』の居館跡の案内。
『帖佐人形』は義弘が朝鮮出兵で連れて来た朝鮮の陶工が、帖佐地区で取れる粘土を使って型押しし焼成し、その上に鮮やかな色で彩色されている素朴な人形で、400年以上の伝統を持ちながら昭和初期に一時途絶えたが、1960年代になって地元有志が復活させた。
【写真−6 雨の中下車する人は多かった】
『国分駅』一つ手前が写真−6の霧島市にある『隼人駅』で、鹿児島県人を評すのに『薩摩隼人』という言葉があるように『隼人』というのは武張った印象があり、大隅半島を中心に住んでいた今でいう『先住民』で、日本書紀にも出て来る。
同駅は鹿児島本線『八代駅』から内陸部に入り『人吉駅』を経由する28駅、124.2キロの肥薩線が同駅に合流する要衝駅だが、肥薩線は2020(令和2)年の豪雨で球磨川に架かる鉄橋が流され、『八代駅』−『吉松駅』間95キロが不通となり復旧は難しく、現在『隼人駅』−『吉松駅』間を1日12本往復している。
]]>
【写真−1 菜の花の黄色に塗られた快速車両】
『指宿駅』で『鹿児島中央駅』行きの各駅停車列車に乗り換え車内で待っていると、写真−1の黄色く塗られた車体に赤で囲まれた青い大きな字で『NANOHANA』と書かれた列車が入って来た。
これは枕崎線で運行している快速『なのはな』号で、国鉄時代の『準急』と同じ準急は料金を取るが快速は無料で、『鹿児島中央駅』−『指宿駅』間を1時間10分ほどで結び、上下線で1日4本運行されている。
『鹿児島中央駅』−『指宿駅』間の距離は50キロしかないのに、『指宿のたまて箱』と名付けた特急を上下6本走らせていて、所要時間は51〜53分で快速と比べてもそれほど早いとは思わないが、指宿温泉が目的の層には時間よりも金持ち感を味わえる特急の方が良いのであろう。
【写真−2 この辺りの枕崎線は錦江湾の海岸沿いに走る】
写真−2の『生見(ぬくみ)駅』は難読駅名になるが、同駅は既に鹿児島市内に入っていて鹿児島市内最南端の駅という位置にあり、同駅を有名にしているのは、近くの海岸に1952(昭和27)年に『特別天然記念物』に指定された稀少な地域があるためである。
この『特別天然記念物』とは『喜入のリュウキュウコウガイ産地』と呼ばれ、マングローブ林を構成するリュウキュウコウガイ(メヒルギ)の1ヘクタールに満たない群生地を指すが、マングローブ林としては世界でも珍しい北限にあり、枕崎線の車窓からも見えたはずだが気が付かなかった。
【写真−3 九州第4位の人口58万人の鹿児島市】
鹿児島市に近づくと枕崎線は高架上を走るようになり、建物の向こう側に錦江湾、桜島が見えるようになり、写真−3の中央に薄っすらと桜島が写っていてしかも右の山頂近くから噴煙が上がっているのが分かる。
晴れていればかなり雄大な車窓風景が続き見事と思うが、実際に当地に住む人に取っては桜島の噴火は頭の痛い存在で、2023(令和5)年の噴火回数は215回あり、特に降灰による生活への影響は大きい。
【写真−4 ホームから桜島は良く見える】
『鹿児島中央駅』まで4つ手前の駅が写真−4の『谷山駅』で、同駅は鹿児島市と1967(昭和42)年に合併するまでは『谷山市』として存在し、当時から鹿児島市への通勤通学圏として発展した。
そのために一つ枕崎寄りの『慈眼寺駅』と『鹿児島中央駅』間は頻繁に列車を運行していて、『谷山駅』の駅構内も都市圏のホームと変わらなく見え、この高架は2014(平成28)年に完成し、駅自体は『慈眼寺駅』寄りに100m移動した場所に造られた。
【写真−5 こういう広大な土地をJRは保有し何れは切り売りか】
今でこそ新幹線が乗り入れて『鹿児島中央駅』と名乗っているが、開業した1913(大正2)年の時は『武駅』、その後1928(昭和3)年に『西鹿児島駅』と改称し、九州新幹線が全通した2004(平成16)年に『鹿児島中央駅』となった。
鹿児島本線と日豊本線の起点駅でもあり、そういった車両を留め置くための車両基地が同駅近くにはあり、写真−5はその車両基地の様子で、特急車両や枕崎線を走る快速『なのはな号』、近郊型車両が留め置かれ九州南部の要衝駅と分かる。
【写真−6 新型車両とホームの屋根の造りの古さが対照的】
10:17に『鹿児島中央駅』到着し、日豊線の10:34発『国分駅』に乗り換えるが、昼時に食べる駅弁を構内で買おうと思ったが17分程度の乗り継ぎ時間では駅弁を物色するには短くて諦めて、写真−6の日豊線ホームに向かう。
右側6番線ホームに停まるのが『国分駅』行きだが、『国分駅』というのは『鹿児島中央駅』から9つ目、時間にして49分しかかからない短い区間だが、『国分駅』−『鹿児島中央駅』間を効率良く対応するための運行で、『国分駅』から先は利用者が少ないことになる。
]]>
【写真−1 たった一人でも通学生のために運行する基本は大切】
『枕崎駅』から始発に乗って日本最南端駅『西大山駅』で下車して、1時間半ほど同駅の周りで過ごしたが、次の『指宿駅』行きを待つ間に写真−1のように『枕崎駅』に向かう各駅停車列車が『西大山駅』ホームに入って来た。
これは枕崎線で唯一運行している『指宿駅』発『枕崎駅』手前の『西頴娃駅』止まりの各駅停車列車で、『西大山駅』発は7:48になり、写真でも分かるように通学する生徒が一人待っていて、地元に住む数少ない利用者であり、赤字だから廃線にすれば良いというJRの経営陣に見せたい光景である。
【写真−2 もう少し列車がホームに寄って開聞岳内に入っていれば良かった】
8:36になって『指宿駅』行きの列車がやって来て、開聞岳を背景にホームに立つ『日本最南端の駅』の標柱と列車を上手く収まるように何枚も撮ったが、どれも列車が遠過ぎたり近過ぎたりしたが写真−2を選んだ。
鉄道好きの中には『撮り鉄』といって、鉄道写真を撮るのを第一とする者がいてそのマナーの悪さや、時には列車を緊急停止させるような者があり事件にもなっているが、『西大山駅』は普通の観光客の撮影場所になっているために、ホームには『線路内での撮影は禁止』の警告が日本語、英語、韓国語、中国語で表示されていた。
【写真−3 枕崎線は全車両ワンマンカーなので後部には車掌はいない】
同列車で『西大山駅』を出発するが、写真−3は列車後部から同駅を離れて行く様子で同駅ホームと開聞岳の山裾がガラス窓の向こうに見え、こうして日本最南端駅の訪問は終わった。
『西大山駅』は指宿市内の駅で、同駅からは『大山駅』、『山川駅』に停車して『指宿駅』に8:54に到着するが、その近さから指宿温泉に泊まって周辺の池田湖や鰻池、奇岩で知られる長崎鼻などの観光地巡りの一つに『西大山駅』は観光スポットになっているようだ。
【写真−4 海に近い珍しい地熱発電所が車窓から見えた】
『大山駅』か『山川駅』の間の海側に写真−4のような目を引く奇岩風景が見えて何気なく写したが、この奇岩は何かと後で調べたらビニールハウスの向こう側に見えている施設は『山川地熱発電所』と分かった。
同発電所は1995(平成7)年に発電開始で、発電量は3万キロワットありこの発電量は指宿地域の1万5千世帯の電力を賄えるといい、地熱発電は火山国の日本に適した発電方法で、原発のような放射能汚染の機材、ゴミ、汚染水処理はない。
世界の地熱発電でこのフィリピンは1918万MG(メガワット)世界第3位に入る意外な大国で、1位がアメリカ3700万MG、2位インドネシア2289万MGと続き、火山大国である日本は10位の550万MGの低さなのに、地熱用タービンの世界シェアは日本が67%を占めると業界は自慢しているがおかしいのではないか。
【写真−5 イラストは足湯と市の花の菜の花】
写真−5の『指宿駅』には8:54に到着し、同駅から9:01発の『鹿児島中央駅』行きに乗り換えるが、乗り換え時間7分というのは丁度良い時間で『鹿児島中央駅』には10:17に到着する。
以前に書いたが、鹿児島本線に東京行きの急行が運行していた時代に『指宿駅』を最南端駅と思って下車し、海岸にテントを張って一晩過ごしたことがあり、その時に利用した『指宿駅』駅舎は1980(昭和55)年に建て替えられて昔の面影は残っていないが、ホームや構内は全く変わっていない感じを覚えた。
【写真−6 海外にも送られている車両だが布張りの座席はどうだろうか】
『鹿児島中央駅』行きの車内の様子が写真−6で、通勤通学時間帯を過ぎて車内は座席に座っているのが珍しい具合になっていて、毎日朝の早い出発なので眠気を覚える時間でもある。
枕崎線で運行している車両は『キハ−40系』という国鉄時代に製造された気動車で、これは日本中の路線で今も走っているが、ミャンマーにも譲渡して運行され、ミャンマーはイギリスの旧植民地のために鉄道網は発達しているが保守、維持が出来なく辛うじて運行している状態。
そんなミャンマーに対して日本はJICAを通じてヤンゴン−マンダレイ間の622キロを整備するODAプロジェクトを始め、現在856億円の巨額な税金を注ぎ込んでいるが、これは第一期で最後まで行くとすると千億円単位になる。
同プロジェクトの妥当性には疑問も多く、また軍事政権制裁で最近プロジェクトを止めたという話もあるが、以前ミャンマーを訪れた時にマンダレイ駅へ行ったことがあり、線路と構内の荒廃ぶりには驚いた。
このフィリピンも日本のODA鉄道プロジェクトがかなり前から始まっていて、特にフィリピン初の地下鉄プロジェクトは注目に値するが、数千億円単位のこれらの鉄道プロジェクトは日本の大手商社と鉄道建設関連会社の救済、売り上げを増やすためではないかとの指摘もある。
]]>
【写真−1 シーズンになればこの構図で写真を撮る観光客で溢れる】
鉄道駅の場合、北海道に最北端の『稚内駅』、最東端の『東根室駅』があり、九州には前日に訪れた最西端の長崎県『たびら平戸口駅』、そして今回下車した鹿児島県『西大山駅』が最南端駅になる。
写真−1は『西大山駅』ホームから枕崎方面を撮っていて、同駅を紹介する時に彼方に開聞岳(標高924m)を臨み『日本最南端の駅』の標柱を入れるこの構図は良く知られるが、天気が良ければもっと映えた景色になる。
【写真−2 沖縄の南と西のモノレール駅はどうなっているとの指摘もある】
写真−2は同駅ホームに掲示され、同駅の地理的位置を紹介しているが、東西南北の駅に関して記されているのは全て『JR』の駅で、写真−1の標柱でも一番上部に赤色で『JR』と記されている。
わざわざ『JR』と銘打っているのは最西端の駅が『佐世保駅』になっていて、先述したように鉄道の最西端駅は『たびら平戸口駅』であり、同駅は松浦鉄道という第3セクター路線でJR線ではないためだが、旧国鉄時代は列記とした国鉄路線で『佐世保駅』を最西端駅にするのはJRのご都合でしかない。
この表示で興味を持ったのは左上に記されている『西大山駅』とほぼ同緯度にある都市で、エジプトのアレクサンドリア、アメリカのエル・パソ、中国の上海と書かれているが、アレクサンドリア、エル・パソ共に砂漠に近い暑い土地で、鹿児島はそういう土地柄ではなく日本が海に囲まれていることと関係があるようだ。
【写真−3 写真を撮っているとレンタカーに乗った観光客が訪れた】
『枕崎駅』始発の各駅停車列車に乗って『西大山駅』で下車及び乗車したのは一人もいなくて、写真−3の左側ホームから出ても駅前も周りにも人一人いなくて、正に無人駅そのものだが、駅前は綺麗に季節の花が植えられた花壇が造られ目を休ませる。
最南端の駅ということで観光客は訪れるのか、駅前の外れに観光客相手の店があって早朝とあって閉まっていたが、この店では最最南端駅を訪れた証明書を売っていると張り紙に書いてあった。
【写真−4 日本の丁寧に栽培された畑を見ると日本人の律義さを知る】
駅のある地域は開聞岳以外は平らな大地が広がり、農業が盛んな地域と分かるが同駅の周りではキャベツ畑が目に入り、写真−4は駅を出て右側に広がるキャベツ畑で、春キャベツとして出荷されるのだろうか。
鹿児島県は火山活動による火山灰の積もった土地で、同じような土地で浅間山の周りがキャベツ栽培の産地として知られるが、そういう土質がキャベツ栽培に適していて、この薩摩半島産のキャベツは何というブランド名で流通しているのかと考える。
【写真−5 無人駅なので駅周りの花壇と整備はボランティア頼み】
駅を出て左側に白い花に囲まれて写真−5の今では珍しい形の黄色い郵便ポストが建っていて、『幸せを届ける黄色いポスト』と右側にその説明が記されていて、どうして郵便ポストが黄色なのか不思議であった。
黄色は駅のある指宿市の花に制定している『菜の花』の黄色を表していて、そういえば『枕崎線』には『菜の花号』という快速列車が『鹿児島中央駅』−『指宿駅』間を走っていて、その車両の色も黄色に塗られていたが、なお、黄色い郵便ポストは全国に5本あるそうだ。
