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日本全国 ご当地ソング巡り 2022年 第38番 近畿篇 滋賀県 『琵琶湖周航の歌』

【琵琶湖周航の歌−1971(昭和46)年 A面:少年は街を出る】

【作詞:小口太郎 作曲:吉田千秋 歌手:加藤登紀子】

 

【写真−1 加藤登紀子現在78歳この時は28歳であった】

 

 加藤登紀子は2021年の『第3番 北海道篇−3 『しれとこ旅情(1970年発表)』』で登場しているために2度目になるが、この曲を1971(昭和46)年に発売した時は、レコードジャケットで分かるようにB面で歌われこちらの方がA面より有名になった。

 

 この曲の成り立ちは、旧制第三高等学校漕艇部のボートが琵琶湖を時計回りに一周する行事を1893(明治26)年から始まり、1916(大正5)年に作詞者の小口太郎が漕艇部に入部し、翌年の周航時に作詞、当時流行っていた『ひつじぐさ』のメロディーに乗せて歌われ、その後三高の寮歌、学生歌として定着した。

 

【写真−2 小口の出た地元の高校には諏訪湖で漕ぐボート部がある】

 

 作詞者の小口太郎は1897(明治30)年に長野県岡谷市で生まれ、三高から東京帝大理学部に入学し、在学中に『電信電話』に関する特許を得るような英才であり、卒業後に東京帝大航空研究所に入るが、1924(大正13)年に東京の病院で亡くなり26歳であった。

 

 写真−2は1988(昭和63)年、岡谷市の諏訪湖湖畔に建てられた歌碑と小口太郎の銅像で、岡谷市は地元の生んだ人物として顕彰行事も行い、歌碑の揮毫は三高、東京帝大同窓で1973(昭和48)年にノーベル物理学賞を受賞した江崎玲於奈の手になる。

 

 一方、『ひつじぐさ』作曲者の吉田千秋は長い間消息不明であったが、曲が生まれて70有余年後に判明し、それによると1895(明治28)年に新潟で生まれ、17歳の時に東京農大予科に入学し、1914(大正3)年に病気のために退学し療養生活に入る。

 

 翌年に帰郷し、『ひつじぐさ』を作曲しクリスチャンとして讃美歌を指導し、1919(大正8)年、生まれ故郷で24歳で亡くなるが、作曲者の小口太郎も吉田千秋も夭折という言葉が当て嵌まる短い生涯となった。

 

【写真−3 この周航を現代の京大ボート部は記念に行ったがきつかった】

 

 写真−3は撮影年は不明だが、旧三高漕艇部の琵琶湖周航時の様子と見られ、ボートには6人の漕ぎ手と1人の舵取りの計7人が乗る『フィックス艇』で、現代で行われているボート競技は漕ぎ手は艇によって1、2、4、8人となっていて写真の艇は古い時代の艇と分かる。

 

 この艇で三高艇庫のある大津市三保ヶ埼を出て、3泊ないし4泊で琵琶湖を廻ったが小口の時は雄松(近江舞子)−今津− 彦根− 長命寺(近江八幡)に宿泊する4泊5日の旅程であり、この周航行事は戦時体制強まる中、1940(昭和15)年まで続けられた。

 

【写真−4 水の量でも日本一の琵琶湖】

 

 琵琶湖は日本最大の湖でその面積は670平方キロ近くあり、国でいうとシンガポールが725平方キロでそれより一回り小さいということになるが、写真−4は琵琶湖の航空写真で南湖と呼ぶ最も狭まった地点には1964(昭和39)年開通、全長1350mの『琵琶湖大橋』が架かっている。

 

 写真−2の作曲者の小口の故郷長野県岡谷市の歌碑以外に、1番から6番までの歌詞に読み込まれている琵琶湖沿岸に歌碑が建てられ、艇庫のあった大津市三保ヶ埼に1973(昭和48)年に建てられたのを皮切りに、大津市近江舞子浜、高島市今津港(2ヶ所)、長浜市竹生島、彦根市彦根港、近江八幡市長命寺(2ヶ所)にある。

