【写真−1 駅に柵がなく住宅と一体化している雰囲気が好ましい】
写真−1の『波根駅』は名前の通り近くに海水浴場があり、ホームから水平線が見え、同駅は大田市内には10駅ある駅の中では最北に位置し、開業は1915(大正4)年と既に100年を過ぎている。
海側から山陰本線、山側に国道9号線、更に山側に高速道路の『山陰自動車道』が並行して走っていて、同高速道路の開通は1985(昭和60)年で、鳥取市を起点に山陰海岸沿いに下関市まで380キロ、時代とは言え開通によって同地方の鉄道事業の衰退を更に進めてしまった。
【写真−2 冬季の景色はまた違う表情を見せるのであろう】
『波根駅』から次の『田儀駅』間は写真−2のように国道9号線を挟んで線路が延び、のびやかな水平線が車窓に広がり、彼方に見える影は島ではなく、出雲方面の半島のようだ。
国道9号線は山陰本線と付かず離れずの距離で並行しているが、写真でも分かるようにあまり車が連なって走っているような光景や、車が走っていてもトラックのような商業車は少なく、山陰地方の過疎化は物流にも影響を与えているようだ。
【写真−3 ホームは北側に面しているので水平線に沈む夕陽はどうか】
その国道9号線と海を臨んだ場所にあるのが写真−3の『田儀駅』で、折しも反対側ホームに『浜田駅』行きの各駅停車列車が入って来て、車両の向こう側に水平線が入る構図はJRが好んでPR用に使う写真でもある。
同駅は大田市を離れ出雲市に入っていて、駅名はその昔の『田儀村』から来ているが現町名は地の違う『多伎(たき)町』で、これは合併によって合成した地名になり、駅舎は2005(平成17)年に町営バスターミナル兼用でログハウス風に建てられた。
【写真−4 山陰本線の電化区間というのは少なくほとんど単線】
写真−4は終点の『出雲市駅』一つ手前の『西出雲駅』で、1913(大正2)年に開業した当時は『知井宮駅』という名称で、宮が入っているように『出雲風土記』に同所に『知乃社(ちのやしろ)』がありそこから来ている。
同駅は1993(平成−5)年に『西出雲駅』に改称し、下関側の『幡生駅』から当駅までは非電化区間で気動車を走らせているが、写真−5で分かるようにここから電化されていて張られた架線が妙に新鮮。
【写真−5 今は山陰本線のみだがかつては大社線があった】
『浜田駅』発6:34の各駅停車列車は8:49に『出雲市駅』に到着し、写真−5は到着したホームの反対側を写したが、JR西が採用しているオレンジ色に塗られた車両を見て同系統の車両で瀬戸内海沿岸を乗り継いだことを思い出した。
同駅が1910(明治43)年に開業した当時の名前は『出雲今市駅』で、1957(昭和32)年に『出雲市駅』と変哲もない駅名に改称したが、当時の国鉄と自治体の連中の貧弱な国語力と地名の歴史を軽んじる態度はどうしようもない。
【写真−6 余りにも取り澄ました駅前で神話の郷を感じさせない】
駅のある出雲市は人口17万人を擁し、山陰地方では県庁所在地の松江市と鳥取市に次ぐ人口で、そのためもあって同駅は1998(平成10)年に同地域では数少ない高架駅となり、写真−6の北口入り口は出雲大社の建物を模している。
大きな市のために駅前は整理されていて、同駅は私鉄の『一畑電車』の起点でもあり、山陰本線『米子駅』行きは10:01のために時間があるので『一畑電車』の『出雲市駅』に行くが、駅構内でホームは隣接していると思ったら、全く別々になっていて一度駅を出ないと行けない。
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【写真−1 新建材の家でも瓦屋根になっている】
山日本海沿岸を走る山陰本線は時々写真−1のような海に臨む集落をすり抜けて走るが、この石見地方の浜田市から江津市にかけては日本三大瓦産地の一つ『石州瓦』を生産している地域で地元産の瓦を乗せた家屋が並ぶ。
石州瓦の特徴は土と焼成温度から生まれる赤褐色の色だが、最近は黒系の瓦も生産していて、瓦を使った屋根は断熱性は良いが瓦自体の重さのためにかなりの荷重が柱と梁にかかり、この間の能登半島地震でも瓦屋根の古い木造家屋は屋根の部分を残して下側は倒壊しているのが多かった。
【写真−2 次の駅は『湯里駅』だが同地には温泉はない】
写真−2が冒頭に書いた難読駅の『温泉津駅』で、これで『ゆのつ』と読むから漢字の読み方は難しく、どうしてこう読むのかと考えても仕方がなくこう読むのだと丸暗記するしかない。
同駅から徒歩で海に向かって15分くらいの場所にある入り江に『温泉津温泉』があり、同温泉街は石州瓦を乗せた古い建物が連なり、2004(平成16)年に国の『重要伝統的建築物群保存地区』に指定され、温泉街としては初めての指定であった。
温泉津で特筆されるのはユネスコの世界遺産になった『石見銀山』から産出した銀を温泉街に連なる温泉津港から積み出したことで、同港も世界遺産の登録を受け、駅そのものは特徴のない無人駅でも歴史の中では同地は豊かであった。
【写真−3 グリーン座席はない特急列車】
『温泉津駅』に『出雲市駅』行き各駅停車列車が停まっていると、反対側に写真−3の列車が通り過ぎ、これは山陰本線と山口線を走る特急で、『米子駅』6:49発の『スーパーおき1号』で、10:19に『新山口駅』到着する。
山陰本線の同区間を走る特急は他に『スーパーまつかぜ』があるが、使用している車両は同じ『JR西キハ−187系気動車』でデザイン的には地味だが、急カーブの多い区間を走るために設計され、2両編成と特急にしてはやはり地味。
【写真−4 この長い砂浜は鳴き砂で知られる『琴ヶ浜』か】
写真−4も車窓からの山陰海岸の様子で、山陰海岸は奇岩の多い岩礁の続く海岸のイメージは強いが、この写真には結構長い薄茶色の砂浜が写っていて意外な感じはしたが、鳥取砂丘を思うと日本海側に砂浜があってもおかしくはない。
車窓から眺める分には綺麗な砂浜と海に見えるが、打ち寄せる波と同じ海なのにどこか太平洋側と比べると重苦しく、海辺に連なる集落も閉鎖的な感じを受け、これが風吹き荒び雪が舞うような冬季だと寂しい光景になるのだろうと想像する。
【写真−5 1日の乗車人員は200人前後と意外に多い】
『温泉津駅』から既に太田市内を走っていて、写真−5は『仁万駅』で、駅のある地名は『仁摩』であり、同地のかつての郡名は『邇摩郡』で合併を繰り返して、最終的には2005(平成17)年に太田市と合併したために、邇摩郡と仁万町は消滅した。
同駅はユネスコの『石見銀山遺跡とその文化的景観』に登録された関連施設に近い最寄り駅でもあり、時間帯によっては特急も停車し、同駅からは鳴き砂で知られる1.6キロに及ぶ『琴ヶ浜』が近く、また仁摩町出身の建築家『高松伸』設計の『仁摩サンドミュージアム』がある。
【写真−6 ホーム上の時刻表は赤色の特急列車運行がかなり多い】
大田市中心の駅が写真−6の『大田市駅』で、『おおた』ではなく『おおだ』と読むが、開業当時の1915(大正4)年には『石見大田駅』で『おおた』と称していて、1971(昭和46)年に『大田市駅』と改称し『おおだ』となった。
同駅の2、3番線ホームからの跨線橋に使われている鋳鉄製の門柱は、現存する鉄道の鋳鉄製門柱では国内最古の1890(明治23)年に神戸の工場で造られた重要文化財級の物で、門柱は勿論跨線橋全体が歴史を感じさせる造りで、もう少し停車時間があったら写真に撮っていた。
大田市(人口3万1千人)の山側には江戸時代に世界の銀の3分の1を産出したというユネスコの世界遺産登録の『石見銀山』があり、同銀山の中心となった同市大森地区は鉱山町として1987(昭和62)年に『重要伝統的建造物群保存地区』に指定された。
石見銀山がユネスコの世界遺産に登録されたのは2007(平成19)年で、一時は不承認であったがロビー活動が功を制して日本の世界登録遺産として14番目、文化遺産としては11番目、産業遺産としてはアジアで最初の登録地となった。