この郵便ポストに幸せと冠されているのは1977(昭和52)年公開の山田洋次監督の『幸福の黄色いハンカチ』にあやかって名付けたのではないかと思うが、この映画のストリーは単純ながらいかにして映画に仕上げると傑作になる見本のような映画でもあった。
【写真−6 スマホで連絡する人が大勢だからWi-Fi利用者は少ない】
今時、郵便を出す人がいるのかとも思うが、観光地にあるこの手の物は結構人気があって利用する人は多いそうだが、駅前に休憩の出来る小さな東屋があってそこへ行くと写真−6の『Free Wi‐Fi』の表示があった。
指宿市が設けた公共Wi-Fi装置で、本当に使えるのかと今回の旅で重宝したタブレットで指示通りに操作し、物は試しとセブにスカイプで連絡をすると繋がってついでに付近の様子を送ると開聞岳の姿はフィリピンの『マヨン火山』と同じだとの答えが返って来た。
日本は公共Wi-Fiの貧弱さが問題になっていて、以前四国の遍路旅をした時は日本で携帯Wi-Fiをレンタルして旅を続けたが、これは日本では海外で使われているスマホが使えないこととも関係があり、といってタイと台湾では空港を降りるとSIMを買って入れ替えて短期間使ったことがあり日本は取り残されている。
]]>
旅行中はその土地の美味い物を食べようと思っているが、鰹で知られる枕崎で食べた鰹料理は地場で獲れた生モノではなく冷凍物だから、ここでわざわざ食べなくても良く、またこの時期の鰹よりは秋口の東北沖で獲れる鰹の方がはるかに美味く、枕崎で食べた鰹料理で唯一美味いと思ったのは『塩辛』であった。
【写真−1 夜明けの『枕崎駅』】
『枕崎駅』の始発は6:04の『鹿児島中央駅』行きで、いくら駅に近いホテルに泊まってもそれに間に合うように、荷物をまとめ車中で飲むコーヒーの豆を挽いてコーヒーをポットに淹れるなどをすると、4時半過ぎに起きる必要がある。
発車時刻の20〜30分くらい前に行くようにしているが、『枕崎駅』は始発の出る駅でもあり安心したのか、写真−1の駅舎に見える時計は6時5分前を指していて駅に到着したのはかなり遅い。
4月中旬の春の朝はまだ明け切っていなくて駅前にも駅にも人の姿はないが、既に始発列車はホームに入っていて、昔の駅なら改札口に駅員が居たものだが、『枕崎』も無人駅で切符はバスと同じで整理券を乗車時に取って精算する。
【写真−2 列車の前面には行き先が表示されなくて故障か】
写真−2はホームに停まっていた列車の横に差し込まれていた『行き先表示板』で、LD表示が大部分となった鉄道車両では今時珍しく思わず一枚撮ったが、昔は当たり前で駅員が到着駅で行き先表示板を差し替える姿は普通に見られた。
この差し替え式の行き先表示板で思い出すのは、世界で一番短い国際列車と言われるラオス・ヴィエンチャンからメコン河を渡ったタイ・ノンカイまでのたった一駅だけを走る列車にはタイ語と英語で記された行き先表示板で、こういう表示板は鉄道マニアには価値が高いのだろうと思った。
【写真−3 各ドア毎に朱色の整理券発券装置がある】
始発列車車内の様子が写真−3で、この車両には人は乗っていなかったが、前の車両には乗っていたかもしれず、この後の『枕崎駅』発は7:35の『指宿駅』行きになっている。
『枕崎駅』から『鹿児島中央駅』まで通して走る各駅停車列車はこの始発と、午後の15:54発と20:06発の1日3本のみで、その他は1日3本だけ『指宿駅』で乗り換えて『鹿児島中央駅』へ向かうが、その少ない運行時刻を思うと『枕崎駅』も地の果て感が強い。
【写真−4 部活でもやっているような通学生】
『西頴娃(にしえい)駅』ホームで高校生が一人歩いている様子が写真−4で、発車時刻は6:46なのでどこの学校に通っているのか知る由もないが学校に通える時間ではあるが、この時間に乗車するには相当早起きしているであろうし、万が一乗り遅れたら代参交通機関がないので目も当てられないが、その時は車で送ってもらうのであろうか。
『西頴娃駅』は指宿市と合併する前は頴娃町という名の自治体で、『西頴娃駅』は同町の中心駅になり列車交換設備があり、そのためか8:48に『指宿駅』行きの各駅停車列車が同駅から発車している。
【写真−5 乗車するなりスマホに集中するから会話は聞こえない】
『枕崎駅』始発は沿線の通学生専用列車のようになっていて、停車した駅で次々と通学生が乗車し写真−5は座席を埋めている様子で、かなり乗っている感じはするが、少子化で通学生が少なくなると廃線話が起きるのが地方路線でもある。
『鹿児島中央駅』に到着するのは8:51なので、さすがにそこまで通う学生はいないと思うが、鹿児島に限らず地方の学校の制服は女生徒の場合かなり独特なデザインで、制服を見ればどこどこの学校と分かるようになっているが、一方自由服で良いという学校も都市圏の学校では増えている。
制服についてはかつての詰襟、セーラー服という学校は少なくなってブレザーとネクタイという学校が多くなっているが、フィリピンも小中高は勿論大学も制服を採用していて、学校に通わせる親は制服を揃えるのに大変だという。
【写真−6 開聞岳は後ろ側にありこれだけ見るとただの無人駅】
7:09に日本の鉄道駅最南端の『西大山駅』に到着し、始発列車は『鹿児島中央駅』方面へ去る様子が写真−6で、下車した人は他にはいなくて、静かであっけなく、これは松浦鉄道の日本最西端駅の『たびら平戸口駅』で降りた時と同じ空気を感じた。
同駅で下車して次の列車は『指宿駅』行きが8:36に来るので、その列車に乗るまで1時間半ほどあるのでゆっくり駅と周りの雰囲気を味わうことにするが、それにしても乗車した人もいなくて人の気が全く感じられない。
]]>
日本の沿岸に敷かれた鉄道路線を一筆書きのように乗り継いで春の日本の沿線風景を愛でるのが今回の旅だが、枕崎線のような行き止まり線に乗るのは例外で、これは途中に日本最南端の駅があることと、廃線の話も出ているので今の内に乗っておこうと往復した。
【写真−1 寄席文字と同様日本の文化が生んだ字体】
『枕崎駅』には色々と自慢のキャッチフレーズがあちらこちらに掲げられているが、やはり一番貫禄があったのは写真−1の『枕崎駅』と木の板に縦に書かれた物で、こういうのを『墨痕鮮やか』というのであろう。
揮毫したのは2022(令和3)年に73歳で亡くなった、相撲の行司の最高位である立行司『36代 木村庄之助』で、庄之助は枕崎中学校を卒業後に相撲界へ入り、2008(平成20)年に立行司となったが、独特の字体で知られる相撲番付の書き手を長らく務め、この看板は新駅舎開業の2013(平成25)年に相撲文字で書かれている。
【写真−2 これだけ有名な駅でも無人駅で乗車券は車内で購入】
写真−2は『枕崎駅』の駅前広場から見た駅とホームの様子で、駅とホームが上がった土地に造られているのが分かるが、昔の写真を見ると駅前広場と同じ高さに線路が走っていて、2006(平成18)年に駅前再開発事業が行われた際に嵩上げされた。
その時の再開発で駅自体が元の駅舎から100mほど移動して現在地に造られ、元の駅舎跡には大きなスーパーマーケットが営業していて、かつての『枕崎駅』は鹿児島本線の『伊集院駅』へ繋がる私鉄の『南薩線』(1984(昭和59)年廃線)が乗り入れていて、その当時はかなり広い構内であったことが分かる。
【写真−3 駅前整備事業でホテル前の道も新しくなっている】
写真−3の白い建物が本日宿泊するホテルで、人口1万8000人を超えた程度の小さな市としては外観は結構瀟洒な印象を与え、ステーションホテルと名乗っているように駅のホームから建物が見える近さにある。
東京を立って2泊目に『紀伊田辺駅』のステーションホテルに泊まり、これが2回目のステーションホテル泊になるが、田辺の方は駅に隣接しているのは良かったが、普通のビルを宿泊施設にした古いビルで、こちらの方は新しく安心は出来る。
【写真−4 港の匂いを嗅ぎに来た】
ホテルの部屋に荷物を置いてから、夕闇が迫っている中を枕崎港に向かって歩くが、道は広く整備され、時間帯もあってか店も閉めた所が多く舗道上を歩く人も見えず、車だけがやたらに行き交う地方都市の黄昏時は侘しく感じる。
道なりに歩いて交差点の向こうに現れたのが写真−4の光景で、既に帳は落ちていて街灯や建物の灯りだけが光り、その分動きを止めたかなり大きな枕崎港の静けさが目立った。
枕崎港は東シナ海に開けた港で、魚の水揚げ量は日本有数で特に鰹の一本釣りは知られ、鰹節生産量日本一の工場があり、枕崎漁業組合が日本で唯一の漁獲、製造、販売を一貫する自慢する様に水産業で生きる街だが、やはり森進一が歌う『港町ブルース』の歌詞に唄われた印象が強い。
【写真−5 漁港にしてはかなり静かな眠ったような雰囲気】
港には『お魚センター』という観光客向けに地場の魚の販売と食べられる場所があって、そこで名物の鰹を食べたいと思ったが、もう時間的に無理で写真−5の東シナ海に沈む夕陽を眺めるだけで終わった。
ホテルに戻り今晩の夕食をどうしようかと再び外へ出るが、地方の夜は早くかつて駅舎のあった跡地に建てられたスーパーへ行って夕食に食べる物を探すが、翌日の車内で口にする軽い物を買っただけで終わった。
【写真−6 駅に近いのが利点のホテル】
駅前を歩いていると鰹料理を出す店があったので、そこで鰹料理セットを食べるが、時期的にその日に水揚げした生の鰹ではなく冷凍物を捌いた鰹が出て来て、別に枕崎で食べなきゃいけない鰹でもなく、今年最初の鰹の刺身は期待外れであった。
写真−6は泊まったホテルの室内の様子で、写真を見てベッドの長さより少し幅の狭い部屋と気が付いたが、まだ新しくただ寝るだけの旅行ではこれで充分で、それでもこういう魚の豊富な街に泊まるなら少し贅沢をして料理付きの旅館にすれば良かったかなと思った。
]]>
【写真−1 1日1人どころかコンマ以下の利用者しかいない無人駅】
写真−1の『さつましおや駅』は漢字では『薩摩塩屋駅』と書き、漢字の方が一目瞭然で分かり易く、同駅は南九州市知覧町にあり、この駅の次の『白沢駅』から枕崎市に入る。
枕崎市内に入って3つ目の駅が終点の『枕崎駅』になるが、それほど近い駅でも2000年代に入ってから1日の利用者が1人を切る、0.1人とか0.3人になっていて駅が存在するのが不思議な無人駅である。
【写真−2 旧国鉄時代の貫禄ある気動車】
『鹿児島中央駅』を16:02に出た各駅停車列車は2時間半強をかけて18:36に終点の『枕崎駅』に到着し、写真−2は同駅ホームに到着直後の様子で、観光客らしい乗客が何人かホームに見える。
運行している車両は、国鉄時代の1977(昭和52)年から1982(昭和57)年にかけて製造された『国鉄キハ−40系気動車』と呼ばれる中の派生型『キハ−47形』で前面の錆れ具合が最果ての駅のホームに似合う。
【写真−3 木を多用したホームの造りは最果ての駅では意外性はある】
『枕崎駅』は最初からJR路線の駅であった訳ではなく、1914(大正4)年に鹿児島本線の『伊集院駅』から薩摩半島を南下する私鉄の23駅、49.6キロの『南薩鉄道』が『枕崎駅』を開業したのが同駅の始まりで、そういう経緯があって後に『山川駅』から『枕崎駅』まで延伸、開業した時もしばらくは南薩鉄道を経営する会社の所有であった。
同駅は2006(平成16)年に再開発事業が行われ、駅とホームが移動しその時に駅舎も解体されしばらく駅舎のない駅であったが、2013(平成25)年にホーム上に見える写真−3の駅舎が竣工し、この駅舎はその年のグッドデザイン賞を受賞したように垢抜けしている。
【写真−4 現在は行き止まりだがかつては鹿児島本線に繋がっていた】
写真−4の車止めを見ると来る所まで来たなという感慨を持つが、先述したように同駅は再開発で移動していて、元の駅の位置は車止めの100m先に見えるオレンジ色のイラストを掲げたスーパーの建つ場所にあった。
現在の『枕崎駅』のホームと線路は少し高い位置に造られホームからは階段を使って駅前広場に出るが、駅移動前の当時のホームの写真を見ると線路は平地に敷かれ、線路の周りは草地が見えて柵も何もなく長閑な時代であったことが分かる。
【写真−5 観光資源のためにやたらに日本最南端駅の表示が目立つ】
駅とホームが駅前広場から上がった様子が分かるのが写真−5で、板張りのデッキから市内を見下ろすようになっていて、駅前広場から左の方に降りて行くと枕崎港に至る。
『南と北の始発・終着駅』と記された写真−5の看板があり、これは下の方に書いてあるが北の稚内市と南の枕崎市がJR駅の縁で平成24(2012)年に友好都市となった記念で作られた。