 

 旧制三高にはこの『琵琶湖周航の歌』と共に、寮歌の『逍遥の歌』があり、この曲は『紅もゆる丘の花』の出だしで知られ、旧制一高の『ああ玉杯』、北海道帝大予科の『都ぞ弥生』と併せて日本三大寮歌に挙げられている。

 

『紅もゆる丘の花』は戦時中の京大滝川事件とゾルゲ事件を題材にし、1946(昭和21)年に製作された黒澤明監督、原節子主演の『わが青春に悔いなし』内で学生達が歌う印象的な場面があり、思えば今の大学生は野球の応援の時くらいしか自校の歌を歌う機会はないようだ。

 

【写真−5 この地点は琵琶湖でも北方の水域】

 

 2019年に『新幹線全線乗車の旅』をした時に北陸新幹線終着の『金沢駅』から特急『サンダーバード』を利用して京都へ出たが、その時琵琶湖西岸を走る湖西線を走り、写真−5の琵琶湖を何十年ぶりかで目にし、車窓越しに写真を何枚も撮った。

 

 湖西線は北陸と関西圏を最短距離で結ぶために既存の私鉄を買収して敷設された全長74.1キロ、1974年開業と比較的新しいJR西日本の路線で、ほとんどが高架構造で、北陸新幹線の金沢からの延伸路線は敦賀市から小浜市を経由して京都へ向かうために、湖西線の経営分離が検討されているが地元滋賀県は反対している。

 

【写真−6 大津市内は雨が降っていて一晩やり過ごし寺を見て廻った】

 

 琵琶湖で想い出すのは高校生の時に同級生とゴムボートで縦断しようと5月の連休を利用して出発し、琵琶湖の一番北の余呉方面から漕ぎ出そうと思ったが、いざ現地に入り湖面を見ると大きな波が打ち寄せまるで海と同じで、危険を感じ琵琶湖縦断は諦めた。

 

 そこで予定を変更して、今度は琵琶湖の一番南から流れる瀬田川を下って大阪湾まで出ることにし、写真−6の『瀬田の唐橋』の袂に来て、そこからゴムボートを漕ぎ出すが、天気にも恵まれて快調であった。

 

『瀬田の唐橋』は『近江八景』の一つに入る夕陽で知られる名所『瀬田の夕照』ゆかりの橋で、絵画や文学に数多く描かれている風流な橋だが、写真の橋は1979(昭和54)年の架橋されたもので、川下り時に見た橋はこの橋ではなく1924(大正13)年架橋の先代で、その前は木橋であった。

 

【写真−7 ダムがあるなど知らずかなり無計画な川下りであった】

 

 湖から流れる川なのでそれ程流れは速くなく、順調に進み大きな堰も通過しやがて行く手にダムが見えて、後で分かったがこのダムは写真−7の『天ヶ瀬ダム』で、同ダムは宇治市に入り瀬田川もこの辺りでは宇治川と名前を変えているが、竣工したのは1964(昭和39)年なので、見た時はまだ完成間もない頃であった。

 

 ダムの手前で上陸してダムの下流までゴムボートを運んで再び川を下り続けるが、淀川に入って山崎の手前で日が暮れて来たので中州に上陸して一晩明かし、上陸した中州に群生していた菜の花の茎が腕くらいの太さで林のようになっているのには驚いた。

 

 翌朝、大阪目指して川下りを再開させるが、淀川も結構大きな川で晴天の中ゆっくり漕ぎ下り、大阪湾に出るには時間が足りなく、日の暮れる前に電車の走る鉄橋を通過したのを最後に上陸するが、上陸場所は『十三橋』で、その夜は頭上を通過する電車の音を聞きながら橋の下で寝た。

 


 

author:cebushima, category:日本全国 ご当地ソング巡り 2022年, 19:38
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