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【写真−1 駅前には岩見神楽をモデルにしたカラクリ時計がある】
写真−1は浜田市の中心駅の『浜田駅』で、浜田市は県庁所在地の松江市、出雲市に続く県内3番目の人口で現在5万1千人を擁し、同地方を表す『石見』は古代日本の7世紀の律令制に始まり、同地域は東西に長いために益田市中心地域を『石西』、太田市中心地域を『石東』、そしてこの浜田市を中心とした地域を『石央』と分けている。
日本海側の『浜田駅』と瀬戸内海側の広島を結んで中国山地を横断する路線がかつてあって、同線は山陽本線『横川駅』から『三段峡駅』までの60.2キロは開通したが、『浜田駅』から『三段峡駅』までは着工出来ず、この区間は幻の『今福線』と呼ばれている。
国鉄時代は中国山地を横断する路線がいくつもあったが、車の時代を迎えて次々と廃線になり、『浜田駅』へ乗り入れるはずであった同線は現在可部線として生き残り『横川駅』−『あき亀山駅』間15.6キロが運行されている。
同線の『横川駅』からの開業は1909(明治42)年とかなり早く、1969(昭和44)年に『三段峡駅』まで開通したが、既に同地域も鉄道の時代は終わっていて1980(昭和55)年に今福線敷設中止決定し、『浜田駅』乗り入れは幻となった。
2003(平成15)年に『可部駅』−『三段峡駅』区間が廃線、その後地元の事情で2017(平成29)年に廃線を利用した『可部駅』−『あき亀山駅』間が開通したように時代の波に洗われた路線であり、仮に『浜田駅』−『横川駅』線が全通しても赤字路線として廃線は免れないのではないか。
【写真−2 読めそうで読めない駅名】
写真−2の『久代(くしろ)駅』は『浜田駅』から2つ目の浜田市内にあり、同駅は『浜田駅』寄りの難読駅『下府(しもこう)駅』とその先の『波子駅』の間に1959(昭和34)年造られた新しい駅である。
同駅は山側の高い所にあり、海に向かって降りて行くと国道9号線に当たり、国道を越えると海辺の集落に出るが、駅の1日の乗車人数は一桁に落ちていて、浜田市内にある山陰本線の秘境駅になりつつある。
【写真−3 特急も停まる直営駅だが駅員の姿は見えない】
『益田駅』発5:45『浜田駅』行きは同駅に6:32に到着し、6:34発の『出雲市駅』行きに乗り換え、写真−3の日本海に面する江津市の『江津駅』に着いたのは7:03で、都会なら通勤通学ラッシュ時間だが、特急が停まる駅でもご覧の通りに閑散。
瀬戸内海側から中国山地を横断して日本海へ抜ける鉄道が過去に何線もあったと先述したが、『浜田駅』同様『江津駅』も瀬戸内海へ向かう『三江線』という路線が2018(平成30)年まで運行していた。
『三江線』の三は広島県北部内陸にある三次市のことで、同市の『三次駅』には『広島駅』を起点に『備中神代駅』まで、44駅、159.1キロの『伯備線』が通っていて、この伯備線は『倉敷駅』から中国山地を横断して山陰本線の『伯耆大山駅』に至り、数少ない中国山地横断路線として生き残り、JR特急がこの路線を経由して山陰側に向かっている。
【写真−4 ホームの向こうに見える雑草と柱の古びた具合が妙に合う】
『江津駅』の反対側ホームを写したのが写真−4で右側に見える列車は『浜田駅』行きで、駅のある江津市は人口2万1千人と山陰地方の市の中では最も人口の少ない市であり、面積も県内で最少の市になる。
江津市は中国地方最大の川『江の川』が流れ込むが、江の川は中国山地に源流を広島側に発するが流れは複雑で反時計回り回り込んで日本海に注ぎ、同市の地場産業として『石州瓦』があり、住宅事情の変化で近年は昔ほど売れていない。
【写真−5 原発が出来てもおかしくない地形と環境】
『江津駅』を出て海沿いを走って見えるのが、写真−5の海岸に建つ風力発電設備で、日本海側は風の強い地帯でもあり風力発電設備は山陰本線の車窓から時々見えるが、写真の風力発電所は民間の運営で2009(平成21)年に操業し、11基、2万2千KWの発電量がある。
江津市には山側に9基、2万700KWの『高野山風力発電所』があり、同発電所は地方公共団体が運営する風力発電設備としては最大で、同市はこの他に太陽光発電などの再生エネルギー事業も盛んで、核のゴミを無限に出す原発容認の自治体が多い中では異色の方である。
【写真−6 高校生の制服も昔のように詰襟というのは稀少になった】
朝7時台の各駅停車列車のために写真−6のように通学で利用する高校生が座席を多く占めていて、写真で分かるように座席で誰しも携帯に没頭していて仲間通しでおしゃべりに夢中というのは昔の話という時代である。
以前、タイ北部を走る国鉄に乗った時にやはり通学時間帯にぶつかり、途中の駅で高校生くらいの生徒が乗り込んで来て、それまでガラガラであった車内の席が埋まったが、男女別に席に着くのは日本と変わらなく、しかも皆携帯を取り出して会話はなく、世界中同じになっていると思い、便利さより人間の退化を感じた。
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【写真−1 赤褐色の地元産の石州瓦が目に鮮やか】
『岩見津田駅』を出てから写真−1の赤褐色の屋根瓦で統一された、日本の漁村の原風景のような景色が目に飛び込み、この屋根瓦は『日本三大瓦』の一つ、島根県の石見地域で生産される『石州瓦』で、凍結に強く豪雪地帯で多用されている。
漁港の縁を走る道路は『国道9号線』で、同国道は京都市を起点に山陰の日本海沿いを通り、山口県手前で内陸部に入って瀬戸内海沿いに下関市まで行く769.6キロの幹線道路で、国道では『4号線』、『1号線』に続く延長距離を持つ。
【写真−2 何気ない駅だが近くの海岸には温泉や景勝地がある】
写真−2は『鎌手駅』で、同駅ホームは写真では山側にある道路と同じレベルになっているが、反対側のホームは盛り土の高架になっていて駅の正面を通る国道9号線から階段を上がり、写真のホームへ行くには盛り土高架に掘られた地下通路で直接行くようになっている。
同駅は写真−1で見えた海岸部から山の方に入った地点にあるが、近くの海岸は『唐音』と呼ばれる石英粗面岩の海蝕崖が続き、その中に幅1m、長さ300mの安山岩の岩が露出しその様子から『蛇岩』と名付けられ、1936(昭和11)年に国の天然記念物に指定されている。
唐音の海食崖には地元の人が植えた200万株に及ぶ日本水仙が群生しその規模は中国地方最大と言われ、見頃は12月末から1月一杯になり、同地域には温泉もあり隠れた行楽地になる。
【写真−3 中国電力は火力ではなく原発を造りたかったのではないか】
再び山陰本線は海岸に出て、先述した海食崖の続きのような写真−3の荒々しい崖上を進むが、重苦しい雲の下の彼方に煙突状の建造物が見えて、海と岩しかない景色の中で異彩を放っている。
この建造物は中国電力の『三隅火力発電所』で、2基あり1号機は1998(平成10)年、2号機は2022(令和4)年に発電開始と新しく、それぞれ発電能力100万KWと国内火力発電所1基当たりでは最大規模になる。
1号、2号共に燃料は石炭で、専用港を造って海外から火力原料の石炭を輸入しているが、一時期CO2削減のために木質チップを混ぜて発電する『バイオマス発電』の実験が行われていた。
【写真−4 火力発電所用の専用線が同駅から延びていた】
写真−4の『岡見駅』は浜田市内にあり、同駅構内から米子方面はトンネルが至近で、折しも『益田駅』行きの各駅停車列車が反対側ホームに入って来て、同駅の現山陰本線は1992(平成4)年に付け替えた新線で、旧線もトンネルになって先述した『三隅火力発電所』の専用線として使われていた。