【写真−6 腕木の方向は稚内を向いているのかどうか気になる】
『枕崎駅』の立ち位置をもう少し説明する表示が写真−6で、同駅から宗谷本線の『稚内駅』まで3099.5キロと書いてあって、JRは切符の有効期間を200キロで2日、以降200キロを超えるごとに1日加算されるので『稚内駅』−『枕崎駅』間の有効期間は16日となる。
料金の方はネットで調べると、特急と新幹線利用だけで6回乗り換え、所要時間31時間20分かかって6万650円、走行距離は3111.1キロとなり、写真の表示とは少し違う。
新幹線や特急を利用しない運賃だけだと3万470円となり、上述の料金の半分で済むからいかに新幹線と特急料金の設定が高いか分かるが、普通列車だけの利用だと所要時間数は何倍もかかり、途中宿泊を考えると安くはないが、鉄道マニアには挑戦する人も多い。
]]>
【写真−1 開聞岳も裏の方に回ると円錐の形状が崩れて見える】
写真−1の開聞岳の麓を回りこむ形で各駅停車列車は終点の『枕崎駅』を目指して進み、池のような水面が見えたが良く見ると水田で刈り取った稲の株が水没して池のように見え、同地方は火山灰の影響か畑地が多く水田はあまり見なかった。
四国西部を廻っている時に田植え済みや代掻き中の水田を多く目にしていて、そこより鹿児島は南にあって田植えなど終わっていても良い地域だが、稲も品種によって栽培時期が違うから単に水を張って休ませているだけかも知れない。
【写真−2 地方では通学生で持っている路線も多い】
写真−2は『頴娃(えい)駅』に停車し、通学生がホームから降りて行く様子を遠くから撮っているが、10人くらいの姿が認められ、恐らく同駅の1日の利用者全部ではないかと思った。
同駅は難しい読み方の駅だが、2字の最初の『頴』を『えい』と読み後の『娃』は読まない珍しい字になり、頴娃の語源は近くの池田湖から発している説が有力で、同地は鎌倉以来の『頴娃』氏が支配し、頴娃と名乗る人が多く住み、独特の薩摩の言葉の中でも特に難しい方言を持っているという。
同駅はかつては『頴娃町』内にあり、2007(平成19)年に近隣の知覧町など2町と合併して『南九州市(人口3万人)』となったが、新しく市名を作るにしても東西南北を入れるのは選定する者達の想像力と国語力の貧困さが如実に出ている。
【写真−3 車内はほとんど通学生】
『頴娃駅』の次が写真−3の『西頴娃駅』で、同駅で一人降りてホームを改札に向かっているが、改札口の所に制服を着た女学生が3人並んでいて、出迎えにしては変であるし何で立っているのかと注意を引いた。
旧頴娃町の中心はこの『西頴娃駅』の方で、旧頴娃町役場や県立の高校もこちらの駅地域にあり、枕崎線の『山川駅』から『枕崎駅』までの間に駅舎があるのはこの『西頴娃駅』だけとなり、簡易委託駅で駅員が時間を決めて常駐する。
枕崎線と記述しているが同線の全通は遅く、1960(昭和35)年に『山川駅』から当駅まで繋がり終着駅となり、1963(昭和38)年に当駅から『枕崎駅』まで開通して全通したが、そのために『山川駅』以遠では当駅だけに列車交換設備がある。
【写真−4 今では珍しい琺瑯の駅名表示板が残っていた】
『西頴娃駅』の次が写真−4の『御領(ごりょう)駅』で、同じ名前の駅が岡山県総社市から広島県福山市間を走る私鉄の『井原鉄道』にあり、同鉄道路線は15駅、41.7キロある。
『御領駅』は山を切り開いた谷のような場所に駅が造られていて、枕崎線にはトンネルが3ヶ所あるが枕崎寄りのホームの先に『御領トンネル』があり、そういう環境からか1日の利用者が1人未満という日もあり枕崎線の秘境駅と言っても良い駅。
【写真−5 駅名表示のイラストは波が描かれている】
写真−5の『頴娃大川駅』は次の駅が『松ヶ浦駅』となっているようにかなり海岸に近く、『頴娃大川駅』は南九州市の旧頴娃町、『松ヶ浦駅』は同じ南九州市の旧知覧町に属していた。
同駅と『水成川駅』からは勝負ごとに強い『射楯兵主(いたてつわものぬし)神社』に行けるが、同神社は別名『釜蓋神社』というように釜の蓋を頭の上に乗せて歩く、或いは素焼きの釜蓋を投げる願掛け神事で知られ、戦時中は弾に当たらない評判を取り参拝者で賑わったらしいが、現在の同駅の利用者は1日10人を維持するのがやっとで『松ヶ浦駅』など1人程度の利用者しかない。
【写真−6 火山灰地のためかキャベツ畑も目に付いた】
終点の『枕崎駅』に近づくと沿線は平らになって、写真−6のような綺麗に手入れされた畑地が広がり、ビニールで覆われて栽培されている作物は判別出来なかったが、同地方の名産なのではないか。
南九州市の旧知覧町には旧武家屋敷が残り、戦時中には旧陸軍の特攻隊基地があり同基地から沖縄へ向かって出撃したことで知られるが、飛行場が造られているように平らな土地が広がり、お茶の栽培も盛んで『知覧茶』として名産になっている。
]]>
【写真−1 海に浮かんでいる筏があるように波穏やかな湾内】
『指宿駅』から再び海岸沿いを走ると写真−1の様に山川の街並みを遠望しながら線路は山川町に近づき、同町は2006(平成18)年に指宿市と合併したために単独の自治体は消滅したが合併時は人口1万人を超えていた。
山川町は昔から鰹と鮪を獲る漁港で栄え、鰹節生産量では日本で有数の町になり、その連想から演歌歌手の『山川豊』は山川町出身かと思っていたが、これはこちらの思い違いで山川は三重県鳥羽市出身で、同じく鳥羽市出身の演歌歌手『鳥羽一郎』の弟になる。
【写真−2 駅名は『やまかわ』だが町名は『やまがわ』と濁点付き】
写真−2の『山川駅』は意外と知られていないが、現在日本最南端駅となっている『西大山駅』が1960(昭和35)年に開業するまでは『山川駅』が日本最南端の駅として君臨していた。
その後『山川駅』は無人駅となり、現在は簡易委託駅として駅員を置いているために同駅は『有人駅で日本最南端の駅』と名乗っているが、こういう話は鉄道世界では数多くあって、だからどうなんだと感心のない人にはそう見える。
【写真−3 美味い魚を食べさせる店がありそうな町】
『山川駅』は国道を挟んで街並みが迫り、写真−3は線路が弧を描いて山川港に近づき、港の規模と設備がはっきり見えるようになり、山川港のある山川湾は5000年前の火山噴火で生まれ、その後砂州が延びて形成した良港で古来より栄え、南蛮貿易の中継地、島津藩の琉球貿易に使われ、幕末期に西郷隆盛が奄美方面へ流罪になった時に出た港で、錦江湾を挟んだ対岸の大隅半島へフェリーが就航している。
山川町は海を埋め立てて工場団地を造ったように水産加工も盛んで、こういった水産加工に従事する人は技能実習生という名の海外からの労働者を使っているのが多く、山川町はどうか分からないが、鮪や鰹を獲る漁船にはインドネシアからの実習生が多い。
人口が現在の3分の2になることが確実な日本は、国が縮小することが分かっているのに未だ大国気分で過去に縛られているが、小さくて豊かな国になれるチャンスと頭を切り替えるべきで、その意味では原発などの電力を含む基幹インフラの将来像は全く先が描かれず、企業の論理ばかりが優先されている。
【写真−4 日本最南端の駅として有名でも普通の無人駅】
『山川駅』のその次に『大山駅』に停車して写真−4の『西大山駅』に到着するが、この駅が左の表示で分かるように『JR日本最南端の駅 西大山駅』と記され、ご丁寧に『北緯31度11分』と緯度まで記し、この数字が大きいほど南の緯度にあるのだが普通はすぐには理解出来ない。
同駅に停車したのは17:34で、下車してしまうと次の各駅停車列車が来るのは18:53となり、暗い中を走って終点の『枕崎駅』到着は夜の8時近くになり、ここは下車しないで翌日に同駅で下車して日本最南端の駅をゆっくり味わうことにした。
【写真−5 戦時中にこの山を目視してから特攻機は沖縄へ向かった】
『西大山駅』とセットで 知られるのは背後に聳える写真−5の『開聞岳』で、同山は標高924mと低い山ながら海岸部から立ち上がった独立峰の姿は美しく、深田久弥の『日本百名山』の一つに選ばれている。
開聞岳は885(仁和元)年に最後の噴火が記録された火山で、山容は富士山などと同じ円錐形に噴出物が積み重なる『成層火山』に分類され、フィリピンにも『マヨン火山』という同種の活火山がある。
『マヨン火山』はルソン島南端の海岸部にありその標高は2463mとかなり高く、戦前の同地に住む日本人は『ルソン富士』と呼んだように端麗な姿を持ち今も活発な活火山で、過去には登山中の観光客が突然の噴火で亡くなったこともあり、この山は麓から何度も観ているが山頂の姿は雲と噴煙で一度も観ていない。
フィリピンも日本同様に火山の多い国で、当然地震も多く過去には大地震でたくさんの生命が失われているが、そういう危険性はあるのにフィリピンの都市部には高層のマンションが不動産バブル状態の中で雨後の筍のように建てられている。
次々と建つその柱と梁の細さに大丈夫なのかと思うが、その時はその時で考えないのがフィリピンで、それよりは少し対策がマシな日本も大地震の確立が高まっていても暮らさざるを得ないが、そういった災害は元旦に発生した能登地震で分かるように突然やって来る。
【写真−6 開聞岳の裾を巻くように線路は走る】
写真−6の『開聞駅』の現在は指宿市内になっているが、それまでは1955(昭和30)年発足の開聞町とした比較的新しい町で、合併前の人口は6800人あり開聞岳の登山口へは同駅が一番近く、頂上往復に5時間前後かかる。
同駅前はかなり広く、この場所は同地で走る路線バスの回転場所で、開聞岳麓に広がる九州最大の湖の池田湖へ行くバスも『開聞駅前』という停留所から行けるが、同停留所は駅前を出た国道226号線沿いにあり駅前からは乗れない。
]]>
国鉄時代に『西鹿児島駅(現在の鹿児島中央駅)』から急行『桜島』に乗って、東京へ24時間以上かけて帰ったことを先述したが、この時前日に指宿へ行って海岸でキャンプをして一晩明かし、その時は駅についての興味はあまりなく『指宿駅』が日本の駅で最南端駅だと思っていた。
【写真−1 奄美や沖縄へ行く客船がこの沖を通り何度か乗った】
枕崎線は錦江湾沿いに敷かれているために車窓から海を見る機会は多く、写真−1は特急の停まる『喜入駅』を過ぎてからの光景で、道路を挟んで錦江湾の波静かな海面が広がる。
線路と平行する道路は『国道226号線』で、同国道は総長155.3キロあり、南さつま市を起点に南シナ海沿いに南下して、枕崎市、指宿市を経由して鹿児島市を終点とするが、南さつま市−枕崎市間は地形が険しいために大波による浸水や大雨時の通行規制、またすれ違うのも難しい区間もあるので『酷道』の一つに挙げられている。
【写真−2 鹿児島の名家として島津家は今でも重みはあるらしい】
写真−2の『薩摩今和泉駅』で停車した真ん前にイラスト入りの『篤姫ゆかりの地』の看板があり、『篤姫』という名前は小説やドラマ化されている人物なので知っていたが同駅がゆかりの地だとは知らなかった。
『篤姫』は徳川将軍13代の家定に嫁いだ正室で家定死後は『天璋院』となり、その実家は駅のある地域を治めた薩摩藩主島津家一門の『今和泉島津家』で、激動の幕末から明治まで生き1883(明治16)年に47歳で没し、墓所は徳川家菩提寺の上野の寛永寺にある。
【写真−3 細長い原は埋め立て地だが利用に失敗した】
『薩摩今和泉駅』からかなり長く海岸沿いを走っていると国道の向こう側に写真−3の細長い看板が目に入り、それには『ようこそ 長渕剛ゆかりの地 宮ヶ浜へ』と車窓からと通過しながら読め、『海に最も近い駅』と称する『宮ヶ浜駅』も近い。
国道の向こうには細長く草地が広がり、ここでコンサートでも開催したのかと思ったが、長渕は鹿児島県出身で母親が宮ヶ浜のある指宿市出身なのでゆかりの地となったようで、2023(令和5)年5月に『母ちゃんの海 宮ヶ浜』と題した長渕の散文詩を刻んだ詩誌が建立された。
【写真−4 フィリピンでも鰹節を作って一山当てようとした人物がいた】
『指宿駅』に到着して目に入ったのが写真−4の『鰹本節 生産量日本一』の看板で、日本国内の鰹節総生産量は2022(令和4)年の統計では2万5000トンになるが、都道府県別では鹿児島県が断トツの1万8000トン(72.3%)、2位に静岡県の6600トン(26.7%)でこの2県で大部分を生産している。
都市別では鹿児島県の枕崎市が1万4000トン、指宿市(山川)5900トン、静岡県は焼津市の7000トンとなっていて、鰹節も削り節など色々品目はあるがどの項目を見ても枕崎市がどれも一位の生産量を挙げていて、指宿の日本一というのは良く見ると高級な品目の『鰹本節』であり、その項目で一位のようだ。
