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フィリピン事件帖 2012年 (2) 72歳の邦人受刑者、刑務所側の怠慢で死亡
 違法就労斡旋の罪でマニラ首都圏ニュービリビッド刑務所に収監されていた、京都出身の男性が110日未明に亡くなった。享年72

 この刑務所は今の名称になる前は『モンテンルパ刑務所』と知られ、戦後は日本人戦犯が収容された。中でも絞首刑の第14方面軍の山下奉文大将(1946223日執行)、銃殺の第14軍の本間雅晴中将(194643日執行)は有名で、近年まで山下の刑場跡にはマンゴーの樹があった(写真は東京多磨墓地にある山下奉文の墓)。

 また1952年に収容中の戦犯将校が作った『ああモンテンルパの夜は更けて』を渡辺はま子が唄ってその存在が人口に膾炙、それをきっかけに日本人戦犯釈放運動が起こり、1953年、当時のフィリピン大統領キリノによって多くの戦犯が特赦されたという日本に縁の深い刑務所である。

 今回獄死した邦人は心臓や前立腺の持病を抱えながら10年に及ぶ刑務所生活に耐え、70歳以上の受刑者には大統領特赦で釈放される制度を利用して手続き中で、この2月には出所できるのではと見られていた。しかし、16日に体調が急変、刑務所内の病院に運び込まれた。

 病院とは名ばかりで見かねた同刑務所に収監中の日本人が当局に直訴し、刑務所外の病院に移送する手続きが取られた。フィリピンの刑務所は金がないとどうにもならなく、逆に金さえあれば何でも可能という評判のある場所で、今回の病院移送でも亡くなった邦人の親族が私費で手配した。

 ところが、手配した救急車は遅延、また刑務所病院の当夜の担当医が深夜に至り、勤務時間が過ぎたといって救急車をキャンセル、帰宅してしまう無責任さのため、72歳男性はこの1時間後に心臓発作を起こし死亡した。こういった『フィリピン側の不手際さえなかったら、命を落とすことはなかった』と、収監されている日本人は強く憤っている。

 この手の邦人死亡では在比日本大使館に保護義務があって、生前の男性に対する特赦に向けての保護業務は常になく担当者は動いたらしいが、間に合わなかった。殊更に日本大使館がいつもより動いていたと強調されるのは、日本大使館がこういった困窮邦人に対して通り一遍の対応しかしてこなかった証拠との指摘もある。

 死亡した男性はいわゆる組関係の出身で日本とフィリピンの間を往復し、配偶者はフィリピン人で結婚生活は27年に及ぶというから、日本がフィリピン人を芸能活動と称して食い物にしていた時代、最盛期にかかわっていたある意味では幸せな時代を経験した日比結婚組といえる。

 このようにフィリピンで亡くなった邦人の場合、フィリピン内の身内は不明、日本側の身内は関わりを避けるなど無縁仏状態になってしまう例が多いが、今回の場合、配偶者を含めて奔走したようだから獄死した人物も少しは浮かばれるのではないか。


 
author:cebushima, category:フィリピン事件帖 2012年, 15:57
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