『三隅火力発電所』の操業開始が新線付け替え後の1998(平成10)年で、発電所から排出する石炭灰を美祢線を経由して瀬戸内海側の宇部にあるセメント工場へ原料として運んでいたが、現在は運行されていない。
【写真−5 石見地方は伝統的和紙生産でも知られる】
写真−5の小奇麗な木造駅舎は『三保三隅駅』で、左の方に幟が立てられそこには『三保三隅駅開業一〇〇年』とあり、同駅が1922(大正11)年に開業したことを示している。
同駅は山陰本線が浜田方面から延伸し、同年に『周布駅』から延びて終着駅として開業し、1926(大正15)年には『三保三隅駅』から『鎌手駅』まで延伸して『岡見駅』が生まれ、山陰本線が徐々に敷設しながら伸びて行った歴史を感じさせる区間でもある。
駅舎の壁に『石正美術館』の案内が見えるが、同美術館は駅から徒歩で30分近くかかるが、浜田市出身の日本画家『石本正』を記念した浜田市立の美術館で、他にも『石州半紙』の看板が見え、これは近隣で生産される障子紙などに使われた和紙で、2009(平成21)年にユネスコ無形文化遺産に指定された。
【写真−6 かつては浜田港へ行く貨物線があった】
写真−3は人口数で島根県内3番目の浜田市の中心駅一つ手前の『西浜田駅』で、同駅も開業は100年以上の1922(大正11)年で、開業当初は『岩見長浜駅』と名乗ったが、1949(昭和24)年に現駅名に改称した。
同駅は浜田港に近く、1955(昭和30)年から2.3キロの貨物専用線の『浜田港線』が運行されていて、SLも走ったこともあったが1982(昭和57)年に廃線となり、廃線跡は山陰本線の分岐点にはレール跡が見え、多くは道路などになっていて港付近に操車跡地が残る。
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【写真−1 益田市の中心市街地はこの駅舎の反対側】
『益田駅』から山陰本線『浜田駅』行きは5:43に出るので、いくら駅目前のホテルに泊まっていると言っても起きる時間は早朝4時過ぎになり、身支度をしてコーヒー豆を挽いてポットにコーヒーを淹れるなどをしている内に時間は過ぎる。
写真−1はひっそり静まり返っている早朝の駅前広場から『益田駅』を見た様子だが、始発に乗るのは『益田駅』−『浜田駅』−『出雲市駅』−『米子駅』と乗り継いで同駅から境港線で『境港駅』へ行って、同駅より隠岐の島へ渡るフェリーに乗るためであった。
【写真−2 低価格でトイレが流れお湯が出れば宿泊場所としては充分】
昨夜は気が付かなかったが、『益田駅』の真ん前に『駅前ビジネスホテル』と名乗る写真−2のビジネスホテルがあり、料金も昨夜泊まったホテルの半分程度で泊まるだけなら充分なホテルである。
昨夜泊まったホテルは日本の大手ホテル仲介サイトで見つけて予約を取ったが、こういう予約サイトに載らない、或いは載せないホテルというのは結構あって、今のようにネット頼りの予約は、『飛び込み』と言って現地で見つけた宿泊所に行って交渉して泊まる楽しみを失わせてしまった。
森繁が主演していた東宝映画の喜劇『駅前旅館シリーズ』で分かるように、かつては駅前に旅館があるのは当たり前の時代があり、今でもそういった名残りは駅前に見るが旅行形態の変化によって寂れ、廃業が続き時代と言えば時代ではあるが。
【写真−3 同市には全日空羽田便1日往復2本の石見空港がある】
『益田駅』のある益田市は人口4万2千人、島根県で4番目の人口を抱えるが最多は松江市の20万人で、年々人口減少の激しい県でもあり島根県全体で65万人となっているがこれはセブ市よりもかなり少なく、セブが人口過密なのか島根が過疎なのかその両方になるであろう。
益田市には今は稀少になったキャバレーが営業していて、その名は『キャバレー赤玉』で1938(昭和13)年創業というからそれだけでも凄く、益田市へ来たからには写真に撮っておきたいと思ったが、所在は写真−3の『益田駅』駅舎の反対側の同市中心街区側にあり、当日は休業で雨も降っていたので取り止めた。
【写真−4 『松江駅』−『岡山駅』間の特急に乗車したことがある】
写真−4の『益田駅』ホーム右側に停まるのが5:43発『出雲市駅』行き各駅停車列車で、左側の青と黄色に塗り分けられた車両は山陰本線を走る特急『スーパーまつかぜ4号』で、『益田駅』を5:36に出て『鳥取駅』まで4時間近くかけて9:31に到着する。
山陰本線も現在『下関駅』−『益田駅』間は特急は走っていないが、2019年の『新幹線全線乗車の旅』の時にはまだ特急を走らせていて、『岡山駅』から特急を乗り継いで『下関駅』へ出ようと計画したが、その年の集中豪雨で山陰本線は被害を受け不通区間を生じ、バス代行となっていたので取り止めた。
ただし、『益田駅』は全く特急と縁がなくなった訳ではなく、山陰本線『米子駅』発、『新山口駅』行き特急『スーパーおき』が山口線の起点である『益田駅』に停まり、同特急は1日往復3本運行し所要時間は4時間強。
【写真−5 吊輪と座席ハンドルの黄色がこの列車の特徴】
写真−5は『出雲市駅』行きの車内の様子で、同車両は『JR西日本キハー120形気動車』と呼ばれ、1990年代に89両製造されたワンマン仕様車で、車体に記された車両番号319から1994(平成6)年から1996(平成8)年にかけて59両造られ浜田鉄道部に配属された13両の一つと分かる。
通常ワンマンで走っているが『出雲市駅』行きは2両編成で出発し、この車両の特徴は色々あるがドアがバスと同じ折り畳み式になっている特色で、車内にはトイレが付属し座席はクロス式とロング式が混ざり、その張地がかつての国鉄色の濃い緑を想い出させる。
【写真−6 駅舎を利用してパン店が営業中】
『益田駅』次が写真−6の『岩見津田駅』で、同駅はまだ益田市内になり停車時に車窓から駅舎を見たらパン屋の宣伝が書かれていて、同駅には2018(平成30)年からパン屋が駅舎を利用して開業していて、現在は2代目の『駅パンくるくる』という名前で営業している。
無人の駅舎を利用してカフェやレストランなどを開く例は多く、山陰本線上の『長門大井駅』駅舎には理髪店が店を開いていて、地域で人の集まる駅は商売としては悪くないのだろうが、鉄道利用者が減ったから無人駅になったことから考えると経営は難しく、『岩見津田駅』の1日の乗車数は10人台になっている。
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【写真−1 同駅は当初山口線の駅として開業した】
『益田駅』は山陰本線と山口線の2線が乗り入れていて、写真−1は山口線の列車が離発着する1番線ホームにある駅名表示板で、左側は山陰本線の松江方面『岩見津田駅』、右側上部は山口線の最初の駅『本俣賀駅』、その下が山陰本線萩方面の『戸田小浜駅』。
山口線は山口県の瀬戸内海側から日本海側の島根県を繋ぎ、『益田駅』から山陽本線『新山口駅』間の28駅、93.9キロの単線非電化路線で、途中には山陰の小京都と呼ばれる『津和野駅』や県庁所在地の『山口駅』を経由する。
山口線を有名にしているのは『新山口駅』−『津和野駅』間を走らせる蒸気機関車『SLやまぐち号』で、牽引しているSLは1937(昭和12)年製造の『C−57』1号機で、戦争や脱線などを経て復活した。
同SL列車は各地で走らせている観光用SL列車の草分けで、1979(昭和54)年から運行しているが、古いSLを使用しているために故障や点検による休止も多く、その時はディーゼル機関車が牽引している。
【写真−2 停まっているのは明朝折り返す『山口駅』行き】
改札口のある側のホームが写真−1の1番線ホームで、停まっているのは『山口駅』18:12発の『益田駅』着20:16の各駅停車列車で、到着したばかりなのでまだ車内には灯りが点いているが山口方面からの最終便になる。