【写真−5 指宿駅も初めて来た時と構内の佇まいは変わらない】
写真−5は『指宿駅』ホームで、『鹿児島中央駅』を出た各駅停車列車の多くはここ止まりで折り返し、それ以遠の枕崎方面への始発駅になる枕崎線で重要な駅にもなり、折しも『鹿児島中央駅』行きの各駅停車列車がホームに入って来た。
同駅は砂蒸し温泉で知られる温泉の下車駅で、冒頭に触れた指宿の海岸でキャンプした頃は海岸に身体を埋めるだけの素朴な環境であり、確かに砂浜を裸足で歩くと熱が伝わって来た。
その当時は適当に海岸でテントを張っても煩くない時代で、朝になって東京へ戻る列車内で食べるご飯とカレーを作っていると、見知らぬ人から朝飯を食べに来いと言われ海岸近くの家でご馳走になった想い出があり、旅行中にそういう事も多かった時代でもある。
【写真−6 『指宿駅』を過ぎると運行列車は少なくなる】
枕崎線の起点『鹿児島中央駅』−終点『枕崎駅』間を通しで走る各駅停車列車は午前と午後に1本ずつ運行し、96.6キロを2時間半余かけて走るが、乗車したのは16:02発午後の便であった。
写真−6は『鹿児島中央駅』から乗って来た各駅停車列車の車内の様子で、『指宿駅』から先は御覧の通り前方の席に通学生が座るだけで、終点までこのような状態が続いたが、中吊り広告があるのが目に付いた。
]]>
【写真−1 在来線2本と新幹線が入るだけの駅なのに大袈裟な造り】
『鹿児島中央駅』は九州新幹線の乗り入れのために駅舎は新しく造り替えられ、写真−1のように在来線ホーム頭上は鉄骨の構造物で蓋がされ薄暗く、これは既存の駅に新幹線駅を乗り入れる場合に良く使われている。
2番線から発車する各駅停車列車の時刻が表示されているが、一番上に16:02の『枕崎駅』行き、真ん中は途中の『喜入駅』行き、下は『慈眼寺駅』行きになり、この2駅は何れも鹿児島市内の駅で、特に『慈眼寺駅』特に『慈眼寺駅』は『鹿児島中央駅』から5駅先の近さであり、この時間帯から通学生用に便宜を図っているようだ。
【写真−2 ワイヤーでブラブラしないように補強された表示板】
写真−2の駅名表示は『鹿児島中央駅』の立ち位置が良く分かり、左側の『かごしま(鹿児島)』は本来の鹿児島本線と日豊本線の起点駅だが、『鹿児島中央駅』が『西鹿児島駅』と名乗っていた時代から今も、実際の鉄道運用駅としてはこちらの方が重要になっている。
右側の『ひろき(広木)』は鹿児島本線、その下の『こおりもと(郡元)』は枕崎線の駅で、どちらの駅も鹿児島市内に入り、中央に見えるイラストは桜島と鹿児島の偉人西郷隆盛。
【写真−3 本物の女子高校生が立っているような写真】
枕崎線ホームで見かけたのが写真−3の写真パネルで、手前の金属の箱はゴミ箱で駅構内の美化を呼び掛けていて、このスポンサーが鹿児島土産で知られる製菓会社で、左端にある『ボンタンアメ』は特に知られ、発売は1925(大正14)年というから歴史もある。
写真パネルの女子高校生だが、セブに昭和の時代に鹿児島の女子高を出た知り合いがいて、その人の話を聞くと鹿児島は女子校でも質実剛健を好む校風があって、体育の時など軍隊風の行進をさせられたらしいが、令和の時代になっても同じことをやっているのだろうか。
【写真−4 鹿児島本線はほぼ電化だが枕崎線は単線の非電化路線】
2番線に16:02発『枕崎駅』行きの各駅停車列車が入って来たが、この午後4時台は写真−4で分かるように利用者は通学する高校生ばかりで、途中の『指宿駅』行きを含めて1時間に4本も運行している。
通勤用には5時台に3本、6時台にも3本運行していて、このくらいの間隔なら鉄道で近郊から鹿児島市へ通勤する人も多いのではと思え、いくら自動車時代であっても運行時刻が正確で渋滞のない鉄道の優位さは揺るがない。
【写真−5 地方の路線では珍しい黄色い車体の快速列車】
枕崎線は36駅、87.8キロの路線で、写真−5は『五位野駅』になるが、同駅で黄色く塗られた列車とすれ違い、この列車は『なのはな号』と呼ぶ快速列車で『鹿児島中央駅』−『指宿駅』間を1日3本走っている。
それほど路線の長くもない枕崎線だが、『指宿のたまて箱』という特急を『鹿児島中央駅』−『指宿駅』間46キロ弱に1日に3本も走らせていて、各駅停車列車で1時間半かかる区間を50分少々で走る。
『五位野駅』は鹿児島市の『平川動物園』の下車駅になり、同動物園はオーストラリアから『コアラ』が日本の動物園で初めて飼われた1984(昭和59)年に、東京の多摩動物公園、名古屋の東山動物園と並んで飼育し、コアラの動物園と知られる。
【写真−6 国内最大の石油備蓄基地があり特急も停まる駅】
『五位野駅』も写真−6の『喜入駅』も鹿児島市内に入り、ホームの向こう側の住宅の様子から鹿児島市内に通うベッドタウンのような雰囲気を持つが、喜入という地名は聞き覚えがあり、ここは大規模な石油備蓄基地があるので知られる。
石油備蓄基地というのは1970年代にあった『オイルショック』を経験に
日本各地の海岸部に文字通り石油を備蓄するタンク群を造った場所で、国或いは企業が計画に基づいて造り現在19ヶ所あって、九州地区には5ヶ所、沖縄に2ヶ所ある。
その中でも喜入の石油備蓄基地は石油大手のENEOSが1969(昭和44)年に海を埋め立てて造ったもので、その備蓄量はタンク50余に750万キロリットル、これは国内最大の備蓄量を誇り、そのためか枕崎線を走る特急は『喜入駅』のみ途中停車する。
]]>
【写真−1 新幹線駅と比べると同じ駅には見えない鹿児島本線ホーム】
2019年の『新幹線全線乗車の旅』で『鹿児島中央駅』に降り立った時、その昔の『西鹿児島駅』時代とは駅も駅前もすっかり変わってしまったことに驚いたが、写真−1は同駅に到着した鹿児島本線ホームで、新幹線の駅となり駅名を変えてもホームの造りや構造は昔と同じのようだ。
右の方に見える列車は、車体の色から日豊本線の『宮崎駅』まで2時間ほどで結ぶ特急『きりしま』と思えるが、日豊本線は特急しか走らない区間が露骨で、後に宮崎から大分方面へ行く時に各駅停車列車の運行時刻に驚かされるが、鹿児島本線には九州新幹線が平行して走っているために特急は全て廃止された。
【写真−2 階下へ降りるエレヴェーターが設備されていて便利】
本日の最終目的地は枕崎線の終点『枕崎駅』で、写真−2は枕崎線ホームに降りる階段だが、左の天井から下がる電光表示板には上が14:35発『『喜入』行き、下が15:02発『指宿方面山川』と表示され、何れも『枕崎駅』の途中駅で途中で乗り継ぐ必要がある。
しかし、16:02に『鹿児島中央駅』から『枕崎駅』まで直通する各駅停車列車が出ていて、『鹿児島中央駅』には14:12に到着したので乗り継ぎまで2時間弱あり、この時間を利用して駅ビル内で食事など時間を過ごすことにする。
【写真−3 路面電車の線路だけは昔のようだが他は全部変わった】
『西鹿児島駅』と呼ばれた時代を知っていると先述し、新幹線に乗る前に桜島だけは観たいと思って駅ビルから眺めたが、その時は薄ぼんやりとしか見えず残念な気持ちを抱き、今回も駅ビルから眺めるが写真−3のようにビルに阻まれて全容は観られなかった。
駅ビルは『アミュプラザ鹿児島』と呼ばれ、新幹線開通の半年後に送れて開業し当時は市内最大の売り場面積を持ち200店舗ほどのテナントが入り、10年後の2014(平成26)年にはすぐ傍に東急ハンズなどが入るプレミアム館を増築し、駅を中心に市内でも有数の集客場所となった。
写真−3の左側に見えるのは全国展開の『イオン』で、イオンは港地区にも鹿児島最大の売り場面積を持つ店舗を造ったために、『アミュプラザ鹿児島』は広さでは首位から陥落し、写真右側の白いビルの上部建屋は西鉄が経営するホテルで、JRの真ん前にホテルを造って勝負しているのが面白いが、JR九州は反対側でホテルを運営している。
『鹿児島中央駅』の駅ビル群はホテルを含めてJR九州の子会社が運営し、このようにJR各社は鉄道業より不動産業の方に力を入れていることが分かり、不動産業で儲けているならば本来の鉄道は赤字でも良いではないかという至極真面な指摘もある。
【写真−4 平日にも関わらず高校生が乗りに来ていた】
『アミュプラザ鹿児島』屋上に観覧車があって、次の列車に乗るまで時間も充分で天気も良いので観覧車からならば桜島の全容が観えるのではないかと乗ることにし、写真−4はその観覧車の乗り場付近の様子で、遠くで見た優雅な姿よりずいぶん機械的な部材で武骨に造られているのが分かる。
観覧車に乗るのはこどもの頃以来かなと記憶を辿ると、このフィリピンで行われるフェイスタ(祭り)で空き地に臨時の遊園地が出来て、そこにあった小さな観覧車に知り合いのこどもと一緒に乗ったことを思い出したが、かなりの高速でグルグル回って気持ち悪くなったが、こんな華奢な組み立て式の観覧車でよく事故が起きないなとも思った。
【写真−5 鹿児島と言えば噴煙を上げる標高1117mの桜島】
登山をしていた頃はロッククライミングをやろうと思ったくらいで高い所は平気な方で、『アミュプラザ鹿児島』の観覧車の一番高い地点は地上90mらしいが、屋上から飛び出ているような感じがして、足元がスース―するような感じで結構スリル感はあった。
写真−5が最高地点近くで撮った一枚で、桜島とその間の錦江湾が見えて満足出来る眺めであったが、高校生の時に市内の磯公園で観た桜島は噴煙を上げた見事な姿を覚えているのでどうしても比較してしまい、欲を言えばもう少し空がはっきりしていれば良かった。
【写真−6 本日最後に乗る各駅停車列車は『枕崎駅』行き】
駅に戻って写真−6の改札口へ行くが、表示板左に16:02発の『枕崎駅』行きの各駅停車列車が予定通りに発車することが分かり、まだ時間があるので小腹が空いていたので駅ビル内にある食堂街で蕎麦を食べたが、この店はうどんの方が売り物なのか味は今一であった。
『鹿児島中央駅』から出る枕崎線は1時間に1本程度を運行しているが、その多くは途中の『指宿駅』か次の『山川駅』止まりで、そこから枕崎方面へ行くには乗り継がなければならないが、『鹿児島中央駅』−『枕崎駅』間を通して走る各駅停車列車が10:02、12:02、そして今回乗車する16:02の1日に3本出ている。
]]>
【写真−1 人手削減からか窓の清掃に手が回らないのが今のJR】
『川内駅』から乗車した各駅停車列車は鹿児島本線では最新型の車両だが、洗車した後の水滴が綺麗に拭き取られていなくて斑模様になって垂れて汚れているように見え、車内から窓越しに撮ると写真−1のようになり醜いことこの上なし。
人手を減らし車両保守に手が回らないからこういう状態の車両を運行するようになるのだが、先日新幹線『大宮駅』手前の架線の不備によって全線終日運休という事態を招いたのも、保守に手が回っていないのが原因で、その原因はJR各社が手のかかる鉄道運行で利益を出すのを止めて、駅ビルなどの『不動産業』に転じている姿勢が大きい。
今時、窓から景色を楽しむ人などいなくて、乗客は俯いてスマホを見るばかりだからこのような汚い窓の車両を運行している一つになるかも知れないが、写真−1の駅はどこの駅かと調べたら、赤い柱のホーム上の待合所から『川内駅』次の『隈之城駅』と分かった。
【写真−2 教育ビジネスというのはフィリピンではかなり儲かる】
写真−2は『神村学園前駅』で、同駅前には国道3号線を挟んで小中高を持つ駅名の私立学校があり、その数は1日1000数百人を超し、そのために2010(平成22)年に学校といちき串木野市が折半する形で駅を誘致、駅を新設しても採算が取れるとJRは判断して開業したが無人駅である。
このようにJRではなく受益者側が資金を出して新たな駅を造る例は各地にあり、中でも学校関係というのは駅名がその物ズバリで目立つが、同駅は鹿児島市から40分くらいで通えるので市内から通学する者も多いようだ。
同駅名の学校は高校野球の強豪校で知られ、今年の選抜で9年目ぶり6回目の出場を決めたが、甲子園に出場すると学校名は全国的になるから特に私学は一所懸命に補強に走り、日大の廃部になったアメフト部の部員など大学で勉強していた気配も感じられず、オリンピックを筆頭にスポーツに関わる人間も歪んでいて、それが分かっていないのが更に問題である。
【写真−3 戦争末期の連合軍上陸作戦予定地の浜には少し遠い】
写真−3の『神村学園前駅』も写真−4の『市来駅』も人口2万6千人ほどの『いちき串木野市』にあり、この平仮名と漢字の市名は2005(平成17)年に市来町と串木野市が合併して生まれた合成市名で、かつては遠洋鮪漁で栄えた港を持つ。
