【写真−1 左手彼方に米子空港管制塔と航空自衛隊の施設が見える】
この平らな土地は『弓ヶ浜半島』と呼ばれ、米子市の島根県境に近い皆生温泉方面から境港に向かって幅4キロ、全長17キロ伸びて境港市の境水道まで至り、主に砂州で生じた土地だが灌漑と埋め立ても多く行われている。
そういった平らな土地は米子側には水田耕作、半島に向かって畑作となって『米子白葱』生産が盛んだが、遮蔽する山がないので飛行場立地には最適で、戦時中の1939(昭和14)年から海軍の手によって飛行場建設が始まった。
1943(昭和18)年に『美保海軍航空隊』が置かれ、当時の戦局は大量の航空機搭乗員養成が急がれ、その年の予科練甲飛13期生は3000人もの大量採用で松山、奈良と共に美保は予科練訓練地としての歴史を持つ。
【写真−2 日本の地方空港の前身は旧陸海軍基地を転用したのが多い】
境線半ばに写真−2の『米子空港駅』があり、同駅は1902(明治35)年当時は所在地名の『大篠津駅』と名乗っていて、戦時中は予科練の駅として全国的に有名な駅であったが、2008(平成20)年の空港拡張によって線路が付け替えられ駅は境港市内に移転し駅名も『米子空港駅』となり、愛称は『べとべと駅』。
駅から道を挟んで空港ターミナルまで徒歩5分と、鉄道駅の中でも空港に至近の駅で知られ同空港は『米子鬼太郎空港』と名乗っているが、航空自衛隊が管制業務をする軍民共用空港の自衛隊主体の『航空自衛隊美保基地』であり、海上保安庁も航空基地を設けている。
同空港は海に少し突き出た2500m滑走路1本、国内便は羽田行きのみだが全日空が1日往復6便も飛ばし、ソウルに1日1便、コロナ災厄以前は上海、香港へも飛んでいた国際線航路を持つ。
【写真−3 道路から数段上がった所に線路とホームがあるだけの駅】
『米子空港駅』の次が写真−3の『中浜駅』で、同駅も空港拡張で境港市側に100m近く移動しているが、新しい『米子空港駅』が設置されるまではこの駅が空港に最も近い駅であった。
同駅のホームは2面2線となっていて、今は行っていないが同駅から『米子駅』方面へ折り返すことも可能となっている無人駅だが、1日の利用者は100人を大きく切り、愛称は『牛鬼駅』。
【写真−4 観光シーズンにはごった返すホーム】
『米子駅』を11:37に出た『鬼太郎列車』は12:22に写真−4の『境港駅』ホームに到着し、写真でも分かるように平日にも関わらず『水木しげる』の世界を訪れた観光客がバラバラと降りた。
同駅は1902(明治42)年に開業した古い駅だが、開業時は『境駅』と名乗り1919(大正8)年に現駅名に改称したが、開業時の駅は今の駅の位置から東方向にあって、愛称は『鬼太郎駅』。
【写真−5 左側の駅前ロータリー周りに妖怪の像が沢山見える】
写真−5は『境港駅』駅舎側から米子方面を見た様子だが、同駅が境線の終点であるように車止めが見え、乗車した鬼太郎列車は10分の停車後12:32に『米子駅』へ向けて折り返す。
境線の『米子駅』発『境港駅』行きは、5:14の始発から22:37までの最終まで1日17本運行と地方線にしては多い運行本数で、反対の『境港』始発『米子駅』行きは5:33の始発から最終22:25まで17本ある。
【写真−6 駅舎の上に灯台を乗せているように駅舎裏は港に面する】
写真−6の灯台を乗せている『境港駅』は1995(平成7)年に新しく建て替えられたもので、右側のビル内に隠岐の島へ行く乗船券売り場とフェリー乗船口が繋がっていて、隠岐の島行きのフェリー出港時刻は14:25なので2時間ほど待ち時間が生じた。
その時間を利用して適当な所で昼食と境港市の観光資源の『水木しげるロード』を歩くが、駅舎を出た所から『ゲゲゲの鬼太郎』に因む妖怪の像や、水木しげるの顕彰碑などが道路上にあり、その手の物が好きなマニアには良いだろうが、何だこれはという感じで特に注目する気はない。
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日本海にある隠岐の島へ渡るために『米子駅』から出る境線終点の『境港駅』へ行き、同港から出るフェリーに乗船するが、境線と境港市は同市ゆかりの漫画家『水木しげる』を観光資源として活用している。
【写真−1 こういうのが好きな人には堪らないワンマン車両】
『米子駅』0番線ホームに待ち構えていたのが写真−1の『境港駅』行き各駅停車列車で、後部車両の前面右側に『目玉おやじ列車』と記され、湯船に入る目玉おやじのイラストが描かれているのが最初に目に入る。
1902(明治35)年に現在の山陰本線の『米子駅』−『御来屋駅』が敷かれた時に『米子駅』−『境駅(現境港駅)』間も敷かれ、山陰地方における最初の鉄道路線の歴史を持つ。
【写真−2 シーズンになればかなりの混雑になるという】
境線では『ゲゲゲの鬼太郎』に因んだイラスト列車を1993(平成5)年に始まり、意外にも初代は『ねこ娘』からで、現在運行しているのは『こなき爺(2代目)』、『砂かけ婆(2代目)』、『ねずみ男(3代目)』、『ねこ娘(3代目)』、『目玉おやじ(3代目)』、『鬼太郎(5代目)』の6種類が運行中で、使用車種は『キハ−40系気動車』。
写真−2は『目玉おやじ車両』内部の様子で、座席の背あてに目玉おやじのシールが貼られ、背あての下部には『PHOTO SPOT』と描かれ目玉おやじのイラスト部分に手を添えて写真を撮るように指示されていて、この手のファンには嬉しいようだ。
【写真−3 こういうイラストをバックに写真を撮る人が多い】
列車は2両編成で運行されていて、写真−3は『目玉おやじ車両』に連結されている車両で『ねずみ男』のイラストが目立つが、前面右上に黒字で『鬼太郎列車』と記されているので5代目の新しい車両と思われる。
『鬼太郎列車』は何度もイラストが交換されているので、過去の車両と紛らわしいが先述したように現在は6種類が運行されているが、どの車両がどうとかまでは興味はないので、この車両には立ち入らなかった。
【写真−4 他の車両天井にも別のイラストが描かれているだろうか】
写真−4は座った『目玉おやじ』車両の天井に描かれている『目玉おやじ』の大きなイラストで、小さなこどもなら怖がるような迫力があり、同車両にはエアコン設備はあるが、天井に扇風機や蛍光灯が直付けで残されているのは何かの意図があるのであろうか。
この『目玉おやじ』水木しげるが生み出した妖怪で、『鬼太郎』の父親として左目にあり、身長9.5センチ、体重33.25グラムあって、写真−1の前面に描かれているよう『茶碗風呂』が趣味になっていて、想像上のキャラクターのために色々細かく奔放に設定されている。
【写真−5 この町から大山(別名伯耆富士)を望めたのが駅名の由来】
『米子駅』から2つ目の駅が写真−5の『富士見町駅』で、駅名の下に『後藤総合車両所 最寄り駅』と記されているように、同駅から線路に沿ってJR西の車両基地と車両工場があり、そのために気動車を走らせている非電化の境線だが電車を車両基地に入れるために『米子駅』から次の『後藤駅』までは電化されている。
境線の各駅には『ゲゲゲの鬼太郎』に出て来る妖怪に因んだ愛称が付けられていて、同駅は『ざしきわらし』になり、『米子駅』寄りの『博労町駅』と『富士見町駅』間の実質距離は420mで、これはJRの駅では駅間距離最短となっている。
【写真−6 米子市内の住宅地で線路にかなり近い】
写真−6は『米子駅』から4つ目の『三本松口駅』で、写真でも分かるようにこの辺りの沿線は住宅が迫っていて、JR路線というより路面電車の路線のように見えるが、境線は山陰でも鉄道路線嚆矢の路線でそのために駅間は離れていたが、1987(昭和62)年にJR西はこの駅を含めて境線に多くの新駅を誕生させ、同駅の愛称は『そでひき小僧駅』。
先述した『富士見町駅』と『三本松口駅』の間に『後藤駅』があり、同駅は1902(明治35)年に開設された古い駅で、1926(大正15/昭和元)年から1938(昭和12)年までは『米子駅』から『皆生温泉』を結んでいた路面電車が駅前を走っていた。
駅名の由来の『後藤』というのは、山陰本線と境線の鉄道敷設に最大の功労者であった米子の豪商、政治家の『後藤快五郎』の名前を取ったもので、同駅の愛称は『どろたぼう駅』。
