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12月27日(金) 晴れ、風なし 閑話休題 《 台風被災者支援の炊き出しについて 》
 炊き出しを英語では『Soup Kitchen』というが、これはイメージとしてホームレス対象になるので、日本語その物の『TAKIDASHI』とし、英文で『Share a Hot Meal』の説明を入れたバナーを掲げて台風『ヨランダ』被災者支援を延べ17日間に渡って行い、拠点を構えた地域では『TAKIDASHI』の言葉は普通に通用するようになった。

 場所はセブ島最北端ダアン・バンタヤン町でこの町は人口7万人以上。フィリピンは町といえども日本の市以上に人口に関してはどこも多く、総人口が1億人を超えたとこの間アメリカのCIAがニュースを流していた。

 私がフィリピンに足を踏み入れた四半世紀前には総人口が
5000万人台と記憶しているから、出生率2%以上を毎年続けると25年で人口は倍になる『人口統計学』の見本のような国でもある。

 この町は
20のバランガイ(最小行政区)に分かれていて、このバランガイの責任者=議長と議員は3年任期、住民の選挙で選ばれ、今年の10月に選挙があったばかりである。最小とはいってもこの上の町長や町会議員選挙にはこのバランガイの支持が必要で、町長の上には州議会議員、知事、国政の下院議員と上に繋がっていて集票マシンになり、買収する金もこの順にバランガイに流れてくる。

 今回の被災で国関係の救援物資などはこういった組織を通じて配られているが、反対陣営支持者には物資を回さないとか、次の選挙目当てに救援物資を配るなど露骨な動きは当たり前過ぎて、おかしいと思うのは外国人くらいでこちらでは話題にもならない。

 炊き出し拠点は町の中心部から
5キロほど離れた幹線道路沿いで、人口は住民に聞いてもよく分からなく、バランガイ選挙の有権者登録では700人あったというから、3000人くらい住んでいるようだ。

 写真の土地は妻に関係があるため全く制限なく活動でき、炊き出しの燃料用の薪など台風の倒木で使い放題。ただし、水は電気が不通で片道
30分かけてポリタンクで運んだ(ここに電気が通ったのは被災一か月後だった)。遠方に写る木々はすっきりしているが、台風前は木の繁っていて遠くは見えなかった。

 この炊き出しも当初の予定では朝、昼、晩の
3回を考えていたが、予想外に大量の食事を用意するのは大変で、この拠点では平日は晩のみ1回とし、週末が2回、その合間に近隣地区向けに車で別献立の配食を行った。先日、その炊き出しの全体的な報告を作ったが、消費した米は370キロ、人数にして約4000食だった。

 炊き出しは先年の東北震災支援の時何度か現地で行った経験を持っても、今回のような大きな釜を用意して薪で調理するなど初めてで戸惑いも多かったが、何といっても『食べる』ことは生きることの基本中の基本で、被災者の人々にも好評で初めてにしては上々だったと自負している。

 この炊き出しも並べば
OKではなく、事前にチケットを奥の方に住む人や地域を決めて配ったりした。チケットには極力ゴミを生まないために皿持参と現地語で表示し、また優先順位があってまず子ども、次に女性、老人の配食を行ったが、その意思が浸透していたのか、成人男性が列に並ぶことは少なかった。もっとも、これは『男は皿なんか持って並べるか』という見栄があるためではないかともボランティアの女性はいっていた。

 こういった炊き出しは始めるまでは、どうかなと思っていたが午後
4時から配食を始めて、長い時間をかけて調理した物が30分くらいで配食を終えてしまった。ただ、この炊き出しも問題点はあって、始まるまでに被災後2週間近くかかってしまい、切迫性、緊急性が薄れていたのは確か。

 被災地に様子を見に行ったのは台風通過
3日目だったから、その時から炊き出しを始められていればもっと良かったと思うが、それから現地とセブ市を何度か行き来し、器材とボランティア人員をそろえてとなると初めてのことでもあり仕方がなかった面もある。

 遅れ気味に始めた炊き出しだったが、集まる子どもが拠点の敷地に常時
20人以上集まって遊んでいて、そういった子どもに対して新たにケアすることも考えたが、これからの研究課題に留まった。

 それでも日本の募金が必要以上に集まったので、小学生対象に学用品セットを
100セット用意して、少し早いクリスマス・プレゼントをした。これもセブ市に戻って用意したが、100セットを作るのはまたこれが大変だったが、これは別の話。