同市は東シナ海側に開けていて、同市から南の日置市、南さつま市にかけての海岸は日本三大砂丘の一つ、47キロに及ぶ弧状の『吹上浜』があり、この浜は戦争末期に連合軍が九州の三ヶ所から上陸する作戦を立てた時の一つで、荒唐無稽の『本土決戦』などと叫んでいた連中に見せたい浜である。
【写真−4 鹿児島市都市圏に入るので近郊型電車が走る】
『市来駅』の次が温泉のある『湯之元駅』、その次が写真−4の『東市来駅』で、同駅は『日置市』にあり、同市は近隣4町が2005(平成17)年に合併して生まれた市で、人口は4万5千人を超すが、過疎化によって人口維持は難しい。
肥薩おれんじ鉄道線は気動車を走らせているが、『川内駅』からのJR鹿児島線は電車を走らせ、ホーム反対側に『川内駅』行きの電車が停まり、車体横に『Commuter Train 817』と記され、この電車は近郊型電車として開発、製造された『817系』になる。
車体がアルミ合金で造られ、無塗装のために精悍な印象を与え内装も合板性の背と座、窓もUVカットの一枚ガラスが使われるなど斬新な考えが取り入れられているが、製造開始は2001(平成13)年から始まり意外と古い。
【写真−5 『いしゅういん』と読みたいが『いじゅういん』】
日置市の中心駅が写真−5の『伊集院(いじゅういん)駅』で、伊集院という名称は鹿児島で良く聞く名称だが、鎌倉時代から続く地名で駅の開業は1913(大正2)年と110年を超している。
同駅はかつて鹿児島交通の『枕崎線(南薩線)』という路線の起点駅で、同線は薩摩半島の海岸寄り内陸部の町を経由して現在の枕崎線終点の『枕崎駅』まで、23駅、49.6キロを繋いでいた。
このように現在の薩摩半島の鉄道は『枕崎駅』で行き止まりになっているが、かつては目のように繋がっていて、これは鹿児島湾を挟んだ大隅半島の『志布志駅』も同様にその先は繋がっていた。
南薩線の開業は1914(大正3)年で、しばらくは重要な交通機関として位置を占めていたが、自動車時代を迎えて地方私鉄として経営難に陥り、廃線の話は何度も出、経営も変わったが1983(昭和58)年の豪雨による被害が追い打ちをかけ、翌年に廃線となった。
【写真−6 ホームに駅員も立っていて小学生が大勢利用する時間のようだ】
今回の旅行中に朝方の各駅停車列車には高校生の通学風景は良く見たが、写真−6のように小学生が電車を使って通学する姿は初めて見、制服の様子から私立の小学校だと思うが、地方でもこういう姿を見るとは思わなかった。
これは鹿児島市に近い駅だから見る風景で、鹿児島県の高校は極端な名門意識が強く、これがまた進学競争を生むのだが、鹿児島県というのは保守的な土地柄だから
高校がそうなら中学、小学校も競争が激しいのではと想像するが、これは鹿児島に限らず日本中そうであるから一概に評することは出来ない。
]]>
【写真−1 肥薩おれんじ鉄道線の中でホームから海が見える駅の一つ】
『阿久根駅』を出た各駅停車列車は次に写真−1の『牛ノ浜駅』に到着するが、『浜』の字が入っているようにホームの向こう側には海が広がり、肥薩おれんじ鉄道路線にある駅の中では絶景が見られる駅と知られる。
ホームと海の間には『国道3号線』が走っていて、同国道は福岡県北九州市を起点に熊本市を経由して、ほぼ鹿児島本線沿いの市と町を通って鹿児島市に至り、全長519.1キロの九州西岸の幹線道路になる。
【写真−2 砂浜と磯が交じった変化に富んだ澄んだ海が見える】
『牛ノ浜駅』近くにも1970年代まで海水浴場があったように、同駅を過ぎると写真−2のような国道3号線と共に海岸沿いを走り目を奪われるが、この辺りは鹿児島県立自然公園に含まれている。
この辺りの海域は『南シナ海』に入るが、写真の水平線右に浮かぶ島は無人島の『阿久根大島』ではないかと思え、後述するが同島に生息する野生の鹿をモデルに阿久根市はマスコットキャラクターを作っている。
【写真−3 右下に作者なのか『はまさきぢ』の白いサインが見える】
写真−3では『大川駅』と表示されているが、正式な名前は『薩摩大川駅』で、大川という駅名はJR東の鶴見線から盲腸のように1駅だけ出ている『大川駅』が1926(大正15)年に開業、1987(昭和62)年に廃線になったが九州の佐賀線に1933(昭和8)年開業の『筑後大川駅』があったために、1936(昭和11)年開業の同駅には薩摩の名称が付いた。
『薩摩大川駅』のある路線一帯は地形の関係から豪雨などで被害を受けては長期間運休する危険個所であったが、そのために新しくトンネルを掘って新たな線路を付け替え、駅自体も水没しないように嵩上げしてホームは2階にある。
ホームにあるイラスト入りの看板だが、左に見える動物は熊に見えたが、これは阿久根市のマスコットキャラクターの『阿っくん』で、先述した『阿久根大島』に生息する鹿がモデルで、同島は阿久根市沖合い3キロにある周囲4キロの無人島に鹿が130頭ほど生息している。
このキャラクターが生まれたのは2008(平成20)年で、この年は阿久根市で市長と市議会が対立し、市長解任、市議会解散などの騒動が勃発し全国的な話題になった年で、こういうキャラクター選定も争いの原因になったのかなと野次馬的に考える。
【写真−4 JRの切符を持っていたので良かったが乗り継ぐ時間が短い】
13:18に『出水駅』を出て肥薩おれんじ鉄道終着の『川内駅』には14:19に到着し、同駅から鹿児島本線『鹿児島中央駅』行きの各駅停車列車が14:22に乗り継ぐが、乗り継ぎ時間はたった3分しかない。
写真−4で分かるように肥薩おれんじ鉄道の車両は車止めのかなり手前に停まり、そのホームのかなり先の右側に停まる青い色の車両のそのまた先にJRの『鹿児島中央駅』行きが停まっていて、急いで乗車した。
【写真−5 新幹線駅へ通じる跨線橋の下のために薄暗い】
『川内駅』は新幹線、鹿児島本線、そして『八代駅』から乗って来た肥薩おれんじ鉄道線が乗り入れる、同地域では大きな駅で、また同駅を起点に内陸部を走り鹿児島県大口市(現伊佐市)の『薩摩大口駅』まで至る20駅、66.1キロの『宮之城線』があったが、この線も全国の赤字路線大量廃線の行われた1987(昭和62)年に廃線となった。
写真−5は再び同駅から鹿児島本線が始まっていることの分かる駅名表示で、元々の鹿児島本線なら空白の左側には『上川内駅』の名前が入り、その下にある時刻表を見ると朝夕の通勤通学時間帯には1時間に3本から4本、日中でも最低1時間に1本を『鹿児島中央駅』方面に運行しているのが分かる。
【写真−6 鹿児島市まで20分なので同駅からの通勤通学者も多い】
鹿児島本線『川内駅』発『鹿児島中央駅』行きの各駅停車列車に乗車して驚いたのは写真−6のように合板性の背と座にクッションの付いた座席が目に入り、鹿児島だから古い車両を運行しているという思いは間違いであった。
この車両は『817系』という新しい車両で、既に九州に入って乗っているが座席の形式は『片持ち式ロングシート』と呼ばれているもので、運用開始の2001(平成13)年に同車両はグッドデザイン賞を受賞していて、そこ彼処にデザイン的な仕様が見える。
]]>
【写真−1 在来線から見ると新幹線高架は我が物顔で通る】
新幹線が開業するのに伴って在来線がこのような形になった路線は長野/北陸新幹線、東北新幹線にも見られ、端的に言えばこのやり方はJRが赤字路線を自治体に押し付けた方策であり、長年培った在来線住民の利便を放棄したことになる。
写真−1は肥薩おれんじ鉄道路線に時には交わったりする九州新幹線の高架で、新幹線停車駅の一つでもある『出水駅』近くで撮っているが、肥薩おれんじ鉄道区間にはこの他『新水俣駅』、『川内駅』の3駅が設けられている。
【写真−2 同じJR駅でも金のかけ方が違い過ぎる】
『水俣駅』から20分弱で写真−2の『出水駅』ホームに到着するが、同駅の開業は1923(大正12)年と100年を経過し、国鉄時代は機関区が設けられ、貨物輸送も活発な鉄道の要衝駅で、その名残りから西口には蒸気機関車『C56−92号』が保存されている。
ホームから見える左のガラス張りの建物は新幹線『出水駅』の駅舎で、コンクリートと鉄骨を組み合わせた『ハイブリッド工法』で建てられ、この写真では分かり難いが、屋根の部分は出水市の名を高めた『鶴』をモチーフにしたデザインで、2004(平成12)年に日本建築協会賞に入選したが、在来線ホームとの対比が際立つ。
【写真−3 在来線ホームの落ち着いた雰囲気を感じさせる】
写真−3は『鶴』のイラストのある横幕で歓迎する『出水駅』西口ホームで、こちら側が出水市の表口になり新幹線駅舎のある東口は開発されていない状態が続き、西口側は昔からのホテルなどは存在しているが、商店などは閉まった店が多い。
出水市を有名にした『鶴の渡来地』は江戸の元禄期から記録があり、時代と共に渡来数の増減の変遷があり、現在は10月から3月にかけて1万羽以上の各種の鶴が同地域で越冬をするが、鶴の種類は『ナベヅル』が多数派を占める。
同渡来地の広さは245ヘクタールあり、1952(昭和27)年に国の『特別天然記念物』指定、2021(令和3)年には世界の湿地帯を保護する『ラムサール条約』の53番目に登録されたが、鹿児島本線は敷設当初渡来地を横切る計画であったが鳥類学者の反対によって迂回した経緯がある。
【写真−4 肥薩おれんじ鉄道主力のHSOR−100形気動車】
『出水駅』から終点の『川内駅』行きの各駅停車列車に乗り換えるが、乗り換え時間は2分しかなくどうかと思ったが、ホームの対面に写真−4の『川内駅』行きが入って来て杞憂で、その点は運行会社側もしっかり考えている。
鹿児島本線は電化されているが、肥薩おれんじ鉄道は電車は高価、維持費の高さから写真−4のディーゼル車両をJR九州から経営が移る前から準備したが、乗っている分にはディーゼル車と電車の違いはそれほど変わらず、ディーゼル車はホームから発車時にエンジン音が響き、車体を震わせる時がある。
【写真−5 これは固定式だが転換式の座席を持つ車両もある】
同車両の椅子の様子が写真−5で、クロスシートとロングシートの組み合わせになっているが、足の部分や腕乗せのデザインと工作は稚拙な感じを受け、長く使われているために座面や背がへたり込んでいるのが痛々しい。
HSOR−100形気動車の諸元だが、長さ18.5m、自重30.3トンをt最大出力330馬力のディーゼルエンジンが最高時速95キロ/時で走り、定員は117人のトイレを備えたワンマンカーで、同型は19両製造された。
【写真−6 駅舎は2014(平成26)年に多目的用に改修された】
人口5万人の出水市の隣に人口1万8千人を切る阿久根市があり、同市の中心が写真−6の『阿久根駅』で、この駅舎は2代目で初代は1945(昭和20)年8月12日の空襲で焼失した。
敗戦間際に米軍による日本各地への空襲は連日あり、この時期の空襲は無差別の『屠殺』同然であり、現在イスラエルがガザで進めている過剰な攻撃と似たものを感じ、人間は進歩しないことを如実に表している。
阿久根市というと元防衛大出の航空自衛官の市長を巡って2008(平成20)年からの不信任可決、議会解散、失職、再選の市政を巡ってゴタゴタした自治体として知られるが、九州は防衛大合格者を多く出している地域で、2023年の防衛大合格高校の上位3校は何れも九州の私立高で、他にも九州の高校の名前が上位に顔を出す。
]]>
【写真−1 役所の縄張り意識を象徴するような案内】
チッソが垂れ流した水銀の堆積した湾を埋め立てた場所を市民のためのスポーツ施設を造って事件はなかったように糊塗した場所を『水俣エコパーク』と名付け、埋め立てによって昔からあった小さな岬が陸続きになり、その丘に3つの施設を造って『学びの丘』と命名した。
写真−1は『学びの丘』入り口に建っている案内で、上から環境省、熊本県、水俣市の各施設が写真と共に紹介されているが、この順番は役所の格が違うためと税金で生きている役人連中は当たり前と思うであろうが、水俣病を最後まで認めなかったのは案内の一番上にある国であって、こういうのを『恥を知らない』と言う。
【写真−2 バス利用で来るにはかなり不便な場所】
帰りは1日何本も通じていないバスで『水俣駅』に戻るが、写真−2は『水俣病資料館下』という停留所で、ここから坂道を上がって3つの施設に至り、ガラス張りのいかにも金をかけたと見える建物は環境省の『水俣病情報センター』。
停留所名で分かるように水俣市の資料館が丘の上に最初に出来て、そのためにバス会社も『水俣病資料館下』と停留所名を付けたが、国や県としては『学びの丘』と変更したいところであっても、停留所名の変更というのは結構大変らしい。