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今回の旅は西日本、四国、九州の海岸沿いに敷かれている鉄道を利用して廻っているが、日本海側にはいくつも島がありこの機会に渡ってみようと調べ、距離や便利さから『隠岐の島』へ行くことにし、フェリーの出る『境港駅』を目指す
【写真−1 古代の安来地域は出雲王朝の神聖な場所であった】
写真−1の『荒島駅』は既に鳥取県県境の安来市にあり、同市は滑稽な泥鰌すくいの民謡『安来節』で知られるが、出雲神話の豊富な地域で、古来より朝鮮半島との交易も盛んで、特に和銅や和鉄の生産地として歴史に名を残す。
同駅は中海に近い平凡な山陰本線の無人駅だが、1928(昭和3)年開通の一畑電気鉄道『広瀬線』の起点駅で、内陸部の広瀬町まで7駅、8.3キロの路線であったが、1960(昭和30)年に廃線となった。
【写真−2 米子市は鳥取県内人口2位の14万4千人を擁する】
10:01に『出雲市駅』を出た各駅停車列車は11:14に写真−2の『米子駅』に到着し、同駅で境線に乗り換えるが境線終点の『境港駅』行きは11:37なので、乗り換え時間に余裕はある。
2019年の『ジャパンレイルパス』の旅で、『米子駅』に特急で到着した時に車窓から立ち食いそば屋がホーム上に見え、『吾左衛門そば』という看板の店は食べてみたいと思ったが、乗り換え時間が中途半端なので今回も見送った。
『米子駅』は鳥取県内では『鳥取駅』に次ぐ数を誇り、山陰本線と境線の起点駅であるが、岡山方面に向かう伯備線の離発着駅ともなっていて、県内では最もホームの多い駅でもあるが、2023(令和5)年に竣工した新しい駅舎は橋上から地上のホームへ降りるようになっている。
戦前には駅前から路面電車が皆生温泉方面へ敷かれ、1924(大正13)年から1967(昭和42)年まで『米子駅』から徒歩で10分ほどの場所にあった『米子市駅』から法勝寺電鉄線が運行されていた。
法勝寺電鉄戦は11駅、12.4キロの本線と5駅5.5キロの支線があり、同路線で使われていた電車が保存されていて、特に1887(明治20)年にイギリスで製造された『フ−50形客車』は国内に現存する木造鉄道車両として文化財級の価値がある。
【写真−3 人口に比例して山陰本線で利用客の多い直営駅】
『境港駅』へ行く境線に乗り換えるために跨線橋を渡るが、ホームから写真−3の薄紫色の車両が見え、これは『出雲市駅』−『岡山駅』間を走る特急『スーパーやくも13号』で10:30に『出雲市駅』を出て、『米子駅』は11:23に、最終目的地の『岡山駅』には13:38に到着する。
『出雲市駅』から乗った各駅停車列車は途中で追い抜かれているが記憶にはなく、この『スーパーやくも』は1日上下往復10本が運行されていて、山陰地方と瀬戸内海側を結ぶ主要な特急となっている。
【写真−4 車両の色は明るくて悪くはないが微妙な感じもする】
写真−4は『スーパーやくも』の後尾側だが、この薄紫色に塗られた車両は『国鉄381系電車』で、国鉄という言葉が入っているように1973(昭和48)年から1982(昭和58)年まで277両が製造された。
同車両の特徴は山間部のカーブの強い路線を走るように振り子の原理を採用して安定を図っていることで、各地で走るがクリーム色の地に窓を挟んで赤い帯が引かれている姿は国鉄特急として馴染み深いが、『米子駅』に停車中の車両はまた別の色になっている。
この薄紫色はかつて走っていた『特急やくも』の色を復刻したもので、同色の車両にはパノラマ車両の『スーパーやくも』があり、写真の車両は運転席が屋根に突き出た昔からのデザインで、2019年の『ジャパンレイルパス』の旅に『岡山駅』から『松江駅』まで乗車したのはこの色の車両ではなかった。
【写真−5 右側の階段に『ねずみ男駅』のイラストが】
跨線橋を渡って降りた境線のホームは写真−5で分かるように0番線で、ホームの右側が1番線なので0番線になったのだが、0番線ホームというのは珍しくなく日本には40駅ほどあり、東京でも日暮里駅と綾瀬駅に0番ホームがある。
駅のホーム番号の付け方は駅舎に近い方から1番線と名付けるのが基本で、それが何かの事情で駅舎側にホームが必要になった時に0番線と付けるようで、確かに『米子駅』0番線は駅舎に近く、同駅では『霊番のりば』と称している。
【写真−6 この手の物が好きな人間には堪らないだろうな】
境線の終着駅『境港駅』のある境港市は漫画家の『水木しげる』の出身地で、そのために境線は代表作の『ゲゲゲの鬼太郎』を観光資源にしていて、ホーム上には写真−6の『妖怪の国へようこそ』と記された幟を持った鬼太郎と目玉おやじの像が置かれている。
この他に同駅には木彫りの『ねずみ男』の像が置かれているらしいが、そこまでは関心はないので探す気はなく、ゼロ番線ホームに停まっている11:37発『境港駅』行きに各駅停車列車に乗車するが、『ゲゲゲの鬼太郎列車』と名付けられているように外装から内装まで『ゲゲゲの鬼太郎』に因んだ意匠が施されている。
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海と繋がる『汽水湖』の宍道湖は島根県の出雲市から松江市にかけて広がり、島根県では隣の『中海』に次ぐ広さで国内7番目の面積を持ち、その湖岸沿いを山陰本線は走る。
【写真−1 海と呼んでも良いこの広さ】
『宍道駅』を出ると山陰本線は写真−1のように国道9号線を挟んで敷かれ、宍道湖の広がりが車窓から見え、海と違った春らしい湖面が目に入るが、同湖の水深は平均4.5mとかなり浅い。
同湖は汽水湖の性質上、魚介類の種類は豊富で、特に『ヤマトシジミ』の特産地として知られ、また水鳥の渡来場所でもあり、2005(平成17)年に『中海』と共にラムサール条約に登録された。
【写真−2 宍道湖湖畔がこういう銘石の出る産地とは知らなかった】
『宍道駅』から次の駅が『来待(きまち)駅』で、同駅と次の『玉造温泉駅』間は複線区間になり、写真−2の駅舎横のホーム上には『出雲石燈ろう・建材 来待石の原産地』と刻まれた碑が石と共に置かれている。
来待石は1400万年前に生じた凝灰質砂岩で、駅のある来待地区は世界でも稀な産地として知られ、古くは古墳時代の石棺に使われ、近世になって花崗岩が多かった石灯篭の材料から加工し易い来待石が使われ、1976(昭和51)年には石工品では初の伝統的工芸品に指定された。
【写真−3 彼方に見える建物群は温泉街か】
写真−3のようにしばらく山陰本線は宍道湖湖岸を舐めるように進むが、先述しているが2019年の『ジャパンレイルパス』を利用して『新幹線全線乗車の旅』で、『松江駅』まで足を延ばし夕暮れの宍道湖を眺めたが、その時は強風が吹いて湖面は波立ち、非常に寒い思いをした。
『ジャパンレイルパス』は日本を訪れる外国人のためのJRが実施している特別パスだが、例外があって海外に住む日本人でも10年以上日本の在外公館に在留届が続いていれば資格があってそれを利用したが、この時は初めてグリーン車の7日間有効を床ったが、『東京駅』−『新函館北斗駅』間の北海道新幹線を往復利用すると支払代金と同等で、いかにこのパスが優遇、お得ということが分かる。
【写真−4 有名な温泉地のためか年配者の降りる姿が目立った】
宍道湖の周りは温泉が多く、写真−4はその名もズバリの『玉造温泉駅』で、同駅は松江市玉湯町湯町にあり、いかにも湯の豊富な温泉地の印象を与え、そのために1909(明治42)年の駅の開業時には『湯町駅』で、1949(昭和24)年に現駅名に変わった。
玉造温泉は駅から離れた地域にあるが、開湯は奈良時代と言われ『枕草子』に書かれているような名湯で、山陰地方の城崎温泉、皆生温泉、三朝温泉などと並ぶ代表的温泉で、高級旅館が多い。
【写真−5 鉄道史の中で異色の過去を持つ駅】
『松江駅』手前が写真−5の『乃木駅』で松江市のベッドタウンのためか駅前風景は住宅が広がる平凡な無人駅だが、同駅は日本の鉄道史の中では特筆される駅として知られる。