 学用品を配るこういった情報というのは特に大きく知らせなくても、子どもの間に瞬く間に広まってこちらも事前にチケットを作って配ったが、結構奥地に住む子どももやって来た。


 
author:cebushima, category:閑話休題2013年12月, 19:50
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12月26日(木) 晴れ、風なし 閑話休題 《 台風でこんな大木も倒れてしまった 》
 写真はセブ島最北端にあるダアン・バンタヤン町で写した。ダアンというのはこちらの言葉で『古い』という意味だが、この町の沖合にバンタヤンという島があって、こちらの島は3つの町から構成されていて人口も多く、ダアン・バンタヤン町とは全く別の行政地区になる。

 わざわざこう書いたのも、セブに住むフィリピン人でもこの違いを知らない人も多く、日本人もセブに住んでいても知らないで混同している。

 バンタヤン島は今回相当な被害を受けても、離島ゆえなかなか支援の入らなかった所だが、セブ本島とは車が載るフェリーで繋がっていて、セブ市方面からトラックで救援物資を運び、大学生のボランティアを載せたバスが向かっているのを何度か見かけている。

 こういった交通の便を持つ島は良いが、その近くにも小さな島がいくつかあって、こちらは行くこともままならない状況だった。今回の炊き出し支援もその島の方はより効果的と思ったが、その島に渡る便船も台風で破壊され、小さな船をチャーターして渡ることも考えた。しかし炊き出し用の食材から、水、燃料、人員、場所とバンタヤン町で進めている炊き出し拠点と比べて、全てに困難があって断念した。

 写真に写っている建物は町の体育館で、この体育館も屋根の部分が
3分の1ほど吹き飛ばされていて空が見えていた。その体育館に寄り掛かるように根元から倒れている樹は直径2m以上あり、根の部分から浮き上がっていた。樹の種類はアカシアといっていたが樹齢100数十年は優に超え、今回の台風でこのようになってしまった。

 115
年前のスペイン植民地時代に今回と同じコースを取り、大きな被害をもたらした台風が記録されていて、その時はこの樹も若木でその台風をしのいだのであろうが、今回は駄目だった。この写真を撮った時は被災3日目だったが、その2週間後くらいに樹は無造作に寸断されて片付けられていた。これだけの樹だからテーブルなどに加工して残せば良いと思うが、行く末がどうなっているのかは分からない。

 この樹の根元の向こうに白く写っている建物はこの町の庁舎で、庁舎の裏は海が広がる。この庁舎は戦時中には旧日本軍が使っていた過去を持ち、私も何度か中に入っているが、この庁舎も正面が崩れていた。

 この町はセブ島最北端に位置するために激戦地だったレイテ島へ向かう艦船を見張る要衛地点でもあり、また日米の戦闘機が空戦を交わした空域で、住民の中にはその空戦を椰子の樹に上って見ていたなどと思い出を語る人も健在する。

 日本の自衛隊はこういった戦時中の事情を知って、この町に医療班を派遣したとは思えないが、そういった歴史がフィリピンにはたくさんあることを派遣された第一線の自衛隊員は知っているのかどうか知りたいところである。

 庁舎前には今年
5月にあった選挙で落選した前町長の趣味としか思えない、こんな田舎の町には過ぎたずいぶん無駄な金をかけた公園があるが、この公園などまるでゴミ捨て場のように破壊され、何のために税金をつぎ込んだか分からない状態である。

 写真の樹のように台風によって倒れた樹は無数にあり、直径
40センチもある樹が中途から裂けて折れている樹もあり、しかも倒れている樹の方向がまちまちで、台風襲来時はさながら巨大な『竜巻』が襲ったのではないかと想像された。台風襲来の最大時の様子を被災者から聞いたが、その時は暴風雨で辺りは真っ白で何が何だか見えなかったというし、音なども聞き分ける余裕などなく、柱にしがみついているのが精一杯だったという。

 樹の被害でも特にマンゴーなど軒並みにやられ、あの頑丈そうに見える樹があんなにあっけなく根元から倒れるものかと思うが、マンゴーは上部の樹形はこんもり繁って綺麗だが、その分まともに風を受け、また樹の大きさの割には根の張り方が浅く強風に抗せなかったようだ。

 妻がこの町に何ヘクタールもの土地を持つが、マンゴーを計画的に植林して将来はその成った果実を採って安泰などと考えたこともあるが、今回の台風被害を目の当たりに見てマンゴー植林は考え物となった。『
100年に1回』とも称される今回の台風で生き残った樹々はまた次の100年を生きるかと思うと、自然というものは大変なものだと思った。


author:cebushima, category:閑話休題2013年12月, 19:36
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12月24日(火) 曇り時々雨、風なし 閑話休題 《 自衛隊は軍隊なのか…れっきとした軍隊です 》
 この『閑話休題』も117日の台風『ヨランダ』の記事を書いてから、長らく書いていなかったが今日より復活することにする。この休んでいる間、何をしていたかというと台風被災者のためセブ島北端の町で支援活動をしていて、現地は電気が復活したのは被災一か月後で、元からインターネット利用など望めない地域なので自然とパソコンとは離れ、離れるとやはりパソコンなどテレビの長時間視聴と同じで単なる習慣であり、ますます縁遠くなる。