【写真−3 第3セクター路線では切符を購入しながら進んだ】
『水俣駅』から肥薩おれんじ鉄道で更に南を目指すが、上野駅で切符をまとめて購入した時に第3セクター路線は買えず、乗車する度に購入しているとは以前にも記しているが、写真−3は『水俣駅』で購入した乗車券で、下にある『水俣▶510円区間』の切符は肥薩おれんじ鉄道南の『出水駅』までの運賃で、同鉄道の終点は『川内駅』になり、そこから先は鹿児島本線に復帰する。
『川内駅』から先のJR切符は購入済みで、上にある切符はワンマンカーに乗車する際に取る『整理券』で、これで乗り換え時に精算をするが、それにしてもどうして立ち寄る予定のない『出水駅』までしか買わなかったか不思議だが、『川内駅』で鹿児島本線に乗り換えてから精算すれば良いと思ったのであろうか。
ちなみに『水俣駅』−『川内駅』間の運賃は1740円で、切符を置いた場所は『水俣駅』から乗った各駅停車列車の座席上で、通常無地の張地が多い鉄道の座席ではチェック柄は珍しく洒落ている。
【写真−4 知らない人には前面下部の2つの赤丸は何だと思う代物】
写真−4が『水俣駅』から乗車した12:58発の『出水駅』行きで、選んだ訳ではないがやって来たのは熊本県のキャラクターの『くまモン』のラッピング各駅停車列車で、この手の列車が好きな人には堪らないであろうが、あまり興味はない。
同鉄道では青色の『くまモン1号車』、オレンジ色の『くまモン2号車』、2018(平成30)年から黒色の『くまモン3号』を運行して観光客を誘致を図ってスケジュール化しているが、たまたま『水俣駅』から乗ったのが『くまモン3号』となった。
【写真−5 わざわざこの車両目当てに乗車した人の姿もあった】
『くまモン3号』の車内の様子が写真−5で、特に他の列車と仕様が変わった様子はなく、座席の頭の部分にくまモン模様のカバーがかかっているのが特徴と言えば特徴で、他にもあったのだろうが気が付かなかった。
この各駅停車列車は『水俣駅』から3駅目の『出水駅』止まりで、『出水駅』からは『川内駅』行きの各駅停車列車に引き継ぐようになっているが、時刻表を見ると2分しか乗り換え時間はなくて、少々心配になる。
【写真−6 熊本県最後の同駅から鹿児島県に入った】
『水俣駅』の次の駅は水俣市の『袋駅』で、同駅は熊本県最南端の駅になりそこを過ぎると鹿児島県に入り、その最初の駅が写真−6の『米ノ津(こめのつ)駅』で、鹿児島県出水市にある。
同駅の開業は1923(大正12)年と既に100年を経過した古い駅で、駅名の由来はそのものズバリの付近が昔からの米の生産地から来ているが、かつては離島へ向かう港があって賑わった時もあり、この航路は2009(平成21)年に全廃され寂れたが、近くに高校がありその通学者で持っている無人駅。
]]>
【写真−1 駅前の超一等地にあるのが不思議なパン屋】
『水俣駅』に到着したのは9:01で、『水俣病資料館』へ行って見学時間を充分に確保するために、同駅から次に乗るのは12:58発の『出水駅』行きにし、その後『鹿児島中央駅』から枕崎線に乗車し、終点の『枕崎駅』へ行くのが本日の予定。
駅前に『手づくりパンの店』と書かれた写真−1の建物があり、水俣資料館のある『学びの丘』へ行くバスが来るまでかなり時間があったので、店の中に入ってクロワッサンと牛乳で軽く朝食を摂る。
後で知ったのだが、このパン屋のある建物の向こう側に『チッソ』の正門があり、確かに写真を拡大すると工場設備が見え、正門は『水俣駅』から正面の至近にあり同社が水俣病を起こし、隠蔽出来たのも水俣市に君臨していたための一端を知り、初めから分かっていたら工場の正面写真を撮っていたが、不審者として警察に即通報されるのが今の時代である。
【写真−2 同地に行って分かったが同じ場所に3つの施設が建つ】
結局、バスで行くのは諦めて駅前で客待ちをするタクシーに乗って水俣病資料館へ行くが、せっかくの機会なので運転手に水俣病の現在を聞きたかったが、さすがに憚る空気もあり、運転手もこの手の客は慣れているらしく天気の話などをしながら粛々と車を進め、資料館まで車は入れないと思ったら、写真−2の資料館正面でタクシーは停った。
同資料館は水俣市が1993(平成5)年に開館し、この頃はチッソに対しての賠償判決は出ても国や行政は責任を認めず、資料館が出来た翌年の慰霊式で初めて水俣市長が謝罪をした時期でもある。
資料館の内容に関しては巷間伝えられる内容を中立的になぞっただけで新しい発見は無かったが、患者側の視点、水俣病闘争の視点からは1974(昭和49)年発足の『水俣病センター相思社』へも行った方が良かったが時間の関係で断念。
【写真−3 日没の頃と満月の時に見たらまた印象は変わる】
資料館の隣に『水俣メモリアル』と命名された写真−3のスペースがあって、写真に見られるように広さは海に向かった3000平米で、階段状のコンクリート床面にステンレス製のボールがランダムに置かれ、これは公開コンペで選ばれたイタリアの建築家の作品で1996(平成8)年に造られた。
最初は奇怪な感じはしたが、この場所は不知火海を臨む明神崎で、直径40センチのボールは108個置かれ、ステンレスの色は水俣病を引き起こした『水銀』を象徴し、108個は仏教でいう煩悩の数になる。
この階段は西に向かって降りて行き、夕陽がステンレスボールに反射する様はなかなかの趣を生み、写真の右の方に見えるラグビーのゴールのような物は下部にガラスが張られ、上部から水が滴るようになっていて、これは『祈りの噴水』と名付けられ、犠牲者の涙を象徴しているという。
【写真−4 環境省も問題が起きてから対策を講じる典型的な役所】
同地には写真−2の水俣市立、熊本県立、環境省の水俣病と環境問題に特化した建物が隣り合うように3つの建物があり、何で一つの問題なのに3つも施設を造ったのかと疑問を持った。
写真−4は水俣病資料館と建物が続く環境省の『水俣病情報センター』で、中は資料館と被るような展示だが、2001(平成13)年に竣工し、同施設は水俣市内の別の地にある『国立水俣病総合研究センター』の付属施設となっているためか、ガラスを多用した外観から分かるようにかなりの費用が投じられている。
【写真−5 福島原発の除染と処理水排水と同じ発想がここには見える】
その屋上から見たのが現在『水俣エコパーク』と呼んでいる埋め立て地で、広さは41.4ヘクタールあるが、ここはチッソから垂れ流されたメチル水銀がヘドロとして堆積していた湾で、特殊な工法でヘドロを封じ込めて埋め立てたいわく付きの場所である。
現在はサッカー場、テニスコート、野球場などが造られ市民の憩いの場となっていて外部向けに道の駅もあり、埋め立ててしまえば水俣病など何もなかったような雰囲気だが、写真の右の方に小さな漁港がありまだこの近くで漁をする人がいるのかと気になる。
【写真−6 水俣に限らず水俣病は海を越えた対岸でも発生した】
資料館などが造られているのは埋め立てによって地続きになっているが、かつては海に突き出た明神崎という名の岬で、その一帯を整備して現在は『学びの丘』と呼んでいるが、岬に沿って公園風の遊歩道が設けられている。
その途中にあったのが写真−6の『展望案内図』で、この日は天気が良かったせいもあるが、八代海(不知火海)の水平線上には案内図のようにいくつも島が見え、水銀に汚染された海に生息する魚は広範囲に広がり、長閑に見えるこれらの島の沿岸でも水俣病が発生している。
]]>
【写真−1 ホームに温泉の案内があるように近くに温泉地がある】
その水俣市には肥薩おれんじ鉄道線が通り、写真−1は水俣市に隣接する人口4000人の津奈木町にある『津奈木駅』で、同町は水俣湾に続く八代海(有明湾)に面する町で、どこか聞いた地名だなと思ったら『水俣病』の発生した地域の一つだと思い出した。
『水俣病』は八代海で獲れる水銀に汚染した魚から人間に至った『食物連鎖』の恐ろしさを明らかにしたが、高度成長期の企業の傲慢、それと密接に利権で結び付いた国や地方行政と住民、その住民による患者への差別など人間の業を露わにした日本の高度成長期に起きた事件で、風化させてはいけない事件でもある。
【写真−2 新幹線駅が出来ておまけのような駅】
『津奈木駅』の次が写真−2の『新水俣駅』で、同駅の元々は車両などを入れ替えたりするために1927(昭和2)年に開設した『信号場』で、2004(平成16)年の九州新幹線『新八代駅』−『鹿児島中央駅』間が開通した時に『新水俣駅』として生まれた。
そういった経緯から新幹線駅舎は2階建てコンクリートの外壁もデザイン的な堂々たる造りで、一方肥薩おれんじ鉄道線の『新水俣駅』は幅の狭いホームに、新幹線駅に押し潰されるように設けられた無人駅で、同線から新幹線へ乗り換えるには一度駅を出て行く必要がある。
【写真−3 水俣駅で記念に残したいと言ったらスタンプを押して無効に】
『上野駅』のみどりの窓口で係員相手に2時間近くの時間をかけて、旅行中に使う切符をまとめて購入したことは再三書いているが、その切符もJRと繋がる第3セクター路線は連続して買えずJR路線のみで、買えなかった第3セクター路線は現地購入で旅を続けた。
写真−3は肥薩おれんじ鉄道線の『八代駅』で購入した切符で、1280円という金額はJR 鹿児島本線が再び始まる『川内駅』までではなく、途中の『水俣駅』までの料金で、同駅で途中下車をする。
【写真−4 感慨を持ってこの駅に降りたが他に下車した人は見なかった】
写真−4の『水俣駅』は1926(大正15)年の開業で、やがて100年を迎える古い駅で、旧国鉄時代はチッソからの専用線が乗り入れ、鹿児島本線の保線区、車両基地として広い構内を有していたが、今は構内の多くは民間に売却された。
同駅は1988(昭和63)年に廃止されるまで16駅、55.7キロの『山野線』と呼ぶ内陸部を走って鹿児島県境を越える線の起点でもあり、終点は肥薩線の『人吉駅』先の『栗野駅』となっていて、その先は日豊本線の『隼人駅』に繋がっていた。
山野線は山間を走るために輪を描いて走るループ線を持つ路線として知られ、同線は1921(大正11)年に鉱山開発用に開通したが、鹿児島県内側に『菱刈駅』という駅があり、同地は日本の金のほとんどを産出し、世界的な金の鉱山としても有名な『菱刈鉱山』がある。
【写真−5 やはり駅に係員が常駐しているのは安心感がある】
写真−5は『水俣駅』の改札口を出た方向からホーム方面を写しているが、同駅にはオレンジ色のジャンパーを着た係員がいて出改札を行い珍しいなと思ったが、同駅は『簡易委託駅』で、NPOが運営している。
同駅は駅舎をリニューアルしたり、レストランや売店、カフェなど駅舎内にあったが、何れも鉄道が斜陽になるに連れて閉鎖に追い込まれ、駅ビル経営で利潤を上げる大都会の駅と違って地方の鉄道駅での経営維持の難しさをここにも見る。
【写真−6 駅前にタクシーは停まるが利用者があるのかと心配する】
写真−6が『水俣駅』全景で、同駅舎は2015(平成27)年にリニューアルされているが、その時に旧駅舎待合室に展示されていた水俣市出身の歌手『村下孝蔵』のギターなど遺品を展示していたが撤去されてしまった。
『村下孝蔵』は小中共に市内の学校出身で、親は水俣市内に2軒、九州の他の地域に5軒、計7軒の映画館を経営していた資産家であり、1983(昭和58)年の『初恋』は大ヒットを記録し、その抒情性から令和の今も歌われ、昭和歌謡が見直されている現在、水俣市は『村下孝蔵』の評価を改めてした方が良いのではないか。
『水俣駅』で下車したのは『水俣病』を記録、展示した資料館が同地にあるためで、駅内のロッカーに荷物を預けて資料館行きのバスを待つが、発車までかなり長い時間を待たされるために、その時間を利用して駅前にあるパン屋に入って何かを食べることにする。
]]>
【写真−1 写真をよく見ると対向車両にはラッピングがされてある】
その『不知火』の名前の付いた不知火海(有明海)沿いに薩摩おれんじ鉄道は走るが、写真−1は先述した『日奈久温泉駅』の次の駅『肥後二見駅』で、反対側線路に『八代駅』行きの列車が停まっているが、ワンマンカーなのでホームの長さが痛々しい。
同駅は1925(大正14)年に開業しやがて100年を迎え、今の利用者は1日20人を切る無人駅だが、八代市でも有名な海水浴場が駅近くにあって1980年代後半まで夏休み期間中に『八代駅』から駅員が派遣されて改札業務を行った時代もあった。
【写真−2 同鉄道沿線は沿線風景の美しさを誇る】