同駅の駅舎の壁の駅名板の下に『国鉄初の女性駅誕生駅 昭和55年(1980年3月)』と白い板に黒字で書かれた銘板が張られていて、この時代の日本は『赤信号みんなで渡れば怖くない』が流行り、多くの国がボイコットしたモスクワオリンピック、時代は男社会でその中での初の女性駅長は確かに凄い。
【写真−6 松江では過去に一泊したが何を食べたか覚えていない】
『松江駅』は高架駅なので手前から山陰本線は写真−6のように高架になっていて、その上から松江市街地が臨め、松江市は人口20万人弱の島根県で最大の都市になるが、とは言っても県全体の人口が64万人で、都道府県では下から2番目の人口規模で、最下位は隣の鳥取県の53万人。
山陰地方には高層のビルというのは少なく宍道湖畔に山陰合同銀行本店ビルが14階で一番高く、写真−6の真ん中辺にそのビルは見え、2番目が13階の島根銀行ビルで、こういう威容を誇るビルを建てるように島根は銀行が絶大な権力を持っていることが分かる。
その松江市内に19階建てのタワーマンション計画が持ち上がっていて、しかも国宝の松江城近くに建つとあって、かなり建築許可を巡って揉め2024年春着工予定とあってその後の推移は分からない。
しかし2016(平成28)年に竣工した山陰合同銀行ビルの高さが66m、今回のタワーマンションが57mと少し低く、両ビルはどちらも松江城に近く、銀行ビルを建てさせて今更景観がどうのこうのというのは整合されず、やはり銀行のつまらぬメンツが邪魔しているのかと勘繰る。
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【写真−1 日本の少子化は混雑が当たり前の駅の風景を変える】
『出雲市駅』の改札口の様子が写真−1で、同駅は高架化されているので正面にある階段を昇ってホームへ行くが、右端の方にホームへ向かうエスカレーターが見え、階段で汗を掻かなくても済むが、正面の階段脇に設置した駅もあるからこれは構造上設置出来なかったのであろう。
改札口頭上に案内板があり、右側2番線が米子、松江方面で上部は『出雲市駅』発8:54の『鳥取駅』行き特急『スーパーまつかぜ6号』で、同特急は10:58に『鳥取駅』に到着する。
その下の10:01発『米子駅』行きが乗り継ぐ各駅停車列車で、『米子駅』には1時間少々の時間をかけて11:14に到着し、同駅でまた乗り換えるが、そのまま山陰本線に乗り継ぐのではなく境線に乗り換え終点の『境港駅』まで向かう。
【写真−2 神話上のアメノウズメが神楽の始祖という】
『出雲市駅』ホームに停車していた『米子駅』各駅停車列車が写真−2で、正面、横共にラッピングされていて、先頭右側に『岩見神楽』と印されているように同列車は『岩見神楽号』と呼ばれている。
使われている車両は『JR西キハ−120形気動車』で、1992(平成4)年から1996(平成8)年にかけて89両製造され、3次に渡って改造し『岩見神楽号』に使われている車両は2次車両で、米子運転所に6両配属された。
【写真−3 近くで見るとお金のかかるラッピング仕様列車】
『JR西キハ−120形気動車』の2次車から正面のみ鋼鈑製だが、車体はステンレス製になり、このラッピング列車は黄色を基調にした表面に『岩見神楽』の演目に因む『大蛇(おろち)』や『塵輪(じんりん)』などが描かれている。
このラッピング列車は2019(令和元)年にデザインが変更され、それ以前は山陰の岩見地区を走る他の路線にも違った色とデザインの『岩見神楽』列車を走らせていたが今は『益田駅』−『米子駅』間を中心に運行している。
【写真−4 座席の古風さと対照的な嵌め殺しの窓】
その『岩見神楽』号の内部が写真−4で、意図的ではないだろうが古色蒼然という表現の当てはまる雰囲気だが、2両編成のワンマンカー仕様で、特別な列車のためかこの時間でも乗客は乗っている。
先頭に運転士の姿が見えるが、ワンマンバスと同じように料金箱と頭上には駅名と料金を記した表示板があり、ドアもバスと同じように2枚に折れる方式で、これはJR西日本では初めての採用であった。
【写真−5 宍道湖の周りには温泉が多い】
『出雲市駅』から2つ目が写真−5の出雲市内の『荘原駅』で、駅舎の窓上部に『ようこそ 日本三大美人の湯 出雲湯の川温泉』と書かれ、ここに温泉街があることが分かり、その前には出雲神話に因んだ『大国主と白うさぎ』の像が置かれている。
『日本三大美人の湯』の根拠というのは良く分からないが、和歌山県田辺市の『竜神温泉』、群馬県東吾妻町の『川中温泉』、それと『湯の川温泉』を言うらしいが、湯の川温泉は『荘原駅』から歩いて10分ほどだから交通の便は良い。
【写真−6 駅前の道路を進むと国道9号線がありその先は宍道湖】
宍道湖の『宍道』はそれだけだと難しい読み方だが、写真−6は既に松江市内に入っている『宍道駅』で、『松江駅』までは4駅手前にあり、同駅は山陰本線の他に木次線の起点駅になっている・
木次線は『宍道駅』から広島県庄原市の『備後落合駅』まで18駅、81.9キロの路線で、『備後落合駅』は瀬戸内側から山陰側へ抜ける伯備線の『備中神代駅』から『広島駅』まで行く芸備線が乗り入れ、この辺りのJRの鉄道網はかなり複雑な地域でもある。
この木次線は中国山地を横断するために途中では2段階のスイッチバックの行われる駅もあり、また2018(平成30)年に『三次駅』−『江津駅』間の三江線が廃線になってからは、島根県と広島県を結ぶ唯一の鉄道路線となったが、JR側は廃線にしたい意向のようだ。
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【写真−1 同駅は地上にあり駅構内を出入りする電車が見られると思った】
その一畑電車の『出雲市駅』が写真−1で、JR『出雲市駅』から行くには南口改札口を出て高架沿いに歩いて行く必要があり何とも不便で、JR側は1998(平成10)年に高架駅となり、一畑電車側も2年遅れて高架化されたが互いに連結して利用客の便を図る考えはなかったようだ。
一畑電車『出雲市駅』が開業したのは1914(大正3)年で、当時はJR側も一畑側も『出雲今市駅』と名乗っていて、高架化になるまでは一畑電車はJR構内にレールが乗り入れていて相互の乗り換えは簡単であった。
【写真−2 シーズン中は出雲大社へ向かう人々で混雑しそう】
写真−2は一畑電車『出雲市駅』の出札口で、その上に時刻表と路線の駅と共に料金表が表示されていて、時刻表では平日は朝6時から夜10時まで1時間に1〜2本、ラッシュ時には3本運行しているのが分かる。
2路線あると先述したが5駅、8.3キロの大社線『出雲大社駅』へ行くには途中の『川端駅』で乗り換える必要があり、その所要時間は乗り換え時間を含めて25分で、『出雲市駅』からの直通も1日2本運行しているが、時間はそれほど変わらず料金は500円。
一方の北松江線の終点『松江しんじ湖温泉駅』までは1時間かかり、22駅、33.9キロあるわりには料金700円とはかなり安い気がするし、宍道湖沿いに走る車窓風景はかなりの見ものである。
【写真−3 地上駅であった時代はどういった改札風景であったか】
一畑電車『出雲市駅』の改札口が写真−3で、地方鉄道の現況を表すように通路2つで賄える規模で、正面の階段を上がってホームへ行くが、年配者や大荷物を持っている旅行者にはエレヴェーターかエスカレーターがないとチョッと大変で、同駅に設備されているのかどうかは不明。
頭上の表示板に9:19発の急行『松江しんじ湖温泉』行きと9:50発の『出雲大社駅』行き直通電車の案内があり、この直通電車は1日2本しかない内の1本で、他には発車時刻10分前に改札業務を行うとの案内が見える。
【写真−4 一畑電車の待合室ガラス仕切りに映画の宣伝が】
長い題名の『RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語』の映画は2010(平成22)年に公開され、その舞台となったのがこの一畑電車で監督は『錦織良成』、同監督は平田市(現出雲市)出身で島根三部作の映画を発表している。
島根三部作の最初は2008(平成20)年の『うん、何?』、2作目がこの『RAILWAYS』で、3作目は2017(平成29)年の『たたら侍』と分野は違うが、何れも島根が舞台となっている。