 これでパソコンと縁が切れれば良いが、今は外部との連絡の主流はインターネット利用に陥っていて、自分一人で辞めるわけにはいかなく再開せざるを得なく、便利だが嫌な時代である。

 台風被災支援に関しては追々、書いていくが今回はきな臭い日本のことを書く。

 自民党が民主党に代わって国政を握り、よりによって安倍―石破という戦争をしたくてしたくて仕方がない執行部になって、日本は数歩も戦争への道へ駒を進めた。これも先の選挙で自民党を圧勝させた馬鹿な日本の選挙民の奴らといってしまえば簡単だが、自民党を選ばず反対だろうが国策には国民等しく影響は当たり前に及ぼす。

 写真はセブ島最北端の町ダアン・バンタヤンで
122日に写したもので、同町の高校敷地に進出した日本の自衛隊の医療班が敷設したテントであるがもぬけの殻。

 自衛隊は『人道支援』の名目で、自衛艦
3隻(輸送艦、補給艦、護衛艦)をレイテ島に派遣。護衛艦を除いて前2艦は様々な理由を付けてカンボジア、インド洋、イラクに既に派遣されていて今回のこのフィリピン派遣が自衛艦の海外出兵習熟作戦の一環であることが良く分かり、軍隊は『人道』などは名目で、あくまでも『作戦』で動くことを如実に示している。

 さて、この写真の医療班、同町に入ったのは
1124日で、私もヘリコプターを飛ばして派手に進出した様子を目撃しているが、もうそういった切迫性、緊急性など同町にはなく間の抜けた感じを持った。

 同班はこの町に入る前にやはりセブ島北部のタボゴンという町に入って、私も同町の知り合いを訪ねたが、普通日本人の顔を見れば当然向こうから話題になって良いものを、全く話題にもならず、いったいどこで何をやっているのか分からず仕舞いだった。タボゴンというのはセブ市から車で
2時間くらいの距離だが、この医療班の連中は便利なセブ市のホテルから通っていた。

 ダアン・バンタヤン町に移動してもやはり同町から
40分ほど離れた北部の大きな市から専用車で通っていたというから、昼夜兼行、野戦病院のイメージを持っていた私は『何が自衛隊だ』と呆れ、こういった自衛隊の海外派遣も形だけ既成事実作りしかないなと思った。

 もっと悪いのは産経とか共同といった大手マスコミが記者をこの医療班に同道していて、こういった実態には全く触れず表面的に『貢献する自衛隊』の記事を垂れ流していることで、『お前ら戦争中の従軍記者と同じだ』と罵声を浴びせたかった。

 それにしても通いの野戦病院で済むとなると、自衛隊も人を殺す軍事集団ではなくサラリーマン集団と同じと妙な安心感を持った。とこう書いていると、アフリカ・南スーダンに進出している自衛隊が韓国軍に弾を
1万発提供したニュースがあった。

 何で韓国軍にと思ったが、彼の地で進出している西側の軍隊は日本と韓国らしく、西側が統一している弾のサイズ規格が合うためという。他の西側諸国が進出しない理由は分からないが軍事的判断で派遣せず、実績を作りたい安倍の日本がやみくもに出したというのが真相ではないだろうか。

 ちなみに今回提供した弾
1万発というのは自衛隊の持つ制式銃『895.56mm(弾の口径)』は毎分600800発の発射能力があるから、撃ち続けたら10数分で尽きてしまう量で、戦力的には無意味。これも安倍が実績を作りたくて大袈裟に宣伝したと見るべきで、この弾にしても使用期限があって使わないといけないからちょうど良いと思ったのであろうがこの後が怖い。

 また簡単に弾
1万発というが、この弾で南スーダン人1万人を殺せると考えれば、国連の進めているPKO活動がいかにまやかしであるかも分かる。

 自衛隊のフィリピン作戦に戻るが、今回は千数百人の派遣というが、自衛艦の乗組員は数に含まれていないだろうし、日本の指令中枢も考えると、今回の派遣は旧軍隊組織でいえば
2個連隊の派遣に当たるから世間が思うほど軽い軍事行動ではないのは歴然。

 いずれにしても、最強の装備と組織を持った派遣部隊の費用対効果をはっきりさせたいものだが、これも安倍からは『秘密』になるのだろう。それにしても亡くなった小沢昭一の『戦争反対の時はもう遅い』の警句を思い出す。小沢は俳優としては軟派な役が多かったが、帝国海軍兵学校最後の入学者で軍国少年だったから、その言葉には重みがある。


 
author:cebushima, category:閑話休題2013年12月, 17:39
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