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空想旅行記2020 第2回 『伊豆七島+青ヶ島を巡る旅』 その−2 2日目=三宅島⇒御蔵島⇒八丈島

【竹芝桟橋からの航路と深夜の航行】

 

【写真−1 東海汽船の航路は正確には伊豆八島】

 

 東海汽船の伊豆七島航路は大きく2つに分かれていると先述したが、写真−1はその航路図で、往航は東京・竹芝から伸びる赤い線の八丈島行きを利用し、三宅島、御蔵島経由で八丈島に上陸する。八丈島滞在後に青ヶ島へ行き、また八丈島に戻って復航便で御蔵島と三宅島に次々に渡り、三宅島から東京・竹芝へ戻ることにしている。

 

 東京・竹芝へ戻ってから、図にある赤い線の左側航路に乗船し、この航路は大島−利島−新島−式根島−神津島の順に寄港して行くが、この旅では最初に神津島を目指し、その後順次各島に上陸し、最後は大島から竹芝へ戻ることにする。

 

 その他の記されている航路や寄港先は常時運航していなくて予定には考えていないが、状況次第では利用するかも知れないし、特に緑の線の下田から出ている東海汽船と関係の深い『神新汽船』は利島−新島−式根島−神津島を結び下田に戻る航路なので、場合によっては利用したい。なお、東海汽船には高速ジェット船が就航していて一晩かかる竹芝−大島間をわずか1時間45分で結んでいるが、移動するだけの速い船旅はもったいない。

 

【写真−2 遠目には伊豆大島と似た感じ】

 

 東京湾内は速度制限があるために『橘丸』はゆっくり航行するが、観音崎を過ぎて湾口を出た辺りから眠りについた床越しに伝わっていたエンジン音が高まった。眠らずに深夜の海を眺めていれば通過する島々を右舷に見ながら一路南下を続け、翌早朝写真−2の三宅島が近づいた。

 

 三宅島の中心には『雄山』があり、海上から見る姿は優しい山稜を感じるが、活発な活火山であり1983年、2000年と大規模な噴火を起こした。このため元々814mあった標高は火口の陥没により775mになり、2000年の大噴火では全島民避難となり、避難が解除されたのは2005年であった。

 

【早朝の三宅島と御蔵島に寄港】

 

【写真−3 今は食用にすることはないだろうがそういう時代もあった】

 

 『橘丸』は朝5時過ぎに三宅島の阿古港に着岸するが、写真−3は海面に乱舞する『オオミズナギドリ』で、三宅島、御蔵島には多く生息している。昔、何かの本で伊豆諸島では年に一度巣立ち前の雛を捕まえて、皮から油を搾り、肉を塩漬、骨と内臓を塩辛にして蛋白源として食べたという所を読んで島への興味を持ったことを思い出した。

 

 三宅島には高校生の頃に同級生と行っていて、その頃は噴火がどうのこうのという時期ではなく島内の浜辺でキャンプをし、火口近くに池があってそこまで歩いて行ったが道が分からず引き返した記憶がある。三宅島には着岸したと思ったらすぐに出航して次の御蔵島に向かう。

 

【写真−4 かつての秘島に本船が毎日寄港するとは便利な時代になった】

 

 三宅島から御蔵島までは直線で10数キロしか離れていなくて1時間もかからない。御蔵島は写真−4のようにお椀を伏せたような島と形容されるが、数百メートルの高さを超える断崖が島を取り巻く。

 

 かつては伊豆七島の中では最も渡ることの難しい島で、高校生の時に行くことを考えたが三宅島から小さな船で渡るしかなく諦めたが、今は『橘丸』が定期的に寄港するようになりかなり行き易くなった。

 

【鳥も通わぬ島といわれた島だが今は寝ている間に到着】

 

【写真−5 いかに平地の少ない島か崖の上に建つ家々の様子で分かる】

 

 写真−5は御蔵島の港で、港湾施設というにはかなり貧弱だが、これでも大型船が接岸出来るようになっている。この写真を見て分かるように港からいきなり急坂になっていて、それも崖を切り崩して造成しているため、島の生活は大変な所と分かる。

 

 大型船が定期的に寄港すると書いたが、御蔵島近海は海が荒れる海域でもあり、比較的海が収まる夏季でも接岸出来るのは8割程度、つまり毎日寄港でも週1回程度の割合で欠航は避けられず、冬季になると3割程度に落ち上陸出来れば幸運な方という具合だから、やはり簡単に行ける島ではない。

 

【写真−6 来る都度に港湾の整備がされているのが分かる】

 

 御蔵島に寄港した後『橘丸』は黒潮の流れる濃紺の海原を南下し、3時間ほどで写真−6の八丈島東岸の底土港に近づく。八丈島には2度上陸しているが、何れもこの港に接岸していて、最初に行った時は年末年始の海の荒れる時であったので、底土港と反対側にある八重根港になるかも知れず気を揉んだ。

 

 八丈島は山手線の内側の面積に近い瓢箪型の形をしていて、それぞれの中央には活火山を持ち、北側の山を西山と呼び、南側の山を東山と呼んでいる。写真に見える山は西山でその形状から『八丈富士』と称され標高は854mあり、15世紀から17世紀にかけて活発な噴火活動の記録が残る。

 


 

author:cebushima, category:空想旅行記2020 第2回 『伊豆七島+青ヶ島を巡る旅』, 19:12
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