毎年日本の国際交流基金がフィリピン各地で日本映画を上映する行事があって、『RAILWAYS』はセブの映画館で観ていて、出雲路を走る電車の様子がずいぶんのんびりしているなあとの印象があった。
将棋の藤井が棋士にならなければ鉄道の運転士になりたかったと述べているようにレール上を走る列車を運転するのは人気はあり、映画は会社を退職して運転士になった人物を描いていて、待合室に描かれ劇中に出て来る電車は『一畑電気鉄道 デハニ−50系』で、その製造は1928(昭和3)年の文化財級になり、列車マニアには垂涎の車両でもある。
【写真−5 見れば見るほど面白い造りになっている】
一畑電車『出雲市駅』のトイレが写真−5で、今もってこういう和式のトイレが使われていることに驚いたが、出雲大社には海外からの観光客も多く訪れると思い、このトイレを見たら相当吃驚するのではないか。
トイレというのはその国の衛生観念の分かる場所で、社会学に『トイレ学』という分野があるくらいで、かつて中国で公園内にあるトイレに入ったら便槽に板が差し渡していて、前後左右丸見えの中で用を足す様を見て驚愕したが、中国人にとっては普通で所変われば変わるとは言うが、近代化路線を急いだ中国にあのようなトイレはまだ残っているのであろうか。
ハワイのヨットハーバー内にあるトイレに行ったら、ドアがなくて中は丸見えで用を足すようになっていて、さすがに最初は使うのを躊躇ったが、慣れれば何ということなく普通に使うようになったが、同地の博物館内のトイレはドアがあっても中が見えるように低く、これは安全上から来ているようだ。
【写真−6 折角の駅前再開発も土地の特徴がないと同じ雰囲気】
一畑電車は市役所などがあるJR南口側にあり、時間があったので北口に回って撮った駅前が写真−6で、開発前は工場が並んでいて、駅の高架化に伴って再開発されて現在のようになり、写真右側に益田市で泊まったホテルの出雲店があり、同ホテルを含めて広場を囲むようにホテルが3軒建っている。
左側に見える建物は『ビッグハート出雲』と名付けられた多目的ホール施設で、主にクラシック演奏会に使われていて、開館は1999(平成11)年で出雲市は県庁所在地の松江市(人口20万人弱)に次いだ県内2番目の人口17万人を擁し、このくらいの箱モノはあって当然という所か。
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【写真−1 駅に柵がなく住宅と一体化している雰囲気が好ましい】
写真−1の『波根駅』は名前の通り近くに海水浴場があり、ホームから水平線が見え、同駅は大田市内には10駅ある駅の中では最北に位置し、開業は1915(大正4)年と既に100年を過ぎている。
海側から山陰本線、山側に国道9号線、更に山側に高速道路の『山陰自動車道』が並行して走っていて、同高速道路の開通は1985(昭和60)年で、鳥取市を起点に山陰海岸沿いに下関市まで380キロ、時代とは言え開通によって同地方の鉄道事業の衰退を更に進めてしまった。
【写真−2 冬季の景色はまた違う表情を見せるのであろう】
『波根駅』から次の『田儀駅』間は写真−2のように国道9号線を挟んで線路が延び、のびやかな水平線が車窓に広がり、彼方に見える影は島ではなく、出雲方面の半島のようだ。
国道9号線は山陰本線と付かず離れずの距離で並行しているが、写真でも分かるようにあまり車が連なって走っているような光景や、車が走っていてもトラックのような商業車は少なく、山陰地方の過疎化は物流にも影響を与えているようだ。
【写真−3 ホームは北側に面しているので水平線に沈む夕陽はどうか】
その国道9号線と海を臨んだ場所にあるのが写真−3の『田儀駅』で、折しも反対側ホームに『浜田駅』行きの各駅停車列車が入って来て、車両の向こう側に水平線が入る構図はJRが好んでPR用に使う写真でもある。
同駅は大田市を離れ出雲市に入っていて、駅名はその昔の『田儀村』から来ているが現町名は地の違う『多伎(たき)町』で、これは合併によって合成した地名になり、駅舎は2005(平成17)年に町営バスターミナル兼用でログハウス風に建てられた。
【写真−4 山陰本線の電化区間というのは少なくほとんど単線】
写真−4は終点の『出雲市駅』一つ手前の『西出雲駅』で、1913(大正2)年に開業した当時は『知井宮駅』という名称で、宮が入っているように『出雲風土記』に同所に『知乃社(ちのやしろ)』がありそこから来ている。
同駅は1993(平成−5)年に『西出雲駅』に改称し、下関側の『幡生駅』から当駅までは非電化区間で気動車を走らせているが、写真−5で分かるようにここから電化されていて張られた架線が妙に新鮮。
【写真−5 今は山陰本線のみだがかつては大社線があった】
『浜田駅』発6:34の各駅停車列車は8:49に『出雲市駅』に到着し、写真−5は到着したホームの反対側を写したが、JR西が採用しているオレンジ色に塗られた車両を見て同系統の車両で瀬戸内海沿岸を乗り継いだことを思い出した。
同駅が1910(明治43)年に開業した当時の名前は『出雲今市駅』で、1957(昭和32)年に『出雲市駅』と変哲もない駅名に改称したが、当時の国鉄と自治体の連中の貧弱な国語力と地名の歴史を軽んじる態度はどうしようもない。
【写真−6 余りにも取り澄ました駅前で神話の郷を感じさせない】
駅のある出雲市は人口17万人を擁し、山陰地方では県庁所在地の松江市と鳥取市に次ぐ人口で、そのためもあって同駅は1998(平成10)年に同地域では数少ない高架駅となり、写真−6の北口入り口は出雲大社の建物を模している。
大きな市のために駅前は整理されていて、同駅は私鉄の『一畑電車』の起点でもあり、山陰本線『米子駅』行きは10:01のために時間があるので『一畑電車』の『出雲市駅』に行くが、駅構内でホームは隣接していると思ったら、全く別々になっていて一度駅を出ないと行けない。
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【写真−1 新建材の家でも瓦屋根になっている】
山日本海沿岸を走る山陰本線は時々写真−1のような海に臨む集落をすり抜けて走るが、この石見地方の浜田市から江津市にかけては日本三大瓦産地の一つ『石州瓦』を生産している地域で地元産の瓦を乗せた家屋が並ぶ。
石州瓦の特徴は土と焼成温度から生まれる赤褐色の色だが、最近は黒系の瓦も生産していて、瓦を使った屋根は断熱性は良いが瓦自体の重さのためにかなりの荷重が柱と梁にかかり、この間の能登半島地震でも瓦屋根の古い木造家屋は屋根の部分を残して下側は倒壊しているのが多かった。
【写真−2 次の駅は『湯里駅』だが同地には温泉はない】
写真−2が冒頭に書いた難読駅の『温泉津駅』で、これで『ゆのつ』と読むから漢字の読み方は難しく、どうしてこう読むのかと考えても仕方がなくこう読むのだと丸暗記するしかない。
同駅から徒歩で海に向かって15分くらいの場所にある入り江に『温泉津温泉』があり、同温泉街は石州瓦を乗せた古い建物が連なり、2004(平成16)年に国の『重要伝統的建築物群保存地区』に指定され、温泉街としては初めての指定であった。
温泉津で特筆されるのはユネスコの世界遺産になった『石見銀山』から産出した銀を温泉街に連なる温泉津港から積み出したことで、同港も世界遺産の登録を受け、駅そのものは特徴のない無人駅でも歴史の中では同地は豊かであった。
【写真−3 グリーン座席はない特急列車】
『温泉津駅』に『出雲市駅』行き各駅停車列車が停まっていると、反対側に写真−3の列車が通り過ぎ、これは山陰本線と山口線を走る特急で、『米子駅』6:49発の『スーパーおき1号』で、10:19に『新山口駅』到着する。
山陰本線の同区間を走る特急は他に『スーパーまつかぜ』があるが、使用している車両は同じ『JR西キハ−187系気動車』でデザイン的には地味だが、急カーブの多い区間を走るために設計され、2両編成と特急にしてはやはり地味。
【写真−4 この長い砂浜は鳴き砂で知られる『琴ヶ浜』か】
写真−4も車窓からの山陰海岸の様子で、山陰海岸は奇岩の多い岩礁の続く海岸のイメージは強いが、この写真には結構長い薄茶色の砂浜が写っていて意外な感じはしたが、鳥取砂丘を思うと日本海側に砂浜があってもおかしくはない。