不知火海沿いに走る肥薩おれんじ鉄道線は写真−2のように視界の広がる景色が時々現れ、穏やかな海面はこの海が内海であることを印象付けるが、水平線上に見える島影は天草諸島のようだ。
天草諸島は主に上島と下島に分かれるが、1966(昭和41)年に熊本県側の宇土半島三角から上島まで5つの橋で、1974(昭和49)年に上島−下島間が架橋されてキリスト教の歴史濃い島は地続きになった。
【写真−3 ホーム沿いの民家には古の日本の懐かしさを感じる】
『肥後二見駅』の次が写真−3の『上田浦(かみたうら)駅』で、ホームから見える民家の向こう側は海岸が広がり、同駅も1980年代半ばまでは夏季には臨時列車が運行され、臨海学校が設けられ海水浴客も多く民宿や商店も賑わったが時代と共に廃れた。
ホームの向こう側に見える瓦屋根の重厚な民家はかつて民宿を営んでいたらしく、こういった民家が海岸沿いにまだ残っていて、屋根などこの地方独特の様式かと思うが、今回の旅で鉄道沿線に残る古い建物を目に焼き付けようと思ったが、今の日本の建物は新建材の使い捨て建物ばかりが沿線に続きガッカリした。
【写真−4 沖には天草の島々が薄っすらと見える】
内海の不知火海は遠浅でもあり、写真−4のよう干潟が干満に連れて現れるが、こういった浅瀬や干潟は海の生物が生きるために必要だが、浅瀬であるために無用とばかりに埋め立てられたのは全国に数多ある。
セブにもラムサール条約で認められた干潟があるが、新セブ国際空港建設計画が持ち上がって埋め立てれば良いとの話も出ていて、自然保護など何のそのという国で、マニラ湾など埋め立てが盛んで、これらは企業と自治体の利権絡みで進められ最近政府から全部の埋め立て中止命令が出たほどであったが、またぞろ復活したから政府も利権に絡んでいるようだ。
【写真−5 同線は電化されているが同社は経営上気動車を走らせている】
肥薩おれんじ鉄道は2004(平成16)年開業で、『八代駅』−『川内駅』間、116.9キロを走るが、『肥』は肥後の熊本県、『薩』は薩摩の鹿児島県が大株主で、それぞれが39.8%を持ち、その他に日本貨物鉄道6.4%、八代市3.9%、薩摩川内市3.3%を所有している。
同鉄道は開業時から専用の気動車19両を運行しているが、白系の車体にオレンジと青、緑の帯を入れ、正面と横に二つのオレンジのイラストを描き明るい印象を与えるが、写真−5は『肥薩おれんじ鉄道 HSR−100形』という車両だが、窓の形状と車体下部に記されている数字から『HSR−151A』であり、イヴェントなどに使われている。
【写真−6 やがて100年のこういう駅舎はいつまでも残して欲しい】
古めかしい駅舎姿を見せるのが写真−6の『佐敷駅』で、同駅は1925(大正14)年の開業で、駅舎もその当時の建物が使われていて、先述した『日奈久温泉駅』に次いで肥薩おれんじ鉄道線では2番目に古い駅舎になっている。
写真の左右に絵の描かれたパネルが立てられているが、これは『放課後ていぼう日誌』という漫画とそれを2020(令和2)年にアニメ化した作品で、同駅をモデルにした一話があり、それを宣伝している。
ちなみに『ていぼう』とは『堤防』のことで、そこで釣りをする部活を中心に描いた作品だが、アニメのファンは『聖地巡礼』などと称して作品の舞台になった土地を訪ねるのが盛んなので、そういったファンを狙った駅のパネルであろうが、作品によっては舞台になった地元で迷惑している例もある。
]]>
【写真−1 全国の駅舎正面でこれは異形の最たる建造物】
熊本での夕食について、先述したように高校の修学旅行で熊本に泊まったが、部屋に着くなり同級生達とお金を賭けて花札をやり、大勝ちしたので仲の良い級友と旅館の食事など食べずに何か熊本名物の美味い物を食べに行こうと街に出、有明海産の海産物を出す料理店を見つけ、そこでムツゴロウなどの料理を食べたことがあり、その再現を狙ったが叶わなかった。
鹿児島本線『熊本駅』発6:44の『八代駅』行きに乗車するために6時前にホテルを出るが、写真−1の北白川口駅前は朝が早いために人影はほとんどなく、安藤忠雄設計の窓のほとんどない駅舎の壁が要塞のように見える。
泊まった東横インでは朝食サービスを行っているが、出発が早いことと元々朝食を食べる習慣がないのでどこでも利用せず、これは海外のホテルに泊まっても朝食付きというのはあまり関心なくその分料金を引いてもらった方が有難い。
【写真−2 こういう物が好きな人には堪らないキャラクターが鎮座】
駅内に入ると写真−2の像がベンチの上に座っているのが目を引き、この手の物にあまり興味はなくてもこれが『くまモン』と知られる熊本県のマスコットキャラクターで、スマホの写真撮影過剰時代に合わせてベンチに置いて一緒に座って写真を撮れるようにしたのであろう。
この『くまモン』、2011(平成23)年の九州新幹線全面開通に合わせて前年に開発されたもので、2011(平成23)年にはこういったマスコットキャラクターを集めた全国大会でグランプリに輝いたらしいが、だから何だで役所も暇でまた必死だなあと思う程度。
【写真−3 九州新幹線駅は新設の『新八代駅』で別の駅】
この旅も日程の半ばに入り毎朝早い出立のためか、『熊本駅』から10駅目に写真−3の『八代駅』があるのだが、その間一枚も写真を撮っていなくて、恐らく各駅停車列車に乗り込んで席を定めてからこの区間は寝ていたのだと思うが、寝ていたという記憶もない。
『八代駅』からは『川内駅』まで行く第3セクターの『薩摩おれんじ鉄道』に乗り換えるが、写真−3で分かるようにJRホームの先に『薩摩おれんじ鉄道』のホームがあり、路線名は変えているが元々は鹿児島本線そのままを使っている。
『川内駅』から先はまた鹿児島本線が始まって『鹿児島中央駅』へ行くが、こういう中抜きの変則路線になったのは、2004(平成16)年の九州新幹線一部開通に伴って新幹線と平行する路線は別会社化したためで、こういった例では他の新幹線でも開通に従って実施されJR側のご都合の何物でもない。
なお『八代駅』は鹿児島本線、この薩摩おれんじ鉄道線、内陸部を南下して『人吉駅』を経由して日豊本線『隼人駅』に繋がる、28駅、124.2キロの肥薩線の起点駅でもあり、この肥薩線は2020(令和2)年の集中豪雨で橋梁などが流される被害を受け、未だ不通箇所の復旧はならず見通しも立っていない。
【写真−4 珍しく何人か利用者は乗っていたが旅行者のよう】
『薩摩おれんじ鉄道』は『八代駅』−『川内駅』まで28駅、116.9キロが不知火海沿いに走り、写真−4は『八代駅』から乗った各駅停車列車内の様子で同鉄道路線は電化されているが主に気動車が使用されていて、写真左中ほどに見える天井まで伸びる半円形の筒はディーゼルエンジンの排気筒である。
同鉄道使用車両は第3セクター化時に用意した車両で、『薩摩おれんじ鉄道 HSOR−100形気動車』と呼ばれ、19両が製造されたワンマンカーで座席はクロスシートとロングシートが組み合わされトイレも設置されている。
【写真−5 駅舎に下がる手書きの駅名を記した暖簾がいじらしい】
写真−5は『八代駅』から2つ目の『日奈久(ひなぐ)温泉駅』で、同駅はまだ八代市内になり、この温泉は不知火海沿いにある温泉で15世紀の開湯と歴史は古く、明治末から昭和にかけて造られた重要文化財の建物も残る木造2、3階建ての旅館が並ぶ温泉街が形成され、俳人の『山頭火』が好んだ温泉でもあった。
同駅から『乗合馬車』が温泉街まで走っていた時代があり、たった5分ながら古き時代を伝えていたが馬の確保や馭者不足、交通事情によって1984(昭和59)年に廃止された。
八代市は人口12万人を超し県内で熊本市に次ぐ大きな市だが、八代市がどういう市か知らなくても昨年末に73歳で亡くなった歌手の『八代亜紀』の出身地として知られ、同人の歌う『舟歌』は絶品。
【写真−6 蜃気楼の一つである不知火由来の不知火海を見る】
『薩摩おれんじ鉄道』線は不知火海沿いに走り、同線は景色の良さを誇る路線でもあり、写真−6のような海の風景が時々現れ、目を楽しませてくれる。
その昔、『西鹿児島駅(現在の鹿児島中央駅)』から急行『桜島』に乗って東京まで1日以上かけて帰ったことがあって、その時も鹿児島本線を東京に向かって走ったが、不知火海に展開する風景など全く記憶に残っていなくて、風景というものは同じ場所でも時と事情によって印象が変わるようだ。
]]>
【写真−1 泊まった部屋からは熊本城は見えなかった】
修学旅行では熊本市内に泊まっているが、どういう旅館であったか枕投げをやったくらいしか覚えていず、今回の旅では『熊本駅』を降りてすぐの場所に建つ写真−1のかなり高層のホテルに泊まる。
修学旅行のことをもう少々付け加えると、熊本から貸し切りバスで乗って阿蘇を経由して大分に出たが、泊まったのは長崎、熊本、別府と記憶するがそれだと少ない気もしそのくらい修学旅行の記憶というのは曖昧で、帰途は『大分駅』から再び鉄道で東京へ向かうが、旅行中一緒であったバスガイドさんが別れを惜しんでか泣いていたのは良く覚えている。
熊本で泊まったホテルはビジネスホテルチェーンの東横インで、東横インの中では場所も良く最も高いビルになるように思うが、便利さでいえば2019年の『新幹線全線乗車の旅』で泊まった新潟の東横インは駅と直結していた。
セブにも東横インが数年前に開業したが、建物の建っていたモールが銀行に差し押さえられ、その銀行を傘下にするフィリピン最大手のモール運営会社が増改築して新たに開業するよう工事を進めているが、東横インの方は自社物件ではないので撤退するつもりか火が消えたようになっている。
【写真−2 JRは日本有数の一等地の地主と分かるが元は国有財産】
写真−2は泊まった部屋から見た風景で、『熊本駅』の北白川口を望むが、『熊本駅』は2011(平成23)年の九州新幹線乗り入れに伴って北白川口は更地にして再開発が進み、左に白く見えるビルは2021(令和3)年に開業したJR九州の子会社が経営するホテルである。
また手前の灰色のビルはユニクロや映画館が入るショッピングモールで、このようにJRは旧国鉄から引き継いだ広大な土地を再開発して不動産業に力を入れていて、本業の鉄道より不動産業の方が儲かっているから、赤字の鉄道路線は切り捨てという発想が強い。
【写真−3 JR駅から続く曲線の屋根が面白い】
『熊本駅』前には熊本市営の路面電車が走っていて、写真−3は『熊本駅前』の停留所で、同市電は現在AとBの2系統あり、A系統は26停留所、9.2キロ、B系統は28停留所、9.4キロある。
同市電の始まりは1824(大正13)年からで発足以来一世紀を迎えるが、地方公共団体の経営する交通事業は赤字が多く、ここも例外ではなく既に市のバス事業は撤退して市電の方も2025(令和7)年を持って、市交通局を廃止して路線の保守と車両管理を市の新組織が担い、運行は市が出資して新たに設立する組織に移譲することになっている。
【写真−4 路面電車でクロスシートというのは珍しいのでは】
夕食は熊本市の繁華街で摂ろうと駅前からやって来た市電に乗るが、写真−4はその時乗車した車内の様子で、たまたま来た電車に乗ったがこの車両は1997(平成9)年から日本で初めて導入された『超低床電車』で『熊本市交通局9700形電車』と呼ばれている。
この電車に乗って驚いたのは2両が連結固定されていて、ヨーロッパなどでは普通に見られるが日本では珍しい路面電車で、同型車両は5編成の10両が走っているが、2両編成のためか写真にも左に写っているが、中ほどに車掌が乗っていて色々説明していたのが異色といえば異色。
【写真−5 低成長時代少子化で昔より繁華街の人出は少ない】
市電は旧城下町時代の道路上に敷かれたためか右に左に曲がることが多かったが、熊本城近くになって適当に賑やかになって来たなという停留所で下車し、写真−5のアーケード街に入る。
2012(平成24)年に九州で3番目の政令都市として発足した熊本市には5つの区があり、中心部には3つの繁華街があって、写真−5はその一つの『下町』のアーケードで市内では最大の通りだが、他の2つの繁華街とアーケードを通じて繋がっている。
足に任せてアーケード内を歩くが食事をしようにもどこも似たり寄ったりの店ばかりで、熊本一の繁華街というが近年は郊外型ショッピングセンターが周辺に出現して昔よりは客足は落ちていて、確かに行き交う人も繁華街というには寂しく、この問題は各地の旧来の繁華街に共通する。
【写真−6 市電のレールを挟んでアーケード街が連なり彼方に城が】
修学旅行で熊本に泊まったと冒頭に書いたが、その時は熊本城と水前寺公園を見学したのは覚えていて、『西南の役』で政府軍が立て籠もり西郷軍の攻撃で落城しなかった故事に感心し、今回も熊本城の姿位は見たいなと思ったが既に夕暮れが迫っていて城には行けなかった。