100年前に『益田駅』が開業した当時は山口線の駅であったことがこれで分かるが、『益田駅』−『新山口駅』間を通して走る各駅停車列車は運行していなくて『山口駅』で乗り換える必要があり、『益田駅』発『山口駅』行き最終便は19:20発で既に出ている。
【写真−3 駅の入り口方面から改札口を見る】
『益田駅』は直営駅なので夜間でも駅員が常駐しているはずだが、写真−3で分かるように改札口付近にはひと気はなく、改札口の向こう側には山陰本線『益田駅』21:38発『浜田駅』行き最終便が停まっている。
山陰本線『浜田駅』発21:41が22:28に『益田駅』に入って来るのが最終便になり、これを最後に駅の業務は終わって駅舎の入り口は閉められ、かつての夜行列車が運行されていた時代の駅が24時間開いていた時代は遥か昔の話になった。
【写真−4 夜遅い到着なのでホテルが近くて良かった】
写真−4は左側に『益田駅』、その向こうに見えるビルが本日泊まるホテルで、2006(平成18)年に駅前再開発事業が行われ、ホテルのある場所には市の事務所、商業店舗とマンションの複合ビル棟とホテル棟が建つ。
このホテルは山陰地方で展開しているホテルチェーンで、島根県には写真の益田市と出雲市の2軒、他に鳥取県鳥取市、広島県東広島市、兵庫県豊岡市でそれぞれ1軒を営業している。
【写真−5 明日は始発に乗るから部屋の滞在時間は僅か】
同ホテルは夜8時過ぎのチェックインであったが、大分県佐伯市で泊まったホテルのチェックインが夜10時近かったからまだ早い方で、こういう遅いチェックインになると分かっていたので極力駅に近い駅を予約した。
写真−5がホテルの部屋の様子で右手のカーテンを上げると駅前広場と『益田駅』を見下ろし、部屋の仕様は他のビジネスホテルとあまり変わらないが、茶系の色で統一されて落ち着きがあり、ロビーなどもデザイナーが関わっていると思わせる品の良い造りになっている。
【写真−6 温泉の素を溶かし込んで温まるのがせいぜいの楽しみ】
同ホテルのバスルームが写真−6で、ビジネスホテル共通のユニットバスで良くも悪くもない仕様と設備だが、同ホテルの特徴は宿泊客用の図書スペースや無料のマッサージ器、夜食に無料ラーメン提供と他のビジネスホテルチェーンとは一味違っていて、また泊まりたいと思わせた。
駅の周りにはこれといった食べる場所はなく、結局近くのコンビニへ行って日本では当たり前でもセブでは珍しいインスタント焼きそばを買って食べたが、夜遅く到着し次の日に早立ちする旅行だと外に出て時間を過ごすのも億劫になるから仕方がない。
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【写真−1 車窓の水滴も時には美しく見える】
『金子みすゞ』の生誕地である仙崎町に立ち寄って山陰本線『長門市駅』に戻って、『益田駅』行きの各駅停車列車に乗った頃は、重苦しい雲が垂れ込めながら天気は保っていたが、『萩駅』を出た頃からポツポツ降り出した。
写真−1は『萩駅』から3つ目のまだ萩市内の『長門大井駅』で、既に雨は大降りでホームの上が濡れているのが分かり、無人駅の駅舎なのにかなり明るい照明が見えるのは同駅舎を使って理髪店が営業しているためだが、鉄道利用の乗客は1日一桁台になっている。
【写真−2 小さな駅でもそれぞれの歴史を持つ】
写真−2の『須佐駅』も萩市内に入るが、駅名の須佐は神話上の『須佐之男命(すさのおのみこと)』からで、その昔同町内にある533mの山から朝鮮半島方面を眺めたことかららしいが、どうして須佐之男命がここに来ていたかの理由は分からない。
萩市と合併する前は須佐町という自治体で、湾に囲まれ風光明媚、イカ漁の盛んな町で『須佐之男命イカ』の名で知られるが、鉄道好きには日本で初めて明治時代に全国規模の『時刻表』を作成した『手塚猛昌』の出身地で、駅前には『時刻表の父 手塚猛昌之顕彰之碑』と刻まれた碑がある。
【写真−3 海外から来た人間は使う気にならないトイレ】
途中、写真−3の車内のトイレを利用したが、こういう形式のトイレがまだ使われていることに驚いたが、乗っている車両が『国鉄キハ−40系気動車』という1977(昭和52)年から1982(昭和57)年の間に製造した車両で、洋式トイレなどまだ普及していない時代であった。
かつての国鉄のトイレは『黄害』と呼ばれたように、列車から車外にそのまま垂れ流すのが普通で沿線住民には堪らなくても、世の中は都市部を除いて水洗など普及していない時代なので仕方がないと思っていた時代であった。
その頃は線路際を歩くと使用された紙などが枕木にこびりついているの見るし、列車が通るのが分かるとその汚物をモロに浴びるのを避けるために大慌てで線路際を離れた記憶があり、今のように汚物をタンクに溜めて処理しているのは当たり前と言えば当たり前。
【写真−4 山口県内で最北に位置する鉄道駅】
萩市には9つの山陰本線の駅があり、写真−4の『江崎駅』は萩市最後の駅でここから先は山口県を離れて島根県の『飯浦駅』に入り、同駅は昼間は駅員の居る委託駅だが、1日の乗車数は50人を割り、夜間に到着するこの列車から人が乗降した様子はなかった。
かなり土砂降りであった雨もこの辺りに来ると小降りになり、終点の『益田駅』に着く頃は雨が上がりそうな感じになって来たが、春の気象は目まぐるしく変化するのも特徴で先は読めない。
【写真−5 本日乗車最後の列車が到着】
山口県と島根県の県境を越えて3つ目にある写真−5の『益田駅』に20:16に到着するが、同駅を境に山陰本線の下関方面とその逆の松江方面の列車が折り返し、山口線の終点にもなっていて駅としては大きいが、夜間のせいもあるがホーム上に人の姿が見えない。
『益田駅』は1923(大正12)年に山口線の終着駅として開業し、ホームの柱や梁が木材を使っているために古さを感じさせ、開業当初は『岩見益田駅』という名称であったが、その年の暮れに下関方面から延伸して来た山陰本線が繋がり、同線の所属駅となった。
『岩見益田駅』の岩見が取れたのは1966(昭和41)年と以外に新しいが、2番線と3番線に山陰本線の上下列車が停まり、1番線は山口線の列車が使い駅舎もそちら側ホームにある。
【写真−6 左に見える幟は駅の開業から100年を記念している】
山陰本線では大きな駅になるが、写真−6で分かるように改札口に行くには跨線橋を渡る必要があり、エレヴェーターやエスカレーター設備は全くなく、老齢者や大荷物を持った利用者には苦痛を与えるだけで、鉄道駅のバリアフリー化が進んでいる中、同駅は遅れている。
改札口を出て分かったが、2006(平成18)年に駅舎のある側の駅前は再開発されて、広い広場といくつものビルが建っているが、駅と一体に開発する考えと予算はなかったようだ。
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【写真−1 かえりと書いてあってもこれは往復切符】
『仙崎駅』を『長門市駅』に折り返す列車は『長門市駅』から乗って来た列車で13分後に『長門市駅』へ折り返すが、駅での乗り降り、改札で手間取ると数分は消えてしまうが、幸い切符は事前に東京『上野駅』で手に入れていた。
写真−1がその時の切符で、JRの切符は『上野駅』で一括して購入したことは何度も書いているが、この切符はたった一駅ながら駅で対応してくれた係員の判断で発券されたが、使うまでは気が付かなかったが往復切符で駅の改札は滞ることなく、これが功を奏した。
事前に切符を購入すると使用開始日と最終有効日が記載されて、今回のように何があるか分からない長距離旅では危険を伴うが、この切符は4月16日から17日まで有効だが、使用日は4月16日で予定通りに旅は進んでいて、日本の鉄道運行がいかに正確であるかの証明にもなる。
【写真−2 黄昏時で駅前には人も車の姿は見ない】
乗り遅れたら大変と駆けて来た『みすゞ通り』だが、写真−2は『仙崎駅』の駅舎正面で、駅舎は木造の建物のように見えるが、1998(平成10)年に改築した建物で、従来の鉄筋コンクリートの駅舎を白壁と焼いた杉板を張り屋根瓦を乗せて和風に見せている。