車窓から眺める分には綺麗な砂浜と海に見えるが、打ち寄せる波と同じ海なのにどこか太平洋側と比べると重苦しく、海辺に連なる集落も閉鎖的な感じを受け、これが風吹き荒び雪が舞うような冬季だと寂しい光景になるのだろうと想像する。
【写真−5 1日の乗車人員は200人前後と意外に多い】
『温泉津駅』から既に太田市内を走っていて、写真−5は『仁万駅』で、駅のある地名は『仁摩』であり、同地のかつての郡名は『邇摩郡』で合併を繰り返して、最終的には2005(平成17)年に太田市と合併したために、邇摩郡と仁万町は消滅した。
同駅はユネスコの『石見銀山遺跡とその文化的景観』に登録された関連施設に近い最寄り駅でもあり、時間帯によっては特急も停車し、同駅からは鳴き砂で知られる1.6キロに及ぶ『琴ヶ浜』が近く、また仁摩町出身の建築家『高松伸』設計の『仁摩サンドミュージアム』がある。
【写真−6 ホーム上の時刻表は赤色の特急列車運行がかなり多い】
大田市中心の駅が写真−6の『大田市駅』で、『おおた』ではなく『おおだ』と読むが、開業当時の1915(大正4)年には『石見大田駅』で『おおた』と称していて、1971(昭和46)年に『大田市駅』と改称し『おおだ』となった。
同駅の2、3番線ホームからの跨線橋に使われている鋳鉄製の門柱は、現存する鉄道の鋳鉄製門柱では国内最古の1890(明治23)年に神戸の工場で造られた重要文化財級の物で、門柱は勿論跨線橋全体が歴史を感じさせる造りで、もう少し停車時間があったら写真に撮っていた。
大田市(人口3万1千人)の山側には江戸時代に世界の銀の3分の1を産出したというユネスコの世界遺産登録の『石見銀山』があり、同銀山の中心となった同市大森地区は鉱山町として1987(昭和62)年に『重要伝統的建造物群保存地区』に指定された。
石見銀山がユネスコの世界遺産に登録されたのは2007(平成19)年で、一時は不承認であったがロビー活動が功を制して日本の世界登録遺産として14番目、文化遺産としては11番目、産業遺産としてはアジアで最初の登録地となった。
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【写真−1 駅前には岩見神楽をモデルにしたカラクリ時計がある】
写真−1は浜田市の中心駅の『浜田駅』で、浜田市は県庁所在地の松江市、出雲市に続く県内3番目の人口で現在5万1千人を擁し、同地方を表す『石見』は古代日本の7世紀の律令制に始まり、同地域は東西に長いために益田市中心地域を『石西』、太田市中心地域を『石東』、そしてこの浜田市を中心とした地域を『石央』と分けている。
日本海側の『浜田駅』と瀬戸内海側の広島を結んで中国山地を横断する路線がかつてあって、同線は山陽本線『横川駅』から『三段峡駅』までの60.2キロは開通したが、『浜田駅』から『三段峡駅』までは着工出来ず、この区間は幻の『今福線』と呼ばれている。
国鉄時代は中国山地を横断する路線がいくつもあったが、車の時代を迎えて次々と廃線になり、『浜田駅』へ乗り入れるはずであった同線は現在可部線として生き残り『横川駅』−『あき亀山駅』間15.6キロが運行されている。
同線の『横川駅』からの開業は1909(明治42)年とかなり早く、1969(昭和44)年に『三段峡駅』まで開通したが、既に同地域も鉄道の時代は終わっていて1980(昭和55)年に今福線敷設中止決定し、『浜田駅』乗り入れは幻となった。
2003(平成15)年に『可部駅』−『三段峡駅』区間が廃線、その後地元の事情で2017(平成29)年に廃線を利用した『可部駅』−『あき亀山駅』間が開通したように時代の波に洗われた路線であり、仮に『浜田駅』−『横川駅』線が全通しても赤字路線として廃線は免れないのではないか。
【写真−2 読めそうで読めない駅名】
写真−2の『久代(くしろ)駅』は『浜田駅』から2つ目の浜田市内にあり、同駅は『浜田駅』寄りの難読駅『下府(しもこう)駅』とその先の『波子駅』の間に1959(昭和34)年造られた新しい駅である。
同駅は山側の高い所にあり、海に向かって降りて行くと国道9号線に当たり、国道を越えると海辺の集落に出るが、駅の1日の乗車人数は一桁に落ちていて、浜田市内にある山陰本線の秘境駅になりつつある。
【写真−3 特急も停まる直営駅だが駅員の姿は見えない】
『益田駅』発5:45『浜田駅』行きは同駅に6:32に到着し、6:34発の『出雲市駅』行きに乗り換え、写真−3の日本海に面する江津市の『江津駅』に着いたのは7:03で、都会なら通勤通学ラッシュ時間だが、特急が停まる駅でもご覧の通りに閑散。
瀬戸内海側から中国山地を横断して日本海へ抜ける鉄道が過去に何線もあったと先述したが、『浜田駅』同様『江津駅』も瀬戸内海へ向かう『三江線』という路線が2018(平成30)年まで運行していた。
『三江線』の三は広島県北部内陸にある三次市のことで、同市の『三次駅』には『広島駅』を起点に『備中神代駅』まで、44駅、159.1キロの『伯備線』が通っていて、この伯備線は『倉敷駅』から中国山地を横断して山陰本線の『伯耆大山駅』に至り、数少ない中国山地横断路線として生き残り、JR特急がこの路線を経由して山陰側に向かっている。
【写真−4 ホームの向こうに見える雑草と柱の古びた具合が妙に合う】
『江津駅』の反対側ホームを写したのが写真−4で右側に見える列車は『浜田駅』行きで、駅のある江津市は人口2万1千人と山陰地方の市の中では最も人口の少ない市であり、面積も県内で最少の市になる。
江津市は中国地方最大の川『江の川』が流れ込むが、江の川は中国山地に源流を広島側に発するが流れは複雑で反時計回り回り込んで日本海に注ぎ、同市の地場産業として『石州瓦』があり、住宅事情の変化で近年は昔ほど売れていない。
【写真−5 原発が出来てもおかしくない地形と環境】
『江津駅』を出て海沿いを走って見えるのが、写真−5の海岸に建つ風力発電設備で、日本海側は風の強い地帯でもあり風力発電設備は山陰本線の車窓から時々見えるが、写真の風力発電所は民間の運営で2009(平成21)年に操業し、11基、2万2千KWの発電量がある。
江津市には山側に9基、2万700KWの『高野山風力発電所』があり、同発電所は地方公共団体が運営する風力発電設備としては最大で、同市はこの他に太陽光発電などの再生エネルギー事業も盛んで、核のゴミを無限に出す原発容認の自治体が多い中では異色の方である。
【写真−6 高校生の制服も昔のように詰襟というのは稀少になった】
朝7時台の各駅停車列車のために写真−6のように通学で利用する高校生が座席を多く占めていて、写真で分かるように座席で誰しも携帯に没頭していて仲間通しでおしゃべりに夢中というのは昔の話という時代である。
以前、タイ北部を走る国鉄に乗った時にやはり通学時間帯にぶつかり、途中の駅で高校生くらいの生徒が乗り込んで来て、それまでガラガラであった車内の席が埋まったが、男女別に席に着くのは日本と変わらなく、しかも皆携帯を取り出して会話はなく、世界中同じになっていると思い、便利さより人間の退化を感じた。
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【写真−1 赤褐色の地元産の石州瓦が目に鮮やか】
『岩見津田駅』を出てから写真−1の赤褐色の屋根瓦で統一された、日本の漁村の原風景のような景色が目に飛び込み、この屋根瓦は『日本三大瓦』の一つ、島根県の石見地域で生産される『石州瓦』で、凍結に強く豪雪地帯で多用されている。
漁港の縁を走る道路は『国道9号線』で、同国道は京都市を起点に山陰の日本海沿いを通り、山口県手前で内陸部に入って瀬戸内海沿いに下関市まで行く769.6キロの幹線道路で、国道では『4号線』、『1号線』に続く延長距離を持つ。
【写真−2 何気ない駅だが近くの海岸には温泉や景勝地がある】
写真−2は『鎌手駅』で、同駅ホームは写真では山側にある道路と同じレベルになっているが、反対側のホームは盛り土の高架になっていて駅の正面を通る国道9号線から階段を上がり、写真のホームへ行くには盛り土高架に掘られた地下通路で直接行くようになっている。