しかし、写真−6の市電のレールを歩いて横切る時に、彼方に熊本城の姿が黒いシルエットで小さく見えこれで城を見たことにするが、同城は加藤清正が築城したと知られるが、現在見える天守閣は1960(昭和35)年にコンクリートで再建されたものだが、重要文化財の櫓や門が数多く残っている。
2016(平成28)年の熊本地震で熊本城は石垣が崩れるなど大きな被害を受けたが、天守閣については2021(令和3)年に復旧したが、他の石垣や重要文化財の櫓などの完全復旧は2052年までかかると発表されているから先は長い。
]]>
【写真−1 全国で運行される数少ないSL臨時列車の一つ】
『大牟田駅』ホーム床面で目に入ったのが写真−1の表示で、これは見て分かるように鹿児島本線と肥薩線を走る蒸気機関車の『SL人吉』号の乗車口案内になり、『SL人吉』の存在は知っていたが『大牟田駅』から乗車が出来るとは知らなかった。
『SL人吉』は1922(大正11)年製造の人吉市に静態保存されていた『8620形蒸気機関車−58654番』を復元、整備し『鳥栖駅』−『熊本駅』−『人吉駅』間を旅行シーズンの週末などに走らせている座席指定の臨時列車で、1988(昭和63)年から開始した。
同蒸気機関車は1914(大正3)年から1929(昭和4)年にかけて672両製造された内の1両で、100年近い旧い車両なので『SL人吉』も動かせるまでかなり手を入れて運行するが故障も多く、さすがに老体には堪えるのか2024(令和6)年3月をもって運行終了する発表がなされているが、流動的な状況である。
【写真−2 その昔は石炭出荷の貨物車で賑わった広い構内】
JR『大牟田駅』ホームから線路とホームの向こうに見慣れない色の車両が停まっているなと気が付いたが、これは九州の私鉄大手の西鉄の車両で、西鉄の駅とJRの駅が同じ構内にあるのは『大牟田駅』のみである。
西鉄天神大牟田線と呼ばれ『大牟田駅』から福岡市の繁華街『西鉄福岡(天神)駅』を結び49駅、74.8キロの沿線は人口を擁する市が連なり西鉄のドル箱路線になっていて、車体の明るい青色塗装に赤い帯線は西鉄とすぐに分かる。
【写真−3 同駅も近隣に工場が多く引き込み線が多く敷かれていた】
先述した『SL人吉』は鹿児島本線では『鳥栖駅』を出て『久留米駅』−『大牟田駅』に停まり、写真−3の『玉名駅』に停まり次に『熊本駅』まで行くが、『鳥栖駅』には転車台がないために『鳥栖駅』発の『SL人吉』はディーゼル車で牽引している。
『玉名駅』は人口6万2千人を擁する玉名市の中心駅になるが、九州新幹線が開通した時に4キロほど離れた場所に『新玉名駅』が開業したために鉄道利用者の流れに変化は出たが、利用者は『玉名駅』の方が『新玉名駅』より7〜8倍も多い。
【写真−4 表示板左下の『へいせい(平成)駅』は豊肥線最初の駅】
写真−4の『熊本駅』には17:43に到着したが、佐賀県の松浦線『伊万里駅』を7:07に出て、途中日本の鉄道最西端駅の『たびら平戸口駅』に途中下車してはいるが、都合10時間余を駅と車内で過ごしたことになる。
『熊本駅』は名実ともに熊本県内第一の駅で、九州新幹線、鹿児島本線、『大分駅』まで37駅、148キロの阿蘇高原を横切る豊肥線が乗り入れていて、この豊肥線は観光路線でもあるが熊本市都市圏の通勤通学に使われている。
【写真−5 乗って来た各駅停車列車は『銀水駅』に折り返す】
熊本市は人口74万人の政令都市で、そのせいもあってホームは写真−5で分かるように階段降り口は大都市のラッシュ時の混みようで、熊本市を中心に国公立私大が多くあり、そのためか大学生の利用者も多い。
『大牟田駅』からの各駅停車列車は4番線ホームに到着し、反対側の5番線ホームからは『三角駅』行きの案内が出ているが、これは有明海の『三角駅』まで行く三角線のことで、同線は鹿児島本線の『宇土駅』間9駅、25.6キロの路線だが、運行上は『熊本駅』まで直通している。
【写真−6 こちらの目を引く黒い駅舎は安藤忠雄の設計】
熊本で泊まるホテルは『熊本駅』の『白川口』にあり、反対側は『新幹線口』と名付けられているが、写真−6は『白川口』駅舎で、外に出て駅舎を振り返るとその黒い壁のようなデザインに驚かされる。
この駅舎は2019(平成31)年に安藤忠雄の設計で竣工した建物で、斜めになった黒い壁面は熊本のシンボルである黒壁が印象的な熊本城の急な石垣をイメージしているが、窓のほとんどないデザインは強烈な印象を与える。
]]>
【写真−1 運転士席後ろの曲面ガラスなど洒落ている】
本日5本目の『羽犬塚駅』発『大牟田駅』行き電車の車内先頭部分が写真−1で、電車は『JR九州815系』と呼ばれ、グッドデザイン賞を受賞したことがあるように運転室やドアに鮮やかな黄色に塗られているのが斬新。
運転席の右側の黒い蓋のある箱はゴミ箱で、車内にゴミ箱を備えているのは珍しく、乗客がどれだけゴミ箱にゴミをわざわざ足を運んで入れるか分からないが、旧国鉄時代の車内で出したゴミは、座席の下に押し込むのが当たり前であった頃を考えると大きな変化。
【写真−2 スマホを見るか寝ているかが日本の鉄道の二大特色】
『大牟田駅』行きロングシート2両編成のワンマンカーの車内の様子が写真−2で、同電車は近郊都市区間用に投入されていて、この時間帯でも乗客がかなり乗り、中吊り広告もあって通勤通学に重用されていることが分かる。
この電車の特徴だが、ドアとドアの間には大きな一枚の嵌め殺しの窓、ロングシートながら乗客毎に区切られている座席、空調装置によってかつての電車に普通にあった座席下の暖房装置がなく、荷物棚がアルミ製などと見るべき所は多い。
【写真−3 明治時代に開業した意外に古い駅】
駅同士は分離しているが新幹線駅のある『築後船小屋駅』から3つ目の駅が写真−3の『渡瀬(わたぜ)駅』で、同駅は1891(明治24)年に私鉄の『九州鉄道』が開業した時に開設された100年以上も経つ駅で、なおこの九州鉄道は1907(明治40)年に国有化された。
同駅の現在の所在は『みやま市』になるが、駅開設当時は『二川村』で、当初駅名候補を『二川』するように検討したが、東海道本線の豊橋市内に『二川駅』が生まれたために二川村の字名の渡瀬にした経緯がある。
【写真−4 学生の利用者が多いためか無人駅の簡易委託駅】
同電車終着の『大牟田駅』手前の駅が写真−4の『銀水駅』で、既に大牟田市に入っているが、開業は1926(大正15)年で写っている駅舎はその当時の木造駅舎で、やがて一世紀になるが確かに古めかしい。
駅名はなかなか景気の良さそうな感じだが、由来は近くを流れる『白銀川(別名銀水川)』から来ていて近くで『銀』が採れた訳ではなく、高校生の姿がホームで目立ったが、近くには公立私立の高校がいくつもあり、なお福岡中央へ行く西鉄天神大牟田線の『銀水駅』が離れた場所にある。
【写真−5 同駅の次は熊本県最初の荒尾駅】
『羽犬塚駅』から乗った各駅停車列車は16:22に写真−5の『大牟田駅』に到着し、同駅は福岡県最南端の駅になり、JR鹿児島本線と私鉄の西鉄天神大牟田線が同駅に乗り入れていて、そういう駅は他にもありそうだがこの駅のみである。
駅名表示板の下中央に描かれているイラストは、毎年7月に同市で行われる『大蛇山(だいじゃやま)まつり』に使われる山車の先に付けられる大蛇をモチーフにした飾りで、なぜ大蛇なのかの伝承ははっきりしないが、かつての産炭地として栄えた同地方でもかなり豪快な祭りとなっている。
【写真−6 同駅は3回目の大牟田大空襲で駅舎を焼失している】
『大牟田駅』で写真−6の16:51発『熊本駅』行きに乗り換えるが、乗車する電車は『羽犬塚駅』から乗って来た車両と同じの『JR九州815系電車』で、帰りの通勤通学時間帯に入っているためにホームには利用者の姿が多い。
『大牟田駅』の現駅舎は4代目だが、以前の駅舎は戦時中に空襲を受け焼失した歴史を持ち、大牟田は産炭地であり各種工場が集中していたために5度の空襲を受けていて、駅舎が焼失した空襲は3度目の空襲時であった。
最初の空襲は1944(昭和19)年11月21日、駅舎の焼失した3度目の空襲は1945(昭和20)年7月27日、最後の空襲は8月15日の敗戦の日の1週間前の8月7日から8日にかけてで、この5度の空襲によって死傷者3000人以上、罹災家屋1万2000戸以上という被害を受けた。
]]>
【写真−1 昔は少し大きな駅には必ずあったホームの立ち食いそば店】
全国的に駅構内やホームでの立ち食いそば店は減少しているらしいが、写真−1は『鳥栖駅』で見かけた『立ち食いうどんそば店』で、『うどん』が先になっているのが西らしく、旅の初日に東海道本線を乗り継いでいる時に、ホームに停まった目の前に立ち食いそば店があったので食べた以来の店だが、空腹感はなくて写真を撮るだけに終わった。
『鳥栖駅』で営業しているのは同市で経営している『中央軒』という業者で、立ち食いうどんそば店では九州で一番古く、構内には何店もあり、各種駅弁も売っていて鉄道の世界では有名な店らしい。
【写真−2 聞いたこともない駅行きの電車に乗るのも楽しみ】
『鳥栖駅』から15:33発の『大牟田駅』行きの電車に乗れば良いが、その前の15:26に写真−2の『羽犬塚駅』行きの電車が入って来たので乗車するが、この電車は14:41に『博多駅』から出発している。
これは『JR九州811系電車』と呼ぶ車種で、先頭のデザインはかなり洗練している感じで新しい車両かと思ったが、1989(平成元)から1993(平成5)年にかけて28編成112両製造し、既に四半世紀以上運行されている。
車体は無塗装の軽量ステンレス製で、前面だけは鋼鈑或いはFRP材料で造られ白く塗装されていて、車内は臨時急行にも使えるように転換式クロスシート仕様で青色と紫色の2色が使われている。
【写真−3 久留米市は医療と医学環境の優れている都市】
『鳥栖駅』から『肥前旭駅』を経て写真−3の『久留米駅』に到着するが、同駅のある久留米市は福岡市、北九州市に次ぐ福岡県で3番目の人口を持ち、世界的企業の『ブリヂストン』創業の地として知られる。
ブリヂストンは創業者の石橋の名前を英語読みにして企業名にしたというのは有名だが、石橋は美術収集でも知られ東京京橋にある旧称『ブリヂストン美術館』にある青木繁作の『海の幸(重要文化財)』は日本の絵画史上最高作と言って良い。
青木繁は1882(明治15)年に生まれ1911(明治41)年に28歳で没したが、久留米市出身で17歳まで過ごした木造2階建ての生家が保存されている。
『久留米駅』はJRと九州の私鉄の雄西鉄の『久留米駅』があり、利用者では西鉄の駅の方がJR駅を凌いでいるが、JR『久留米駅』には九州新幹線、鹿児島本線が入り、九州を横断して『大分駅』に至る37駅、141.5キロの久大本線の始発駅となっている。
【写真−4 その昔の犬の伝説の残る駅名】
『久留米駅』から3つ目が写真−4の『羽犬塚(はいぬづか)駅』で、変わった駅名だが開業した1891(明治24)年当時は『羽犬塚村』にあり、当時の村の名前から命名し現在は筑後市に属すが駅名にその名を残す。
同駅は『博多駅』からの各駅停車列車や快速が1日に何本も折り返すが、1945(昭和20)年から1985(昭和60)年まで現在の八女市方面へ行く10駅、19.7キロの『矢部線』の起点でもあった。
【写真−5 2001年のグッドデザイン賞受賞車】
『羽犬塚駅』で13分待って写真−5の『大牟田駅』行きの電車が入って来たが、同列車は『鳥栖駅』始発で同駅にて待っていればこの電車に乗って『羽犬塚駅』で乗り換える必要もなかったが、逆にこの駅に降りることなどないから良かったとも言える。
この電車は『JR九州815系電車』で、1999(平成11)年に26編成52両製造され、車体はアルミ合金製で『鳥栖駅』−『羽犬塚駅』間を乗って来た『JR九州811系電車』より10数%軽量化されている。
【写真−6 同じ駅名でも在来線駅と新幹線駅の造りの違いが分かる】
『羽犬塚駅』の次が写真−6の『築後船小屋駅』で、2019年の『新幹線全線乗車の旅』で九州新幹線を走る『さくら』で停まった時に、ずいぶん変わった名称の駅だなと思った。
ホームの向こうに威圧する様に造られているのが新幹線『築後船小屋駅』で、同駅は筑後市にあり同地方を選挙区にする議員が引っ張って来たと言われ、2011(平成23)年の新幹線『博多駅』−『新八代駅』開業に合わせて500m移動し、名称も『船小屋駅』から『築後船小屋駅』に改称した。
]]>