同駅では急いでいて気が付かなかったが、駅舎内にかまぼこ板約2万枚を使ったモザイクアートの『金子みすゞ』の上半身像があり、これは仙崎郵便局近くの壁に妙にぼけた感じの大きな上半身像が掲げられていたが、このモザイクアートが掲げられていたと後で分かった。
【写真−3 安定のある車両だが色はもう少し何とかならないか】
『仙崎駅』で待つ18:02発の列車に間に合って『長門市駅』に到着し、次の山陰本線『益田駅』行きは18:17発なので一息付けたが、写真−3はホームに入って来た『益田駅』行き各駅停車列車で、これが本日最後の乗車で『益田駅』到着は20:16と長い。
山陰本線は『京都駅』を起点に『下関駅』ひと駅手前の『幡生駅』まで、161駅、673.8キロあり、これは日本の鉄道本線では最長となり、長いと思われる東海道本線が589.5キロであることから確かに長い路線である。
【写真−4 奇をてらわない車内の作りがまた落ち着いている】
『益田駅』行き各駅停車列車内の様子が写真−4で、夜の6時台にしては乗客は前の座席に座っている頭が見える程度で、この区間は山陰本線の中でも利用者の少なく、唯一特急列車が走っていない区間にもなる。
乗車している車両は旧国鉄時代に製造された『国鉄キハー40系気動車』で、壁に衣服を掛けるフックがあり、窓の開け閉めはレバーを押して上下させるなどかつては当たり前の仕様がそのまま残っている。
【写真−5 停車時間が長ければ表に出て駅舎の正面を見たかった】
写真−5は幕末史を飾る長州藩の城下町萩市の中心駅の『萩駅』だが、萩市の中心駅は一つ先の『東萩駅』で、特急列車が運行されていた時代はこの『萩駅』には停まらず『東萩駅』に停まっていたから少々利用者は面食らったのではないか。
写真でも分かるようにホーム側の造りと改札口は木造の古いデザインで、この駅舎の竣工は1925(大正14)年で、大正期の建築様式を残し1996(平成8)年に国の重要文化財に指定されたが、こういう貴重な駅でも無人駅で改札口の珍しい横開きのドアは閉まっていた。
【写真−6 幕末の歴史好きには堪らない旧城下町の駅】
萩市(人口4万1千人)内中心に近い駅が写真−6の『東萩駅』で、さすがに同市の中心駅のために簡易委託駅で駅員はいるようだが、夜間になると無人になる駅かも知れず、それほど遅い時間でもないのに同駅で降りたのは数人であった。
ホームの窓の下がなまこ壁風になっているのは、1973(昭和48)年に駅舎を改築した時に白壁の武家屋敷風のデザインにしたためで、同駅からは松下村塾や討幕を進め明治期の要人となった人々に因む史跡が近い。
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【写真−1 この列車で長門市駅−仙崎駅間を往復する】
『長門市駅』−『仙崎駅』間は写真−1の『JR西日本キハ−120形気動車』が両駅間を折り返しで1日上下8本を運行し、『仙崎駅』へ向かうには『長門市駅』で乗り換えるようになっているが、かつては美祢線起点の『厚狭(あさ)駅』からの直通列車も運行していた。
美祢線は山陽本線の『厚狭駅』から『小野田市駅』間を結ぶ、12駅46キロの山口県を瀬戸内海側から日本海に向けて縦断する路線で、かつては内陸部で産出した石灰石を小野田市や宇部市にあるセメント工場へ運ぶ路線として栄えたが、今は廃止された。
【写真−2 彼方の幟の見える所に駅がありそこから記念館まで直線で400m】
17:45に『長門市駅』を出た列車は『仙崎駅』に17:49に到着し、同列車は18:02に同駅を折り返して『長門市駅』に向かうために13分の余裕しかなく、駅での乗降時間を考えると実質10分程度しかなく、これで400m先の金子みすゞの生家跡まで往復して『長門市駅』行きに乗れるかどうか賭けるしかない。
『みすゞ通り』と名付けられた生家跡まで続く道路入り口から『須崎駅』を見たのが写真−2で、夕方に近くなり通り沿いにある店はシャッターを下ろして人の姿もないが、その道をザックを背負ったまま走る。
【写真−3 道路を先に行くに従って街並みは細くなり漁港は右側にある】
写真−3は生家跡方面を見た通りの様子で、道路は舗道に石が敷き詰められ『金子みすゞ』を観光資源として利用していることが分かり、この道路は鯨漁で栄えた仙崎町の中心通りで、この先には狭い海峡を隔てて『青海島』がある。
ともかく列車に乗り遅れないようにと走り、道路沿いにどういう建物があるのかゆっくり見られなかったが、この通りは古の仙崎町の家並みが残っていて、金子みすゞが詩に残した家などが現存していてゆっくり見たら面白い。
【写真−4 この建物は右の方に本の看板が立ち現役の本屋のようだ】
それでも写真−4の古い建物を撮ったが、これは土蔵造りで昔からの有力者の家のようで、裏の方も白壁の立派な家屋が続き、近くには鳥居の建つ祇園社と呼ばれる神社があった。
今でこそ『金子みすゞ』で知られる長門市仙崎町だが、長門市も力を入れて町内には詩の書かれた看板や銅像など建てているが、かつては忘れられた詩人で1980年代になって再評価を得ていて、現在に至る。
【写真−5 至る所にみすゞの宣伝が覗き五月蠅い感じもする】
『金子みすゞ』は1903(明治36)年に仙崎町で生を受け、1930(昭和5)年に26歳で亡くなり正に夭折という言葉が当てはまるが、写真−5の左側に見える郵便局もみすゞがこの通りを歩いて行ったかと思うと感慨深いものがある。
『金子みすゞ』は生涯に500編の童謡と詩を残したが、20歳の頃から作品を発表し23歳の時に当時の『童謡詩人会』に入会が認められ、同会は西条八十、泉鏡花、北原白秋、島崎藤村、野口雨情、三木露風、若山牧水など日本の文学史に残る錚々たる人士が会員になっていて、女性会員は与謝野晶子だけであったからいかに『金子みすゞ』が若くして評価されていたか分かる。
【写真−6 記念館は既に閉館していてガラス越しに中を覗いた】
ただし、家庭的には恵まれず、23歳の時に結婚し娘も1人生まれるが、詩作に理解のない夫との仲は縺れて1930(昭和5)年に離婚が成立し、同年の3月10日に服毒で26歳の生涯を閉じたが、『仙崎駅』が貨物駅として開業したのはその年の5月15日なので『金子みすゞ』と駅は時間的には交差していない。
写真−6の『金子文英堂』は2003(平成15)年にみすゞの生家跡に建てられた記念館で、看板にあるように金子家は同所で書店を開いたわけではなく、文英堂というのは下関にあった書店で金子家とは縁戚関係にあり、同店の清国(中国)営口支店はみすゞの父親が店長をしていた。
このように記念館も作られ脚光を浴びた『金子みすゞ』だが、著作権や商標を巡って醜い争いもあり芳しくなく、とにもかくにもザックを背負ってこの生家跡まで駆けて行き、写真だけを数枚撮って『長門市駅』行きの列車に乗り遅れないように『仙崎駅』に向かってまた走った。
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【写真−1 黄波戸姓は全国に40人半数が長門市に住む】
『長門市駅』の手前が写真−1の『黄波戸(きわど)駅』で、現在は山陰本線の駅になっているが、1928(昭和3)年に駅が開業した当初は『正明市駅(現在の長門市駅)』から分岐する美祢線の終着駅であった。
5年後の1933(昭和8)年に同駅は山陰本線の駅として組み込まれたが、近くの海岸には『黄波戸温泉』があり、公営の温泉センターが青海島を臨む温泉として人を集めるが、駅の利用者は1日10人を切っている。
【写真−2 晴れていれば文字通り晴れやかな景色が広がる】
山陰本線と並行して国道191号線が『北長門海岸国定公園』内を通っていて、『黄波戸駅』を過ぎると写真−2のように車窓左に大きく開けた海岸沿いを走り、左手に延びるのは青海島のようだ。