同駅は写真−1で見えた海岸部から山の方に入った地点にあるが、近くの海岸は『唐音』と呼ばれる石英粗面岩の海蝕崖が続き、その中に幅1m、長さ300mの安山岩の岩が露出しその様子から『蛇岩』と名付けられ、1936(昭和11)年に国の天然記念物に指定されている。
唐音の海食崖には地元の人が植えた200万株に及ぶ日本水仙が群生しその規模は中国地方最大と言われ、見頃は12月末から1月一杯になり、同地域には温泉もあり隠れた行楽地になる。
【写真−3 中国電力は火力ではなく原発を造りたかったのではないか】
再び山陰本線は海岸に出て、先述した海食崖の続きのような写真−3の荒々しい崖上を進むが、重苦しい雲の下の彼方に煙突状の建造物が見えて、海と岩しかない景色の中で異彩を放っている。
この建造物は中国電力の『三隅火力発電所』で、2基あり1号機は1998(平成10)年、2号機は2022(令和4)年に発電開始と新しく、それぞれ発電能力100万KWと国内火力発電所1基当たりでは最大規模になる。
1号、2号共に燃料は石炭で、専用港を造って海外から火力原料の石炭を輸入しているが、一時期CO2削減のために木質チップを混ぜて発電する『バイオマス発電』の実験が行われていた。
【写真−4 火力発電所用の専用線が同駅から延びていた】
写真−4の『岡見駅』は浜田市内にあり、同駅構内から米子方面はトンネルが至近で、折しも『益田駅』行きの各駅停車列車が反対側ホームに入って来て、同駅の現山陰本線は1992(平成4)年に付け替えた新線で、旧線もトンネルになって先述した『三隅火力発電所』の専用線として使われていた。
『三隅火力発電所』の操業開始が新線付け替え後の1998(平成10)年で、発電所から排出する石炭灰を美祢線を経由して瀬戸内海側の宇部にあるセメント工場へ原料として運んでいたが、現在は運行されていない。
【写真−5 石見地方は伝統的和紙生産でも知られる】
写真−5の小奇麗な木造駅舎は『三保三隅駅』で、左の方に幟が立てられそこには『三保三隅駅開業一〇〇年』とあり、同駅が1922(大正11)年に開業したことを示している。
同駅は山陰本線が浜田方面から延伸し、同年に『周布駅』から延びて終着駅として開業し、1926(大正15)年には『三保三隅駅』から『鎌手駅』まで延伸して『岡見駅』が生まれ、山陰本線が徐々に敷設しながら伸びて行った歴史を感じさせる区間でもある。
駅舎の壁に『石正美術館』の案内が見えるが、同美術館は駅から徒歩で30分近くかかるが、浜田市出身の日本画家『石本正』を記念した浜田市立の美術館で、他にも『石州半紙』の看板が見え、これは近隣で生産される障子紙などに使われた和紙で、2009(平成21)年にユネスコ無形文化遺産に指定された。
【写真−6 かつては浜田港へ行く貨物線があった】
写真−3は人口数で島根県内3番目の浜田市の中心駅一つ手前の『西浜田駅』で、同駅も開業は100年以上の1922(大正11)年で、開業当初は『岩見長浜駅』と名乗ったが、1949(昭和24)年に現駅名に改称した。
同駅は浜田港に近く、1955(昭和30)年から2.3キロの貨物専用線の『浜田港線』が運行されていて、SLも走ったこともあったが1982(昭和57)年に廃線となり、廃線跡は山陰本線の分岐点にはレール跡が見え、多くは道路などになっていて港付近に操車跡地が残る。
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【写真−1 益田市の中心市街地はこの駅舎の反対側】
『益田駅』から山陰本線『浜田駅』行きは5:43に出るので、いくら駅目前のホテルに泊まっていると言っても起きる時間は早朝4時過ぎになり、身支度をしてコーヒー豆を挽いてポットにコーヒーを淹れるなどをしている内に時間は過ぎる。
写真−1はひっそり静まり返っている早朝の駅前広場から『益田駅』を見た様子だが、始発に乗るのは『益田駅』−『浜田駅』−『出雲市駅』−『米子駅』と乗り継いで同駅から境港線で『境港駅』へ行って、同駅より隠岐の島へ渡るフェリーに乗るためであった。
【写真−2 低価格でトイレが流れお湯が出れば宿泊場所としては充分】
昨夜は気が付かなかったが、『益田駅』の真ん前に『駅前ビジネスホテル』と名乗る写真−2のビジネスホテルがあり、料金も昨夜泊まったホテルの半分程度で泊まるだけなら充分なホテルである。
昨夜泊まったホテルは日本の大手ホテル仲介サイトで見つけて予約を取ったが、こういう予約サイトに載らない、或いは載せないホテルというのは結構あって、今のようにネット頼りの予約は、『飛び込み』と言って現地で見つけた宿泊所に行って交渉して泊まる楽しみを失わせてしまった。
森繁が主演していた東宝映画の喜劇『駅前旅館シリーズ』で分かるように、かつては駅前に旅館があるのは当たり前の時代があり、今でもそういった名残りは駅前に見るが旅行形態の変化によって寂れ、廃業が続き時代と言えば時代ではあるが。
【写真−3 同市には全日空羽田便1日往復2本の石見空港がある】
『益田駅』のある益田市は人口4万2千人、島根県で4番目の人口を抱えるが最多は松江市の20万人で、年々人口減少の激しい県でもあり島根県全体で65万人となっているがこれはセブ市よりもかなり少なく、セブが人口過密なのか島根が過疎なのかその両方になるであろう。
益田市には今は稀少になったキャバレーが営業していて、その名は『キャバレー赤玉』で1938(昭和13)年創業というからそれだけでも凄く、益田市へ来たからには写真に撮っておきたいと思ったが、所在は写真−3の『益田駅』駅舎の反対側の同市中心街区側にあり、当日は休業で雨も降っていたので取り止めた。
【写真−4 『松江駅』−『岡山駅』間の特急に乗車したことがある】
写真−4の『益田駅』ホーム右側に停まるのが5:43発『出雲市駅』行き各駅停車列車で、左側の青と黄色に塗り分けられた車両は山陰本線を走る特急『スーパーまつかぜ4号』で、『益田駅』を5:36に出て『鳥取駅』まで4時間近くかけて9:31に到着する。
山陰本線も現在『下関駅』−『益田駅』間は特急は走っていないが、2019年の『新幹線全線乗車の旅』の時にはまだ特急を走らせていて、『岡山駅』から特急を乗り継いで『下関駅』へ出ようと計画したが、その年の集中豪雨で山陰本線は被害を受け不通区間を生じ、バス代行となっていたので取り止めた。
ただし、『益田駅』は全く特急と縁がなくなった訳ではなく、山陰本線『米子駅』発、『新山口駅』行き特急『スーパーおき』が山口線の起点である『益田駅』に停まり、同特急は1日往復3本運行し所要時間は4時間強。
【写真−5 吊輪と座席ハンドルの黄色がこの列車の特徴】
写真−5は『出雲市駅』行きの車内の様子で、同車両は『JR西日本キハー120形気動車』と呼ばれ、1990年代に89両製造されたワンマン仕様車で、車体に記された車両番号319から1994(平成6)年から1996(平成8)年にかけて59両造られ浜田鉄道部に配属された13両の一つと分かる。
通常ワンマンで走っているが『出雲市駅』行きは2両編成で出発し、この車両の特徴は色々あるがドアがバスと同じ折り畳み式になっている特色で、車内にはトイレが付属し座席はクロス式とロング式が混ざり、その張地がかつての国鉄色の濃い緑を想い出させる。
【写真−6 駅舎を利用してパン店が営業中】
『益田駅』次が写真−6の『岩見津田駅』で、同駅はまだ益田市内になり停車時に車窓から駅舎を見たらパン屋の宣伝が書かれていて、同駅には2018(平成30)年からパン屋が駅舎を利用して開業していて、現在は2代目の『駅パンくるくる』という名前で営業している。
無人の駅舎を利用してカフェやレストランなどを開く例は多く、山陰本線上の『長門大井駅』駅舎には理髪店が店を開いていて、地域で人の集まる駅は商売としては悪くないのだろうが、鉄道利用者が減ったから無人駅になったことから考えると経営は難しく、『岩見津田駅』の1日の乗車数は10人台になっている。
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【写真−1 同駅は当初山口線の駅として開業した】
