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へそ曲がりセブ島暮らし2019年 その(42) 『ニミッツと山本五十六』

 最近は戦史物の本を読むことは少なくなったが、積んであった本の間から写真の文庫本、生出寿(おいでひさし)著『ニミッツと山本五十六』を見つけ読んだ。
 

 

 この本は2000年9月に文庫本書下ろしで出版されていて、筆者は海軍兵学校(海兵)74期卒業の元少尉で、戦後は東大仏文科を出て徳間書店に入り、重役を歴任した出版人で2006年80歳で死去。

 海兵74期生というのは入学が1942(昭和17)年12月で、真珠湾攻撃の翌年ということで戦意は盛り上がって志願者が激増したために大量採用し、卒業生は初めて1000人を超した。

 74期生の卒業年は1945(昭和20)年3月になり、その年の8月には敗戦を迎えたために最後の海兵卒業者となり、付け加えると海兵は77期生まで有り、75期生の卒業式を敗戦後の10月に行って卒業とし、それ以降は修了書を出した。

 生出は海兵出身のためにその著作物は旧日本海軍の提督物や海軍生活を記述した作品が多く、本書の山本五十六に関しては『凡将 山本五十六』という本も出し、本書を読んでも分かるが山本への評価は辛い。

 山本五十六は旧日本帝国海軍を代表する海軍軍人だが、三船敏郎が映画『連合艦隊司令長官 山本五十六』で演じた堂々たる山本五十六像が小生には強く印象に残っている。

 

 この映画は1968(昭和43)年に製作されたが、その前年に8月の戦争シリーズ

として『日本の一番長い日』が作られ、その流れを組むものだが、当時の日本の映画界はまだ活気があって、このような大作が生まれた。

 

 話は横に逸れるが、三船敏郎という俳優を凄いと感じたのは1961(昭和36)年、中学生の時に黒澤明監督の『用心棒』を観た時で、最後のシーンで三船が切った仲代達矢の身体から吹き出た血飛沫には度肝を抜かれた。

 

 次の年に『椿三十郎』を観てそれ以来、三船と黒澤の映画の魅力に取りつかれたが、名作を生んだこのコンビも1965(昭和40)年の『赤ひげ』を最後に解消し、小生は既に高校生になっていて、黒澤の旧作を都内の名画座で漁るようになっていた。

 

 さて、山本五十六は1884年、新潟県長岡に生まれるが山本姓は養子先の家名であり、旧姓は高野といい長岡藩の藩士の家系で、戊辰戦争の時に反政府軍側に立った長岡藩家老であった山本家は取り潰されていたが、海軍軍人として嘱望された五十六が後を継いだ。

 山本は海軍士官学校に1901(明治34)年、32期生として200人中2番で合格というから頭は良かったし、逆立ちが得意なように運動神経も良く、同期では吉田善吾、嶋田繁太郎といった海軍史に名を残す海軍大将を輩出している。

 海兵卒業後すぐに1905(明治38)年、巡洋艦『日進』に乗艦し、日露戦争の勝敗を決したという『日本海海戦』に参戦、左手の指2本を飛ばすなど重傷を負うが、山本が日本海軍大勝利の日本海海戦で戦っていたことが、明治の頭で昭和の戦争を戦った源流になるのかも知れない。

 

 山本は在アメリカ日本大使館駐在武官として2度の経験を持ち、アメリカの事情を良く知る人物であったが、その博打好きの性格から勝てないアメリカとの戦争を始めたのではないかと見られていて、本書でも山本の性格の欠点が多く書かれている。

 一方のミニッツだが家名はチェスターで、祖父がドイツからの移民でテキサス州に1885年に生まれ、最初は陸軍士官学校を目指したが推薦枠の問題から海軍兵学校に志望を変え、1901年に入学、1905年に卒業をした。

 

 少尉候補生の時、東アジアへの航海中に日本へ立ち寄り、その時に日本海海戦の勝利で英雄となっていた東郷平八郎と会って生涯、東郷を尊敬し、戦後の話になるが東郷が指揮した戦艦『三笠』が荒れ果てていたのを元にするように尽力し、同じく原宿の東郷神社再建にも力を貸した。

 

 そういった日本贔屓とも見えるニミッツだが、こと日米間の直接対決となった戦争に関しては容赦なく、太平洋艦隊司令長官に就任してから合理的な発想による作戦によって日本海軍を壊滅に追いやった。

 

 特に1942(昭和17年)の6月5日〜7日にかけて、中部太平洋のミッドウェーで日米の機動部隊が繰り広げた大規模な戦いはその後の戦いの趨勢を決した戦いといっても過言ではなく、真珠湾攻撃から半年足らずで日本軍は負け戦に転げ落ちる。

 この戦いは『ミッドウェー海戦』と呼ばれているが、史上初めての空母艦載機同士の決戦であり、日本海軍は虎の子の主力空母4隻を失い、戦死者3000人以上を数えたが、アメリカ側は空母1隻、戦死者300人余と軽かった。

 この時、連合艦隊旗艦の『大和』に座上していた山本は空母部隊の遥か遠くの海域を航行中で、作戦指揮を結果的に行わず、すごすごと泊地である瀬戸内海の柱島に帰ったが、既に戦争は山本が自覚していたように航空機の時代に入っていて、巨大な戦艦の大和を役に立てる時代ではなくなっていた。

 ミッドウェーにしてもその頃のアメリカ側は日本の暗号をほとんど解読していて、日本軍は情報を軽んじていてその動きを知らず、後に山本が乗った飛行機がアメリカ軍戦闘機に待ち伏せされて撃墜されても暗号が解読されているなど思っていなかったというから、根本的に戦争をする総合力のなかった帝国軍隊といっても良い。

 この暗号に関しては日本軍の奇襲とされる真珠湾攻撃も、アメリカ側は知っていて国内の参戦気分に火を点けるためにあえて日本軍に真珠湾を攻撃させたというのが近年の通説で、攻撃成功と浮かれているのは日本だけであった。

 さて、山本は1943(昭和18)年4月18日、前線視察という名目でラバウルを高級幕僚を引き連れて2機の飛行機で飛び立ったが、ソロモン諸島ブーゲンビル島、ブイン基地近く上空で待ち伏せしていたアメリカ戦闘機に撃墜された。

 

 山本の前線視察はアメリカ側に筒抜けであった訳だが、長文の前線視察日程を打電したことや、司令長官が護衛機の少ない状態で前線に出るのは危険だと諫めた幹部もいたらしいが、後の祭りで山本は座席に座った状態で即死であった。

 この山本の死については諸説あって、戦局を悲観した墜落後の覚悟の自殺ではないかともあり、あるいは機銃が頭を貫通したともあるが、一番信憑性があるのは検視をした軍医による全身打撲によるショック死のようだ。

 諸説あるのは山本を軍神として死後元帥にし、国葬までした軍部があくまでも英雄の死として劣勢の状況を盛り上げようとしたためであり、既にインチキだらけの大本営発表が幅を利かしていた。

 山本は59歳で戦死し、一方のニミッツは日本が降伏調印した『ミズーリ』艦上で海軍を代表して署名し、元帥で退役後は悠々自適の生涯を送り、1966年2
月妻に看取られて80年の生涯を閉じた。

 

 山本には妻がいても、愛人関係も派手な生涯であり、ジャングルの露と消えてしまい、一方、ニミッツの様に連れ添った妻に看取られてベッドの上で死ぬのとどちらが良いかといえば、後者の方が断然良いのは確かである。

 


 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2019, 18:28
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