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へそ曲がりセブ島暮らし2019年 その(38) 74年目の夏にセブで思う

 1945年8月15日に日本は敗戦の日を迎え、無謀な昭和の戦争に終止符を打った。

【こういう紙切れ1枚で人間の命を翻弄するのが戦争である

 その日正午に天皇によるラジオの降伏放送があり、生き残った軍人と国民は涙を流し呆然となったといわれるが、実際は戦争が終わってホッとしたというのが大多数の本音で、小生の母親もホッとしたといっていた。

 その後に生まれた戦争を知らない日本人は全人口の8割に達していて、あの戦争を体験していない世代が年々増えているために、戦争に対する考えも変化があるという。

 そういった変化の中、実際に戦場で戦った人は20歳で徴兵され生還しても、既に90代半ばの高齢であり軍隊及び戦闘体験者は次々と没し、戦争を語れる人が少なくなっている。

 小生は戦後生まれで、戦争を体験していない8割の層に入るが、戦争に対しては割合身近な世代ではあり、小学生の頃は戦地から生還した教員が数多く教鞭をとっていて、あの先生は戦地帰りなどと聞かれるものの、特に違和感はない時代であった。

 

 焼け跡、闇市といったものは記憶にないが、自宅から幼稚園に通う道筋にB−29の爆撃で破壊された倉庫のようなものが残っていて、それを横目に見ながら歩いた記憶がある。


 浅草や上野の繁華街に行くと白い服を着た傷痍軍人が舗道上で音楽を奏でながら、寄付を求める姿は多く見かけ、その姿に畏怖感を覚えたが戦争の残酷さは子ども心にも感じた。

 今も記憶が残っているのは、新聞で『国連軍 仁川上陸』と大きな活字の載った新聞で、中身は良く分からなかったが、朝鮮半島で戦争が行われているのだなということは理解した。

 ところが今、朝鮮戦争の歴史を眺めると、戦争勃発は1950年6月25日で、仁川上陸作戦開始は9月15日となっている。

 これから当時3歳に満たない小生が新聞を読んで活字を読めたことがどう見てもおかしく、後から見聞きした記憶がいかにも体験したような都合良い記憶となってしまった。

 その朝鮮戦争は1953年7月27日に休戦となり、それから69年近く経っているが、未だに朝鮮半島の問題は解決されていなくて、戦争を経ても国家間の紛争は時間がかかることが分かる。

 これは何度も書いているが、小生の叔父(父親の弟)は1945年7月31日にフィリピンで戦死していて、写真はその叔父の遺骨引き取り通知書である。

 

 この通知が来たのは昭和22年(1947年)10月で、戦死の日から2年以上経過していて、実際に引き取りに行った小生の母親の話では、箱の中に名前の書いた紙があっただけで、その軽さに驚いたという。

 この通知書の右側に黒いペン字で書き込んだ文は小生の父親で、戦死年月日や部隊名などは後で調べて書いたものと思われるが、7月31日が叔父の戦死日となっているのはどこから確認したのか分からない。

 トラ部隊というのは『虎8502』のことで、朝鮮・羅南に駐屯していた陸軍第19師団73連隊で、この部隊は満州事変に出動していて、1944年にはトラック島、12月にはフィリピン・ルソン島へ送られている。

 この時期の南方戦線の日本軍の敗色は決定的で、レイテ島の戦いが同年10月から始まっていて、そのため中国大陸の陸軍部隊を南方に大量動員しているが、戦死者を増やしただけの作戦でしかなかった。

 

 その虎部隊、ルソン島中部のリンガエン海岸から逆上陸したが、圧倒的な火力を持つアメリカ軍に追撃されルソン島の山岳地帯に追われ、その山中で8月15日の敗戦を迎える。

 ただし、これは日本から見た敗戦日であって、フィリピンでの正式な敗戦日は第14方面軍を率いた山下奉文大将が、ルソン島中部の山岳都市バギオ市で降伏文書に調印した9月3日が、正式な敗戦日である。

 降伏調印前後でも散発的な戦いは各地であって、その時命を落とした日本の将兵は便宜的に8月15日が戦死日として、遺族感情を和らげていると思うし、叔父の7月31日戦死もどこまで本当かどうか分からない。

 

 一方、このセブでの降伏調印日だが、これは8月24日にセブ島北部の山中にあるタボゴン町『イリハン』という場所で行われていて、その時の調印の様子の写真も残っている。

 フィリピンの日本陸軍の布陣は山下麾下の第14方面軍に第35軍と第41軍があり、その下に師団、連隊と連なるが、セブ島での調印式には第1師団長であった片岡中将が出ている。

 この第1師団というのは2・26事件で動員された連隊を持つ師団で、その後中国大陸から激戦のレイテ島守備に回された師団で、レイテ島上陸時は1万人の師団規模を保っていたが、最終的には800人程度の全滅状態となりセブ島に逃れた師団である。

 

 セブ島の日本軍が降伏したイリハンは山の斜面にサトウキビが植えられた地域で、ハイウェイと呼ばれる幹線道路が地域を貫いていて、その幹線道路沿いに『Japanese Surrender Area』と書かれた粗末な看板が立っていた。

 

 ところが、最近そのそばを通ったところその看板がなくなっていて、その場所がどこであるのかが分かり難くなり、何かの事情があるのかも知れないが、こうして貴重な歴史の跡は忘れ去られて行き、不都合な歴史も消えてしまうのかと思った。


 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2019, 18:10
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