『益田駅』は山陰本線と山口線の2線が乗り入れていて、写真−1は山口線の列車が離発着する1番線ホームにある駅名表示板で、左側は山陰本線の松江方面『岩見津田駅』、右側上部は山口線の最初の駅『本俣賀駅』、その下が山陰本線萩方面の『戸田小浜駅』。
山口線は山口県の瀬戸内海側から日本海側の島根県を繋ぎ、『益田駅』から山陽本線『新山口駅』間の28駅、93.9キロの単線非電化路線で、途中には山陰の小京都と呼ばれる『津和野駅』や県庁所在地の『山口駅』を経由する。
山口線を有名にしているのは『新山口駅』−『津和野駅』間を走らせる蒸気機関車『SLやまぐち号』で、牽引しているSLは1937(昭和12)年製造の『C−57』1号機で、戦争や脱線などを経て復活した。
同SL列車は各地で走らせている観光用SL列車の草分けで、1979(昭和54)年から運行しているが、古いSLを使用しているために故障や点検による休止も多く、その時はディーゼル機関車が牽引している。
【写真−2 停まっているのは明朝折り返す『山口駅』行き】
改札口のある側のホームが写真−1の1番線ホームで、停まっているのは『山口駅』18:12発の『益田駅』着20:16の各駅停車列車で、到着したばかりなのでまだ車内には灯りが点いているが山口方面からの最終便になる。
100年前に『益田駅』が開業した当時は山口線の駅であったことがこれで分かるが、『益田駅』−『新山口駅』間を通して走る各駅停車列車は運行していなくて『山口駅』で乗り換える必要があり、『益田駅』発『山口駅』行き最終便は19:20発で既に出ている。
【写真−3 駅の入り口方面から改札口を見る】
『益田駅』は直営駅なので夜間でも駅員が常駐しているはずだが、写真−3で分かるように改札口付近にはひと気はなく、改札口の向こう側には山陰本線『益田駅』21:38発『浜田駅』行き最終便が停まっている。
山陰本線『浜田駅』発21:41が22:28に『益田駅』に入って来るのが最終便になり、これを最後に駅の業務は終わって駅舎の入り口は閉められ、かつての夜行列車が運行されていた時代の駅が24時間開いていた時代は遥か昔の話になった。
【写真−4 夜遅い到着なのでホテルが近くて良かった】
写真−4は左側に『益田駅』、その向こうに見えるビルが本日泊まるホテルで、2006(平成18)年に駅前再開発事業が行われ、ホテルのある場所には市の事務所、商業店舗とマンションの複合ビル棟とホテル棟が建つ。
このホテルは山陰地方で展開しているホテルチェーンで、島根県には写真の益田市と出雲市の2軒、他に鳥取県鳥取市、広島県東広島市、兵庫県豊岡市でそれぞれ1軒を営業している。
【写真−5 明日は始発に乗るから部屋の滞在時間は僅か】
同ホテルは夜8時過ぎのチェックインであったが、大分県佐伯市で泊まったホテルのチェックインが夜10時近かったからまだ早い方で、こういう遅いチェックインになると分かっていたので極力駅に近い駅を予約した。
写真−5がホテルの部屋の様子で右手のカーテンを上げると駅前広場と『益田駅』を見下ろし、部屋の仕様は他のビジネスホテルとあまり変わらないが、茶系の色で統一されて落ち着きがあり、ロビーなどもデザイナーが関わっていると思わせる品の良い造りになっている。
【写真−6 温泉の素を溶かし込んで温まるのがせいぜいの楽しみ】
同ホテルのバスルームが写真−6で、ビジネスホテル共通のユニットバスで良くも悪くもない仕様と設備だが、同ホテルの特徴は宿泊客用の図書スペースや無料のマッサージ器、夜食に無料ラーメン提供と他のビジネスホテルチェーンとは一味違っていて、また泊まりたいと思わせた。
駅の周りにはこれといった食べる場所はなく、結局近くのコンビニへ行って日本では当たり前でもセブでは珍しいインスタント焼きそばを買って食べたが、夜遅く到着し次の日に早立ちする旅行だと外に出て時間を過ごすのも億劫になるから仕方がない。
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【写真−1 車窓の水滴も時には美しく見える】
『金子みすゞ』の生誕地である仙崎町に立ち寄って山陰本線『長門市駅』に戻って、『益田駅』行きの各駅停車列車に乗った頃は、重苦しい雲が垂れ込めながら天気は保っていたが、『萩駅』を出た頃からポツポツ降り出した。
写真−1は『萩駅』から3つ目のまだ萩市内の『長門大井駅』で、既に雨は大降りでホームの上が濡れているのが分かり、無人駅の駅舎なのにかなり明るい照明が見えるのは同駅舎を使って理髪店が営業しているためだが、鉄道利用の乗客は1日一桁台になっている。
【写真−2 小さな駅でもそれぞれの歴史を持つ】
写真−2の『須佐駅』も萩市内に入るが、駅名の須佐は神話上の『須佐之男命(すさのおのみこと)』からで、その昔同町内にある533mの山から朝鮮半島方面を眺めたことかららしいが、どうして須佐之男命がここに来ていたかの理由は分からない。
萩市と合併する前は須佐町という自治体で、湾に囲まれ風光明媚、イカ漁の盛んな町で『須佐之男命イカ』の名で知られるが、鉄道好きには日本で初めて明治時代に全国規模の『時刻表』を作成した『手塚猛昌』の出身地で、駅前には『時刻表の父 手塚猛昌之顕彰之碑』と刻まれた碑がある。
【写真−3 海外から来た人間は使う気にならないトイレ】
途中、写真−3の車内のトイレを利用したが、こういう形式のトイレがまだ使われていることに驚いたが、乗っている車両が『国鉄キハ−40系気動車』という1977(昭和52)年から1982(昭和57)年の間に製造した車両で、洋式トイレなどまだ普及していない時代であった。
かつての国鉄のトイレは『黄害』と呼ばれたように、列車から車外にそのまま垂れ流すのが普通で沿線住民には堪らなくても、世の中は都市部を除いて水洗など普及していない時代なので仕方がないと思っていた時代であった。
その頃は線路際を歩くと使用された紙などが枕木にこびりついているの見るし、列車が通るのが分かるとその汚物をモロに浴びるのを避けるために大慌てで線路際を離れた記憶があり、今のように汚物をタンクに溜めて処理しているのは当たり前と言えば当たり前。
【写真−4 山口県内で最北に位置する鉄道駅】
萩市には9つの山陰本線の駅があり、写真−4の『江崎駅』は萩市最後の駅でここから先は山口県を離れて島根県の『飯浦駅』に入り、同駅は昼間は駅員の居る委託駅だが、1日の乗車数は50人を割り、夜間に到着するこの列車から人が乗降した様子はなかった。
かなり土砂降りであった雨もこの辺りに来ると小降りになり、終点の『益田駅』に着く頃は雨が上がりそうな感じになって来たが、春の気象は目まぐるしく変化するのも特徴で先は読めない。
【写真−5 本日乗車最後の列車が到着】
山口県と島根県の県境を越えて3つ目にある写真−5の『益田駅』に20:16に到着するが、同駅を境に山陰本線の下関方面とその逆の松江方面の列車が折り返し、山口線の終点にもなっていて駅としては大きいが、夜間のせいもあるがホーム上に人の姿が見えない。
『益田駅』は1923(大正12)年に山口線の終着駅として開業し、ホームの柱や梁が木材を使っているために古さを感じさせ、開業当初は『岩見益田駅』という名称であったが、その年の暮れに下関方面から延伸して来た山陰本線が繋がり、同線の所属駅となった。
『岩見益田駅』の岩見が取れたのは1966(昭和41)年と以外に新しいが、2番線と3番線に山陰本線の上下列車が停まり、1番線は山口線の列車が使い駅舎もそちら側ホームにある。
【写真−6 左に見える幟は駅の開業から100年を記念している】
山陰本線では大きな駅になるが、写真−6で分かるように改札口に行くには跨線橋を渡る必要があり、エレヴェーターやエスカレーター設備は全くなく、老齢者や大荷物を持った利用者には苦痛を与えるだけで、鉄道駅のバリアフリー化が進んでいる中、同駅は遅れている。
改札口を出て分かったが、2006(平成18)年に駅舎のある側の駅前は再開発されて、広い広場といくつものビルが建っているが、駅と一体に開発する考えと予算はなかったようだ。
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【写真−1 かえりと書いてあってもこれは往復切符】