青海島右手側に立ち寄ろうとする美祢線終点の仙崎があり、更にその右手には長門市市街地が広がり、14:29に『下関駅』を出た各駅停車列車は丁度2時間半かけて『長門市駅』に16:59に到着する。
【写真−3 同駅から目的地の益田駅まであと1本乗車】
写真−3は『長門市駅』に到着した直後で、電光表示板の左側は山陰本線の益田方面、中は山陰本線の下関方面、右側が同駅から出る美祢線の『仙崎駅』行きで、17:45発なので45分以上の乗り継ぎ時間があって余裕がある。
山陰本線は電車と気動車が入り混じって運行されているが、各駅停車列車は旧い車両を運行区間によって塗分けられていて、緑、黄色、赤色、無塗装があり、下関−益田間は赤色の『国鉄キハ−40系気動車』が使われている。
【写真−4 金色に縁取りした階段の形状には意味があるのか】
乗り換え時間に余裕があるのでホーム上を歩いていると、写真−4の長門市の観光案内看板があり『青海島』を紹介しているが、その右側に金子みすゞの代表作『大漁』の文が掲げられ、その表示の素っ気なさにいかにも金子みすゞを感じた。
青海島は長門市の北にある奇岩で知られる島で、今は橋によって本土側と繋がっているが日本百景にも選ばれ、江戸時代から明治末期まで沿岸捕鯨の基地となった港があったが近代捕鯨の波に乗れず捕鯨は消滅し、同島内の『向岸寺』には捕獲した鯨の胎児を埋葬した『鯨塚』があり、金子みすゞの詩作に影響を与えている。
【写真−5 山口県内で人口数11番目の長門市】
『長門市駅』は山陰本線と美祢線が乗り入れる長門市の中心駅で、山陰本線運行上同駅で折り返すように重要な駅になるが、写真−5のホームへ向かう改札口には活気は感じられず、1日の乗客は300人台がやっとという水準の有人の直営駅。
長門市は人口3万人で、下関市と長門市で衆議院山口4区になるが、横死した安倍晋三が70%前後の得票率で当選を重ねた自民党の金城湯池選挙区で、自民党は保守政党と言われるが保守するのは政治信条ではなく既得利権であって、地方議員からこの既得利権を握っているのが自民党の強さで、金に汚く嘘を平気でするのも同党の連中。
【写真−6 その内広大な構内と駅前を再開発してガラッと変わるかも】
『長門市駅』北口の様子が写真−6で、夕間暮れが近づいているせいもあるが人の姿は見えず寂しい雰囲気の駅前を歩くと、傍の土産店の上にスティーションホテルがあったが、営業しているのかどうか分からなかった。
『長門市駅』のかつては機関区があったために構内は広く、レール本数も多くその名残りで列車の夜間滞泊駅になっていて、蒸気機関車が運行していた時代には転車台も備え、この転車台は東武鉄道がSL列車を運行するために2016(平成28)年に『下今市駅』に移設された。
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【写真−1 長門の次は銀山で知られる岩見の国』
写真−1の『長門粟野駅』は下関市の一番北にある駅で、こんな所まで下関市内に入るのかと驚くが、同市は近隣自治体を吸収合併して山口県で最多の人口を抱える市になり、同駅の次は隣の長門市に入るが、1日の乗客は5人を切っている。
この旅は2023(令和5)年の4月に行ったが、その年の7月に同駅近くに流れる川に架かる山陰本線の鉄橋が大雨の影響で傾くなど被害を受け、同本線は長い間『長門市駅』−『小串駅』間は不通となり、しばらくバスが代行していた。
【写真−2 国道と言いながら行き交う車は少ない】
写真−2の線路と並行する道は『国道191号線』で、地元では『北浦街道』と呼ばれているが同国道は下関を起点に益田市までほぼ山陰本線と並行していて、このように鉄道と道路が並走していると、鉄道がいくら頑張っても斜陽化は免れない。
『長門粟野駅』から次の『伊上駅』の区間は国道を挟んで山陰の海がかなり近づき、国定公園らしい自然な海岸と海が広がり、晴れていればかなりの絶景であることは間違いない。
【写真−3 海に浮かぶ小島がアクセントになっている】
写真−3も『伊上駅』手前の海岸風景で、『油谷湾』と呼ばれ同湾は日本海に大きく突出する『向津具(むかつく)半島』と西側に開けた海面を持ち、島も浮かんで景観を作っているがこの地には『安禄山の乱』で殺されたとする『楊貴妃』が流れ着いた伝説がある。
『向津具半島』の北端には『川尻岬』があり、同岬は本州の最北西端に位置し、福岡県宗像市沖から下関市、山陰海岸沿いに長門市へ続く『響灘』の東の端に当たり、奇岩の多い海岸が続く。
【写真−4 無人駅でも駅もホームも手入れされている】
写真−4の『伊上駅』は向津具半島方面へ行く駅だが駅からはバスなどの便はなく、オートキャンプ場が駅に近い海岸にあり、青少年自然の家も油谷湾にあるように同地方では行楽地として知られる。
しかし、どれも鉄道を利用して行く場所ではなく、『伊上駅』の1日の乗車数は20世紀に入っても50人を超えることはなく、現在は一桁までに落ちている無人駅であるがかつては駅舎を利用して喫茶店があった。
『長門粟野駅』−『伊上駅』と続いてかつては急行も停まった『人丸駅』になるが、同駅のホーム上にチョッと変わった写真−5の看板があり目を引き、何だと思ってよく見ると近くにある神社の案内であった。
『人丸』という名称は珍しく駅のある地名から来ているかと思ったが、そういう地名はなく『人丸』は柿本人麻呂を祀る『人丸神社』が日本の各地にあり、長門市にも『八幡人丸神社』があり、そこと関係があるのかと思うが詳しくは分からない。
ホームにあった看板の『元乃隅神社』はさぞ由緒ある神社かと思ったが、この神社、個人が日本海の海沿いの私有地に造った個人的な神社で、日本の神社を統括する神社庁とは何の関係もなく、しかも宗教法人格を持たないというから面白い。
1955(昭和30)年にお告げによって創建されたらしいが、ホームにある看板で分かるように朱塗りの鳥居が拝殿から海に向かって並ぶ様子は写真映えするので、海外からの観光客も訪れるという。
【写真−6 無人駅にしてはかなり立派な駅舎】
『人丸駅』に続いて写真−6の『長門古市駅』になり、同駅は旧日置(へき)町にあり同町は2005(平成17)年に近隣2町と共に長門市と合併して長門市になったが、日置町は村の時代に横死した安倍晋三の祖父の『安倍寛』が同村の村長をしていたことで知られる。
写真でも分かるように無人駅ながらなかなか立派な駅舎があり、これは同駅舎に付随して『ふれあいプラザはまゆう日置』というコミュニティーセンターがあるためで、同センターは合併前の2001(平成13)年に駅舎を建て替えて生まれた。
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【写真−1 国定公園の海岸部を山陰本線は走る】
『小串駅』を出ると山陰本線は海岸寄りを走り、『湯玉駅』手前に写真−1のような風景が今にも雨の降りそうな空の下に現れ、線路と平行して走る道路は『国道191号』線。
『国道191号』線は下関市を起点にほぼ山陰本線沿いに益田市へ進み、同市から山間部に入って横断し広島市に至る292キロ余の道路だが、山間部は積雪のある難所で知られる。
【写真−2 新建材の最近の日本の家屋から見ると落ち着く風景】
日本中どこでも新建材の建物ばかりが並ぶ鉄道沿線になり面白味のない景色が続く中、『長門二見駅』の手前に写真−2の集落と海を臨むが、瓦屋根を乗せた家屋が目立ち、この地域は黒瓦で統一されていて落ち着いた雰囲気を感じさせる。
山陰地方には『日本三大瓦』と目される島根県の江津や益田で生産する『石州瓦』があり、同瓦は赤褐色が特徴で、写真の黒い瓦も同地方で生産した瓦かどうか分からないが、他の二大産地は愛知県三河地方の『三州瓦』、兵庫県淡路島の『淡路瓦』になり両瓦ともいぶし銀の黒色が特徴である。
