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この一枚2019年 セブ篇 その(5) セブの中心『フェンテ・サークル』

 セブ市はセブ州の首都になり、正面に白いドームを乗せた州庁舎があり、このセブ州庁舎は戦前の1938年に竣工した建物で、建造当時の写真を見ると、州庁舎建設地以外は建物は全くなくて野原のような場所に庁舎を建てたことが分かる。

【写真には写っていないが写真を撮った後方右にはセブで最初の40階ビルが建つ】

 スペインの植民地時代からセブは港を控えたダウン・タウン方面が中心で、フィリピン最古の石畳であった道といわれる『コロン通り』があり、教会、行政施設、商業地域が固まっていた。

 スペイン植民地時代のセブは『南の女王』と呼ばれ、フィリピン南部の中心として発達したが、1898
年にフィリピンの支配者はグアム、プエルトリコと同時に戦争を経て、スペインからアメリカに代わった。

 膨張するセブの市街地のためにアメリカは山の手に向かって開発を進め、ダウン・タウンから山の手に向かって片側3車線の大通りを1912年に開通させる。

 その大通りに名付けた名前が『ジョーンズ・ブルバード』で、ジョーンズという名前はアメリカの政治家名であり、いかにもフィリピンがアメリカの支配下にあったかを現している。

 現在、このジョーンズ大通りは『オスメニャ・ブルバード』と改名されているが、オスメニャというのはセブに根を張る政治一族で、特に『セルヒオ・オスメニャ』は4代目フィリピン大統領として歴史に残っている。

 しかし、オスメニャの大統領職は前大統領のケソンがアメリカに亡命中に病死し、副大統領であったオスメニャが自動的に昇格したのであって、選挙によっては選ばれてはいない。

 この時代のフィリピンはアメリカを追い出した日本が軍事支配し、2代目大統領として就任していたケソンは亡命、その代わりに日本の傀儡大統領としてラウレルが就任し、3代目大統領となる。

 この頃は太平洋戦争の時代で、1944年にアメリカ軍がレイテ島の海岸に上陸をした時、オスメニャはマッカーサー達と一緒に上陸し、その様子を似せた記念群像が上陸地点のレイテ島パロ海岸に今もあり、小生も見物している。

 

ちなみに、この侵略戦争を『聖戦』と呼び近年では『アジアの解放』などと、手前勝手な史観が日本には蔓延し出しているが、フィリピンの場合、アメリカは数年後の独立を約束していて、ケソンはその独立準備政府の大統領であった。

 

このことは、日本の戦時中の『八紘一宇』『五族協和』などで象徴するスローガンがまやかしであることに他ならず、最近百田尚樹のベストセラー本などインチキの集成、アジア解放史観が取って付けた言い訳、正当化するものであることは間違いない。

 こういった縁でオスメニャは『マッカーサー・ボーイ』と呼ばれるが、自分の気に入りで周囲を固めるマッカーサーの嗜好に合ったお気に入りであったことは確かなようだ。

 さて、運良く大統領になったオスメニャ、戦後最初に行われた1946年大統領選に自信満々で立候補するが、対抗馬のロハスに破れ、現職で落選という不名誉な記録を作った。

 この時の選挙では当選したロハスが135万票余、得票率54%弱、一方落選したオスメニャは112万票、得票率46%弱という結果であり、総投票数は247万票強であった。

 この数字で驚くのは70年後に行われた2016年大統領選で当選したドゥテルテが1660万票、得票率40%弱で当選したことで、70年前の大統領選は2016年の12分の1以下の得票数で当選している。

 1950年のフィリピンの総人口が1800万人との統計があり、現在のフィリピンの総人口が1億500万人以上もあり、フィリピンの人口が70年間で大爆発していて、貧困削減は難しいことが分かる。

 日本は戦時中に『一億火の玉』といっていたから、一億人程度の人口で、現在、1億2000万人を超えた程度だから、たった2000万人ほどの増加で、いかにフィリピンの人口が爆発、反対に日本は人口が増えず、逆に人口が減る時代に入っている。

 オスメニャは大統領選に落選して政界を引退し、1961年83歳で死去するが、その一族はセブに政治王朝を築き、オスメニャの名前で上下院議員、セブ州知事、セブ市長などを輩出する。

 やくざより怖くて泣く子も黙るオスメニャといわれたが、最近はその威力が衰え、上院議員の指定席も陥落し、今年の上院選でも復活ならず、下位で落選となってしまった。

 金城湯池といわれる地元セブ州での上院選での得票数が10位に甘んじるようでは無理もなく、また、セブ市長選でも長らく座を独占していた人物が落選し、家名で票を集める時代ではなくなった。

 さて、改名されたオスメニャ大通りに戻るが、セブで絶大といわれるオスメニャでも反感を持つ人は多いのか、この通りを走るジプニーの行き先では未だに『ジョーンズ』と書かれている。

 タクシーに乗っても最近はオスメニャといわないと運転手が多くなったが、ジョーンズへというとセブを良く知っている、観光客ではないなとの顔をする。

 こういったことはジョーンズに交わる大通りの『マンゴー通り』でも同様で、この通りは現在元軍人の『ゼネラル・何とか通り』と長ったらしい名前に変えられているが、マンゴーと呼ぶのが普通である。

 マンゴー通りのいわれは、その昔は道の両側にマンゴーの並木道があったことから来ていて、当時の写真を見ると牧歌的な道が伸びていて、交通渋滞で知られる現在とは異次元の世界を感じさせる。

 このマンゴー通りは小生がセブに住み始めた1990年代初頭はアップ・タウンの繁華街で、映画を観たり、日本食レストランもここにありわざわざここまで来たが、セブに相次いでショッピング・モールが開業して繁華街としての魅力は失った。

 そのマンゴー通りがジョーンズと交わる所に写真の公園があり当時は『フェンテ・サークル』と呼ばれていて、写真の中央分離帯に記された黄色の線の先に見えるのがそれになる。

 マンゴー通りはその右手に伸び、写真の先は州庁舎へ突き当り、写真を撮った側はダウン・タウンへ行くが、このサークルはいつの間にか『フェンテ・オスメニャ』の通り名になっていて、フェンテとはスペイン語の『泉』のことで、写真中央にある白い塔が泉の名残りである。

 名残りと書くように既に泉は噴出していないが、1990年代はこの回りでローラースケートが行われ、小生も何度か滑ったことがあり、昼間の熱を溜め込んだコンクリートの上を、靴を借りて滑ったが料金はいくらであったか覚えていないが、夜間になると結構滑る人が多く、セブの若者の社交場でもあった。

 このローラースケート場は戦前からあって、古い写真を見るとパンタロン姿の女性が滑っていて、当時は上流階級の遊び場であったことが分かるが、現在は理由は分からないがローラースケート場はなくなり、復活の兆しもない。

 仮に復活しても、現在のように娯楽の選択肢が広がっている時代では、アイススケート場がショッピング・モールにあるくらいだから商売としては難しいのかも知れない。

 このフェンテ・サークル、毎年12月になるとセブで一番高いクリスマス・ツリーを設置する場所として有名になっているが、わざわざ見に行くほどの物ではない。


 

author:cebushima, category:この一枚2019年 セブ篇, 20:24
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