RSS | ATOM | SEARCH
へそ曲がりセブ島暮らし2019年 その(43) 少年時代の英雄であった34番

 元国鉄スワローズのエース、34番の背番号を付けていた『金田正一』、2019年10月6日86歳で死去。

【写真はメコン川のタイ側に沈む夕陽】

 わざわざ今はない球団の国鉄スワローズと書いたのは、金田正一というのは1950年にスワローズに入団し、当時最も弱い球団でエースとして投げた頃と、野球少年であった小学生時代が重なるためである。

 当時の小学生のスポーツといえば野球一辺倒で、後は校庭で相撲を取ったりするくらいで、今の様にサッカーは勿論、日本で開催されているワールドカップで俄かファンが急増しているラグビーなど全く知らない時代であった。

 

 小生の父親は今でいうスポーツ・ライターで、プロ野球と相撲を専門に取材していて、野球のオフ・シーズンには球団のキャンプ地へ出かけ、特に当時三原監督が率いていた西鉄ライオンズを贔屓にしていたのか九州産の土産が多かった。

 

 また、東京ドームに建て替えられる前の後楽園球場では、父親の名刺を事務所に出すと遊園地の無料券がもらえたし、球場でも報道陣しか入れない場所に入れてもらったように入場料を払ったことはなかった。

 

 そのため、グラウンドで選手達と一緒に撮った写真もたくさんあって、そういった写真は今もどこかの箪笥の中に残っているのであろうが、川上とか大下といった野球史に名を刻む多くの選手と写した記憶はあり、亡くなった金田と写っているのもあったかもしれない。

 

 その金田、1950年に国鉄スワローズへ入団し、プロ球団最弱のチームに居ながら数々の偉業を立てているが、弱小球団で一人投げている姿に子ども心にも感じ、判官贔屓もあって金田のファンとなった。

 小学生の頃の放課後は校庭で野球、日曜日には荒川放水路のグラウンドに行って野球をする日々であったが、クラスでチームを作って好きな背番号を選んだ時、迷いなく金田の付けていた34番を選んだ。

 チーム名があったのかどうか覚えていないが、おそろいのユニホームを揃えられる時代ではなく、各自白いユニホームを用意し、小生の場合は裁縫の得意であった母親がミシンで縫ってくれた。

 

 その時、背番号34は習字用のラシャに裏紙を張って、自分でレタリングして切り抜き母親に縫い付けてもらったが、そういう手作りが普通の時代で、スポーツ用品店で買った布製のスパイクが誇らしかった。

 

 当時の少年の野球ファンというのは巨人が多く、それに反発するわけでもないだろうが弱小の国鉄贔屓になっていたが、チームの順位よりも金田が勝利投手になり、いくつ三振を奪ったかの記録の方に興味は強かった。

 その中で、一番記憶に残っているのは1957年8月21日、中日相手に完全試合をした時で、これが鮮明にあるのは、その夏父親に連れられて山梨の大菩薩峠登山をし、初めてランプの山小屋に泊まったことと関連が深い。

 

 登山を終えて新宿行きの列車に乗り、どこの駅か覚えていないが父親が新聞を買って来て、その新聞に大きく金田の完全試合の活字が躍っていて、大記録を打ち立てたのと山小屋泊まりの登山が交差している。

 

 今一つ、記憶にあるのは1958年4月5日、巨人との開幕戦で新人の長嶋から連続4打席4三振を奪った時で、長嶋は立教からプロ入りした六大学の花形で鳴り物入りで巨人へ入団。

 

 その長嶋に対して、高校中退の金田は闘志を燃やして長嶋の鼻をへし折った訳だが、この時のシーンは近所に住んでいた叔父の家のテレビで観ていて、これはまだ我が家にはテレビはなかったためである。

 ついでに書くと我が家にテレビが入ったのは中学生になってからで、当時としては少し遅かったが、これは親がテレビを入れると勉強が疎かになると恐れたためらしい。

 

しかしテレビがあってもなくても既に時代はテレビの時代に突入し、大宅壮一が喝破したように『一億総白痴』時代を迎えていた。

 さて金田は1965年に巨人に移籍したが、小生は既に高校生になっていて物事を見る目は強くなっていて、金田が巨人という球界の権力に転んだのかと一気に熱は冷め、その後全く関心を持たなかった。

 

 もっとも、小生が野球に熱を上げ実際に球を投げ、バットを振っていたのは小学生時代までで、中学の時は都心の学校に都電で通学し出したので、自然野球との縁は切れた。

 そういう意味で、金田の逝去を聞いて改めて金田の野球人生を見ると、1969年に巨人を退団し現役を引退し、野球評論家になりロッテの監督を務め日本一になったこともあるなど、初めて聞くような感じである。

 

 金田の投手としての記録は数々あり、今もって第一級の評価はあるが、燦然と輝くのは通算で400勝を打ち立てたことではないだろうか。

 

 現在の野球はシーズンに20勝を上げることは難しい管理野球になっていて、一人のエースが倒れるまで投げさせる時代ではなく、先発、リリーフと分業制になり、そのリリーフもセーブなどといって新たな記録として扱われている。

 そういう観点から見ると、健康管理など何のそのと投げた昔の投手は偉いものだと思い、金田以外にも稲尾、杉浦と多くの大投手の名前が浮かんで来る。

 

 特に稲尾など、小学生の時後楽園近くの西鉄の常宿から駒沢球場へバスで移動する時乗せてもらい、前の席に稲尾が座っていてその肩幅の広さと厚さににびっくりした記憶がある。

 

 金田の400勝は今の分業化した投手起用法ではもう生まれないと思うが、仮に金田が国鉄スワローズなどという万年下位球団に所属していなければ生涯500勝はおろか、600勝も夢ではなかったのではと思う。

 

 金田は在日韓国人2世としての出自の中で投げ抜いたが、その頃は世間も球界も今にも増して在日韓国人を差別する世の中であり、そういった中で投げ抜き、数々の大記録を作った金田はやはり凄かったと評価して良い。


 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2019, 18:38
-, trackbacks(0), pookmark
Trackback
url: http://cebushima-blg.jugem.jp/trackback/3452