【写真−3 同駅からは内陸部に入る政治路線として知られる】
それまで海沿いを走っていた山陰本線が写真−3の『二見長門駅』に到着する直前に路線は直角に内陸部へ入りそのまま進むが、計画時には海沿いに線路が延びるはずであったが、内陸部の地域の要望によって線路が曲げられた。
『長門』というのは現在の山口県の西半分、藩政時代には『長州』と呼ばれ、幕末史を飾る薩長土肥の一角で知られ、近代でも首相を多く出した地域であり、それだけ中央権力志向の強い風土と言えるが、なお『長門』の入った駅名は『長門市駅』を含めて9駅ある。
『長門』の名称で知られるのは『戦艦長門』で、旧日本海軍の戦艦には沖縄特攻の『大和』、フィリピンのシブヤン海の『武蔵』と、戦艦には旧地名を付けていてこの『長門』は敗戦まで生き残り、アメリカのビキニ環礁原爆実験で標的艦に使われ1度目は凌ぎ、2度目の実験で沈んだ話は有名だが、何にせよ軍事というのは無駄と消費の積み重ねと分かる。
【写真−4 有人駅だと駅舎や周りの管理は綺麗が歴然】
海沿いを走っていた山陰本線が『長門二見駅』から直角に曲げられて内陸に進んで最初の駅が写真−4の『滝部駅』で、2005(平成17)年に下関市と合併するまでは豊北(ほうほく)町という自治体にあり下関市内になっているのが不思議。
山陰本線は無人駅の多い路線だが、『滝部駅』は地元のNPO法人が業務委託を受けて毎日ではないが昼間は人が常駐する数少ない駅だが、乗車する利用者は1日平均100人がやっとが続く。
【写真−5 難読秘境駅で知られる1日の乗車数は一桁】
写真−5は山陰本線が内陸部に曲げられた『滝部駅』の次が難読駅として有名な『特牛駅』で、多少漢字に関心はあってもこれがどうして『こっとい』と読めるのか不思議に思うが、牡牛の方言『ことい』からとか近くの入り江から名付けたと諸説あり、地名というのは合理的に名付けていないから面白いのでは。
ホームから階段を上り下りして駅舎に至るが、駅の所在地は『特牛』とは関係なく、駅の先に走る『国道435号』沿いに『特牛』という集落と港があり、同国道は下関市から内陸部を山口市まで71.5キロの道路で、山口県は有力政治家が輩出し利益誘導も際立つ地域で国道も多い。
【写真−6 瀬戸内の島々とは違う山陰の島と海】
『特牛駅』から山陰本線は再び海岸部を目指し、写真−6の風景が再び現れるが、この海岸は先述した『北長門海岸国定公園』に含まれ、同国定公園は下関市豊北町から長門市、萩市にかけての範囲で1955(昭和30)年に指定された。
景勝地を国立公園と国定公園に分けて指定している違いだが、国立は環境省、国定は都道府県が管轄する縄張りで線引きされ国定の方は国立に準じる自然公園となっているが、どちらも優れた景観と環境を持っているので優劣はなく、最終的には宣伝力と政治力が物をいっているのではないか。
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【写真−1 遠くに見える下関一高い塔まで徒歩で数分】
当時は低価格航空会社など出現していない時代で、個人で東京から飛行機利用で韓国へ行くには航空代金は高く、時間はかかるが『東京駅』から『下関駅』まで新幹線と関釜フェリーを往復した方が安いので利用したが、真夏のザックを担いでの韓国の大陸性の暑さには参りながら、鉄道とバスで韓国を一周した。
写真−1は再開発された『下関駅』東口で、左の方に二つの塔を持つビルは由緒ある建物に見えるがここは結婚式場でそれらしく見せた建物で、下関は朝鮮半島から大陸への出入り口であった歴史から戦前の建物が多く残っていて、山陰線の各駅停車列車に乗り継ぐ時間を利用して廻ってみたいと思っていたが、旅の疲れが出て駅の周りで時間を過ごしただけに終わった。
通路の先に細長い建物が見えるが、これは1996(平成8)年に竣工した国際会議場などを備えた『山口県国際総合センター』に建つ高さ153mの展望塔で、『海峡ゆめタワー』と名付けられているが、この地は旧国鉄の本州−九州間を走る貨物操車場跡で、旧国鉄が持つ広大な土地は民営化後にこのように切り取られた。
【写真−2 トレイに乗っているように立ち食いではない店で食べた】
12:57に『下関駅』に到着して山陰本線に乗り換えるが、『小串駅』行きが13:13に待っていてもその先へ行こうとすると14:29『下関駅』発『長門市駅』行きの各駅停車列車を『小串駅』で待つことになり、同列車に乗ることにして1時間半ほど時間が浮いた。
『下関駅』内にあるスーパーで簡単な食べ物を買ってから駅構内を歩いているとうどん屋があり、『フグの天ぷら』という品書きを見て珍しいなと思って、写真−2のフグ天入りのうどんを頼むが、フグの天ぷらそのものは淡白過ぎて美味いとは思わなかったが、『小倉駅』でうどんを食べそこなったので満足はした。
【写真−3 釜山行きフェリー乗り場はどうやって行ったか覚えていない】
写真−3は『下関駅』山陰線ホームから見た同駅の西口方面で、駐車場の向こう側に見える海面は『小門海峡』と呼ばれ、海峡の向こう側は九州ではなく『彦島』で、島といいながら1937(昭和12)年に下関側と埋め立てられて陸続きになっていて、人口は2万4千人を超える。
彦島の東側の関門海峡に面する海に浮かぶ小島の正式名称は『舟島』だが、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘で知られる『巌流島』で、決闘は1612(慶長17)年に行われたが、決闘については諸説あるが吉川英治の書いた小説『宮本武蔵』の下りが虚実織り交ぜて面白い。
【写真−4 柱や屋根の構造から古い駅であることが分かる】
『下関駅』の次が写真−4の『幡生(はたぶ)駅』で、同駅は山陰本線と山陽本線が交差する駅で、山陽本線は『神戸駅』起点で本州内の『下関駅』が終点かと思うが実際は九州に入った『門司駅』が終点になっている。
日本の地方の鉄道の始まりは地元有力者による私鉄から始まり、その路線を国有化して鉄道網を整えて行った歴史を持ち、山口県は特に私鉄路線の多かった地域で『幡生駅』も最初は私鉄の山陽鉄道の駅として1901(明治34)年に開業したのが始まりで、その当時は現在の『下関駅』は『馬関駅』と呼ばれていたから歴史を感じさせる。
【写真−5 広大な土地を開発業者は狙っているしJRも売りたい】
『下関駅』と『幡生駅』の間には操車場があって、写真−5のように留め置いている車両が車窓から見え、緑色に塗られている車両にはアレっと目を引き、旧国鉄には様々な色に塗られた車両を走らせていたが、写真の車両は『黄緑6号』と呼ばれた色で、かつての山手線で走っていた車両がこの色に塗られていた。
写真の車両の形式はよく分からないが、山手線で走っていたのは『103系電車』であり似た感じを受けるが、当時の山手線で走っていた緑色とは少々違うような気もし、山陰本線や山陽本線でこの目立つ緑色車両を走らせているのかどうか分からない。
【写真−6 運行車両が折り返す重要駅でも無人駅】
写真−6の『小串(こぐし)駅』はまだ下関市内で、市内を走る山陰本線の駅は17駅もあり、『小串駅』から3駅『下関駅』寄りには本州最西端の駅になる『梅ヶ峠駅』がある。
この『小串駅』は『下関駅』間を45分から50分かかる距離で、多くの車両は同区間を折り返し運転をしている重要駅で、先へ行くには同駅発の各駅停車列車に乗り換えるようになるが、先述したように1日5本出ている『下関駅』発の『長門市駅』行きに乗車した。
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【写真−1 通勤通学時間帯には混雑する駅】
『小倉駅』−『下関駅』間は頻繁に各駅停車列車が両駅間を折り返していて、写真−1は『小倉駅』発12:38の『下関駅』行きで、『門司駅』を経由して『下関駅』まで19分かけて12:57に到着する。
