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へそ曲がりセブ島暮らし2019年 その(49) 台風『ヨランダ』襲来から6年経った

 台風に付ける名称はいくつもあって日本は号数で数えていて、その年の台風がいくつ来たか分かり易いが、2013年11月8日、100年に一度と言われた超台風の『ヨランダ』がフィリピン中部のヴィサヤ地方に襲来してから6年が経った。

【写真−1 ここで用意されても被害地へ移送する手段の問題があった】

 

 ヨランダはフィリピン側が名付けたもので、アメリカに倣って台風には女性名を採用しているが、ヨランダという名前を持つ女性はフィリピンでは珍しくなく、今もヨランダと呼ばれるとバツの悪い感じを持つ人も多い。

 

 このヨランダ、日本では台風30号と呼ばれ、30号台に達するこの年は台風の多い年と分かり、アジア名では中国が命名し『HAIYAN』となっていて、この意味は『海燕』を指している。
 

 このヨランダのフィリピンの被害だが、死者・行方不明8000人近くを数え、負傷者及び全壊半壊の家屋は無数で、レイテ島、サマール島、セブ島北部地域の被害は甚大であった。

 

 ヨランダは100年に一度の超台風と先述したが、132年前の1881年にフィリピン史上最大の死者を生じた超台風『HAIPHONG』が襲っていて、この時のフィリピンの死者数は1万人を数えたから家屋などの物的被害は想像を絶する規模になっている。

 

 1881年のこの台風はフィリピンのルソン島中部東海岸で発生し、南シナ海を横断し中国の海南島に達してから大陸の沿海部を縦断し、朝鮮半島を横断し日本に達するコースを取っていて、死者数は30万人という。

 

 セブ島のヨランダ被害は北部地域が酷く、小生の住むセブ市街地は襲来当日には激しい雨に見舞われたが、舗道を歩く人もいていつもより強い雨が降っているという感じであった。

 

 それが、時間が経つ内にセブ島北部からレイテ島にかけて甚大な被害を受けたことが伝わり、各種の支援活動が始動し、小生もセブ市に隣接する市の救援センターで救援物資を詰める作業に参加する。

 

 写真−1はその救援センター内部で作業する様子だが、この場所はアロヨ政権時代にセブで開かれた国際会議のために造られた施設だが、国際会議が終わったらほとんど使われず典型的な税金の無駄遣い施設。

 

 この時、救援物資のことを『リリーフ・グッズ』ということを知るが、黙々と作業する多くのボランティアが作業する様子は、キリスト教の慈善精神が息づいていることを現している。

 

【写真−2 あれから大きな台風は来ていないが油断は禁物】

 

 その後、被害の大きかったセブ島北部の町で、日本のNGOの協力を得て炊き出し支援を行い、写真−2はその時の様子でテントの中で食事をしているが、写真に写っている子ども達も大きい子は中学生になっていて、その時の活動を覚えているかどうか。

 

 ヨランダの過ぎた北部は椰子の樹の頭頂部は吹き飛び、バナナの樹はなぎ倒され他の木々の枝や葉も飛ばされて丸坊主になって見通しは良くなったが、木影が消えて、昼間の気温はかなり暑くなり過ごし難かった。

 

 そういった野山の樹々と椰子の樹は6年も経った今は見事に復活し、以前以上に緑を茂らせ熱帯に近いフィリピンの自然の逞しさを感じさせてくれる。

 

【写真−3 日本の自衛隊活動は他国の軍隊と比べて下手】

 

 ヨランダ襲来後に日本を含めた各国の軍隊やNGO組織が被害地に入り、支援活動を始めるがその活動は『物のばらまき』が多く、被災直後は物の援助は必要ではあっても、被害地に住まざるを得ない被災民にとってはもう少し長期的な援助が欲しかった。

 

 日本のNGOも派手に活動していたが、日本で得た資金を物に変えて配っているのが実態で、結局長続きせずNGOの活動宣伝が目的と化して、本当に被災者に寄り添っているのかと疑問を感じた。

 

 写真−3はセブ島北部の町で救援活動に入った日本の自衛隊の医療救援拠点で、軍隊からのイメージは昼夜兼行の支援活動と思うが、写真を撮った時は自衛隊員の姿は見えず、日本から同行した報道関係の人間が数人いた。

 

 報道記者はセブ島内の自衛隊の活動を伝えるために同行しているようだが、事実を本当に書いているか疑問で自衛隊の附属広報班のような感じさえ受けた。

 

 自衛隊はレイテ島に最新式の上陸用舟艇を使い、実質晸な航空母艦である『加賀』もレイテ島沖に姿を現したように陸海空こぞって支援に入ったが、これは台風支援に名を借りた『上陸演習』作戦でしかない。

 

 憲法上、海外に出せない日本の自衛隊だが既に『人道』の名の基に世界中に派遣されていて、これを海外派兵と言うが、軍隊は人道では動かず『作戦』で動くのが基本だから、自衛隊は災害支援の名を借りて敵前上陸の作戦を遂行しているといっても過言ではない。

 

 写真の町での自衛隊の活動だが、隊員は現地に常駐せず便利なセブ市から車で通ったらしく、そういった実態は報道されていないし、政府の御用報道陣にはその気もないであろう。

 

【写真−4 この原野に569戸の再定住用住宅が造られている】

 

 さて6年経って被害地は復興したと思われるが、写真−4のようにセブ島ではまだ被災者用の住宅が建設されていて、その遅れに対して改めて批判が集まっている。

 

 被災者用の再定住用住宅は20万戸が必要と見積もられ、2017年までは完成させると政府は表明していたが、2016年に現在の大統領ドゥテルテが就任してからも進まず政府発表でも3割以上が完成していない。

 

 写真−4はその再定住用住宅の一つだが、この場所は写真で見ても分かるように周りはサトウキビ畑に囲まれ、人家もまばらで到底人間が住めるような環境ではなく、どうしてこんな場所に家を造ったのか理解に苦しむ。

 

 計画を進めた役人は自分が住む訳ではなく他人事、単に目標数を達成できれば良いと思ってこのような僻地に建てたとしか思えず、再定住地とはいえ仕事を持つ人にはとても移れない。

 こういった箱さえ造ってしまえば住宅難のフィリピンでは埋まると読んでいるらしく、このセブの場所だけではなくレイテ島など他の地域でも同じ問題も起きているが、未曽有の台風も6年も経つと人々の記憶から薄れ、こういった問題に無関心になるようだ。



 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2019, 21:07
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