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12月15日(土) 曇り時々小雨、風なし 閑話休題 《 上野・国立科学博物館のゼロ戦 》

 上野の科学博物館にゼロ戦が飾ってあると前に書いたが、写真がそれになる。

 都内にはこの他、靖国神社遊就館に実機が展示されていて、見た目の程度の良さは遊就館の方が上で、これは山梨県の河口湖自動車博物館で各所の部品を組み立て復原した物を移設して展示してある。

 科学博物館の機体はラバウル沖から引き揚げられた複座の珍しい型で、エンジンのカウリングを外してあるのでエンジンの形状が良く分かり、胴体下に砲弾形の『増槽=追加燃料タンク』が付いているのが特徴である。

 ゼロ戦と通常は呼ばれているが正式には『零式艦上戦闘機』で、日本の軍用機は昭和の軍国時代に使われた『皇紀』の下二桁を名前に付けるのが慣例で、ゼロ戦は皇紀2600年(1940年・昭和15年)に制式採用、ゼロが続くのでゼロ戦と呼ぶようになった。

 科学博物館の機体は21型といって初期の型で遊就館の方は中期から生産された52型で仕様などはかなり違う。例えば21型は幅(翼幅)12mに対して52型は11m、全長では219.05m529.121mとなっていて、性能も違う。

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型は空中戦主眼で作られていて爆弾などは50キロの小型しか持たなかったが、52型になると250キロ爆弾を装備できるようになり、これが後の250キロ爆弾を抱えての体当たり攻撃に至る。ちなみに爆弾は250キロの場合『25番』と海軍では呼んでいた。

 ゼロ戦は1万機以上作られた世界に誇れる名機で、驚異的な航続距離(最大2200キロ)と優れた旋回性能を持ち、活躍できたのは初期から中期にかけてで、中期以降は米軍のエンジン馬力を活かした新鋭機とゼロ戦1機に数機で戦う戦法を採ったために、劣勢になった。またゼロ戦は被弾防御が弱く操縦者に被弾し易かったが、こういった所で人間の命を軽んじていた日本軍の性格が分かる。

 傑出した性能のゼロ戦のために後継機の開発が進まなかったことも敗因と言われるが、何といっても飛行機は人間が動かすものでいくら名機でも操縦士の腕が未熟ではどうにもならず、ミッドウェー海戦以降の負け戦で初期の歴戦の操縦士を次々と消耗し、新兵を訓練して操縦させても、速成は免れず母艦から飛び立つことは出来ても着艦できない操縦士は多かったそうだ。

 それと、これは全てに共通するが、日米の生産体制の違いが勝敗を決めた。日本のように年端の行かない学生を工場に動員して生産するようでは先が見えていて、軍上層部の人間はアメリカの工業力は熟知し、とても一戦を交えるのは無理と分かっていたのに、時代のムードとは恐ろしいもので、戦端を開いてしまった。

 そういう意味ではあれだけアメリカを知っていた山本五十六など名将ではあったが、『愚将』の誹りを免れない。

 このゼロ戦この間、アメリカから飛行可能な実機が日本にやってきて、飛行機発祥の所沢でゼロ戦のエンジンを聞かせる会があった。70年以上の機体でもまだ始動し、空を飛べるとはなかなかたいした物である。日本各地にはまだゼロ戦が何機も程度の差はあっても保管されていて、これらを巡る旅なども面白いだろう。


author:cebushima, category:閑話休題2012年12月, 20:54
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