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フィリピン・よもやま帖 2019 その−(11) 1945年9月3日 ルソン島バギオにて

 昨日、9月3日(火曜日)は『日本降伏記念日』として、フィリピンでは『特別祝日』になっていた。

【写真は日本軍と民間人が敗走を続けたルソン島山岳部の様子】

 特別祝日というのは時の大統領が決めるもので、大統領の胸先三寸、つまり気分次第でどうにもなりしかも突然決まるから始末が悪い。

 ドゥテルテは2月にこの日を祝日にする署名をしたらしいが、なっていたと書いたように国民の間の周知は良くなく、普通、こういった祝日の場合学校は休みになるが公立学校でも登校し授業をしていたから休日にはならなかったようだ。

 日本の場合、国の祝日(祭日)と休日は一緒で混乱はないが、フィリピンは祝日と祭日と休日と3つに区分されていて、小生など未だ持って分かり難い。

 

 祝日と祭日と休日は急に決まるから大変なのは営業をする企業で、休日出勤の給与計算に混乱があり、そのため政府は急遽決めた休日に対して2倍、単なる祝日なので3割増しで良いとかいちいち通達を出す始末。

 さて標題の1945年9月3日とは、先の戦争中にフィリピンへ侵出していた日本軍がルソン島中部にあるバギオ市で降伏調印をした日で、8月15日に戦争は終わったと喧伝されるが、戦地ではそれがまちまちになっている。

 例えば、セブ島においては8月24日が降伏調印日で、フィリピン国内でも降伏はまちまちで、8月15日の敗戦放送後にも戦闘行為は続き、その間も日本軍兵士とフィリピンとの殺し合いは続いた。

 戦争は『宣戦布告』という国際法上の行為によって始まり、戦争終結も互いの公式文書への調印によって終了するが、9月3日を公式調印日として全ての戦闘行為は双方終了と見るのはあくまでも建前であって、残留日本兵によって戦闘行為は多かった。

 残留日本兵といえば1972年1月にグアム島で発見された横井庄一が知られ、彼の場合は敗戦後から28年間、グアムの山中で逃避行を続けたが、当時は大きなニュースになり、横井の最終階級は陸軍軍曹であった。

 これを凌ぐ事柄といえばグアムで発見された横井の2年後の1974年3月にフィリピン・ルバング島で投降した小野田寛郎元少尉で、小野田の場合はゲリラ戦を命じられた残置士官という立場で島に籠ったとされた。

 ルバング島というのはマニラ湾に入る手前に横たわる島で、小生もマニラ国際空港へ着陸する飛行機内から見たことがあってかなり大きい島で、面積は125平方キロある。

 マニラ湾に入る艦船に対して戦略上に重要な島で、そのために小野田以下を配置したのだが、敗戦後も小野田の任務から部下は引き摺られる形で島内で戦闘行為を続けた。


 小野田が出て来るまでに島内で殺傷された人員は30人以上といい、フィリピン側も警察や軍を送って掃討作戦を行い、そのため小野田の部下2名が射殺されていて、射殺された兵士の遺族は敗戦で投降をすれば失わないで良かったとの批判を行っている。
 

 こういった話で最も知られるのは敗戦の放送があった午後に、艦上爆撃機『彗星』11機を指揮して沖縄沖の米軍艦船に向けて特攻攻撃をした、宇垣纏海軍元中将が知られる。

 彗星は2人乗りの航空機だが宇垣はそれに無理に同乗し、この攻撃ではエンジン不調で3機が途中で引き返した3機5人を除いて宇垣以下17人が戦死するが、この戦死は敗戦後であるために正式には認められていない。

 また、戦死した遺族にしてみれば無駄な攻撃を指揮した宇垣にはかなり辛辣な批判を行っているが、時間が経つとあれは仕方がなかったと諦める遺族も出て来て批判は弱まっている。

 

 ただ、この宇垣の戦闘行為は部下を私兵として使っていた日本軍隊の根本的な病弊を見るようで、こういった無謀な指揮官のために殺された兵士は無数に上がっているであろう。

 さて、『日本降伏記念日』のこの名称の多くは『戦勝記念日』として勝利国は作るが、日本贔屓といわれるドゥテルテがわざわざ敗戦国の日本に当て付けるような名称にしたのは良く分からない。

 

 1945年9月3日、ルソン島中部にあるバギオ市で調印式が行われ、日本側を代表して調印したのは山下奉文陸軍大将で、山下は東条英機に疎まれて満州の方面軍司令官に飛ばされているが、風雲急を告げるフィリピンの指揮を委ねられたのは1944年10月のレイテ島に連合軍が上陸する直前であった。

 山下がマニラの飛行場に降り立った時の第一声が『レイテ島ってどこだ』といった言葉が知られるが開戦時にマレイ半島を南下しシンガポールを陥落させ『マレイの虎』として名を残す人物にしてはお粗末でこれは後世の作り話のようだ。

 フィリピンを統括するのは第14軍であったが、山下が着任する前に編成替えして上級組織の第14方面軍となり麾下に35軍と41軍を持つが、軍というのはその下に師団を持ち、その師団の一つが第1師団で、この師団長がセブで降伏調印をした片岡董中将になる。

 山下は降伏調印後に捕虜となり、その後戦犯指定されマニラ裁判で死刑判決を受け、1946年2月23日、首都圏ロスバニョス市にあるニュービリビッド刑務所で絞首刑に処せられた。

 山下は軍人としては不名誉な絞首刑になったが、処刑はマンゴーの樹に吊るされたと伝わるが、そのマンゴーの樹は現在も健在で石碑などが建てられているらしいが、処刑当時に人間を吊れるほどのマンゴーだとすれば、その寿命から考えて現存しているのはおかしく感じる。

 降伏調印をしたバギオ市は避暑地として開発された場所で、そこに至る道路は100年以上前に日本人移民が多大な犠牲を払って開通させたもので、フィリピンの日本人移民史はここから始まる。

 バギオには何度も訪れていて最近では3年近く前になるが、自動車の排気ガスが谷間に滞留して山の清浄な空気は失われていて、既に山の避暑地としての価値はなくなっていた。

 山下以下の日本軍と民間人は、バギオ奥地の山間部に連合軍に追われて敗走を続けるが、先行きの見えない敗走で餓死、病死したのは兵士、民間人を問わず累々であった。

 ある調べによると先の戦争で戦闘行為ではなく、餓死した兵士は日本軍戦死者の3分の1以上にも上がるというから酷い戦争であったことは確かで、どこに『聖戦』といえるのか。


 

author:cebushima, category:フィリピン・よもやま帖 2019, 21:22
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