『仙崎駅』を『長門市駅』に折り返す列車は『長門市駅』から乗って来た列車で13分後に『長門市駅』へ折り返すが、駅での乗り降り、改札で手間取ると数分は消えてしまうが、幸い切符は事前に東京『上野駅』で手に入れていた。
写真−1がその時の切符で、JRの切符は『上野駅』で一括して購入したことは何度も書いているが、この切符はたった一駅ながら駅で対応してくれた係員の判断で発券されたが、使うまでは気が付かなかったが往復切符で駅の改札は滞ることなく、これが功を奏した。
事前に切符を購入すると使用開始日と最終有効日が記載されて、今回のように何があるか分からない長距離旅では危険を伴うが、この切符は4月16日から17日まで有効だが、使用日は4月16日で予定通りに旅は進んでいて、日本の鉄道運行がいかに正確であるかの証明にもなる。
【写真−2 黄昏時で駅前には人も車の姿は見ない】
乗り遅れたら大変と駆けて来た『みすゞ通り』だが、写真−2は『仙崎駅』の駅舎正面で、駅舎は木造の建物のように見えるが、1998(平成10)年に改築した建物で、従来の鉄筋コンクリートの駅舎を白壁と焼いた杉板を張り屋根瓦を乗せて和風に見せている。
同駅では急いでいて気が付かなかったが、駅舎内にかまぼこ板約2万枚を使ったモザイクアートの『金子みすゞ』の上半身像があり、これは仙崎郵便局近くの壁に妙にぼけた感じの大きな上半身像が掲げられていたが、このモザイクアートが掲げられていたと後で分かった。
【写真−3 安定のある車両だが色はもう少し何とかならないか】
『仙崎駅』で待つ18:02発の列車に間に合って『長門市駅』に到着し、次の山陰本線『益田駅』行きは18:17発なので一息付けたが、写真−3はホームに入って来た『益田駅』行き各駅停車列車で、これが本日最後の乗車で『益田駅』到着は20:16と長い。
山陰本線は『京都駅』を起点に『下関駅』ひと駅手前の『幡生駅』まで、161駅、673.8キロあり、これは日本の鉄道本線では最長となり、長いと思われる東海道本線が589.5キロであることから確かに長い路線である。
【写真−4 奇をてらわない車内の作りがまた落ち着いている】
『益田駅』行き各駅停車列車内の様子が写真−4で、夜の6時台にしては乗客は前の座席に座っている頭が見える程度で、この区間は山陰本線の中でも利用者の少なく、唯一特急列車が走っていない区間にもなる。
乗車している車両は旧国鉄時代に製造された『国鉄キハー40系気動車』で、壁に衣服を掛けるフックがあり、窓の開け閉めはレバーを押して上下させるなどかつては当たり前の仕様がそのまま残っている。
【写真−5 停車時間が長ければ表に出て駅舎の正面を見たかった】
写真−5は幕末史を飾る長州藩の城下町萩市の中心駅の『萩駅』だが、萩市の中心駅は一つ先の『東萩駅』で、特急列車が運行されていた時代はこの『萩駅』には停まらず『東萩駅』に停まっていたから少々利用者は面食らったのではないか。
写真でも分かるようにホーム側の造りと改札口は木造の古いデザインで、この駅舎の竣工は1925(大正14)年で、大正期の建築様式を残し1996(平成8)年に国の重要文化財に指定されたが、こういう貴重な駅でも無人駅で改札口の珍しい横開きのドアは閉まっていた。
【写真−6 幕末の歴史好きには堪らない旧城下町の駅】
萩市(人口4万1千人)内中心に近い駅が写真−6の『東萩駅』で、さすがに同市の中心駅のために簡易委託駅で駅員はいるようだが、夜間になると無人になる駅かも知れず、それほど遅い時間でもないのに同駅で降りたのは数人であった。
ホームの窓の下がなまこ壁風になっているのは、1973(昭和48)年に駅舎を改築した時に白壁の武家屋敷風のデザインにしたためで、同駅からは松下村塾や討幕を進め明治期の要人となった人々に因む史跡が近い。
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【写真−1 この列車で長門市駅−仙崎駅間を往復する】
『長門市駅』−『仙崎駅』間は写真−1の『JR西日本キハ−120形気動車』が両駅間を折り返しで1日上下8本を運行し、『仙崎駅』へ向かうには『長門市駅』で乗り換えるようになっているが、かつては美祢線起点の『厚狭(あさ)駅』からの直通列車も運行していた。
美祢線は山陽本線の『厚狭駅』から『小野田市駅』間を結ぶ、12駅46キロの山口県を瀬戸内海側から日本海に向けて縦断する路線で、かつては内陸部で産出した石灰石を小野田市や宇部市にあるセメント工場へ運ぶ路線として栄えたが、今は廃止された。
【写真−2 彼方の幟の見える所に駅がありそこから記念館まで直線で400m】
17:45に『長門市駅』を出た列車は『仙崎駅』に17:49に到着し、同列車は18:02に同駅を折り返して『長門市駅』に向かうために13分の余裕しかなく、駅での乗降時間を考えると実質10分程度しかなく、これで400m先の金子みすゞの生家跡まで往復して『長門市駅』行きに乗れるかどうか賭けるしかない。
『みすゞ通り』と名付けられた生家跡まで続く道路入り口から『須崎駅』を見たのが写真−2で、夕方に近くなり通り沿いにある店はシャッターを下ろして人の姿もないが、その道をザックを背負ったまま走る。
【写真−3 道路を先に行くに従って街並みは細くなり漁港は右側にある】
写真−3は生家跡方面を見た通りの様子で、道路は舗道に石が敷き詰められ『金子みすゞ』を観光資源として利用していることが分かり、この道路は鯨漁で栄えた仙崎町の中心通りで、この先には狭い海峡を隔てて『青海島』がある。
ともかく列車に乗り遅れないようにと走り、道路沿いにどういう建物があるのかゆっくり見られなかったが、この通りは古の仙崎町の家並みが残っていて、金子みすゞが詩に残した家などが現存していてゆっくり見たら面白い。
【写真−4 この建物は右の方に本の看板が立ち現役の本屋のようだ】
それでも写真−4の古い建物を撮ったが、これは土蔵造りで昔からの有力者の家のようで、裏の方も白壁の立派な家屋が続き、近くには鳥居の建つ祇園社と呼ばれる神社があった。
今でこそ『金子みすゞ』で知られる長門市仙崎町だが、長門市も力を入れて町内には詩の書かれた看板や銅像など建てているが、かつては忘れられた詩人で1980年代になって再評価を得ていて、現在に至る。
【写真−5 至る所にみすゞの宣伝が覗き五月蠅い感じもする】
『金子みすゞ』は1903(明治36)年に仙崎町で生を受け、1930(昭和5)年に26歳で亡くなり正に夭折という言葉が当てはまるが、写真−5の左側に見える郵便局もみすゞがこの通りを歩いて行ったかと思うと感慨深いものがある。
『金子みすゞ』は生涯に500編の童謡と詩を残したが、20歳の頃から作品を発表し23歳の時に当時の『童謡詩人会』に入会が認められ、同会は西条八十、泉鏡花、北原白秋、島崎藤村、野口雨情、三木露風、若山牧水など日本の文学史に残る錚々たる人士が会員になっていて、女性会員は与謝野晶子だけであったからいかに『金子みすゞ』が若くして評価されていたか分かる。
【写真−6 記念館は既に閉館していてガラス越しに中を覗いた】
ただし、家庭的には恵まれず、23歳の時に結婚し娘も1人生まれるが、詩作に理解のない夫との仲は縺れて1930(昭和5)年に離婚が成立し、同年の3月10日に服毒で26歳の生涯を閉じたが、『仙崎駅』が貨物駅として開業したのはその年の5月15日なので『金子みすゞ』と駅は時間的には交差していない。
写真−6の『金子文英堂』は2003(平成15)年にみすゞの生家跡に建てられた記念館で、看板にあるように金子家は同所で書店を開いたわけではなく、文英堂というのは下関にあった書店で金子家とは縁戚関係にあり、同店の清国(中国)営口支店はみすゞの父親が店長をしていた。
このように記念館も作られ脚光を浴びた『金子みすゞ』だが、著作権や商標を巡って醜い争いもあり芳しくなく、とにもかくにもザックを背負ってこの生家跡まで駆けて行き、写真だけを数枚撮って『長門市駅』行きの列車に乗り遅れないように『仙崎駅』に向かってまた走った。
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