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空想旅行記2020 第2回 『伊豆七島+青ヶ島を巡る旅』 その−4 2日目=八丈島島内見物−その2 八丈島といえば流人の歴史だが新しいものもある

【二つの歴史に残る流人の墓】

 

【写真−1 正室は加賀前田家の豪姫】

 

 現代でも左遷されることを『島流し』などと表現するが、伊豆七島は北から大島、三宅島、そして八丈島がその島流しの地で、咎を受けて遠島処分を受けた人を『流人』と呼んでいた。流人は斬首など死刑の次に重い処分で、刑事犯と政治犯に分かれるが、その中で知られるのは関ヶ原の戦いで敗れ八丈島に流された『宇喜多秀家』がある。

 

 写真−1は八丈島の中心、大賀郷にある稲場墓地に葬られている秀家の墓で、秀家は備前岡山城57万石余を有する大名で、豊臣政権末期には五大老になったが関ヶ原の戦いでは西軍に加わり負けて、84歳で亡くなるまで50年間留まり続け、その子孫は今も八丈島に住んでいるという。

 

【写真−2 末裔は今も島に住む】

 

 もう一人八丈島に流された流人で有名なのは『近藤富蔵』で、富蔵の父親『重蔵』は旗本であり、間宮林蔵などと並ぶ江戸後期の蝦夷地探検で知られる人物だが、その長男に生まれた富蔵は放蕩の末に殺傷事件を起こして八丈島に流され、明治期まで53年間の流人生活を送った。

 

 その後、一度は赦免され本土に戻るが、また八丈島に戻り通算60年、83歳で亡くなるまで島に住むが、その間全69巻の『八丈実記』を記した。この本は正確性に欠けると見做されているが当時の八丈島の様子を知る文献としては貴重な資料となっている。

 

 写真−2は三根の善光寺にある富蔵の墓で、元々は他の墓地にあった物を移設していて左側の大きな石は大正時代に建立された顕彰碑で、富蔵は地域の教育に貢献するなど人望はあったようで、富蔵の墓はその右隣りの三角形の石で、他に島で娶った人の墓石がある。

 

 宇喜多秀家、近藤富蔵とその生涯を八丈島で過ごし、八丈島の土に還ったことを考えると鳥も通わぬ島といわれた八丈島には離れたくない魅力があったのかも知れず、八丈島の流人の数は1800人余とある。

 

【八丈島の古い井戸と伝統芸能】

 

【写真−3 一時は草生していたが今はしっかり整備されている】

 

 今は島でも蛇口を捻れば水が出て来るが、かつての伊豆七島は大きな川が無いために御蔵島を除いて生活に必要な水は天水か井戸に頼っていた。その井戸で大賀郷八重根港近くにある写真−3の井戸は『メットウ井戸』と呼ばれ、これは関東の多摩地域にあった『マイマイズ井戸』と同じで、カタツムリの殻と同じように渦巻状に道を付けて、その低部から垂直に井戸を掘った。

 

 深い井戸を掘るための知恵だが、八丈島のメットウの意味は島で獲れる巻貝に似ていることから名付けられ、八重根の井戸の規模は直径20m、深さは8mあり、1888(明治13)年に掘られ、水道が引かれる1953(昭和28)年まで使われ、1980(昭和55)年に東京都の文化史跡に指定。

 

【写真−4 太鼓は人類が最初に覚えた楽器といわれる】

 

 八丈島に『黄八丈』という伝統的な絹織物があり、地元では日本三大紬の一つと名乗っているが、奄美の大島紬、茨城県の結城紬は分かるものの、もう一つは産地がそれぞれ名乗っていて黄八丈もその一つになる。写真−4の太鼓を叩いている女性が着ている着物が黄八丈で、草木で黄色、黒、樺色に染めた糸を格子状に織ったのが特徴。

 

 奄美大島、八丈にしても絹織物なら蚕、繭の生産、桑畑と連想するが、そういった物は島には無いようで繭玉を輸入して、島で染めて織ったのかと思うがしっかり調べた訳ではない。なお、『八丈太鼓』と写真にあるが、その起源ははっきりせず、機織りをしていた女性が叩いたのが始まりではないかといわれる。

 

【地熱発電所と意外な歴史を持つ都立高校】

 

【写真−5 再生エネルギーとして地熱発電は良くても保守と維持が大変】

 

 伊豆七島は火山列島上にある島で、八丈島は三原山の火山活動が活発でその麓に写真−5の東京電力が造った地熱発電所があった。あったというのは1999年に稼働し2019年に閉鎖されたためで、稼働時の出力は3.3メガワット。以前には同じ敷地内に風力発電が1基あった。

 

 閉鎖の理由は良く分からないが地熱発電所は設備の劣化が激しく、また硫黄ガスを排出するために住宅の近い地域での発電は問題があったようだ。それでもオリックスが地熱発電に目を付けて同じ場所に4.4メガワットの新規発電所を作る計画を企て町当局と協定書を交わしているがその後進んでいない。

 

【写真−6 伊豆七島の主な島には都立高があるが存続に苦労している】

 

 写真−6は島内唯一の『都立八丈島高校』で、1948(昭和23)年に都立園芸高校八丈分校として開校し、1950年に都立八丈高校として独立するが、当時島内では学校誘致で村同士が張り合い、その結果1951年に『明治大学付属八丈島高校』が開学する。

 

 人口の少ない島に著名私立大学の付属高校があった歴史にも驚くが、付属であるために明治大学への進学も出来るものの、結局、この付属校は張り合った村同士が合併で八丈町になったために1955年に都立八丈高校に吸収されて消滅し、卒業生は320余名を数える。

 


 

author:cebushima, category:空想旅行記2020 第2回 『伊豆七島+青ヶ島を巡る旅』, 21:55
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