ホームに入って来た電車はJR東日本とJR九州で運行されている『国鉄415系電車』で、同系は1971(昭和46)年から1991(平成3)年にかけて488両製造し、写真の電車は後期の新しい形式で軽量ステンレス製の車体。
【写真−2 日曜日の午後ともあって九州と本州を繋ぐ近郊線はこの程度】
『下関駅』行きの車内の様子が写真−2で、この車両はロングシート仕様だが、同系には固定クロスシートとロングシートの組み合わせなど、いくつかの仕様もあるが首都圏で走っていても全く違和感のない車内の造り。
日曜日の午後ということで乗客は少し乗っている程度だが、『小倉駅』−『下関駅』間は『門司駅』を挟んで15分程度なので、九州から本州へ関門トンネルを通ってというと大げさに聞こえるが、乗っている分にはアッという間である。
【写真−3 古くからの鉄道遺構が残る駅】
九州最初の駅が写真−3の『門司駅』で、同駅は山陽本線の終点でありながら所属は鹿児島本線、しかも『下関駅』−『門司駅』間の管理はJR九州となかなか複雑な駅で、これに輪をかけるのは山陽本線は直流電化、鹿児島本線は交流電化で『門司駅』で両線を跨って通る長距離列車は同駅で牽引する電気機関車を付け替える必要があった。
1936(昭和11)年から1944(昭和19)年にかけて関門トンネルの上下線が開通するまでは本州から船で九州の『門司港駅』に渡ったが、同駅は『門司駅』から2駅突き出ていて、その名残りで同駅は鹿児島本線の起点駅となり、1914(大正3)年竣工の同駅は鉄道駅としては『東京駅』と並んで国の重要文化財指定になり、同駅周辺は戦前の建物が多く残り、観光客を集めている。
【写真−4 下関市は横死した安倍晋三の金城湯池選挙区】
写真−4は関門トンネルを渡って見えた本州側の下関市沿岸の風景で、水路に沿って造船所がいくつも見え、遠くに見えるクレーンは大手の三菱重工下関造船所で他に中規模の造船所が立地している。
また、下関市は北九州工業地域と瀬戸内工業地域と密接な関係があり、工業団地も各所に設置されていて、そのためもあってか山口県内では県庁所在地の山口市を上回る県下最多の24万人を擁する。
【写真−5 山陰本線に乗り換えるまで時間があるので途中下車】
写真−5の『下関駅』は山陽本線と山陰本線が乗り入れ、時刻表の地図で見ると本州の最西端に位置する駅の様に見えるが、本州最西端の駅は『下関駅』から山陰本線で7つ目にある無人の『梅が峠駅』が本当で、無理に言うならば『本州最西端の有人駅』が『下関駅』になる。
『下関駅』には地形の関係から山陽新幹線は乗り入れていなくて、山陽本線で2つ駅先の『新下関駅』が設けられているが、接続は山陽本線で乗り換える面倒臭さはあるが9分、1980年代に『東京駅』から新幹線利用で『下関駅』まで行ったことがあり、『新下関駅』で降りて山陽本線で『下関駅』へ行っているが記憶にない。
【写真−6 いくつもの銅像や記念物がこの階にはあった】
1980年代の『下関駅』で記憶しているのは駅前の狭い駅であったが、2014(平成26)年に駅舎と駅前が大々的に再開発され、駅前広場は広く2階建てになり周辺には新しいビルが造られすっかり様変わりしていて驚いた。
写真−6は同駅の改札口を出てエスカレーターで上がった上層階で、正面の建物入り口に見える三角のガラス屋根デザインは、建て替える前の駅舎正面が三角屋根であったことのオマージュらしいが、そういえば昔の駅舎正面は三角屋根であった記憶が蘇った。
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【写真−1 小倉駅まで6駅所要時間は20分弱】
日本の鉄道には難読駅が多く、それを覚えるのも楽しみの一つだが、写真−1は駅名表示ではなくホームに掲げられた『くさみ医療村』の看板から、この駅は『朽網(くさみ)駅』と分かり、同駅は北九州空港に近くシャトルバスが駅から運行されている。
同駅は北九州市内に入るが、『朽網』というのは明治期に『朽網村』があり、その地名から来ていて、その後合併で曽根町になり1942(昭和17)年に小倉市に編入、1963(昭和38)年の北九州市発足で小倉区になり、1974(昭和49)年に小倉区は南と北に分区し、朽網は小倉南区になったが、自治体も消滅したり新規に出来たりと忙しい。
【写真−2 線路は高架化されず線路の上に新しい駅舎がある】
日豊本線は『南小倉駅』−『西小倉駅』と続いて『小倉駅』に至るが、写真−2は『小倉駅』から日豊本線と鹿児島本線が分岐する『西小倉駅』で、同駅は1915(大正4)年に『小倉駅』が移転して開業した駅で、1958(昭和33)年に現在の位置に『小倉駅』が移転するまで『小倉駅』と称し、その後1974(昭和62)年に新たに『西小倉駅』として開業した。
同駅には『小倉駅』を離発着する『日田彦山線』も乗り入れていて、同線の本来のd起点は『西小倉駅』から日豊本線で2つ大分寄りの『城野駅』からで、『夜明駅』までの24駅、68.7キロあり、同駅からは『大分駅』−『久留米駅』間を走る久大本線に繋がる。
【写真−3 水のある光景は目に優しい】
『西小倉駅』を出ると写真−3の川を渡るが、この川は『紫川』でこの川を挟んで『西小倉駅』と『小倉駅』があり、小倉の中心市街は『小倉駅』側に寄るが北九州市市役所は『西小倉駅』の方が近い。
彼方の橋の右岸に見えるビル群は、2003(平成15)年に竣工した『リバーウォーク北九州』という名の大型複合商業施設で、隣の小倉城址と一体化した景観を作っていて、同所へは『西小倉駅』から徒歩で5分と近い。
【写真−4 九州の出入り口らしい巨大な駅だが九州最初の駅は門司駅】
『中津駅』発11:15の『小倉駅』行き各駅停車列車は写真−4の『小倉駅』に12:21に到着し、これで4月11日に下関海峡を渡って今日6日目の4月16日に『小倉駅』に到着し、九州内の旅は入り口に戻った。
駅名表示の『にしこくら』と『もじ』に挟まれてイラストがあり、これは小倉城内にある八坂神社大祭で行われる『小倉祇園太鼓』を描いたもので、祇園祭は全国にあるが『小倉祇園太鼓』は『京都祇園祭』、『博多祇園山笠』と並んで『日本三大祇園』に挙げられている。
400年続くこの『小倉祇園太鼓』を有名にしたのは1943(昭和18)年の稲垣博監督の映画『無法松の一生』で主人公の打つ暴れ打ちからで、この太鼓の打ち方は裏打ちでリズムを取ることで、その後の和太鼓の打ち方のスタイルを変えた。
【写真−5 立って食べることに意味があり今は女性も普通に食べている】
『小倉駅』から『下関駅』行きの各駅停車列車に乗り換えるためにホームを移るためコンコースを歩いていると途中に写真−5の立ち食いうどん店があり、『下関駅』行きは12:38に『小倉駅』を出るので昼時ではあったが時間が足りなく写真を撮っただけで諦める。
東海道線の駅で立ち食いそばを食べたのが今旅行で最初であったが、西方面はうどんが主流で看板の『玄海うどん』というのがどういううどんかと興味はあったが、単に地名を付けただけのようだが、色々と具を乗せるのが食べ方のようだが、食べていないので何とも書けない。
【写真−6 右側の4番線ホームは特急車両用】
写真−6の左側ホームから『下関駅』行き各駅停車列車が出ていて、12:38の列車に乗るがその次は12:56に出ていて、同区間は頻繁に運行されていることが分かり、実際関門海峡を挟んで通勤通学する人は多い。
『小倉駅』−『下関駅』間の所属線というのは複雑で『下関駅』は鹿児島本線、『下関駅』は山陽本線に所属しながら山陰本線も出ていて、そのために時刻表で調べる時に何線になるか迷うが、使っている時刻表では鹿児島本線の別枠のような形で『小倉駅』−『下関駅』の時刻が載っていた。
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